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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第六章 上方より哀を込めて
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第八話

 「志狼っ! 海華無事かっ!?」


 緊迫感に満ち満ちた叫びと共に、静かに暗闇が広がる雑木林の向こうから浮かび上がる提灯。

黒々と書かれた『御用』の文字、激しく揺れる橙色の光のための間から身を躍らせる細身の人影、そしてそのすぐ後から現れる熊のように大柄な人影、それらが誰かを確かめた刹那、海華の顔が喜びにパッと輝いた。


 「旦那様……! 修一郎様っ!」


 掠れた悲鳴を上げる海華。

蓑笠姿の修一郎と、黒の火事羽織に陣笠姿の桐野が揃って顔を跳ね上げる。

唐突に現れた二人の侍、そして彼らの後から続く二十、いや三十余人はいるだろう襷がけ姿の同心たちの姿を凝視する七之助は、声にならない叫びを張り上げるよう唇を戦慄かせた。


 「北町奉行所の者だ! 神妙にお縄につけっ!」


 そんな七之助を前に柳眉をつり上げた桐野は、ぞろりと十手を抜くと同時に凛とした叫びを張り上げる。

周囲を取り囲む黒羽織の侍達、闇夜を照らす提灯の灯りに浮かぶ世界に張り詰めた緊張の糸、もう七之助に逃げ場などあるはずはない。

先程まで唸りを上げ降り続いていた雨脚も弱く変わり、黒雲の流れる夜空には白銀の望月がその顔を覗かせる。


 修一郎が素早く抜いた太刀反射する冷たい月光、その冷光が網膜を掠めた時、短刀を握り締めていた志狼の右手から、フッと力が抜けた。


 「もう、観念しろ」


 静かに、感情のこもらない声が彼の口からこぼれる。

志狼へと顔を跳ね上げた七之助、その突き刺すような視線を真正面から受け止める志狼の瞳に七之助への敵対心は微塵も感じられない。

ただ、寂しげな、どこか悲しげな光が宿るだけだ。


 「もう止めろ。ここで命落とす気か? 大人しくお縄になれば、命だけは……」


 「お優しいこったな。命だけは助けてやろうってか? 見縊るのもいい加減にしやがれ」


 ぎこちなく頬を引き攣らせ七之助が歪んだ笑みを作り出す。

じりじり狭まる包囲網、自らを囲む侍らを一瞥した七之助は妹の骸を抱き、静かにその場から立ち上がる。

だらりと垂れ下がる細い四肢、その陰に隠れた七之助の手に何か握られていたのを、気付いたものは誰一人としていなかった。


 「手前ぇに情け掛けられるくれぇなら死んだ方がマシだ。……と言いたいところだが、生憎俺は手前ぇを殺るまで死ねねぇ。―― お袋と、文江の敵は必ず取る」


 低く低く響く声色には、深い憎しみの色が込められる。

ぐっ、と深く両膝を曲げ姿勢を低くした七之助、次の瞬間、彼の身体は天高く飛び上がり、今しがたまで彼が立っていた場所は天地を揺るがす轟音を立てて揺れ、視界は真っ白な煙に包まれる。

あちこちから上がる悲鳴と怒号に罵声。

七之助を取り囲んでいた侍たちはまるで蜂の巣を突いたような大騒ぎだ。

腰を抜かしたまま立ち上る白煙を呆然と眺める者、ぬかるむ地面に転がる者、そして手にした太刀を滅茶苦茶に振り回す者まで出る始末。


 阿鼻叫喚とは正にこの事、収集のつかなくなった現場で手にした十手を振り廻し、『落ち着け!』と怒鳴り疾走する桐野。

目の前の侍らを押し避け、突き飛ばして海華、そして志狼の元へと走り寄る修一郎の足元は絡み付く泥で焦げ茶に汚れる。


 立ち込める煙にむせ込み、飛び散る泥に顔を汚し、海華を守るようにその身体に覆い被さって地に伏した志狼。

そんな彼を半ば引き剥がすように引き起こした修一郎の隣では、地面に尻餅をついた桔梗が頬に飛び散る泥をいまいましそうに手のひらで拭い払う。

何が起きたのか未だよくわからないといった面持ちの海華を抱き起した修一郎の顔が、泣き笑いの表情に変わった。


 「海華、無事か!? 酷い目に遭ったな、もう心配ない、大丈夫だぞ!」


 深くかぶった笠の先から水滴を滴らせ、海華に頬擦りせんばかりの勢いで彼女を抱き締める修一郎。 『大丈夫です』どこか困ったような笑みを浮かべて答える海華を横目に短刀を懐に仕舞い込む志狼の横に、解れ髪を整えながら桔梗が近寄った。


 「なぜ情けをかけたんだい?」


 責めるではない、単純に不思議に思ったのだろう様子で尋ねる桔梗。

暫しの沈黙の後、志狼は静かに唇を蠢かせた。


 「俺は別に……情けなんてかけた覚えはありません」


 「でも、あいつを死なせたくはなかった。そうだろう?」


 確信を突く桔梗の問いに、志狼は言葉を詰まらせる。

それが全ての答えだと受け取ったのだろう、彼女はそれ以上問い詰めようとはせず、未だわぁわぁと騒ぎ立てる侍たちへチラリと視線を投げた。


 「――そうだ、兄様は?」


 修一郎の手によって助け起こされた海華は、緩めていた表情を一瞬で引締め、ポツリとこぼす。


 「そうだ、朱王を忘れていた。弥彦の奴を追い掛けて、実虎があっちに走って行ったけど……」


 「おじさんも実虎さんも戻ってこないって事は……まだあそこにいるんだわ!」


 悲鳴に近い叫びを上げて、海華は修一郎の手を振り払い一目散にあばら屋の方へと全速力で駆けて行く。

反射的に彼女を追い掛け走り出す志狼と桔梗、何が起こったのか分からない修一郎は目を白黒させながらも野太い声を張り上げて桐野の名前を何度も叫ぶ。

そんな彼を振り返る事もなく、息を切らせて走りに走り、勢いを緩めることなくあばら屋の蔭からその身を躍らせた三人、その視界に飛び込んできたのは、朽ちた大木に手枷足枷で拘束された朱王と、その足元に蹲り必死の形相で何かをこねくり回す弥彦と実虎の姿だった。


 先刻海華が見た状況と大差ない、しいて言うなら朱王の両手が枷から解放されている事、そして轟音を上げて暴れ流れる濁流により、地面が大きく削れている事……変化とすればそれくらい、事は改善されるどろか悪化してたのだ。


 「兄様っ!」


 「朱王!? お前、これは一体……!」


 ほぼ同時に叫ぶ海華と修一郎、後から遅れてやってきた桐野は声を上げる事すら忘れて朱王を凝視する。

突然現れた彼らの姿に、朱王もまた驚きを隠せなかった。


 「修一郎様! 桐野様!」


 裏返った叫びを張り上げた刹那、彼の足元に片膝を着いていた弥彦が『動くなっ!』と怒りを含ませた叫びを上げる。

一体彼らは何をやっているのだろう、そんな疑問を抱きつつ急いで三人の元へ駆け寄った志狼達、大木は辛うじて均衡を保ち地面に乗っている状態であり、ほんの少し押し遣ればたちまち荒れ狂う濁流に飲み込まれてしまうだろう。


 全身濡れ鼠、黒髪をベタリと頬に貼り付かせた朱王の顔は血の気を失ったように青ざめ、唇には色がない。

立ち尽くした状態の彼の足元にいる弥彦、彼の膝元には仕事道具だろう先端が様々な形に曲げられた細く長い針金状の金属棒が並べられ、彼はそのうちの一本を朱王の足首に付けられた足枷、その鍵穴に突っ込み必死の形相で掻き回している。


 「弥彦! そっちはまだ開かねぇのか!?」


 「まだや! 奥に詰まったモンが取れへん、旦那、そっちも奥のモン、全部掻き出しといてや!」


 弥彦と同じ焦りの表情を浮かべる実虎も、武骨な手で細長い棒を掴み、鍵穴から何かを掻き出して己の袖口で乱暴に拭い取っていく。

不可思議な行動を繰り返す二人の背中と兄を交互に見遣り、海華は量の拳を力一杯握り締めた。


 「兄様ぁ……! おじさん早く外してあげて! お願いだから……」


 「わぁっとる! こっちだって外したいのは山々や! でもな、鍵穴に松脂まつやにぶち込まれとる。まずそれを取るのが先や!」


 目は鍵穴へ向けられたまま、早口にそう叫ぶ弥彦。

彼の台詞を耳にした刹那、海華や志狼、そして桐野や桔梗までもが己の耳を疑い、生唾を飲み下す。

どうどうと唸りを上げる激流に、大木を支えていた赤土が一握り崩れ落ち、跡形もなく黄土色の水へ散っていった。


 「あの……女、っ!」


 ぎりぎりと歯を噛み締める海華の口から恨みの籠った声がこぼれる。

文江は朱王や海華の目の前で枷の鍵を川へ投げ捨てただけでなく、鍵穴に松脂を押し込み鍵を殺していったのだ。


 『錠前殺し』の二つ名を持つ弥彦といえども 『死んだ鍵』を開けるのは並大抵の事ではない。

細面の顔からダラダラ脂汗を滴らせ、懸命に鍵穴を探る弥彦と実虎。

そんな二人を固唾を飲んで見守る志狼達の耳に届いたのは、獣の唸り声によく似た低い断続的な振動、足元、そして暴れ川の遥か上流から空気の波となって響くその不気味な音に、桐野の顔からみるみるうちに血の気が引いて行く。


 「地鳴り……まさか、鉄砲水では?」


 己に言い聞かせるかの如く、小さく呟かれた台詞。

鉄砲水、その単語に表情を強張らせたのは修一郎だけではない。

桔梗に実虎、そして朱王も同じだ。

彼らの視線は、まるで示し合わせたかのように自らの足元へと向けられる。

そこにあるのは雨水をたっぷり吸い込み柔らかく、脆く変わった地面。

そして、その地面に縦横無尽に走る大小様々な亀裂が彼らの視線を釘付けにした。


 途切れることなく耳を襲う地鳴りと、微かに感じる振動。

そして濁流に削られつつある河辺……。

ズル、と、自らが背にした大木がほんの微かに傾いたのを感じたと同時、朱王は色をなくした唇を一度強く噛み締めた。


 「……もう、止めてください」


 静かに、あくまでも冷静で感情すら込められない言葉が朱王の口から生まれる。

頭上から降ったその台詞に、弥彦どころか実虎までもが驚愕の表情で顔を跳ね上げた。


 「おい朱王、お前今なんて……」


 「師匠、弥彦さんも、もうこれ以上は無理です。私の事は置いて、早く逃げて下さい」


 じっと二人を見詰め、淡々と言葉を紡ぐ朱王の手は大木から突き出した枝をきつく掴む。

彼が何を言っているのか分からなかったのだろう、ポカンと口を半開きにしていた海華は、次の瞬間鬼の形相で朱王へと掴み掛かった。


 「兄様何言って……! 何を馬鹿な事言ってんのよ――!!」


 「もう仕方がないんだ! あと少しでここは 崩れる、そうなったらお前も師匠も……修一郎様、桐野様だって死ぬんだぞっ!」


 思い切り胸ぐらを鷲掴まれ、苦しさに顔を歪める朱王が喉も張り裂けんばかりの絶叫を張り上げる。

慌てて朱王から海華を引き離した志狼と修一郎、しかし彼女は女とは思えぬ力を発揮して四肢をばたつかせ、彼らの腕の中で暴れ狂う。


 「兄様を見捨てるなんて出来ないわ! 離して……あたし兄様と一緒にいる! 離して、早く離してよ――っ!」


 「聞き分けのない事を言うなっ! 修一郎様、桐野様、私の事は構わずに……お逃げ下さい。 ―― 早くっ!」


 「馬鹿を言うなっ! こんな所にお前を置いて行けるかっ! もう少しだ、必ず助かる!だから……」


 「もう時間がありません! 修一郎様お願いです、後生ですから逃げて下さいっ!」


 「ふざけた事言うんじゃねぇっ! 朱王さん、あんたを置いて行くなんて……うぉっ!」


 海華に負けず劣らず大声を張り上げ、身を捩って『早く逃げろ』と叫ぶ朱王の手が電光石火の勢いで志狼の襟首を掴み上げる。

傾く身体、耳元に寄せられた朱王の唇、『海華を頼んだ』低い地鳴りに混じり聞こえた言葉に、志狼は目を見開く。

しかし、彼の身体は強かに海華の方へと突き飛ばされた。


 「早く海華を連れて行けっ! そのギャァギャァ声……もううんざりだっ!」


 「どうして……!? 酷いわ兄様!どうしてそんな事……」


 大きく見開いた瞳からボロボロ大粒の涙をこぼし、兄に食って掛かる海華を必死で押しとどめる志狼、海華へ投げ付けた罵声が本心でない事は明白、それがわかっているからこそ、心が引き裂かれそうな鋭い痛みが志狼を襲う。

しかし、それを感じているのは彼だけではない、きっと朱王も同じはずだ。


 食い入るように朱王を凝視する志狼と、彼を真っ直ぐに見詰め返す朱王。

言葉にない会話を確かに交わす二人の足元、未だ枷を手にしたままの弥彦が怒りの眼差しを闇が支配する天へと向けた。


 「ギャァギャァ喚くなアホンダラァッッ!!」


 湿った空気を盛大に震わし、周囲に轟く怒号に、泣き喚いていた海華は勿論朱王までもがギョッと目を見開き一瞬言葉を失う。

普段陽気な、悪く言えばお調子者の弥彦から想像できない。

燃え上がる怒りに瞳をぎらつかせて眉を逆立てた弥彦は、おもむろに立ち上がるなり朱王の胸ぐらを鷲掴む。


 「鍵が開くか開かんかは俺が決める事や! 素人が横から口だすなっ! 大人しく待っとれアホッ!!」


 息もできないほどに胸ぐらを掴み上げられ、ろくに返事もできないままに朱王は目を白黒させながらガクガクと首を縦に振る。

そんな彼を突き離し、弥彦は再び地面へ身を屈めた。


 錠前と金棒が擦れ合う甲高い、耳障りな音が響く。

刻々と過ぎていく時間、その間も川は水量を増し、たっぷり雨水を吸い込み脆く変わった地面は泥濘んで不気味な振動を繰り返す。

崩れゆく河辺、鎖により足枷と繋がる大木が一際大きく横へとずれ落ち、その半身が水面へはみ出ようとしたその時だった。

海華の背後に立っていた修一郎が弾かれるように飛び出し、まだ地面に接している大木の根元へしがみ付いたのだ。


 思いも寄らぬその行動に、桐野がハッと息を飲む。

『修一郎様!』そう朱王の口から切羽詰まった叫びが迸り、海華は今にも泣き出しそうな面持ちで志狼の胸元へしがみ付いた。

『ぐう』と低い呻きを一つ、力いっぱい枯れた大木を陸側へと引き寄せる修一郎のこめかみ、そして太く逞しい両腕にはっきりと筋が浮かび上がる。

全身の血が集まったかのように紅潮した顔は、夜叉そのもの。

砕けんばかりに強く噛み締めた歯をわずかに緩め、泥にめり込む足を更に強く踏ん張って、修一郎は視線を弥彦へ落とした。


 「ここは、俺が押さえよう……。その間に、早く鍵を……っ!」


 腹の底から苦しげに響く声色。

そんな彼に向かい無言のまま頷いた弥彦は金棒を操る指の動きを更に早める。

背後を振り返る事も出来ず、朱王はおろおろと視線を彷徨わせ青ざめた唇を震わせた。


 「修一郎様……」


 「そう、案ずるな朱王。大丈夫だ、必ず…… 助かる。だから、諦めるな……!」


 苦しい息の中、尚も朱王を励まそうと引き攣り気味の笑みを見せる修一郎。

しかし彼の言葉とは裏腹、地面に走る亀裂は徐々にその数と深さを増し、今は志狼らの足元まで及んでいる。

ここが崩落するのは最早時間の問題だ、そう判断した桐野は志狼に軽く耳打ちし、彼らをあばら屋の奥へと下がらせた。


 「旦那様……」


 不安その物の表情で見上げてくる海華、彼女の肩を安心させるように軽く叩きつつ厳しい視線を地面へ、そして修一郎らへと向ける桐野。

本来ならば彼と共に大木を押さえに走りたい、引き連れた部下も総出ならば暫しの時は稼げるだろう。

しかしいつ足場が崩れるかわからぬ状況で皆の命を危険に曝す事は出来ないのだ。

低い地鳴りが回数を増し、揺れも次第に強く変わる。

必死の形相で鍵穴を探っていた実虎の手が、ある瞬間ピタリと止まる。

それと時を同じくして、弥彦の指も忙しない動きを止め、ガチ、と歪んだ音がその手元から生まれた。


 「よし! 開いたでっ!」


 「次はこっちだ、早くしろっ!」


 「お願いおじさん早くっ! もう地面が崩れるわ!!」


 弥彦の喜びが混じった叫びと実虎の一声、そして海華の悲鳴が緊迫した空気に混ざり合う。

実虎が松脂を取り除いた鍵穴へ、弥彦の金棒が電光石火の速さで付き込まれ内部を探る指の動きが朱王の足首にまではっきり伝わる。

荒い木肌に擦られたのだろう、修一郎の手のひらや指先から鮮血が滲み始めたその時だった。


 地震のように激しく揺れ、轟音を上げる地面がその場にいた者全員を容赦なく襲ったのだ。


 『もう駄目だ』


 『早く逃げろ』


 死を覚悟した朱王の絶叫が鼓膜を破らんばかりに打ち震わせる。

兄の名を呼ぶ海華の涙声、獣の彷徨を思わせる修一郎、そして桐野の声にならない絶叫。

混沌と狂乱の世界に、確かに響く『開いた』と掠れた台詞……。

灰色の空と黄土色の大地に挟まれ、四人の身体は玩具のように転がり、崩れゆく土くれに塗れた。


 「走れ……! 修一郎、早く走れ――っ!」


 「兄様! 早くっ! 早く来て――ッッ!」


 顔面を蒼白にさせた桐野と海華の絶叫が狂乱の世界に響き渡る。

轟音を上げて崩れ、濁流に吞まれゆく大地。

朱王が繋がれていた大木が黒い水に飲まれあっという間に消えていくのを背に、四人は足を縺れさせ何度も転びながら必死にあばら屋へ、海華らがいる方向へと走る。


 少しでも遅れれば命はない、普段は表情を変えることの少ない実虎までもが顔を引き攣らせ疾走する。 一番最初に海華らの足元に飛び込んだのは弥彦、そして実虎に朱王と続く。

泥にまみれ全身を使って荒い息を吐く三人を必死で抱き起す海華と桔梗、そんな彼女らの横で、未だここへ辿り着かない修一郎を食い入るように見詰める志狼と桐野の眼前で、大柄な体がグラリと傾いだ。


 「うぁ!? うわぁ……っ!」


 掠れた悲鳴が修一郎の口から迸る。

足元の土が大きく崩れ、熊の如き身体が後方へ反り返った。

背後は荒れ狂う濁流、ゆっくりと、本当にゆっくりと倒れ行く修一郎を凝視する朱王や桐野の口からは、最早悲鳴すら上がらない。


 遂に修一郎の足元、大地が崩落しかけた、その時だ。

ヒュゥ! と細い唸りを上げて桐野の横を掠めた藍色の稲妻、それは瞬く間に一匹の蛇に変わり修一郎の腕へ絡み付く。

ビィン! と三味線の弦よろしく低い音を立てる蛇は、桔梗の手から放たれた組紐だ。

崩れかけた大地に足を突っ張り、必死の形相で組紐を掴む修一郎の手は、腕を引き絞られる痛みにきつく歯を食い縛る。

それは女の細腕で組紐を引く桔梗も同じだった。


 「もう、少し……辛抱して下さい、ませ」


 苦痛に歪む白い顔、赤い唇を噛む桔梗と紐一本で繋がれた修一郎を呆然と見遣っていた桐野達だったが、やがてハッと我に返ったのだろう脱兎の如く彼の方へと駆け寄り、三人がかりで大きな体を引き起こす。


 「修一郎様っ! 修一郎様……! ご無事ですか!? お怪我は……」


 「いや……大丈夫だ」


 あばら屋まで半ば引き摺られ、地面に膝をつく格好となりながらも、やっと組紐を外した修一郎は、くっきりと紐の跡が付いた右手を擦りつつ、今にも泣きそうな面持ちで寄り添う朱王と海華を交互に見る。

雨と脂汗、そして泥で汚れた修一郎は、その『鬼瓦』と揶揄される顔を泣き笑いの形に歪め、力一杯兄妹を、その太く逞しい腕で抱き締めた。


 「朱王……海華も、無事で何よりだ……。本当に良かった、よかったなぁ!」


 涙声を詰まらせ、兄妹にグイグイ頬擦りをする修一郎にしがみ付いて海華は声を上げて泣きじゃくり、朱王も目を潤ませて息苦しいくらいの抱擁を受ける。

そんな彼らへ安堵を含ませた優しい眼差しを向けていた桐野と志狼。

しかし志狼はすぐに実虎と桔梗、そして青い唇を震わせてその場へへたり込んでいる弥彦へ向かい、深々と頭を下げたのだ。


 「お世話に、なりました、っ!」


 「なに、礼なんざいい。とにかく、全員無事でよかった」


 「本当だよ。あれだけの人数相手に、よく耐えたもんさ」


 組紐を手早く袂にしまい、右手首を曲げ伸ばしする桔梗が唇を緩ませる。

そんな中、弥彦だけは一人、怪訝そうな眼差しを嬉し涙に咽ぶ修一郎らへ向けた。


 「まぁな、確かに無事でなによりやが……。 それより志狼はん、あのお侍は一体何者や?」


 「あのお侍? ああ、あの方は……」


 「おう待ちな志狼さん。弥彦、そりゃ後からでいいじゃねえか」


 志狼の言葉を遮って、唇に薄い笑みを乗せる実虎が横から口を挟む。

そんな実虎に同調するかのように、桔梗もチラと弥彦を見た。


 「そうだね、そりゃ後からゆっくり話してもらおうじゃないか。早くこんな危ないとこから離れたいしね」


 ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて自分を見る二人に眉を顰めて小首を傾げつつ、弥彦は再び修一郎らへ視線を投げ、泥に汚れた黒羽織に包まれ小刻みに震える大きな背中をジッと眺めていた。

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