第二話
本能的な恐怖から逃れるために恥や外聞などを構ってはいられない。瘧にかかったように身を震わせ、繰り返し『幽霊だ』と口走る志狼は、戸惑いを隠せない海華に身体を支えるようにして自室への廊下を渡る。
四苦八苦しつつ襖を開き、室内へ転がり込む二人。志狼の右手は、海華の袖を掴んだままだった。まずは落ち着いて、と繰り返す海華に何があったのかを全て話すと、彼女は時おり言葉を詰まらせながら志狼の話に真剣な眼差しで聞き入っていた。
千桜堂に出る幽霊の話しは海華も既に知っている、志狼の話を聞き終えて彼女が一番最初に発した台詞は『怪我がなくて本当によかった』だった。だが、志狼は彼女が時分の話を信じてくれているか、それが不安だったようだ。
「海華、嘘じゃねぇんだ……信じてくれ、俺は……」
「わかってる。志狼さんわかってるから…… 信じるわ、やっぱり、あそこに幽霊がいるって本当だったのね」
真剣な眼差しでこちらを見詰め、しっかりとその手を握り締めてくる海華の肩が、微かに震える。 が、次第に部屋の空気が一段と冷たくなるのを感じ、二人は顔を見合せその身をピタリと寄り添わせる。その夜は、二人は桐野の前では何事もなかったかのように必死で取り繕い、早々に部屋へ隠って頭から布団をひっ被った。
枕を並べて同じ布団に横たわる志狼の耳に、あの場所で聞いた生気のない声色が甦る。背骨に氷の柱を打ち込まれるような、忍び来る闇に引き摺り込まれるような得体の知れぬ恐怖を感じる志狼は右手で耳を塞ぎ、固く目を閉じ海華の胸へ顔を埋めて……ひたすらに夜が明けるのを待つしか他に術はない。
『大丈夫』そう囁きながら背中を撫でる海華の小さな手のひらの温もり、すがる身体の柔らかさだけが、今の志狼にとって唯一、自分を守ってくれるものだった。胸の内で打ち鳴らされる拍動に合わせ流れる時間。 己がいつ瞼を閉じたのかもわからぬまま、志狼は深い眠りへ堕ちていく。
深淵の闇はただ冷たく、音も立てずに横たわる二人を包み込んでいった……。
暗く重たい雲が空一面を覆い尽くす。花曇り、などと優雅な名で呼ばれる春の曇天、 しかしその下に住まう者らにとっては、どこか陰気な一日の始まりだった。
日の光りも満足に射し込まぬ中西長屋の一室、朱王の住まう部屋の戸口を鈍く軋ませ、風呂敷包みを携えた海華が姿を現したと同時、既に作業机の前に座り、人形の修繕に取り掛かっていた朱王の唇が、ふっ、と綻んだ。
「お早う……今日はちゃんと起きてたのね?」
包みを上がり框へ置き、中から前掛けを引っ張り出す海華の表情は、どこか冴えない。普段は見ることがない海華の様子に、朱王は動かしていた手をピタリと止める。
「どうした? 何かあったのか?」
「うん、ちょっと志狼さんがね……」
『昨夜大変だったのよ』
海華の口からぽつん、とこぼれたその一言に、朱王の眉間に深い深い皺が寄る。 ふぅ、と溜め息をつきつつ前掛けを締めた海華は、そんな朱王の不機嫌な様子に小首を傾げ、静かに室内へと足を踏み入れて、昨日の出来事を語り始めたのだ。
『志狼に、何か買って行ってやれ』
帰りがけ、朱王はそう言いながら海華へ少しばかりの金を差し出した。せっかくの気持ちを無下に断る理由などない。ありがたくそれを受け取った海華は早速酒屋へ寄って酒を、そして志狼の好物である味噌餅と鰯の甘露煮を買い求め、帰路につく。
海華の帰りを、庭掃除しながら待っていた志狼は、帰宅した彼女が抱えてきた土産物を見るなり目を丸くする。
朱王が心配していた、そう聞いた途端、志狼は顔を真っ赤にして項垂れてしまったのだ。情けない男だと思われたのだろう、恥ずかしさに侵食されていく志狼に海華は朗らかに微笑み『うちの兄様は、そんな心の狭い人じゃない。良ければ、明日一緒に長屋へ行きましょう』と提案し、志狼は一もニもなく頷いた。
そして翌日、桐野を見送った二人は大急ぎで屋敷の仕事を片付け中西長屋に向かう。 志狼の手には、先日と同じ重箱を包んだ風呂敷包みが一つ。せめてこれだけは、と早朝から志狼が腕によりを掛け、作り上げた料理が詰まっているのだ。八丁堀を出て、朝の爽やかな空気と人混みの喧騒が混ざり合う大通りを抜ける。
春風に戯れる蝶々、日向で腹をさらけ出す三毛猫、足元に綻ぶ黄金色の蒲公英に、頭上で手招くように揺れる満開の枝下桜……。命が歓喜に爆発する春の中を通り抜ける二人の顔からも、笑みが絶える事がない。
しかし、ある場所まで来たその時、志狼の足がぴたりと止まる。柔和な笑みを浮かべていた顔がみるみるうちに強張り、隣にいる海華は重箱を下げた志狼の右手、二の腕を、ぎゅっと握った。そう、この先にあるのは、あの不気味な桜の古木と小さなお堂。あの夜、志狼が幽霊と遭遇した場所である。
「志狼さん、大丈夫……?」
「あぁ……平気だ。多分── 大丈夫だ」
無理矢理な笑みを作り、海華へ向かって何度か頷いた志狼は、ともすれば震えそうな足を無理に前へと出す。普段なら、何てことないただの小道だが、今日は何時もより長く陰気な空気に満ちている。一歩、また一歩と二人で進み、どの辺りまで来ただろうか、不意に前方が騒がしくなり道の端に出来た人だかりが、二人の目に飛び込んでくる。
そこは、ちょうど地面から隆起した桜の根がある所、そしてお堂がある場所だった。
「騒がしいわね? ……何かあったのかしら?」
怪訝な面持ちで首を伸ばす海華の横で、志狼は無言のまま眉間に皺を寄せる。 すると、その人混みを掻き分けるように一人の若い男がこちらに向かって駈けてくる。無意識に、全く無意識に志狼はその若者を呼び止めていた。
「すみません! あそこで何か……?」
「あぁ? あー、人が死んでんだよ、お堂の前に血塗れで倒れてやがる。野犬に殺られたみてぇでよ、酷ぇ死に様だぜ」
『女子供が見るもんじゃねぇや』
ちらりと海華を見遣りつつ、そう言い残した男は岡っ引きを呼ぶから、とその場を走り去って行く。
後に残された二人は、無言のままに顔を見合わせた。
「野犬、ですって……」
「以外と物騒なんだな……。お前も、これから気を付けろよ?」
野良犬の餌になるなどたまったものではない。そう心の隅で思いながら、二人は人混みを避けて長屋へ向かう。天空に向けて枝を伸ばす桜から、白い花弁がハラリと舞った。
「朱王さん、邪魔するぜ」
古びた戸口にそう声を掛けながら、志狼は戸を開け放つ。その後ろでは、この長屋に住まう女達に海華が捕まり、世間話に大輪の花を咲かせている最中だ。
「おぉ、志狼さん」
「朱王さん、こないだは……その、心配かけて申し訳ねぇ。心遣いまで頂いちまって……」
土間に立ったままの志狼は身を縮め、ひどく恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。ぺこぺこ頭を下げる志狼に苦笑いし、作業机の前に座している朱王はクルリと身体を反転させ、その身を壁へ凭れかけさせた。
「もう頭を上げろ。心遣いなんて、そんなたいした物じゃない。それに……海華からは、何も聞いちゃいないからな?」
胸の前で腕を組み、朱王はにやりと口角をつり上げる。その言葉を受けて、志狼の顔にやっと安堵の色が浮かんだ。何も聞かなかった事にする、暗に朱王はそう言っているのだろう。ほっ、と胸を撫で下ろす志狼の背後から、やっと世間話を切り上げてきた海華が急ぎ駆け込んでくる。
「兄様おはよう! この間は色々ありがとうね。……そう言えば今日お客さん来るんだったわよね?」
「おはよう。ああ、そうだ。なるべく早く来ると言っていたからもうそろそろじゃないか?」
『茶の支度、頼めるか』そう告げる朱王に、こくんと一度頷いた海華は水を汲もうと小桶に手を伸ばす。 しかし、その手は途中でぴたひと止まった。
「あ、そうだ兄様。さっきね、ここに来る途中で……あのお堂の前で人が死んでたみたい」
「人が? 朝から物騒だな。どこの誰が死んでた?」
土間に立つ志狼を部屋へ招き、壁から身を起こす朱王は顎の下を指先で擦る。その問いに答えたのは、朱王の前に座った志狼だった。
「どこの誰かは聞いちゃいねぇが、男だって話しだぜ。なんでも野犬に殺られたらしい。 酷ぇ死に様だと聞いたから、骸は見なかった」
「この辺りで野犬か……聞いた事ないがな? 海華、志狼も、あまり遅くなってからここに来るなよ?」
小首を傾げつつ朱王は二人へ告げる。わかった、そう志狼が頷いた時だった。海華の『あら、親分さん!』とのいささか甲高い叫びが上がる。朱王と志狼が戸口に視線を向けると、そこには柳町にある番屋の岡っ引き、忠五郎が立っていた。
「早ぇ時間に悪いな、ちょいと邪魔するぜ」
ひょい、と背中を丸めて土間に入る忠五郎。思いもよらぬ来客に、朱王と志狼は思わず顔を見合わせる。
「親分……どうぞ、お入り下さい。何か、ありましたか?」
あまり浮かない顔の忠五郎に朱王は土壁から身を離す。ささくれ畳に胡座をかいて、忠五郎はただ、無言で首を縦に振った。
「朱王さん、あんた材木町の源太郎ってぇ大工、知ってるか?」
低い声で放たれる問い掛け。きょとんとした表情を作り出し朱王は『はい』と返事をする。
「存じております。人形の修繕を頼まれて……源太郎さんが何か……」
「そこの桜……千桜堂の前で殺されたんだ。 身体中噛み傷だらけでな」
がりがり首筋を掻きむしり、そう呻く忠五郎。信じられない、そう言いたげに見開かれた朱王の瞳は、渋い表情を作り出し項垂れるよう畳へ視線を落とす忠五郎を写し出していた。
「そんな、まさか野犬に殺られたのが、あの源太郎さん?」
呆然とした面持ち朱王はで呟き、その台詞を耳にした忠五郎は、ゆっくりと顔を上げて片方の眉を微かに上げる。
「死んだなぁ確かに源太郎だ。奴の息子が確かめたから間違いねぇ。だが……野犬に食い殺されたってなぁ、ちぃっと違うな」
無精髭の生える顎をぞりぞり擦り、そう告げる忠五郎の後ろでは、いつの間にか室内へ上がった海華が、不思議そうに小首を傾げた。
「野犬じゃないんですか? なら、誰かに殺されたのかしら?」
「誰か……か、確かに殺ったなぁ人間だな。 ── でもよ海華ちゃん。人間が人間を噛み殺す、そんな事が出来ると思うかい?」
『え?』と、間の抜けた返事が海華から返る。忠五郎が何を言っているのか、海華は勿論、朱王も志狼もいまいちよくわからないようだ。
「源太郎の身体中に、人の歯形と引っ掻き傷がビッチリついてたのよ。しかも大人の歯形じゃねぇ、小せぇガキの歯形だ」
『奴は、喉笛噛み切られて死んでたんだ』
うっすらと額に汗をにじませる忠五郎の鋭い眼光が、生唾を飲み下す朱王を射る。忠五郎の隣に座する志狼は紙のように真っ白な顔に変わり、海華は金魚よろしく口をぱくつかせた。
「── 奴は、昨夜一人で飲みに出掛けてから帰ってこなかったらしい。朱王さん、昨夜ここに源太郎は来なかったかい?」
「いえ……いいえ、昨夜は来ておりません。 源太郎さんは今日おみえになる約束でしたから……」
一瞬止まった思考を懸命に働かせるかのように、朱王はそう言いながら左右に首を振る。その台詞に、忠五郎が無言のままに頷いた。
「そうかい、いや、そうだろうなぁ……。夜の夜中に人形なんざ見にこねぇだろう。朱王さんを疑う訳じゃねぇんだ。朝っぱらから嫌な思いさせて、すまねぇな」
よっこらしょ、と掛け声を掛けつつ立ち上がる忠五郎。慌てて頭を下げる朱王や海華とは正反対に、志狼は茫然とした様子で目の前の壁を凝視する。朱王が長屋門まで忠五郎を送りに行っている隙を見て、海華は志狼にの側にそっと寄り添った。
「志狼、さん……。今の話し……」
「あぁ……。ガキの歯形、ってきっとあいつだ。俺の見た、あのガキだ……」
震える唇を動かす志狼の首筋は噴き出した脂汗でジットリと濡れる。もしかしたら、正体のわからぬ何かに噛み殺されたのは自分だったかもしれないのだ。心の中で、再び鎌首をもたげ始める暗い恐怖。
海華の手が添えられた逞しい右手が、力一杯握り締められた。




