第六話
『亥の刻に辰巳橋下流まで』短く書き殴った雑紙を握り締める海華の手が微かに震える。
蜂蜜色に夕暮れた空はいつの間にかどす黒く分厚い雨雲に覆われ、その上を更に闇が上塗りしていく。 ぽつぽつと頬に当たる冷たい物は皆の着物に灰色のシミを刻み付け、身を隠している笹薮の笹を微かに揺らした。
ヒヤリと冷えた風が襟首を撫で、思わず肌を粟立てる海華、そんな彼女の手を、横から伸びた志狼の手がしっかりと握る。
『大丈夫だ』そう物語る眼差し。
交わした視線が宙に消える。
そっと顔を正面に向けた志狼、その視線の先にあるあばら屋は、漆黒の影となり皆の網膜に焼き付いた。
切り取られた黒髪と共に部屋に投げ置かれていた手紙の指示に従い、ここへ走った志狼達。
あのあばら屋の中に朱王がいる。
早く助け出さなければ、そう気ばかり焦る海華の頭上で広がる黒雲、雨足は次第に強さを増し、雨の戸張が降りた視界は白く霞む。
あばら屋の裏手に流れる大川は山からの雪解け水で増水し、更に雨も加わり身震いするほどの濁流が岩や大木を飲み込み渦を巻いて川岸へ牙を剥いていた。
巨大な茶色の蛇と化した激流。
鼓膜を揺さぶる轟音の中で、静かに静かにあばら屋の戸口が開き出す。
『あっ!』と小さく掠れた叫びを上げた海華の目の前に、探し求めていた兄の姿が黒い影となって現れたのだ。
雨の簾に打ち付けられ、瞬く間に重く濡れる長い黒髪。
表情を固く強ばらせた彼の背後にピタリとつく提灯をぶら下げた小柄な人影と、それより頭一つ分ほど大きな影法師。
緊迫したこの場に似つかわしくない、柔らか な橙色の光に浮かぶ影法師の顔の顔を目にした 刹那、海華は勿論、実虎や桔梗までもが驚きに息を飲み、ギョッとした様子で張り裂けんばかりに目を見開く。
笹薮に隠れた彼らの驚きに満ちた様子が手に取るようにわかる、そう言いたげに唇を歪めた影の癖のある前髪から、次々と天からもたらされた透明な雫が滴り落ちた。
「鼠みてぇにコソコソ隠れてねぇで、さっさと出てきたらどうだ?」
暴れ川の轟と打ち付ける滝の雨。
今にも消えてしまいそうな提灯の明かりに照らし出されたその顏は……。
「ありゃぁ……志狼、はんや」
呆然とした面持ちを作り出す弥彦の口からこぼれた台詞に、返事はない。
皆、言葉も忘れて眼前の影、志狼に瓜二つ、もはや生き写しと言ってもよいだろうその顔を、ただ凝視してるのだ。
まるで化け物と遭遇したかのように顔色を失った志狼の身体がふらりと揺れる。
側にいた海華が止める間もなく、彼の足は濃緑色の笹の海を踏みつけ、操り人形の如く長身の影へその身を曝した。
目の前に現れた自らと同じ顔。
まるで鏡に向かっているような錯覚に襲われ、目玉がこぼれ落ちんばかりに目を見開いて、志狼は唇を戦慄かせる。
これが鏡ならば、今対峙している男も自分と同じ表情を浮かべるだろう。
しかし、濡れた世界に佇む彼は志狼とは正反対に酷く冷酷な、そしてこれ以上楽しいことはない、そう言いたげな暗い笑みを作り出したのだ。
「初めまして志狼さん。いや……兄さん、と呼ぶべきだな?」
「やっと会えたわねぇ。実の妹にこんな怪我をさせるなんて……酷いわ、兄様」
にやぁ、と紅色の唇をつり上げて笑う文江の手にある提灯が、じりじり耳障りな音を立てる。
右手で玩具のように忍刀を弄ぶ彼女は、やおら兄である七之助の隣に立つ朱王の身体を力一杯後ろへ押しやり、その白い喉元に鈍く光る刃の切先を押し当てた。
『兄様ぁ!』そう一言叫び、海華が脱兎の如くに笹薮から飛び出す。
もう隠れている意味もないと踏んだのであろう、実虎や桔梗も彼女の後を追い掛け薄い闇へと身を躍らせた。
「やめろ海華! 来るなっ!」
一陣の矢の如く飛ぶ朱王の甲高い叫び。
志狼が咄嗟に彼女の腕を引っ掴み、よろけた身体を抱き留めれば、海華は拘束を解こうと四肢をばたつかせて暴れる。
『離して!』そんな悲痛な絶叫が響く間にも、朱王は文江に半ば引き摺られる格好であばら屋の蔭へと引き立てられていった。
「兄様に何するの!? 離して……兄様返してっ!」
「そうギャアギャア喚くんじゃねぇや。どのみち……おめぇらはここから生きて戻れやしねぇんだ」
短い前髪から滴る滴を乱暴に振り払い、七之助は泥濘始めた地面をグチャリと一度強く踏み締める。
志狼と同じ冷たく鋭い光を放つ漆黒の瞳は、海華を通り越しその後ろに控える実虎、そして桔梗へと向けられた。
「ここまでの道案内、ご苦労様だったな」
「やっぱり、最初からこのつもりだったんだね?」
柳眉を逆立て、射るような眼差しで睨み付ける桔梗に少しばかり肩をそびやかし、くるりと忍刀を一度回して七之助は微かに首を縦に振った。
「まぁな。あんた達のおかげで、朱王や海華の動きもこっちに筒抜けだった。そこの鍵屋もちょこまかとよく動いてくれたからな。どこまで知れていたのかはわからんが、あんた達にはずっと仲間が張り付けておいたんだよ。……可愛い弟子と一緒に死ねるんだ。これほど嬉しい事はないだろうに」
嘲るように鼻を鳴らし、今一度志狼に視線を戻した七之助の顔一面に憎悪の色が浮かぶ。
どす黒い雲に覆われた天空を眩いばかりの稲妻が轟音を立てて切り裂いた、その瞬間だった。
粘りつく泥を蹴散らして、七之助の姿が一瞬で消える。
暗雲を引き裂いて雷鳴が暴れ流の如く頭上をうねり、白い光が世界を染め上げた刹那、海華の前で銀色の花が散った。
ぐるりと世界が返る。
凶刃を振り翳し山猿の動きで襲い掛かる七之助、電光石火の速さで懐から短刀を引き抜いた志狼が右腕一本でその刃を受け止める。
志狼の手により渾身の力で身体を背後に突き飛ばされた海華は、弾かれんばかりの勢いで背後にいた実虎の胸へ倒れ込む。
悲鳴すら上げる暇もない、状況を把握するなど到底無理な事。
気が付いた時、七之助は天高く飛び上がり、志狼は右手に短刀を構えたまま足元をすくう泥へ片膝を着きかける。
声にならない悲鳴を上げ、実虎の胸元を引き千切らんばかりに握り締めた海華。
その視界の片隅、ちょうど自分たちが身を隠していた笹薮の反対側で、ゆらゆら蠢く数多の人影が映り込んだ。
実虎もそれに気が付いたのであろう、海華を強引に傍らへ押しやった彼は、腰に差してい た太刀をゾロリと引き抜き蠢く影に向かい構える。
氷にも似た刀身、精錬な光を放つ研ぎ澄まされたそれに、海華の視線が釘付けとなった。
闇の彼方から現れる全身黒づくめの数多の人影。
『体重』などないように軽々とした身のこなしでこちらに向かってくる影へ刀を構えた実虎が泥を跳ね上げ突進していく。
あっという間に小さくなる彼の背中を呆然と見詰める海華の後頭部に、バシリと強烈な平手打ちが炸裂した。
「何をボーッとしてるんだ!」
突然の衝撃に視線を震わせ、弾かれるよう背後を振り向いた海華の前には、鬼の形相で自分を睨み付ける桔梗の姿があった。
頭の天辺から足の先までずぶ濡れの彼女。
その手にきつく握られたものを目にした刹那、海華の心臓がドクンと大きく跳ね上がる。
紙のように白い滑らかな手、そこからぶら下がるのは実虎が振るう白刃とよく似た冷たい輝きを放つ、鋭い槍先だった。
深い闇の色と同じ濃紺の組紐の先に組み込まれた槍先は、まるで海華を誘うようにふらふらと緩やかな弧を描いて左右に揺れる。
『あんたの持っているのはお飾りか!』そう一言叫んだと同時、桔梗は去り先を持つ手を渾身の力を込めて前方へ振る。
ヒュン!と空気を裂く小気味よい音を響かせて、白銀の槍先は煌めく軌跡を引き連れ、笹薮の中から飛び出してきた黒い影に深々と突き刺さった。
肉の抉れる鈍い響きと断末魔の悲鳴が重なり合い、闇に包まれた空間一杯に木霊する。
飛び散る血飛沫と千切れた肉片、そして鼻をつく生臭さ……。
前方で刀を振るう実虎が一人、また一人と黒装束の忍らを刀の錆に変え、細い指先で組紐を巧みに操る桔梗はどこか恍惚の表情まで浮かべて心臓を、首筋を、漆黒の頭巾に包まれた頭を凄惨な肉の塊へ仕立てあげる。
目の前に広がるのは吐き気をもよおす地獄絵図。
がくがく笑う膝、瘧に罹ったように震える身体、痺れるように感覚を失った手は、無意識のうちに袂をまさぐり長い間手にしていなかったもの、血潮を思わせる深紅の組紐を引き出していた。
幾人もの命を奪ってきた罪の証は、志狼の元に嫁ぐ前、長屋の長持ちの中深くに仕舞い込んだ……いや、封印してきたものだった。
二度と、もう二度と汚れ仕事に手を染めないために、人の命を殺めないために、『これだけは置いていけ』と朱王に半ば無理矢理取り上げられたのだ。
兄の気持ちが嬉しかった。
そして海華自身が誓ったのだ、もう二度とこれは手にしない、志狼と共に平凡だが穏やかな毎日を送るのだ、と。
激しく降りしきる雨粒が組紐をより暗い赤へ変色させていく。
戦慄く手、引き千切らんばかりにそれを握り締めて、海華は大きく大きく肺一杯に息を吸い込む。
湿気を多量に含んだ空気はまるで水中にいるかと思うほど息苦しく感じ、頭の芯がジンと痺れた。
高く掲げられた右手、それが思い切り前方へ打ち振られたと同時、海華の誓いは音を立てて砕け散る。
見開かれた両眼、その目尻から流れる透明な雫は雨の名残か心の悲鳴か、それを知るのは海華一人。
闇を切り裂く鋭利な凶器が太刀を振るう忍の顔面に穴を開け、血潮滴る柘榴と変えた瞬間、海華の口からウォーーッッ!と獣の如き絶叫、いや、咆哮が迸った。
その場にいた者全員の鼓膜をつんざく叫びに、桔梗や実虎はおろか、剣花を散らし激しい打ち合いを繰り広げる志狼と七之助の動きまでが凍り付いたように止まる。
顔を砕かれ木偶人形の如く崩れ落ちる黒ずくめの身体。
粘りつく血糊と脳漿、千切れた肉片を纏わりつかせてぬかるむ地面へ垂れる赤い蛇。
くらりと揺れる海華の身体を支える者は誰もいない。
声もなく、静かに静かに顔を上げた彼女は、目に留まらぬ早業で組紐を手繰り寄せ、白銀の先から滴る血潮を手早く着物の袖で拭う。
彼女の只ならぬ様子に驚愕、そしてどこか怯えを含んだ眼差しを送る忍達。
そんな彼らに海華が返したのは、第二波、三波と襲い掛かる無慈悲な凶刃の攻撃と、地の底からわき上がる如き暗い暗い微笑みだった。
大粒の雨を散らし、組紐が一人、二人と命を無へと還していく。
人の急所を的確に狙い撃ち込まれる槍先、滴り飛び散る血潮は足元に広がる泥濘に混ざり、雨に溶けて瞬く間にその色を変える。
声にならない叫びを張り上げ、桔梗とともに忍の群れへ突っ込んで行く海華、その鬼気迫る姿を信じられないといった面持ちで凝視していた志狼、その三角巾で吊った左腕に鋭い蹴りの一撃を叩き込まれ、力を失ったそこから伝わる鈍痛に彼の身体がグラリと傾いだ。
「余所見ができるなんざ、随分と余裕だな!?」
身体の奥底から沸き上がる殺意と仇と対峙できた興奮に瞳をギラつかせ、七之助が横真一文字にふるう忍刀が、身を反らした志狼の鼻先を掠める。
視界は悪く、唯でさえ足場の悪い中で左腕は利かない。
それでも歯を食いしばり、志狼は右手一本で懸命に短刀を振るった。
彼が身に纏う濃紺の着物はあちこち切り裂かれ、そこから覗く肌にはうっすらと血がにじむ。
今の志狼の状態では七之助を打ち取る事は難しいだろう事は誰の目にも明らか、しかし実虎達が助けに走ろうにも笹薮の中から次々と姿を現す忍に前を塞がれ、彼らの元には辿り付けない。
ぐちゃぐちゃとぬかるむ大地を矢の速さで掛けた忍の足を素早く払い、その首に組紐を巻き付け力一杯締め上げた海華。
鼓膜に響く低い呻きと筋肉の痙攣をその手に感じ、絶命した身体を地面に叩き付けた彼女の瞳が忍刀を構えたまま志狼の胸ぐらを引っ掴む七之助へを捉えていた。
泥を蹴散らして海華が駆ける。
天を走る電光、それと同じ速さで空を飛ぶ銀色の槍先。
それが七之助の首筋ぎりぎりを掠めた瞬間、血に飢えた獣よろしく凶暴な笑みを宿していた彼の顔が苦々しく歪み、志狼の胸ぐらを掴んだ手が緩んだ。
「志狼さんから離れてっ!」
「喧しいっ! 夢にまで見た兄弟の対面だ、邪魔するなっ!」
血走った瞳、ぎりぎり柳眉を逆立てて、七之助は海華へ向かって思い切り右手を横へ振る。
その途端、黒い手甲から飛んだ二つの鈍い光。
地面に倒れ伏しながらも、それが何か一瞬で見抜いた志狼の口から『やめろ――っ!!』と喉を突き破らんばかりの絶叫が迸った。
雨の簾を切り裂いて飛ぶ鋼の牙、二つの苦無は、的確に海華の顔と胸を狙い唸りを上げる。 しかし、その狙い澄ました的確さが海華には救いとなった。
咄嗟に身を伏せ二つの牙を軽々とかわした彼女の手から、深紅の一撃が緩やかな弧を描いて七之助に放たれる。
その背後では、逃げ惑う弥七に切りかかる忍を、実虎が袈裟懸けに切り捨てている最中だった。
雨粒を跳ね飛ばし、うねり飛ぶそれを刀で弾く七之助の口角が、ニヤリとつり上がる。
「なかなかやるな? だが……俺はまだ『兄さん』と遊びてぇんだ。あんたは、文江に遊んでもらえ」
そういうが早いか、後方へ高く跳ね飛んだ七之助の口から鳥か犬を呼ぶに似た甲高い口笛が飛び出す。 それを合図としたのか、あばら屋の蔭から踊るように軽々と飛び出したのは、先程朱王を連れ去った女、文江だった。
「やっと出番ね? 待ち草臥れたわ」
わざとらしく欠伸を一つ、あばら屋の壁に凭れ掛かる文江の手には、七之助と同じ刀がしっかりと握られている。
雨に濡れた黒髪を鬱陶しげに搔き上げる彼女をぎりぎり睨み付け、海華は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「兄様は何処にやったのっ!?」
「あら、そんなに心配? なら、すぐに会わせてあげる。こっちにいらっしゃいな」
どこか子供っぽくも感じる微笑みを一つ投げ、文江は再びあばら屋の蔭にその身を引っ込めてしまう。 つられるように足を踏み出した海華、その泥まみれの着物の裾を志狼は反射的に握り、強くその場に引き留めていた。
『止めろ、行くな』とその視線は物語る。
相手は女、しかし手練れのくの一である。
海華 一人で相手にするのは無茶すぎる。
満身創痍になりながらも自分の身を案じてくれる志狼へ微かに唇を綻ばせ、海華は静かに裾を引き上げその手を解いた。
「海華……」
「あたしは大丈夫。大丈夫だから……心配しないで?」
ここで志狼の足手纏いになるわけにはいかない。 精一杯の強がりを儚い笑顔に変えて、海華はくるりと身を翻す。
降りしきる雨の向こうに消えていく背中を悲痛そのものの表情で凝視する志狼の手は、関節が白く変わる程に短刀の柄を強く握り締める。
やがて彼は、見えない何かに操られるが如くにふらふらと、粘りつく泥の中から立ち上がった。
「可愛い女房に見捨てられたな?」
ざぁざぁと耳障りな音を立てて世界を濡らす雨の向こうから、嘲りの台詞が飛ぶ。
それに答えることなくゆっくりと顔を上げた志狼、そんな彼を前に、同じ顔を持つ男はすっと目を細めた。
「それとも……お前の方が見捨てたのか?」
「いつまでもくだらねぇ事ほざいてんじゃねぇ……」
右手に下げた短刀を一振り、滴る泥を払い除け、志狼は細い顎の先から滴り落ちる水滴を乱暴に拭う。
「なにを都合よく考えてるのか知らねぇが、 俺はてめぇにやすやす殺られる気なんざ毛頭ねぇぜ」
にや、と白い歯を覗かせ、足元に溜まる泥を蹴る志狼の顔には、先程まであった焦りの色は微塵もない。
代わりに浮かぶのは七之助が見せていたのと同じ、相手に対する嘲りの表情だ。
「親父がてめぇの母親に何をしたのかは知らねえし、知った事でもねぇ。訳のわからん妬み嫉みで命狙われるなんざ、はっきり言って迷惑なんだよ」
はぁっ、と怠そうに溜息つきつつ吐き捨てる志狼。
一瞬唖然とした面持ちを見せた七之助だが、次の瞬間その柳眉は逆立ち、こめかみにはっきりと青筋が浮かぶ。
「俺はな、今幸せなんだ。腹違いの兄妹なんざ必要ねぇ。諦めて伊賀の山ん中帰るか?それとも……ここで死ぬか?どっちだ?」
『さっさと選べ』その台詞が志狼の口から飛び出るか出ないかのうち、彼の視界は鋭い金属音と共に激しくぶれる。
思い切り地を蹴った七之助の身体は、光の鉄砲玉と化し、怒涛の勢いで志狼へ襲い掛かったのだ。
振り翳される鈍色の忍刀。
銀の弧を描く凶刃を右手に握った短刀一本で受け止め、鋭い蹴りが七之助の太腿辺りを直撃する。
『このままぶち殺してやる!』喉の奥から放たれる怒りに満ちた絶叫。
耳障りな金属音と夜叉の如き七之助の表情に動じる事もなく、志狼は繰り出される攻撃を次々と打ち返し、そして新たなる一撃を繰り出して急所を狙う。
降りしきる雨も、彼方から聞こえる忍らの絶叫も志狼の耳にはもう入らない。
感じるのは目の前にいる男と自分の苦しいばかりに激しい息遣いと、刃がかち合う響きのみ。
殺意と殺意がぶつかり合う戦慄の世界で、互いに憎悪のみをぶつけ合う兄弟。
志狼の右肩に打ち込まれた正拳が、二人の距離を腕一本分遠ざける。
ぬかるむ地面を力一杯踏み締めて、握った凶器を思い切り右へ振るった志狼の視界に、ぱっ! と朱色の飛沫が散る。
途端に上がる押し殺した呻き。
怒りに歪んでいた七之助の顔が、ここにきて初めて苦痛に歪んだ。




