第一話
去り行く冬と足早な春が混ざり合う頃、蕾の膨れた梅が花曇りの空へ枝を伸ばし、若い鶯がぎこちない歌声を奏で出す。
正月も明けてだいぶ日が経ち、新年の浮かれた気持ちも一段落ついた頃、朱王は年明け初めての仕事を受けて依頼人の元へ写生に通う毎日だ。
妊娠の一件で気落ちしていた海華も次第に元気を取り戻したらしく、ほぼ毎日のように訪れては飯の支度や掃除、選択にと面倒をみてくれている。
この日も夕方近くに長屋を訪れた彼女は、持参した大根と鶏肉を煮付けながら最近屋敷であった出来事や、町で流れる噂話を兄へ話して聞かせていた。
一度仕事を受ければ必要最低限の外出しかしない朱王、ほとんど外界と隔離された生活を送る彼にとって、海華の話しはよい刺激、そして情報を得るためになかなか役立つものとなる。
「…… でね、逢坂屋の旦那がお妾 さんと一緒にいる時に、奥さんが怒鳴り込んできて、包丁振り回して凄かったんだって。町廻りも飛んできての大騒ぎよ」
「あの旦那も酒と女が断ち切れないんだな。それがなければ、いい人なんだが……」
頭を仮彫りしている最中の朱王は、手元から目を離すことなく抑揚のない返事を返す。
色事にとんと縁のない朱王だが、はからずも男女の修羅場に遭遇……いや、巻き込まれることも多々あるのだ。
『妾の生き人形を造って欲しい』そんな依頼は結構な数ある。
大枚叩いて妾の人形を造るなど、正妻に話す馬鹿は勿論いない。
いつぞやは写生の最中、正妻が両親や兄弟姉妹を引き連れて、妾の別宅へ乗り込んできたことがあった。
その場にいた旦那や妾は勿論のこと、朱王までもが鬼の形相をした正妻一味に取り囲まれ、危うく袋叩きになるところだったのだ。
「女遊びと賭け事をする奴の気持ちはさっぱりわからん……」
「兄様には一生関係ないことだものね。さ、あたしお米研いでくるわ」
苦笑混じりに呟いた朱王へ軽く微笑みを投げ掛けて、海華は米の入った笊を抱える。
そのまま戸口へ二、三歩歩を進めた、その時だった。
どんどんどん! と、重たい打撃音が部屋中に響き、戸口がガタガタ悲鳴を上げる。
どうやら、客人が訪れたようだ。
「はい! どちら様でしょう?」
抱えていた笊を上がり框へ置いて、海華は戸口へ声を掛ける。
ぼんやりとした人影の浮かぶそこからは、何も返事は返らない。
無言のまま再びドンドン打ち付けられる戸口。
これには朱王も臥せていた顔を上げ、微かに小首を傾げた。
「兄様……。誰かしら?」
「わからん。まだ戸は開けるなよ。―― 申し訳ありません、どちら様でいらっしゃいますか?」
不審と警戒を含ませた朱王の声が飛ぶ。
それと同時に、地震のように震えていた戸口がぴたりと止まった。
「俺や!俺! この声聞いたらわかるやろ? 早くここを開けてぇな」
上方訛りのよく通る声色。
この辺りの者ではない、しかし確実に聞き覚えのある、懐かしいその声。
一瞬息を詰めた朱王と海華、次の瞬間、戸口へ飛び付き勢いよくそれを叩き開けた海華の口から、『おじさんっ!』と悲鳴じみた叫びが、夕闇迫る空へと迸った。
「弥彦おじさんっ!」
「お嬢元気やったか! ちぃっと見ん間にえろう別嬪になったなぁ!」
歓喜の悲鳴に近い海華の叫びと、懐かしい上方言葉が戸口付近で入り混じる。
反射的にその場から腰を浮かせた朱王、興奮に頬を赤くした海華の背後から、海老茶と橙色の縞模様が入った着流しをぞろりと纏った細身の男が姿を現す。
年の頃は四十半ばだろうか、きっちり結い上げた髷は所々白いものが混じり、悪戯っ子のような笑みを浮かべる細面には、目尻辺りに細かな皺が刻まれる。
重ねた年波のせいか、見た目こそ多少の老いは見られるものの、その薄い唇から生まれる張りのある声は昔のままだ。
「弥彦……さん!? 」
「おうよ、朱王久しぶりやったなぁ。お前も随分大きゅうなったやんけ」
『邪魔させてもらうでぇ』そう間延びした声を出しながら土間へと入る彼の背中には、針箱ほどあるだろうか、小さな木箱が背負われている。
未だ驚きに目を瞬かせる朱王の横へドカリと腰を下ろした弥彦、そんな彼と朱王の前へ、嬉々として海華が空の湯飲み茶碗を二つ差し出した。
「兄様お酒出して。おじさんはお茶なんかより、こっちの方がいいでしょう?」
「おぅ、気が利くやないか。そうや、忘れるところやった。実虎の旦那から聞いたんやが、お嬢、所帯を持ったんやってなぁ。蛇の姐さんや他の奴等から預かってきた祝金んや。こっちは実虎の旦那と桔梗姐さん。勿論俺のも入ってるで」
そう言いながら、弥彦は背負っていた木箱をおもむろに下ろし、その中をゴソゴソ引っ掻き回す。
何やら金属の擦れ合う耳障りな音と共に、祝金を包んだ小さな茜色の風呂敷が、その姿を現した。
「ありがとう! 嬉しい、皆あたしの事覚えててくれたのね」
彼から包みを受け取って満面の笑みを作る海華の胸が、じわりと暖かな痺れに包まれる。
弥彦の口から出た懐かしい名前、自分を可愛がってくれた人々の面影を思い浮かべながら、海華は包みをしっかりと胸へ抱き締める。
そんな彼女を横目に、朱王は机の下から引っ張り出した酒瓶の酒を二つ、並べられた湯飲み茶碗へ、なみなみと注いだ。
「お前の後ろをチョコチョコくっついとったお嬢が、亭主持ちになるとはなぁ。朱王、お前も寂しいやろ?」
「とんでもない。さっさと片付いてくれてよかったと思っていますよ」
湯飲みを手にニヤリと笑う弥彦の視線から逃れるように顔を伏せ、酒をあおる朱王の黒髪が、首の辺りでさらりと揺れる。
「それはそうと……天下の『錠前殺し』が祝金渡しにわざわざ下ってきたのですか?」
照れ隠しなのだろうか、睨むような眼差しを投げてくる朱王に弥彦はフンと鼻を鳴らして答える。
湯飲みに半分ほど残っていた酒を一気に飲み下す彼の喉仏を、透明な滴が一筋伝い落ちた。
「んな訳あるかいな。祝金は、『ついで』や。本題は……」
『ちぃと面白うない話やで』そう吐き捨てるように呟き、弥彦は乱暴に口許を拭う。
祝金を長持ちの中へとしまう海華の背中に、小さな影が覆い被さった。
さて、突然兄妹の前に現れた、弥彦と呼ばれるこの男、『錠前殺し』の二つ名を持つ、その筋では名を知られた鍵師である。
元は幼いうちに山中に棄てらた孤児だったが、その頃大阪一帯のならず者共の長に立っていた叢雲の正十郎に拾われたのだ。
以前、叢雲一味に加わっていた実虎にとっては、弟分となる。
手先の器用さとすばしっこさは天が与えたものだろう。
目の前に立ちはだかる塀も軽々と乗り越え、鍵屋が苦心して造り出した頑丈かつ重工、複雑な造り錠前も、たった数本の細い金棒を巧みに操りたちどころに開けてしまう。
この男がいたからこそ、叢雲一味は無駄な殺生をせずに『盗み(おつとめ)』が出来たのだ。
正十郎が病で死に、それぞれが盗賊家業から足を洗い、堅気に紛れてひっそり暮らす今、弥彦が言う『面白くない話し』とは、一体何なのだろう?
一抹の不安を感じながら、空いた茶碗に新たな酒を注ぐ朱王の隣へ、海華が静かに腰を下ろす。
二人が揃ったのを確認した後、弥彦は湯飲みの水面に映る己の顔へ視線を落とした。
「ちょうどひと月前やったわ、旦那と姐さんのところへ伊賀の薬売りとかいう奴がきたんや。ええ儲け話があるんだと……早い話が押し込みや。旦那と姐さんに手を組まんかと言うてきたらしい」
「伊賀の薬売りねぇ……。ひどく怪しい話だけど、お姐さん達はどう答えたの?」
自分用だろうか、急須に茶葉を放り込み溜め息を放つ海華へ、弥彦は難しそうな面持ちのまま、こめかみの辺りを指先で掻く。
「そりゃあ、突っぱねたに決まっとるがな。 ……と、言いたいところやが、そう簡単にはいかへんねん。だいたい、今更旦那方に声が掛かるなんておかしいやろ? 汚れ仕事から足洗うて何年経ってる思うねん」
確かに弥彦の言う通り、実虎達が堅気に戻ったのは朱王らと出会う前、もう十年以上も前の話しなのだ。
「それは確かにおかしいですが……。勿論、師匠は断ったんですよね?」
恐る恐るといった様子で訪ねた朱王に、弥彦は首を縦にでもなく横にでもなく傾げつつ、うぅ、と低い呻きを出す。
否定も肯定もしない彼を前に、兄妹は顔を見合わせた。
「奴等がどこを狙うのかを聞いたらな、断りたくても断れなかったんや」
意味深な返事を返した弥彦は、新たに注がれた酒を一気に飲み干す。
うっすらと赤みを帯びた唇が微かに噛み締められるのを、海華は見逃さなかった。
「奴等の標的は、お嬢、お前の嫁ぎ先や」
低い声色で呟かれた台詞、それを耳にした刹那、海華の中で時間が一瞬止まる。
張り裂けんばかりに目を見開き、自分を凝視する海華。
その手にある小さな湯飲みから、真っ白な湯気が一筋、宙へと登り音もなく溶けていった。
自らの家が盗賊に狙われている、そう聞かされ、穏やかでいられる者は少ないだろう。
海華も、その一人だった。
みるみるうちにその顔からは血の気が引いていき、湯飲みを持つ手が小刻みに震え出す。
「どう……して!? どうしてうちなの? うちにね、狙われるだけのお金なんて無いわ。だいたい、武家へ押し込むなんて考えられない!」
「考えられんちゅうても、本当の 話しや。奴等の狙いは金じゃあらへんねん」
空になった湯飲みを畳に転がして、胡座をかいていた足を組み直す弥彦。
戸板一枚で隔てられた表から飛び込む、キャーッ!と甲高い子供の歓声が、鋭い矢のように皆の鼓膜に突き刺さる。
「奴等の狙いはな、お嬢、お前の亭主と、その旦那の首や」
「あぁ……やっぱりな」
弥彦の台詞に同調するかのように、朱王の口から小さな呟きが漏れる。
そのとたん、海華は厳しい表情を作り出し鋭い眼差しを彼へと向けた。
「やっぱりって……兄様、それどう言うこと?」
「『伊賀の薬売り』と聞いた時から、もしかして、と思っていたんだ。去年、お前と志狼を拐った奴等も、伊賀の連中に頼まれたと言ってたろう? ―― きっと、志狼の父親に 関係する奴等だ」
軽くなった酒瓶を湯飲みの上で傾けつつ、朱王が発した言葉に、海華は思わず息を詰まらせる。
押し黙ってしまった二人へ交互に視線を投げた弥彦は、再びその薄い唇を開いた。
「まぁ、朱王の言う通りやわ。姐さんの調べじゃ、伊賀の隠れ里の連中らしい。お嬢の亭主の親戚筋かは知らんへんけど、ちぃっとばかし厄介な連中やで」
「…… 志狼を殺りたくて仕方ないようだな。弥彦さんは、それを報せに?」
「せや。奴等は江戸へ下ってくるさかい、文じゃ間に合わへん言うてな。もしかしたら、先に密偵を送り込まれたかもわからん。最近、近くに越してきた奴や、馴染みの店に勤め始めた新顔はおらへんか? 」
畳のささくれを指先で玩ぶ弥彦の問い掛けに、朱王と海華は小首を傾げてしばし考え込む。
「この近くに越してきた人はいないな」
「そうね、あたしの方もいないわ。特に怪しい人も見当たらないし……」
考えれば考えるほど、二人の頭は混乱していく。
しかし、弥彦とて今すぐ二人に答えを出せと迫るつもりはないようだ。
「とにかく、身の回りには気ぃつけぇや。いつどこで見張られとるかわかりゃせぇへんからな。それと海華、お前の亭主……志狼とか言うたな。一度会うて話がしたいんやが……できれば、与力の旦那がおらん時にしたいんや。こちとら……」
『脛に傷持つ身ぃやからな』そう言いながら弥彦はどこか困ったような笑みを見せる。
わかったわ、そう即座に答えた海華は、すぐさま長屋を飛び出し、八丁堀へと駆け戻っていく。
夕日も西の空に傾き駆けた頃、息を切らせて長屋へ駆け戻って来た海華が志狼から言付かってきた答え、それは『明日の昼前、朱王と共に屋敷まで来てほしい』というものだった。
翌日、志狼から指定された時間帯に八丁堀の同心屋敷、桐野宅の裏門をくぐる朱王と弥彦の姿があった。
朱王は別として、表門から堂々と出入りする事のできない弥彦は、以前の宿敵とも言える同心屋敷を訪問する事に多少の緊張があるのだろう、その視線は右へ左へキョロキョロと忙しなく動き回る。
勝手知ったるなんとやら、裏門を開け小綺麗に手入れされた裏庭を抜けて先を行く朱王と、その後ろを着く弥彦。
昨日はあれだけ饒舌だった彼も、今日ばかりは 口数少なく、ここへ来る道すがらは、ほとんど無言のままだった。
「…… おい、やたら静やな? ほんまに海華はいるんかいな?」
「二人してここを空ける事はありません。静かなのは……屋敷に使用人は海華と志狼だけだからです」
未だ花芽をつけぬ木々が、白骨にも似た枝を寂しく風に震わせる。
色を無くした虚しい庭に響くのは、苔むした石畳を歩く二人分の下駄の音だけ。
やがて屋敷の裏手、 志狼と海華が住まう離れへとやって来た朱王は、閉め切られた障子戸へ『来たぞ』と短く声を掛けた。
それを待っていたかのようにソロソロと戸が開き、 不安をそうな面持ちの海華がその顔を覗かせる。
「来たぞ。志狼はいるのか?」
「中にいるわ。おじさんの事は、夕べ話してある。志狼さんも信じてくれたわ」
未だ固い表情を崩さないまま、海華は二人を中へと招き入れる。
縁側で下駄を脱ぎ、室内へと上がった二人。
赤々と燃える火鉢の傍らに胡座を組み、二人を出迎えた志狼の顔は、海華に負けず劣らず固く冷たいものだった。
「呼び立てちまってすまねぇ。海華から…… 話しは聞いてある」
低く沈んだ声色を出す志狼は、ふと朱王の横へ立つ弥彦へ視線を移し、なにも言わずに小さく会釈した。
「あんさんが、お嬢の亭主か?」
「はい。志狼と申します。実虎さんや桔梗さんには……以前お世話になりました」
右手だけを畳につき、小さく頭を下げる志狼の前に胡座をかいた弥彦の視線は、三角巾で吊るされた左手へ向かう。
しかし、その事について彼は何も口にしなかった。
「お嬢から全部聞いとるんやったら話しは早いがな。志狼はん、今回の件やが、内々に済ませるのはえらい難儀やで。最悪、ここの旦那も巻き込まなあかん。奴等はそれだけの相手なんや。それは、わかるな?」
「…… はい」
「旦那を巻き込むゆう事は、あんさんの過去もなんもかもが世間に知られる事になる。下手すりゃあんさんの首も飛ぶで。そうなっても、こっちにゃぁ何の責任もない。それも承知しといてや。でなけりゃ手は貸されへん」
『自分の命のが大事やからな』ぼそりとそう呟いて、弥彦は首筋をバリバリと掻く。
冷たいようだが、それが日陰者の常識、情けやいらぬ正義感は、自らの身を滅ぼすだけだ。
弥彦の台詞に対して、朱王と海華が異を唱える事はない。
遥か以前、彼と同じ立場に身を置いた者としてその言葉が正論だと、痛いほどにわかっているからだ。
「全ての行動の責は自身が負う、それが当たり前の事。それは重々わかっています」
淡々と答える志狼の顔には、先ほど見せた不安な表情は全くない。
―― 怖いくらいに、無表情なのだ。
突き刺さるような氷の眼差し。
しかし弥彦が動じる事はない。
軽く片眉をつり上げて、彼は目の前に座る志狼をじっと見詰める。
傍らに置かれた火鉢の炭が、バチリと乾いた音を立てて爆ぜ、煌めく火の粉が宙を舞う。
「…… それだけの覚悟があるなら上出来やな」
にや、と口角をつり上げて、弥彦がこぼす。
今まで二人の話しを静観していた朱王と海華は顔を跳ね上げ、弥彦の後ろ姿を見る。
その視線に気付いたのか、彼はくるりと背後へ身体を向けた。




