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第三話

 「海華ちゃんのいる前じゃぁ言えなかったんだけどね、隣の長屋で最近お産の時に死んじまった人がいてさ、初産だったんだけど、可哀想に……。そんなこともあって、余計に心配してんだよ。子供ができたのは嬉しいけど、浮かれてもいられないってさ」


 崩れそうになる芋慌てて片手で押さえ付け、お多喜が溜め息混じりに口にする。

自分の前では素っ気ない素振りを見せていたが、本心では海華の事が心配で仕方がなかったのだ。


 「あの人も人前で大っぴらに喜ぶような性格じゃないだろ? こんな事が知られたら恥ずかしいから、ってさ。だから、内緒にしといてね?」


 唇の前に人差し指を押し当てて、彼女はその場から去っていく。

一人残された志狼は、たなびく襟巻きをぐいと引き寄せ、足早に朱王の部屋へと向かう。

勢いを付けて戸口を引き開ければ、上がり框に腰掛ける海華と真っ正面から視線がぶつかった。


 「海華、俺、朱王さんを探してくる。お前はここで待ってろ」


 「兄様を? なら、あたしも……」


 「馬鹿、お多喜さんからも言われただろ? 風に当たっちゃ身体に毒だ。すぐ帰るから、ここで待ってろ。いいな?」


 でも、と食い下がる海華へ『外へ出るな』と強い口調で言い置いて志狼は再びピシャリと戸口を締め切る。

土埃を上げる大地を蹴る彼の足は、お多喜に教えられた場所へと向いていた。

身を切る寒風は容赦なく志狼の身体から体温を奪い、耳朶までを赤く染め変えていく。

正反対に、口から吐き出される息はあっという間に白い雲と化して宙へと溶けた。


 お多喜が言っていた、この近くにある神社とは多分、平安ひらやす神社の事だろう。

海華と一緒になる前は、よくその神社を待ち合わせ場所としていた、志狼にとっても思い入れのある場所だ。

吹き付ける風に身を縮め、肩を竦めて行き交う人々の間をすり抜けて、懸命に走り辿り着いた平安神社、そこに人の気配は全くない。


 古びた朱色の鳥居が立ち、その周囲はすっかり葉を落とし白骨同然となった木々が剥き出しの枝を震えるように揺らすだけ。

凹凸のある石畳を歩く志狼の足音だけが寂しく響き、鳥居に掛けられる古びた注連縄がギシギシと軋んだ音を立てた。

もう、朱王は帰ってしまったのだろうか?

よくよく考えてみれば、こんな無人の神社に御守りなどあるはずはない。

他の場所を当たるか、そう考えた志狼が荒い息を整え、踵を返そうとした、その時だった。

視界の端に揺れる艶めいた黒、ちょうど鳥居の陰当たりに見えたそれに向かい、志狼の顔が跳ね上がる。


 「やっぱり、ここだったか」


 「志狼……。何をしに来たんだ?」


 灰色をした厚い雲の下、低く響いた二つの声色。

滑らかな黒髪をたなびかせ、ゆっくり姿を現した朱王の顔は、紙のように真っ白だ。

突然目の前に現れた志狼の姿に驚き、そしていぶかしげな表情でこちらに向かってくる朱王に、志 狼は一旦開きかけた口をしっかりと閉じ、たなびく襟巻きをいささか乱暴に首へと巻き付けた。


 「―― 海華が、長屋にいるんだ。朱王さんに話がある。用事足しに出たところをすまねぇが、行ってやってくれねぇか?」


 「海華が? こんな寒い中を来たのか?」


 みるみるうちに朱王の柳眉がつり上がる。

怒鳴られるかと思い一瞬身構えた志狼だったが、朱王は彼から視線を逸らせ、苛立たしげに頭をかきむしった。


 「あの馬鹿、身体を冷やすのが一番悪いっていうのに……」


 朱王の口から無意識に飛び出した台詞。

ともすれば風に掻き消されてしまいそうなそれを耳にした志狼は、お多喜から聞いた話が真実だと確信した。


 「あいつの事、怒らねぇでくれ。行こうって言ったのは俺なんだ。……実は、朱王さんの居場所をお多喜さんから無理矢理聞き出したのも、俺なんだ」


 己の爪先に視線を落とし、ひどくすまなそうに小さな声で告げれば、朱王の口からは深々とした溜め息が放たれる。

ふと、彼の方を見上げれば、不機嫌さはそのままに着流しの袂をしきりに手でまさぐっている様が見えた。


 「無理矢理聞き出した、か。まぁいい、人の口に戸板は掛けられないからな。海華が待っているなら、帰るか」


 「え? あ、おい! ちょっと待ってくれ!」


 あっさりと志狼の言葉を受け入れた朱王。

自分の隣を通り過ぎ、さっさとその場を離れていく彼の後ろを慌てて追い掛ける志狼の束ね髪に、どこからか飛んできた薄茶色の木葉が絡み付く。

分厚い暗雲立ち込める空から、ひらひらと白い物が舞い降り始めた。


 朱王を追って長屋に戻った志狼の足が、長屋門の前でピタリと止まる。

急に聞こえなくなった足音、そして気配を感じ取ったのか、朱王は顔に絡む髪を手で押さえ付けつつ背後を振り向いた。


 「どうした?」


 「俺、外で待っている。海華は部屋にいるはずだ」


 半纏の中に手首から先を引っ込めて、志狼がくぐもった声で答える。

自分が同席するよりも、海華と二人きりの方が朱王も話がしやすいだろう、と考えたのだ。

しかし、そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、朱王は困ったような面持ちで部屋の方を顎で指す。


 「妹の亭主を寒空の下に放り出しておけるか。早く中に……」


 「いい! 俺の事は気にするな。こんくれぇの寒さなんざ、どうって事ねぇよ。ほら、早くしねぇと海華、痺れを切らせて出てきちまうぜ」


 志狼の言葉に追い立てられるように、朱王は彼を気にしながらも部屋へと向かう。

ゆっくり戸口を開けば、暖められた柔らかな空気が肌を包んだ。


 「あ、おかえりなさい! 勝手にお邪魔して、ごめんなさいね」


 久方ぶりに聞く朗らかな妹の声。

真っ赤に燃える火鉢の墨を火箸でつつき、笑顔で出迎える彼女に、固かった朱王の表情も幾分柔らかいものへと変わる。


 「お前、この寒いのに……出歩いてもいいのか?」


 「あたし病人じゃないのよ? 今日は兄様に話したいことがあったの。…… 志狼さんから、もう聞いていると思うけど、あたし、赤ちゃんできたみたい」


 照れ臭そうに顔を伏せてはいるが、その顔には満面の笑みが浮かんでいる。


 「赤ちゃんって……まだ確実かどうかわからないんだろう?」


 「そりゃそうだけど、清蘭先生やお藤さんが仰ってたんだから、丸っきり嘘じゃないわよ」


 『時期にお腹も大きくなるわよ』そう言いつつ自分のお腹を擦る海華の姿を目の前に、朱王は口をつぐんでしまう。


 「何よ兄様、暗い顔しちゃってさ。他に言うことないの?」


 ケラケラ笑いながら火鉢の上にある鉄瓶の湯を急須に注ぐ海華へ、朱王は黙ったまま袂から何かを引っ張り出す。

自分に突きつけられた物、それか何かわかった途端、海華は大きな目を更に大きく見開いた。


 「兄様、これ……」


 海華の問いに朱王は何も答えず、ただそれを強く彼女へ突きつけるだけ。

彼の手に握られていた物、それは赤い絹の布地で作られた小さな御守りだった。

四角い御守りから伸びる細く繊細な絹の紐には、小指の先ほどの鈴が付けられている。


 「お前に、やる。もうお前一人の身体じゃないんだ。絶対に無理しないで、元気な赤ん坊を産め。おめでとうは、無事に子供が産まれたら、だ」


 視線を逸らし、恥ずかしそうに口にする朱王から御守りを受け取った海華の手が、微かに震える。

チリンと可憐な音を立て、鈴も一緒に震えた。


 「あり、がとう……!あたし……兄様は喜んでくれないのかな、って、思ってたの」


 「馬鹿、嬉しくない訳ないだろう。それ以上に、お前の事も心配してるんだ」


 海華の前だからこそ、こぼせる本音。

御守りを大切そうに懐にしまい込み、海華はそっと兄へ寄り掛かり、朱王は嫌な顔をすることもなく、されるがまま。

湯を注いでいた急須の口から、ゆらゆらと白い湯気が昇った。


 「あ……そう言えば、志狼さんはどこ行ったのかしら? 兄様探して出ていったんだけど……」


 今気付きました、と言わんばかりに、海華は眉間に微かな皺を寄せ、兄を見上げる。

朱王は朱王で、しまった、と小さく呟きつつ戸口へ目を向けた。


 「あいつの事、すっかり忘れてた。お前と二人っきりで話をしろと言われてな。まだ外で待ってるんだ」


 「外に? やだ、風邪引いちゃうじゃない! 兄様、早く呼んできて!」


 声を裏返して叫んだ海華は、火箸で炭をかき混ぜて火の勢いを強め、その間に朱王は表で震えているだろう志狼を呼びに外へと飛び出していった。







 志狼と海華が朱王のもとを訪れてから、早くもひと月あまりが経とうとしていた。

冬本番のもとをとなり、桐野の屋敷では本格的な冬支度に追われ、毎日忙しく働く志狼の姿がある。

本来ならば彼を手伝わなければいけない海華も、今は力仕事も外への遣いにも行く事はなく一日の殆どを屋敷の中で、身体の負担にならない雑事をして過ごしていた。


 身体を労れ、常にそう言いながら家事の殆どを引き受けてくれる志狼、そして桐野も勤めの帰りに水菓子などを買い求めてきてくれる。

最近では、朱王もちょくちょく顔を出してくれるようになった。

完全にお姫様扱いされ、戸惑いながらも嬉しさを抑え切れない海華は、気の早い男らが自室に用意した赤ん坊の産着や玩具を手にしては、 愛おしそうに自らの腹を撫でる。

しかし、そこは相変わらず平たいまま、懐妊がわかってから、身体には何一つ変化は起きていなかった。


 腹が大きくならなければ、妊娠が確定しない。

その事は最初に清蘭から聞いていたのだが、身体の変化は人それぞれ、志狼も桐野も、そして当の本人である海華でさえも『妊娠している』と信じて疑わなかった。


 そう、この日の朝までは。


 大地を包む冷たい白が深々と降り積もる朝、桐野を送り出し台所の片付けも終えた志狼は、冷たい水で真っ赤に染まり、かじかんだ手を擦りつつ離れへと向かっていた。

朝方、まだ床に着いていた海華は何だか腰が痛むと言い、朝餉の席に出てこなかったのだ。

何も胃袋に入れないのは身体に悪い、何か食べたい物はないか聞きに来た志狼、『開けるぞ』と一言声を掛け、障子戸に手をやる。


 ガラリと引き開けた、目の前には布団の上に寝間着姿のまま、呆然と座り込む海華の姿があった。


 「…… どうした? 大丈夫か?」


 入室した自分に、どこか怯えた眼差しを送ってくる海華。

その様子に異変を感じた志狼は彼女の隣にしゃがみ込み、その肩にそっと手を置く。

血の気の失せた青白い唇を噛み締めて、海華は消え入りそうな本当に小さな小さな声で『お藤さんを呼んで』と呟いたのだ。


 「お藤さん? 清蘭先生じゃなくて、お藤さんか? お前、顔色悪いぞ。本当に大丈夫なのか?」


 いつもとは明らかに違う彼女の様子に、志狼の表情がくもる。

しかし海華は無言のまま首を横に振り、無理矢理な笑顔を作り出した。


 「大丈夫、あたしは平気だから……。だからお願い、お藤さんを呼んできて?」


 「―― わかった、すぐ呼んでくるから、少しだけ待っててくれ」


 今にも泣き出しそうな海華の頭を一度撫で、その場から立ち上がる志狼。

障子を開け、軽く背後を振り向いた彼が見たもの、それは涙を堪えるように顔をしかめ、口元を手で覆う海華の姿だった……。







 小石川に走った志狼から海華の様子を聞いたお藤は、すぐさま屋敷へ駆けつけてくれた。

なぜ、清蘭が来なかったのか、理由は簡単、海華が彼を呼ばないでくれと頼んだからだ。

お藤と二人、女同士の話がしたいとの海華の頼みにお藤も快諾してくれ、清蘭には海華の話し相手に行くとだけ伝えてある。


 勿論、お藤も医者であるから海華の身体を診る事もできるのだ。


 屋敷に着いた彼女は、直ぐ様海華の待つ離れへと向かい、そのまま部屋に消えて行く。

その間、志狼は外で待ち惚け、中でどのような話が交わされているのか、それが気になって仕方がない。 が、盗み聞きするなどもっての他だ。

落ち着きなく、渡り廊下と母屋を何度うろうろ行き来しただろうか、やがて離れから静かな足音が聞こえてきたと思うと、いささか緊張した面持ちのお藤が台所にいる志狼のもとへと顔を出した。


 「お疲れ様です! お藤さん、海華は……あいつの具合は、どうなんですか?」


 真剣な顔でお藤に詰め寄る志狼の背後では、竈に置かれた鉄瓶がゆらゆらと白い湯気を立てる。

お藤は一瞬唇をつぐんだが、すぐに柔らかな微笑みを志狼へと向けた。


 「海華ちゃんは、大丈夫です。身体にはどこも悪いところはありません」


 「そうですか、よかった……。じゃあ、腹の子も大丈夫なんですね?」


 ホッと胸を撫で下ろした志狼が発した台詞に、お藤が頷く事はない。

それどころか、急に表情を固め、再び口を閉ざしてしまう。


 「お藤さ、ん? 赤ん坊は……無事なんですね?」


 確かめる、というより念を押す、という言い方で尋ねる彼は、無意識にお藤へと身を乗り出す。

なんと答えてよいのか思案しているのだろう、お藤は一瞬視線をさ迷わせた後、ぎゅっと細い指を握り締める。


 『それは、今夜、海華ちゃんからお話があります』


 紅を塗った唇がそんな台詞を紡いだ刹那、志狼は心臓を鷲掴みにされたような息苦しさと軽い目眩を覚えていた。







 お藤が屋敷を訪れたその日の夜、海華は自らの妊娠を知る者らを屋敷へと呼び寄せた。

具体的には、朱王に修一郎夫婦、そして主である桐野と志狼である。

彼女の方から突然呼び出すなど一体何事があったのか?

そんな疑問を抱きながらも桐野宅の客間へ集まった五人、彼らの到着を見計らったかのように、奥の部屋から海華が姿を現す。


 しかし、彼女は一人ではなかった。

その両脇になぜか清蘭とお藤が控えていたのだ。


 「清蘭先生……お藤殿、どうしてお二人が?」


 突然姿を表した小石川の二人に、修一郎はいささか驚いたような声を上げ、桐野と志狼は互いに顔を見合わせる。

彼の問い掛けに答えようと口を開き掛けた清蘭を海華が視線だけで止めた。


 「先生、私から話します。あの……今日は、急にお呼び立てして申し訳ありません。実は、皆様に聞いて頂きたい事があります」


 海華にしては静かな、悪く言えば陰気な声色。

この頃あまり見られない様子の彼女へ、全員の視線が集中する。

一瞬室内を包み込む静寂。

耳が痛くなるような空気の中で、膝の上に揃えて置かれた海華の手が、きつく握り締められた。


 「私……妊娠、していませんでした」


 俯いたまま、じっと畳の一点を見詰める彼女の口から飛び出した言葉は、朱王ら五人の思考を停止させるのに十分足るものだった。


「妊娠していなかった、だと……?」


 驚きに目を剥き、こちらへ身を乗り出す桐野を上目遣いで見て、海華は小さく頷く。


 「はい。赤ちゃん、出来ていませんでした……。私の、勘違いでした。お騒がせして……」


 『申し訳ございません』そう告げながら深々と頭を下げる海華をただただ呆然と見詰める皆へ、清蘭が事の次第を語り始める。


 なぜ、海華が妊娠していると見立てたのか、一番の理由は月の物がなかった事だ。

彼女の話によれば、もう三月も遅れており、しかも、つわりの症状もかなり強かった。

体温の上昇や身体の怠さなどもあり、清蘭とお藤は妊娠したと見立てたのである。


 「私達の見立て違いでした。海華さんにも、皆様にも本当にご迷惑をお掛けしてしまいました」


 悲痛な面持ちで畳へ額をすり付ける清蘭とお藤。

最早返す言葉も見付からない朱王と志狼、修一郎と桐野は意気消沈したようにがっくり肩を落とす。

そんな中、雪乃だけは顔色一つ変えず静かにその場から立ち上がると、海華の正面へ屈み込んだ。


 「貴女が謝る必要なんて何もないのよ海華ちゃん。先生方も、どうぞ頭を上げてくださいませ」


 柔らかな微笑みを浮かべる雪乃の手が、そっと海華の肩へ置かれる。

その暖かみに顔を跳ね上げ彼女を見上げた海華の目に、みるみるうちに透明な涙があふれだした。


 「ごめん、なさい……! すみません、あたし……、勘違いばかりして、変な期待、持たせてしまって……っ!」


 ごめんなさい、そう震える声で繰り返し、ぼろぼろ涙をこぼす海華を雪乃はただ、やんわりとその胸に抱き締める。

幼子のように彼女の胸にすがりつき、しゃくり上げ激しい嗚咽を漏らす海華へなんと声を掛けてよいのか、その場にいる男達にはわからない。


 わぁわぁと空気を、そして鼓膜を揺るがす泣き声に追い立てられるように、志狼は青い顔のまま弾かれるようにその場から立ち上がり、震える指は力一杯障子戸を引き開ける。

その場の空気に耐えかねるように飛び出していく志狼。

彼の思わぬ行動に一瞬固まった修一郎だが、すぐに朱王に目で『行け』と合図を送る。

軽く頷き、すぐさま志狼の背中を追い掛ける朱王の背後から、一際大きな海華の泣き声が響いた。


 後ろ髪を引かれながらも、暗闇に包まれた廊下へ足を踏み出した朱王の目に、離れの方へと足早に去っていく志狼の姿が飛び込んでくる。

その後を追い、離れへ向かう朱王の心中には驚き、そして志狼に対する怒りが沸き上がっていた。


 妊娠は勘違いだった、そう聞かされて狼狽え悲しむのが悪いのではない。

なぜ、慰めの言葉一つ掛けず、場を離れてしまうのか?

気落ちしているだろう事は痛いほどわかる、しかし、一番傷付き嘆き悲しんでいるのは海華なのだ。


 氷のように冷えきった廊下を足音も荒く踏み締める朱王の柳眉は次第につり上がっていく。

半分だけ開いたままのふすまを手荒く開け放ち、闇の充満する室内へ足を踏み入れた朱王。

冷えた空気が鼻の粘膜を刺激し、つんとした痛みが鼻から頭を突き抜ける。

仁王立ちとなった朱王の足元で、志狼は放心状態のまま、力なく畳に座り込んでいた。


 「…… お前、海華に何か言うことはないのか?」


 押し殺した怒りをにじませ、朱王が問う。

それに答えることなく、志狼は膝の上に広げた白っぽい何かをしきりに指でまさぐった。


 「なぜ何も言わないんだ!? 海華あいつが悪いとでも言いたいのか? 海華だって楽しみにしていたんだ……なのに、お前は一人で逃げるのかッ!?」


 志狼にとって、海華は何なのだろう?

志狼に恥をかかせた、そう言われれば反論はできない、しかし辛き時にこそ助け合っての夫婦、こんな冷たい扱いをされるなら、もう海華をここには置いておけない。

黙りを決め込んだまま、顔も向けない志狼に痺れを切らしたのか、苛立たしげに髪を掻きむしる朱王が、くるりと踵を返す。


 「もういい、お前に何を言っても無駄だ。海華が悪いというのなら、三下り半でも何でも書けばいい。いつでも引き取りに……」


 「冗談じゃねぇや……」


 背を向けたままの志狼からぼそりとこぼれた呟き。

彼の手が千切らんばかりに握り締めた白い物、それは産まれてくるであろう赤ん坊のために用意された真新しい産着だった。


 「海華を返すなんてできるか。 あいつは俺の女房だ。俺は……子供が欲しいから、あいつと一緒になったんじゃねぇ」


 ゆっくりと朱王へ向かい振り返る彼の瞳は濡 れたような光を放つ。

乾いた唇を一度舐めて志狼は産着を畳へと置き、その場から立ち上がった。


 「俺は、逃げてなんかいねぇ。海華が悪いなんて、これっぽっちも思ってねぇ。少しだけ、時間をくれ。あいつと話しをする、時間をくれ」


 表情を強張らせ、自分を仰視してくる志狼を一瞥し、朱王は足音も荒く離れを後にする。

一人残された志狼の足元で、きれいに折り畳まれた産着が、障子戸から差し込む月光に照らされ寂しげな光を放った。



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