第二話
『覚悟のできひん奴に命は掛けられん』
昼間に聞いた弥彦の言葉が頭の中を何度も駆け巡る。
窓辺に置かれた文机に肘をついて、行灯の薄明かりに照らされる丸窓をぼんやりと眺める志狼の視線は、まるで見えないなにかを追い掛けるように、時折ふらふらと宙をさ迷う。
朱王と弥彦の二人が帰っていったあと、志狼の心はどこをさ迷っているのだろうか、普段から口数少ない彼はより一層寡黙になり、どこか身体の具合が悪いのかと桐野までもが首を傾げ始末だ。
昨日はよく眠れなかったようなので……などと誤魔化す海華も内心気が気ではならない。
寝巻き姿で床の準備をする間も、視線は常に志狼の背へ向けられていた。
左腕の自由を奪われてから、そう時は経っていない。
やっと平穏な生活を迎えられたと思っていた矢先にこれだ、気落ちしたくなる気持ちは、海華が誰よりわかっているつもりだ。
「―― 志狼さん」
「―― なんだ?」
返事はすぐに返ってくるが、彼は背を向けたまま。
小さく丸まった背中が妙に物悲しく、海華の胸に針に刺されたような痛みが走る。
「手……。按摩するから、こっちに来て」
出来るだけ普段と同じように、そう心掛けてみるが、どうしても声が沈んでしまう。
しまった、そう思いつつ志狼を見遣るが、彼は意外にもすんなり立ち上がり、海華の前へ腰を下ろす。
どう話しを切り出してよいやらわからず、海華は無言のままに彼の三角巾を外した。
「痛かったら、言ってね?」
「わかった。…… なぁ、海華」
「なぁに?」
「俺が、こんな事言えた義理じゃねぇが……。あんまり心配するな」
彼の口から紡がれる思いもよらない台詞に、海華は一瞬息を飲み、柔らかく揉んでいた志狼の手のひらを捻るように思い切り握り締める。
『いてっ!』という小さな叫びと同時、志狼の眉間に深い皺が寄った。
「ごめんなさい! ごめんなさい、痛かった?」
「いや……いや、大丈夫だ。―― 俺のせいで、またお前や旦那様に迷惑掛けちまう。それだけは、許して欲しい」
左手に添えられた手に己が右手を重ねて、しんみりした口調で語る志狼。
胸に感じた痛みが更に広がるのを感じて、海華の顔がくしゃりと歪む。
「志狼さんが悪いんじゃないわ。だから、迷惑だなんて言わないで」
程よく筋肉の付いた腕、肩口に頬を寄せる海華と、彼女の髪を撫でる志狼の影が、一つに溶け合い土壁へ映る。
「お前と旦那様だけ無事なら、俺はそれでいい。―― こんな身体でも、盾くらいには使えるだろうぜ」
本気か冗談か、薄い唇に小さな笑みを浮かべて囁く志狼の胸板を、海華の手がバチリと叩く。
泣きたいのか怒りたいのかわからない面持ちで、海華は志狼を睨み付けた。
「縁起でもない事言わないの! あたしの事置いて逝ったりしたら、許さないんだから。地獄の底まで追い掛けて、一発張り倒して……っ!」
その台詞が終わらないうちに、海華の世界がグルリと回転する。
背中に感じる柔らかな褥。
身体を強く抱き締める逞しい右腕。
首筋に感じるのは、慣れ親しんだ柔らかな熱。
若く力強い身体を全身で受け止めて、いささか性急過ぎる求めも受け入れた海華。
甘ったるい感覚に潤んだ瞳をそっと閉じたのを見計らったかのように、志狼の右手は静かに枕元をまさぐり始めた。
その刹那、海華の耳許で鋭い音を立て空気が裂ける。
硬直する身体、驚きのため反射的に見開かれた両目。
一杯に広がる視界の中で、大きく天井へと振られた志狼の右手から飛ぶ、銀色をした一筋の光が網膜を刺激する。
ズドッ! と空気を揺るがす爆音を立て天井板へ突き刺さった銀の光、ギィィッ! と蝶番が軋むような音が砕けた天井から落ちた途端、海華を褥へ横たえたまま志狼は山猿の如き素早さで身を起こしポッカリ穴の空いた天井へ鬼の形相を向けた。
「誰だッ! そこで……何してやがるッ!」
行灯の薄明かりが包む室内を揺さぶる怒号。
何が何やらわからぬまま、茫然と打ち破られた天井を見詰める海華。
そんな彼女の頬に、生臭くぬるつく滴がポタリポタリと滴った。
恐々と頬を撫でた海華の指に絡み付くのは見紛う事なき、赤黒く粘る鮮血だった。
「志狼さん、ッ!」
「しっ! 静かに……。 ―― 畜生、逃げたか」
忌々しげに短く吐き捨てて一度天井を睨み付けた後、志狼は褥からゆっくり身を起こす海華の身体中を背中から支える。
乾きかけた血潮のこびりついた白い頬を目にした途端、彼の顔が苦しそうに歪んだ。
「怪我、ないか?」
「うん、大丈夫……。でも、今の……」
『なんなの?』そんな問いが海華の唇から生まれようとした刹那、廊下と部屋を隔てる襖の向こうから、ばたばたばたっ!と酷く慌ただしい足音が響く。
「志狼! 海華! 今の音はなんだ!? 何かあったのか!?」
激しく打ち付けられ、ガタガタ悲鳴を上げる襖。
その向こうから飛ぶのは、二人の主である桐野の切羽詰まった叫びだ。
寝巻きの袖で慌てて顔を拭う海華、乱れた褥を飛び越えて襖を開け放つ志狼の前に、柳眉を寄せた寝巻き姿の桐野が立ち尽くしている。
「今の音はなんだ? ―― おい、あの天井は……」
室内を舞う細かな埃に軽く噎せながらも、彼の目は握り拳ほどの穴が開いた天井へ釘付けとなる。
志狼はなんと答えるのか、生唾を飲み込む海華の前で、志狼は桐野へ向かいすまなそうに小さく頭を下げた。
「申し訳ございません。実は……天井裏に鼠が……」
「鼠? いや……それにしてはお前……」
「本当に申し訳ございません、少しやり過ぎました。天井は……明日にでも大工を呼びます」
困惑気味の桐野へ深々と頭を下げて、志狼はひたすら鼠がいたのだ、と繰り返す。
これ以上問うても無駄だと思ったのだろうか、桐野はしきりに小首を傾げつつ、海華へと視線を投げた。
「鼠、か……。まぁ、それならば仕方あるまい。海華、お前は平気だったのか?」
唐突に声を掛けられ、ギクリと肩を跳ねさせながらも海華はどこかギクシャクとした笑みを浮かべ、小刻みに頷いて見せた。
「は、い! はい、私はなんとも……。お騒がせして申し訳ありません」
「いや、良いのだ。今夜は雨も降らぬだろう。明日にでも、天井裏に毒餌でも撒いておくがよい」
そう言い残し、どこか釈然としない様子ながらも、桐野は再び襖の向こうへ姿を消す。
足音が遠ざかるのを襖に耳を押し付け確かめて、志狼は海華へと向き直った。
「志狼さん……。この血、本当に……」
震える声で尋ねる彼女へ、志狼は静かに首を振る。
「鼠にしちゃぁ、血の量が多すぎる」
『調べるのは、明るくなってからだ』そう一言呟いて、彼は天井へと視線を移した。
その翌日、空が明るくなるのを待って志狼は天井裏へと上がった。
修繕のために大工を呼ぶ前、血糊の主が何であるかを確かめておく必要があったからだ。
「志狼さんどう? 何かあった?」
ポッカリと暗い口を開ける天井を見上げる海華。
その頭上からは、志狼の足音と天井板が鈍く軋む音、そして粉雪のような埃が舞い散っている。
やがて、その小さな穴から埃まみれの顔、ちょうど右目の部分がこちらを覗いた。
「あったぜ。こりゃ拭き掃除が必要だな。大工が泡吹いてぶっ倒れでもしちゃぁ困る。今降りるから、雑巾持ってきてくれ」
そうくぐもった声と共に顔が消える。
慌てて表へ飛び出し、井戸端で洗った雑巾を何枚か携えて屋根裏への入り口、ちょうど厠の近くに走った海華は、梯子を使い屋根裏から降りてきた志狼を目にした途端、小さな悲鳴を上げる。
頭の天辺から爪先まで真っ白な埃をまとわりつかせた志狼、その指先や端折った着流しから覗く膝頭には、ベッタリとどす黒い血潮が張り付いていたのだ。
「…… 随分大きな鼠ね」
「ああ、特大だ。しかも着物を着てたみたいだぜ」
海華から雑巾を受け取り、膝頭を拭った志狼は鼻をつく生臭さに顔をしかめつつ、やおら懐をまさぐり出す。
懐から引き出された手に握られていた物は、黒くシミがついた手拭いだった。
『中、見てみろ』そう言われ、恐る恐る包みを開いてみると、そこには黒く変色した血がこびりついた忍刀があった。
そしてその尖端には、強い力で引き裂かれたような漆黒の布地の破片が突き刺さっているのだ。
「気配を消して足音も忍ばせていたようだが……まだまだだったな。万が一のために、これを置いてあって良かったぜ」
たっぷりと血糊を吸った雑巾を傍らの小桶へ放り込み、志狼が呟く。
それを聞いた海華は、みるみるうちに表情を曇らせた。
「へぇ、ならそれを取るためにあたしを押し倒したわけ。自分の女房をダシに使ったのね」
「え? ダシって……ちょ、ちょっと待て! 俺はそんなつもりじゃ……!」
非難めいた眼差しを投げつけてくる彼女に志狼は勢いよく首を横に振りたくる。
だが、海華は頬を膨らませたままクルリと踵を返してしまった。
「おい待てよ! 海華悪かった。お前の気持ちを利用するつもりはなかったんだ。なぁ、悪かったって……」
志狼が出しているとは思えないおろおろ声が二人しかいない裏庭に響く。
その台詞を耳にしたと同時、一度その場で足を止めた海華は、ゆっくりと志狼の方を振り向いた後、ニヤリと白い歯を見せたのだ。
「やぁねぇ、冗談よ。あぁでもしなくちゃ、ただ逃げられて終わりだったものね」
ころころと朗らかに笑いながら、海華は新しい雑巾で志狼の紅く汚れた右手を拭く。
焦りを隠しきれないでいた志狼だったが、その唇から、ホッと安堵の溜め息が溢れた。
「あまり驚かすなよ、心臓に悪いだろ? 」
「ごめんなさい。あ、あたしこれから兄様の所へ行ってきます。昨日の事、兄様やおじさんにも話しておかなきゃね」
「そうだな。―― じきに旦那様にもお話ししなきゃならねぇしな。お前、気を付けて行けよ?」
濡れ雑巾で清められていく手と自分の顔を交互に見遣る志狼へ、海華はニッコリ微笑みそして頷いた。
「もう奴等は動きだしとったんか……」
朱王の部屋で海華から例の話を聞いた弥彦は、開口一番そう呟いた。
彼の隣で茶を啜る朱王も、苦虫を噛み潰したような、表情を崩さない。
こうも早く相手が動き出すなど、さすがの二人も予想だにしていなかった。
「朱王、こりゃぁちぃとばかし厄介な事になってきたで」
「師匠達の到着を待っている時間は無さそうですね。ところで海華、この事は桐野様にお話ししたのか?」
万が一、彼に何かあったら一大事。
それを気にして尋ねた朱王だったが、海華はどこか浮かない面持ちで首を振る。
「まだなの。昨日あんな騒ぎがあったばかりだったから、どうしていいのかわからなくて、鼠のせいだ、って誤魔化して……。でも、近いうちに話すつもりよ」
「それがええ。もし旦那に何かあったら、奉行所連中が出張ってくるやろ。そうなったら、俺らも旦那も手出しできへん」
細い指を組み、ぺきぺき軽い音を立てる弥彦。
確かに彼の言う通り、表沙汰となれば桐野どころか修一郎にまで迷惑が掛かるやもしれぬのだ。
「本当なら師匠に話して頂くのが一番なんだが……。お着きにならないなら仕方ない、ここは弥彦さんに……」
「ちょっ! ちょっと待てや! 俺にそのお侍と話せ言うんか!? 冗談や無いで、こちとら叩けば埃の出る身や、自分で自分の首締めるような真似なんざできるかいな!」
口に含んだ茶を噴き出さんばかりの勢いで喚き散らす弥彦。
これには朱王も海華も呆れ半分で飛び散る飛沫を袖で遮る。
だが、弥彦の言うことにも一理あるのだ。
『言え』『言わない』のやり取りがしばらく続いた頃だった。
やおら、どんどんと強い力で戸口が打ち付けられる音が部屋へと響く。
それと同時に障子部分に浮かぶ細身の人影。
部屋にいた全員の視線がそこへ注がれた時だった。
「御免! 朱王はいるか?」
「桐野様!?」
つい今しがたまで話の中に出ていた人物の突然の訪問に、その場はいろめき立つ。
慌てて腰を上げ、土間に飛び降りる海華の後ろでは、顔を蒼白にさせた弥彦は朱王の後ろへ隠れるように、わたわたと壁際へ後退った。
「あかん。あかん……俺、もう終わりや……」
「おじさん何やってるの! 申し訳ありません旦那様、すぐに、開けます!」
念のためにと掛けていたつっかい棒を手早く外し、戸口を引き開ける海華。
真っ白な陽光が鋭い矢の如く差し込み、思わず朱王と弥彦は目を細める。
白光の中に立つ人影、黒い羽織を風にたなびかせ佇むその影が室内へと足を踏み入れた瞬間、弥彦は現実から逃げ出すように両の目をきつく閉じていた。
『急に押し掛けてすまぬ』そう言いながら室内へ足を踏み入れた桐野は、身を縮め部屋の壁に張り付くように座り込む弥彦を見て、怪訝な面持ちを作り出す。
しんと静まり返る室内。
弥彦と桐野を交互に見遣る朱王の背中に、冷たい物が流れた。
「来客、中か……?」
「はい……。あぁ、いえ、どうぞお上がり下さい。海華、座布団を……」
しどろもどろになりながら桐野を中へ招き入れ、茶と座布団を勧める朱王は、弥彦をどう説明すればよいのかと懸命に頭を働かせる。
不審な表情のままに茶を啜り、ちらちらと弥彦を眺める桐野へ向かい、海華が引き攣った笑みを投げ掛けた。
「旦那様、あの……離れの天井なんですが、今志狼さんが大工を呼んで……今日中には来てもらえるかと」
「そうか。それはよかった。今日はな、その事で朱王に話しがあってまいったのだが、来客中では致し方ない、また後日にしよう」
そう言いつつ腰を上げかけた桐野を、海華は慌てて引き留める。
やはり、彼に妙な誤魔化しは通用しなかったようだ。
「お待ち下さい!旦那様、申し訳ありません、私……!兄様、おじさん、もう駄目よ。これ以上先延ばしになんてできないわ!」
どこか悲痛な、そして切羽詰まった海華の叫び。
壁際に引いていた弥彦と朱王は思わず顔を見合わせがっくりと肩を落とす。
そんな二人の様子を見て、桐野は再びその場ヘと座り直した。
「先延ばし、とはどういう意味だ? そこの客人にも関係がある話しなのだな?」
厳しさを含み始めた声。
これには弥彦も姿勢を正すしかない。
よろよろと朱王の隣へ戻る彼は、まるで水に濡れた紙人形のよう。
ちょいとつつけば崩れ落ちてしまいそうだ。
兎にも角にも、まずは弥彦から紹介せねばならない。
が、まさか元盗賊といえるはずもなく、朱王は昔上方で世話になった錠前師で、自分の師匠である実虎とも懇意にしている間柄だ、と告げた。
桐野は実虎と面識がある。
彼と親しい間柄、極論を言えばこちらの敵ではない、と言う事だ。
伊賀の忍衆、志狼の父親、そして志狼のみならず桐野自身も狙われている、一つ一つ言葉を選びながら慎重に語る朱王と弥彦の言葉を軽く目を閉じ無言のまま聞いていた桐野、だが、彼は突然、笑意を堪え切れぬといった様子で口を手のひらで多い、ぷっ!と噴き出したのだ。
この場の雰囲気にはそぐわぬその笑いに、朱王は勿論、弥彦までもが面食らう。
ぐ、と小さく息を詰めた後、桐野はゆっくりと伏せていた顔を上げた。
「あの……旦那、様?」
「いや、すまぬ……。そうか、伊賀の忍が、な。桐野家を狙い、あまつさえ儂や志狼の命までも奪うと豪語しておるのか。いや、ここまで見縊られておるとは、さすがの儂も思わなかった」
ふん、と鼻を一つ鳴らし、胡坐をかいた足を組み直す桐野から漂うのは、剃刀のような鋭さを持つ、押し殺した静かな怒り。
ゴクリと生唾を飲み込む弥彦のこめかみから一筋の汗が伝い落ちる。
「昨夜のネズミの一件といい、どうもおかしいとは思うていたが、そういう事だったか。よくわかった。それで弥彦とやら……実虎殿と桔梗殿はいつ頃こちらにまいるのだ?」
「へ、ぇ。詳しくいつとは申し上げられません。何しろ長い旅路やさかい、江戸へ着き次第、向こうから連絡が入る手筈になっとります」
「そうか、よしわかった。この件は、まだ公にするのはよそう。ただし、お奉行には一言話さねばなるまい。志狼には儂から伝えよう。朱王、海華、わかったな?」
心の内まで射抜くような力強い眼差しに射られてしまえば、もう異論を述べる事など出来はしない。
無言のままに顔を見合わせ小さく頷く二人。
その横で、弥彦は顔から滝のように流れる汗を懐から引っ張り出した手拭いでしきりに拭い取っていた。




