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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第六章 上方より哀を込めて
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第七話

 刀のかち合う耳障りな響きを背に、海華は懸命に文江の後を追う。

ざぁざぁ降りの雨の中を舞うように軽やかな足取りで駆け抜ける細身の体躯は、やがて濁流が轟音を立てて流れゆく川縁かわべり付近でピタリと止まった。


 上流から押し流されてきた大木や岩石を飲み込み、荒れ狂う大川。

その岸に流れ着いた、大人が二人手を繋がなければ届かないだろう、朽ち掛けた大木。その傍に立つ文江と、彼女より頭二つ分ほど大きい細身の人影。

雨に打たれ微動だにしないその人影の顔を確かめた刹那、海華の口から『兄様っ!』と悲鳴じみた叫びが迸る。


 そう、そこに立っていたのは見紛う事無き自分の兄、文江らに連れ去られた朱王だった。


 「海華……!」


 「兄様ぁ……! どうして、こんな……」


 頭の天辺から爪先までずぶ濡れの濡れ鼠、そんな状態の兄がなぜ逃げもせず、文江の傍に突っ立っているのか、その答えは残酷な形となって海華の視界に現れる。

雨に濡れた朱王の細い手首と足首には鈍色に光る重厚な手枷、足枷がはめられ、そこから伸びた長い鉄製の鎖は、傍の朽ちた大木に楔で深く打ち込まれていた。


 大木の半分は川の方へとはみ出している。

そしてその下の赤土でできた地面は……濁流によってぼろぼろと崩れ掛けていた。

あと少し大地が削れ、大木の均衡が崩れてしまったなら、朱王はこの木共々唸り声を上げる濁流に飲み込まれ、遥か下流まで流されてしまうだろう。

その時は、勿論彼の命はない。


 全身から音を立てて血の気が引いていく。

紙ように白く変わる海華の顔と悔しげに唇を噛む朱王を交互に見遣りながら、文江はまるで芝居でも見物するかのように嬉々として笑い、手にした忍刀をクルリと回した。


 「兄妹感動の再開になったわね? 残念だけど、ここで今生のお別れよ」


 濡れた長髪を妖艶な仕草で掻き上げる文江、その頬に刻まれた傷跡が雨の雫に濡れ光る。

だが、今の海華はそんな言葉に怯んでいる暇はなかった。


 「ふざけた事言ってんじゃないわよ! さっさと兄様を離して!離さないと……」


 「離さないと?どうするつもり?」


 「あんたのお綺麗な顔、脳味噌と一緒に吹き飛ばしてやるわ」


 死人の血脂で雨水を弾く槍先、『死』を纏わせ更に赤みを増す組紐を構える海華から低い声色がこぼれる。

そんな彼女へ向かい、ちょいと肩を聳やかして見せた文江は、自らの胸元をまさぐり、小さな鍵を引っ張り出した。

枷の鍵だ、海華がそう思った刹那、文江は鍵をつまんでいた指をピンと弾く。

全ては一瞬の出来事、小さな鉄の欠片はくるくると宙を舞い、土色の濁流の中へ消えていく。

取りに走る暇も、叫びを上げる暇もなく、海華と朱王はただ呆然と暴れ川を凝視するしかなかった。


 「あらぁ、ごめんなさい。手が滑っちゃった」


 大仰な声を張り上げ、文江は腹を抱えて大笑い。

もうこの枷を外す術はない。

そう思い知らされ、悔しさと絶望に朱王が天を仰いだと同時、言葉にならない叫びを上げた海華の手から光の矢が放たれる。


 空を切り裂き蛇行する緋色の蛇は、目尻に浮かぶ涙を拭う文江を狙う。

凶刃が彼女の白い喉へ突き刺さろうとしたその時、文江の姿は海華の、そして朱王の視界から溶けるように消え失せた。


 虚しく空を切った槍先は、鈍い響きを立てて湿った大木の幹へと突き刺さる。

飛び散る木屑に顔を顰めた朱王、しかし次の瞬間彼の口から『上だっ!』と鼓膜を突き破らんばかりの叫びが迸る。

組紐を素早く手繰り寄せ、ほぼ反射的に顔を天へと跳ね上げた海華の右の二の腕、そして左太腿の外側に、熱した鉄を押し付けられたかのような灼熱の痛みが走った。


 自分の身に何が起きたのかすらわからず、悲鳴すら上げられないまま海華の身体が茶色の水が溜まる地面へ崩れ落ちる。

横一文字に切り裂かれた二の腕、太腿から深紅の血潮が赤い帯となり流れ落ちた。

傷口を抑え呻く彼女の耳に届くのは、必死の声色で自分の名前を呼ぶ兄の声と、耳障りな女の笑い声だった。


 「あら、ごめんなさい痛かった? 痛いわよねぇ? でも、あたしはもっと痛かったのよ?」


 灰色の天空から軽々と降り立った文江は、自らの右頬の傷を撫でつつ、つかつかと海華へ歩み寄る。

彼女の手に握られているのは、先ほど七之助が放ったものと同じ鈍色に光る苦無くないだった。


 「ねぇ、あたしや兄者……それに母様が今までどんな生活していたか、あなたにわかる?」


 にこにこと笑顔を……酷く冷たく見える笑みを向ける文江の問い掛けに答えられる筈もなく、低く呻いて緩慢に顔を上げる海華。

そんな彼女を見下ろして、文江は花弁の唇を綻ばせた。


 「『裏切り者の子供』『一族の恥』って、物心ついたころから貶されて、罵倒されて村八分、母様は、口に出来ないような汚れ仕事であたし達を育ててくれた。あたしも兄者も、誰もやりたがらない酷い任務しごとばかり押し付けられて……」


 滔々と語る文江の声は、どこまでも冷たく抑揚なくその場に響く。

次第に感情をなくしていく漆黒の瞳をじっと見つめて、海華は生唾を飲み下した。


 「そんな生活が二十年以上、母様は胸を病んで死んでしまった。最期に残した言葉が何だったかわかる?『父様を怨まないで』って。これだけよ。あたしも兄者も、父様を怨んでなんか いないわ。その代り……」


 『あなた達は許せない』そう呟くと同時、苦無をしまった文江は新たに手にした忍刀を引き抜き、刃先を海華の鼻先へ突き付ける。

ぎらつく切先に視線が吸い寄せられ、全身の皮膚が粟立った。


 「志狼のせいで、母様やあたし達は地獄をみたんだ。なのに、あんた達だけ幸せになるなんて許せない! 志狼も、あんたの兄さんも殺し てやる。あんたは……殺さないでいてあげる」


 ちらちらと刃先を細かく振り、赤い唇をつり上げた文江から飛び出る意外な台詞に、海華は目を丸くする。 一触即発の事態、ただ時だけが音もなく流れて行った。


 「皆殺しじゃぁ面白くないものね。亭主が死んで、兄さんが死んで……寂しいわよねぇ? この先も苦しんで、悲しんで……生きて行けばいいわ」


 にや、と凶悪そのものの笑顔を送り、忍刀を納めた文江はトンと一つ大地を蹴り海華から離れる。

濡れ光る長髪をなびかせてあばら屋の方向へ駆 け戻って行く文江。

そんな彼女の背中を呆然と見詰める海華。

彼女と文江のやり取りの一部始終を見届けていた朱王は、妹の名前を大声で叫んだ。


 「兄、様……」


 「お前、何をぼんやりしてる! 早く志狼の所へ……! 早く行けっ!」


 手足の自由を奪う枷を力一杯引き、必死の形相で叫ぶ朱王。

泥にまみれたままフラフラ立ち上がった海華は鮮血を滴らせたまま兄の元へ歩み寄る。

濁流はすぐそこまで迫り、いつ兄もろとも大木が流されてもおかしくない状態だ。


 「兄様……! 待ってて、今すぐこれを……」


 「俺の事は構うな! 早く行け、志狼が危ないぞっ!」


 「だってこのままじゃ兄様が!」


 鋼鉄の枷を鷲掴む海華の頬から、雨の雫とは別の透明な物が次々と滴る。

雨に溶けて地面に広がる血潮に顔を顰めながらも、朱王は彼女の手をきつく握り締めた。


 「俺は大丈夫だ。こんな大きな木が、そう簡単に流れるもんか。だから海華、早く志狼の所へ行け。いいか、あいつにはお前の助けが必要なんだ。全部が終わったら、俺を助けにきてくれ」


 引き攣り気味の、しかし精一杯の笑顔を作り出し、海華の身体を軽く押し遣る。

泣き喚きたいのを必死に堪え唇を噛み締める海華は、同じくらいの強さで手を握り返し、『ごめんなさい』と震える声色を出した。


 「ごめんね……兄様ごめんなさい……」


 「謝る事なんかない。いいか、後ろは振り返るな。全力で走れ。いいな?」


 子供をあやすようにグシャグシャ髪を掻き混ぜられ、涙に言葉を詰まらせた海華は頷くことしかできない。

繋がれた手はゆっくりと離れ、海華は弾かれるように踵を返すと脱兎の如くその場から走り去る。

傷の痛みなどもう感じない。

感じるのは、心が張り裂けそうなほどの悲しみと罪悪感。

振り返りたい、しかし振り返ってしまえば、必ず兄の元へ舞い戻ってしまうだろう。

志狼を助けなければという使命感、そして兄を見殺しにするかもしれないという申し訳なさの板挟みとなり、海華の頬は塩辛い雫で絶え間なく濡れる。


 泥に足を取られて傷ついた身体がフラリとよろめき、笹くれだったあばら屋の板塀へ手がつきかけたその瞬間、傾いた彼女の身体を、あばら屋の蔭から伸びた細く逞しい腕がしっかりと支えた。


 「おい、大丈夫か!?」


 「弥彦、おじさ……!」


 物陰から現れた蒼白の顔は、錠前殺しの弥彦だ。

全身を泥で汚し、こめかみに解れ毛を貼り付かせた彼の顔を凝視しながら、海華は震える指で朱王のいる方角を指した。


 「あっちに兄様が……! 手枷の鍵を捨てられて……お願い助けて! おじさんなら、あの鍵開けられるわ、お願いだから兄様を助けて!」


  詳しい経緯など説明している暇はない。

『兄様を助けて』『鍵を外して』と何度も繰り返し訴える海華の手足から流れ出る血に驚きの表情を隠し切れないまま、弥彦は彼女の顔と指差す方向を何度も見比べた。


 「なんやようわからんが……とにかく朱王はあっちにおるんやな!? 錠前なら俺に任せとけ、ええな!?」


 ドン!と海華の肩を一度強く叩き、弥彦は今、海華が来た方向へと駆けて行く。

祈るような気持ちで彼の背中を眺める海華、と、弥彦がピタリと足を止め、海華の方を振り返った。


 「お嬢、亭主の事なら心配すんな。えらい助っ人がおったで」


 『助っ人』そう聞き返した海華に弥彦は小さく八重歯を覗かせコクリと頷いた後、雨の幕の中に消えてしまう。

助っ人とは誰を指すのか気になりながらも、海華はすぐに気を取り直し志狼の元へと急ぐ。

あばら屋の蔭から身を躍らせた海華の目に飛び込んできたものは、まさにこの世の地獄だった。


 地面に横たわる数多の黒衣の屍。

命を散らした死肉の塊からは、まだ温かいであろう血潮が滲むように流れ出し雨と共に黒い地に染みこんでいく。


 ある者は腕を切り飛ばされ、またある者は胴体を横一文字に真っ二つ、鮮やかな切り口からは赤や桃色の色鮮やかな臓物がベロリとはみ出している。

光を失った瞳はただ一点を見詰め、剥き出しの歯は泥にまみれる。

『無念』『憎悪』そして『悲痛』……。

様々な感情をその顔に刻み付け息絶えた敵方の骸を飛び越え、必死に志狼や実虎、桔梗の姿を探す海華。 死骸ばかりが転がる景色の中、どこかでガツンと重く響く金属音が耳に飛び込んできた。


 それと同時に音がした方角へ顔を向け、それを頼りに走り出す。

彼女が向かった場所は先ほどまで隠れていた笹薮の更に奥、藪と雑木林の境目、草木の少ない開けた場所だ。


 足に絡まる枯草や小枝を弾き飛ばして走った海華の視界がパッと開ける。

先程まで遠くに聞こえていた鋭い音が、鮮明となって鼓膜に突き刺さった。

灰色の空と深い緑、そして赤茶けた泥濘ぬかるみばかりの世界に、二つの黒い影が空中で激しくぶつかり合うのがハッキリと見える。


 薄い闇に飛び散る細かな火花と甲高い金属音。

よく目を凝らしその人影を見詰める海華、その前に、空中でヒラリと身を翻した一つの影が鳥の如くに軽々と舞い降りる。

癖のある髪を後ろで一つ束ねにした男は、血と泥で汚れきった三角巾で左腕を吊り、右手には鋭く光る短刀を握り締めたまま、背後に立つ海華をチラリと見遣った。


 「無事、だったか?」


 「うん。あたしは平気よ」


 軽く息を切らした彼の問い掛けに、海華は大きく首を縦に振って答える。

あちこち軽い傷を負い、流血はしているが、どうやら志狼は無事なようだ。

実虎と桔梗の姿がここにないのが気になるが、あの二人に限って刀の露となっていることはないだろう。 今は目の前にいる敵を倒すが先決だ。


 よほど激しい打ち合いがあったのだろう、目の前の七之助は志狼と同様黒衣のあちこちが切り裂かれ、左の頬からは糸のように細い血が一筋流れている。

肩を揺らして荒い息をつく彼は、青いあざの浮いた口元を乱暴に一つ擦り身を起こすと、獣の眼差しを志狼、そして海華へと向けた。


 「っ、畜生……、腕も利かねぇくせしやがって……」


 「そんな奴に押されてたんじゃ、下忍呼ばわりされても仕方ねぇな?」


 汚れた地面へ唾を吐いて、ニヤと口角をつり上げる志狼はまたしても煽るような台詞を投げ掛ける。

他人に対してここまで酷い物言いをする人間ではない事をよく知る海華は、信じられないものを見るような眼差しで彼を見詰めた。


 「……っの野郎ぉ……っ!!」


 「なんだ、返す言葉もないのか? 本当の事だから仕方ないか。手前ぇの母親はな、無理矢理俺の親父に迫ったんだ。酷ぇ境遇で育ったの苦労したのと……そりゃぁ母親の墓の前でほざけ! 逆恨みで襲われるなんて、たまったもんじゃねぇや!」


 燃え盛る炎に油を注ぎ込む彼の台詞に、海華が戸惑う時間は用意されていなかった。

獅子の如き咆哮を張り上げて、七之助がこちらに向かい突進してきたのだ。

泥水を跳ね飛ばし、血走った目に見据えるは志狼一人。

中腰の姿勢で短刀を構え、七之助を迎え撃つ志狼。

そんな彼の隣に並び組紐を構えた海華に、ちらりと一つの視線が飛ぶ。


 「後ろは任せたからな」


 そう小さく、しかしはっきりと聞こえた台詞に無言で頷いて、海華は真っ直ぐ正面を睨んだ。

泥水を跳ね上げて、志狼の身体が弾かれるように前方へと飛び出す。

濡れる世界にぶつかり合う二つの身体と鈍色の凶刃。

煌めく剣花を散らし噛み合う刃は互いの急所を狙い、光の線と化して空を彩る。

躍動する細身の肉体、離れてはもつれ合い、激しく上下する二人の姿を固唾を飲み目線だけで追掛ける海華。

手に筋が浮かぶ程に握り締められた組紐、その先に括られた槍先は彼女の気持ちを表すかのように細かく震える。


 一つ間違えばこの槍は大切な者の命を奪う。

背中を任せられたことの重大さを改めて噛み締めながら、海華は銀色のそれに細い指を掛けた。

胃の底が痛くなるほどに緊迫した時間は、唐 突に断ち切られた。 空中に飛んだ二人はそのまま縺れ合いながら地 面へと落下したのだ。 緩慢な動きで泥濘から身を起こした七之助、そ の右手に忍刀を、そして左手で志狼の結わえ髪 を鷲掴み、ぞっとするほど恐ろしい笑みを浮かべて切先を灰色の空へと振り上げる。


 『志狼が危ない』そう考えるよりも叫ぶよりも早く、海華の手から唸りを上げて槍先が放たれる。

暗い世界を引き裂く銀の軌跡。

ヒュン! と空気を切る鋭い響きを上げて槍先が掲げられた忍刀へ襲い掛かったと同時、海華が立つ場所から僅かばかり離れた雑木林を激しく揺らし、一つの影が躍り出る。


 雨に濡れた一束ねの長髪、猿のように素早く、そして軽々と空を舞う影を交わす余裕など海華に残されてはいない。

全ては刹那の出来事、しかし海華の目にはひどくゆっくりと時が進んでいるように見える。

声も出せない、体も動かない。


 水の中を揺蕩うが如く歪む視界の中、彼女が目にし、そして感じた物は、自らに向かい刃を振り上げる黒色の影と、頬や額に掛かる生暖かい液体、そして鼻腔を襲う胸が悪くなるほどの生臭さだけだった。


 ビチャリと頬に掛かる生温い液体に思わずきつく目を瞑った刹那、質量のある肉の塊が鈍い音を立てて衝突し、海華の身体は人形のように軽々と吹き飛ぶ。

息も詰まる衝撃に歯を食い縛り、全身泥にまみれぬかるむ大地をごろごろ転がる海華は自身の身に何が起こっているのか全く分からない。

立ち木に強か身体をぶつけ、口内に入った泥を吐き出す彼女の鼓膜を自分の志狼、そして妹の名前を叫ぶ七之助の悲鳴じみた叫びが震わせた。


 楕円に回る視界、真っ青な顔をしてこちらへ飛んでくる志狼の背後には、彼と同じくせっぱつまった面持ちで駆け寄ってきた桔梗の姿が見えた。


 「海華っ! おい!大丈夫かっ!?」


 「あ……大丈、夫。志狼さん……お姐さんも、無事なの?」


 志狼に抱き起され、心配顔の桔梗に顔を覗かれて、海華は着物の袖で顔を拭いながら慌てて身を起こす。

泥で茶色に汚れた袖口、それに混ざるよう濃くベットリと纏わりつく鮮血を目にした途端、海華はギョッと目を見開いた。

先ほど顔に降りかかった物が何かを知った海華は金魚よろしく口をパクつかせつつ、志狼と桔梗を交互に見遣る。

解れ、乱れた髪を一筋こめかみに貼り付かせた桔梗は、硬く唇を結んだまま、自らの背後へ視線を投げた。


 その視線の先には、地面に四肢を投げ出し力なく横たわる文江と、彼女を胸に掻き抱き、狂ったようにその名を叫ぶ七之助の姿があった。

指先一つ動かすことのない文江の左胸辺りには胡桃ほどの大きさがある穴が開き、どす黒い鮮血が噴き出して焦げ茶色の大地に鮮血の川を作り出す。

一杯に見開かれた両眼は光を失ってもなお天を睨み付け、呼吸を放棄した半開きの唇は降りしきる雨に濡れる。


 既に絶命している事は誰の目にも明らか、そんな状態の彼女を激しく揺さぶり、声を限りに名を呼ぶ七之助の視界には、最早憎むべき志狼の姿も映ってはいなかった。


 「お華、あんた危なかったよ」


 安堵のためだろうか、深い溜息を一つつき手にした紺色の組紐を手繰る桔梗。

その先についた銀の槍先は、文江から流れ出す命の赤に染まっている。

彼女のを仕留めたのは桔梗、そう知った海華は 戸惑いを含んだ眼差しを彼女へと向けた。


 「そんな……あのひと、あたしは殺さない、生きて苦しめ、って」


 「馬鹿だねぇ、ハッタリに決まってるじゃないか。あれは、最初からあんたの命を狙ってたんだよ。さて……後はあの兄貴だけだね?」


 『さっさと仕留めちまいな』そう志狼へ告げて、桔梗は彼の腕の中から海華を引き立たせる。


 「姐さん、あたしも……」


 「もう、あんたもあたしもお役御免だ」


 ここからは、兄弟同士の戦い。

そう言いたいのだろう、狼狽える海華の手を引く桔梗だが、海華の足はなかなか前へと進まない。

彼女も、そして志狼も妹の死に絶叫し嘆き悲しむ七之助の姿に狼狽していた。

相手は自分たちの命を狙う憎き敵、ここで決着をつけなければ、また自分達は命を狙われる。

いつ襲撃されるかと怯え続ける事になるだろう。


 心安らぐ生活を送るために、七之助を殺すには今が好機に違いない。

しかし、志狼にはどうして刃を振るうのを躊躇ってしまうのだ。

肉親の死を嘆き、身も世もなく悲しむ彼は妹を思う兄であり、どこにでもいる普通の人間そのものの姿、悪鬼羅刹ではないと思い知らされ たのだ。

これを憐みだ、情けだと非難されればそれまで、考えが甘いと言われても仕方のない感情。

だが、それは海華も同じであり、その証拠に彼女も手にした組紐を奮おうとはしない。


 弔いの雨の中、次第に弱々しく変わる七之助の嗚咽。

それを掻き消すかのように、雑木林の向こうから地を揺らす数多の荒々しい足音と志狼や朱王の名前を叫ぶ男の低い声が響き渡る。

弾かれるように顔を跳ね上げた七之助、その目は真っ赤に充血し、妹の身体を支える腕は流れ出る血潮で朱に染まっていた。

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