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第二話

 「朱王さん、いるのか?」


 恐る恐る室内に足を踏み入れた志狼、その足に、コツンと当たる何かがある。 目を凝らしてよくよく見れば、それは粗削りされた人形の足だ。

部屋一杯に散らばる人形の顔形を書き留めた紙、一歩踏み出すごとに足の裏へチクチク刺さる木の削りかす。

はぁ、と気の抜けた溜め息を吐きながら、志狼は、風呂敷包みを傍らに置き、部屋の隅にある行灯へ手早く火を付ける。


 ぽっ、と柔らかな光が闇を彼方へ追いやった瞬間、作業机の前に身を屈めていた朱王が、驚愕の表情を浮かべて背後を振り返った。


 「なんだ、志狼さんか。いつ来たんだ?」


 驚きに眉をつり上げる朱王の顔を見て、呆れ顔だった志狼がギョッと目を見開き息を飲む。

行灯の光に浮かぶ朱王の顔には長い黒髪が絡み付き、目の下にはくっきりと隈が張り付いているのだ。


 「いや……たった今、来たんだ。気が付かなかったのか?」


 『集中していたからな』

そう苦笑いしながら顔に絡む黒髪を掻き上げる間も、朱王の手は彫刻刀を握ったままだ。


 「仕事、忙しいのか?」


 「あぁ。文楽人形のかしらの修理が二件と、生き人形が一件な。海華がいないから、もうてんてこ舞いだ。昨日も徹夜さ」


 ふぅ、と小さな溜め息を一つ、再び机へと向かう朱王。

海華が嫁ぐ前は彼女が色付けなどの比較的簡単な作業を手伝っていたのだが、今はそうもいかない。

全ての作業を同時進行で、しかも手を抜く事なくこなすのは、朱王でも骨が折れるのだろう。


 灯りを付けるのも忘れるほど仕事に没頭している彼にあの話をしてもよいのか?

一瞬志狼は迷ったが、このまま先延ばしにする訳にもいかなかった。


 「あの……忙しいところを悪いんだが、少し話したい事があるんだ。いいか?」


 「あぁ。いいぞ」


 この時ばかりは手を休め、こちらへ身体を向ける朱王の顔には暗い影が差している。


 「急な話なんだが……海華な、できたらしいんだ」


 「できたって? なにが?」


 ぐぅっ、と両腕を高く掲げて背中を伸ばし、朱王は低い声を出す。

恥ずかしいのか、それとも言いにくいのか、暫し言葉を濁し黙ってしまった志狼は、意を決したように唇を開いた。


 「その……子供、だ」


 「あぁ、子供か。海華に子供が……ん?」


 作業に片肘をつき、小さな欠伸を一つ放った朱王は、怪訝な面持ちで志狼を見る。


 「―― 志狼さん、今、なんて言った?」


 「いや、だから海華に子供ができたんだ。腹に赤ん坊が……」


 その刹那、跳ね上がらんばかりの勢いでその場から立ち上がった朱王の手が、作業机の上にある顔料の乗った皿にぶち当たり、それは畳へ叩き落ちる。

ガチャン! と鋭い音を立てて皿は真っ二つに割れた。


 張り裂けんばかりに見開かれる朱王の目。

木屑と顔料で汚れた手は力一杯握り締められている。

形のよい唇が戦慄き、ヒュッと空気を吸い込む高い音が鼓膜に届いた刹那、志狼は無意識に肩を竦めていた。


 「みは……海華の腹に、赤ん坊っ!? 誰の子供なんだッッ!」


 「俺の子に決まってんじゃねぇかッ! 海華は俺の女房だ!」


 悲鳴じみた絶叫が狭い部屋の中で共鳴する。

髪の生え際まで真っ赤にさせつつも、朱王は『あっ……』と呟いたままバツが悪そうに顔をしかめてその場へ胡座をかく。


 割れた顔料皿から畳へ広がる白い川。

ドロリと粘るそれを手近な雑紙で乱暴に拭き取って、朱王は胸の前で深く腕組みした。


 「―― ずいぶんと早かったな。俺は……まだ先の事かと」


 「俺も、昨日聞いたばかりだからまだ現実味がわかねぇんだ。腹がでかくなるまで断定はできねぇが、たぶんそうだろうって、清蘭先生が……」


 「そうか。なら、もう無理はできないな。 ―― あの鉄砲玉も、母親か」


 しんみりと寂しそうに、そしてどこか感慨深げに呟きながら、朱王は天を仰ぐ。

しん、と静寂が包み込む室内。

行灯の炎が音もなく揺れる。


 「あいつに、あまりちょこまかするなと言っておけ。転びでもしたら目も当てられないぞ」


 「お、う。なぁ朱王さん、他によ、その……海華になんかねぇのか? 」


 あまりにも冷たい、興味も関心もなさそうな台詞に思わず志狼は言葉を詰まらせる。

そんな彼にわずかに眉根を寄せながら、朱王はおもむろに机へ向かい志狼に背中を向けてしまった。


 「まだ孕んだと断定はできないんだ、おめでとうは早いだろう? ―― あぁ、腹が出てきたら、あいつも臥せる事が多くなるな。志狼さんや桐野様には迷惑を掛けるが、よろしく頼む」


 「迷惑って……。わかった、もういい。これ、今日の晩飯だ、置いていくから適当に食ってくれ」


 「いつもすまないな。桐野様に、くれぐれもよろしくお伝えしてくれ」


 朱王の言葉に返事を返すこともなく、その場から立ち上がった志狼は、さっさと土間へ降り下駄を突っ掛ける。

ばん! と派手な音を立ていささか乱暴に閉まる戸口へチラリと視線を投げる朱王の口から、深い深い溜め息が漏れた。







 「―― なにが『おめでとうはまだ早いだ』ふざけんじゃねぇや……」


 口の中で低く文句を呟きながら、志狼は洗い髪を引き千切らんばかりの勢いでグシャグシャに掻き混ぜる。

広いとは言い難い離れの一室、丸窓の近くに置かれた丸火鉢の傍らに胡座をかき、不機嫌そのもののに顔を歪ませる彼を見て、寝巻き姿で布団の上に座っていた海華は戸惑いを隠せない様子だ。


 夕方、兄の所から帰ってよりずっとこの調子であり、夕餉の時も難しい表情を崩さない。

もしかして、兄と何かあったのだろうか?

不機嫌の訳を早く聞いてみたかったのだが、いかんせん桐野がいる場でそんな事を聞けはしない。

湯屋から帰り、後は寝るばかりといった今が最適の状況だった。


 「あの……志狼さん、兄様と何かあった?」


 「あった。海華、お前にを前にこんな事言いたくはねぇんだが、俺、朱王さんがあれほど冷たいひとだとは思わなかったぜ」


 胸の奥でフツフツ煮える怒りに駈られてか、左腕を吊る三角巾を勢いよく引き剥がす志狼がそう吐き捨てる。


 何が何だか訳もわからないまま海華はその場から立ち上がり、志狼の前へと腰を下ろした。


 「あらやだ、兄様そんな事を言ったの?」


 志狼の左腕を揉みながら、海華は円らな目をぱちぱち瞬かせる。

表情を曇らせたまま、無言で頷く志狼の視線は自然と海華の腹部辺りをさ迷った。


 出逢った頃と変わらぬ、真っ平らなそこは、確かに妊娠しているようには見えない。

だが、清蘭の見立てが正しければ、そこには自分と海華の血を分けた新しい命が宿っているのだ。

朱王にとっては、甥か姪に当たる赤ん坊、いくら妊娠が確定していないからと言って、その可能性がある妹を労る言葉くらいは、そして祝いの言葉くらいはかけてくれてもいいのではないか?


 「朱王さん、もしかして子供が嫌いなのか?」


 「特別大嫌いって訳ではないけれど……大好きでもないわね」


 困ったように笑いながら海華が返した答えに、やり切れない気持ちを抱え、しかめっ面を崩さない志狼に小さな溜め息をつく。

そしてその左手をギュッと握れば、彼はきつく歯を食い縛った。


 「ごめんなさい、痛かった?」


 「いや、少し痺れただけだ。前は痛いのもわからなかったからな、少しはマシになったんだろう」


 痛みも感覚も失ってしまった左腕、海華が毎日行う按摩のお陰か、この頃は重たい痛みを感じられるようになったのだ。


 「子供が産まれるまでには……動けばいいな」


 唐突にこぼれた本心。

できることなら、この両手で子供をしっかり抱き締めたい。

自らの腕を擦りつつ、項垂れてしまう彼の肩に凭れ掛かり、海華は静かに目を閉じる。


 「そう焦らないで。無理して上手くいくことなんて、そうそうないわ。それに片腕でだって、子供は抱けるじゃない」


 「そりゃそうだがよ、二人目が産まれたらどうする? 腕一本で二人は……」


 「いやだ、まだ一人目も産まれてないのよ? 志狼さん考えすぎだわ」


 コロコロとさも可笑しそうに笑う海華。

わずかに頬を膨らませ、心外だと言わんばかりの面持ちでそっぽを向いてしまった志狼から一旦身を離し、火鉢の炭を調節に立つ海華は、未だに笑いを堪え切れない様子だ。


 「そう笑うなよ。―― おい、ちょっとこっちこい」


 「え? なぁに?」


 「いいから、こっち! 早くこっち座れ!」


 火箸を持った彼女を急かすように手招きし、自分の隣へと座らせると、志狼はおっかなびっくりといった感じで彼女の腹部へ手を伸ばす。


 「なあ、赤ん坊ってどの辺りにいるんだ?」


 「うーん……あたしもよくわからないんだけど、たぶん、お臍の辺りかしら?」


 小首を傾げつつ答える海華に従うように、志狼の手がその場所に当てられる。

じわりと染み込む手の温もりに、海華は唇を綻ばせた。


 「…… なんにも感じねぇな?」


 「当たり前よ、まだまだ小さいんだから。だんだん大きくなったら、お腹蹴るようになるわよ」


 その頃には、お腹も今とは比べ物荷ならないくらい大きくなっているのだろう。

身を屈めて腹を撫でていた志狼の顔付きも、先程とは違い穏やかなものに変わっていた。


 「大きくなって、早く出てこいよ? 俺も、海華も旦那様も……みんなが、お前の事待ってるんだぞ?」


 元気で産まれてきてくれたら、それだけでいい。

言葉には出さずとも、二人の思いは同じだろう。

この世に誕生する前から皆に愛され、望まれる子供を宿す自分は本当に幸せなのだと海華は改めて感じていた。


 「あ……そう言えば、明日の晩に修一郎様がいらっしゃるんですってね?」


 「あ、そうだったな。確か雪乃様もご一緒だ。お前の事、旦那様が話されたらしい。酒の用意をしないと……」


 ふと思い出したかのように海華の口から飛び出た台詞に、志狼はようやく身を起こし頷く。

きっと明日は賑やかになるだろう。

明日、修一郎がどんな顔でここを訪れるか、大体予想がつく二人は顔を見合わせ微笑みあう。


 この夜、離れの明かりはいつもより早く消え、後は静寂ばかりが広い屋敷を包み込んでいった。







 『海華、よくやった!』満面の笑みで玄関へと入った修一郎が、海華の顔をみた瞬間発した台詞がこれだ。

夕日が沈むのを待っていたかのように桐野邸を訪れた修一郎と雪乃の夫婦は、この度の知らせをまるで我が事のように喜んでくれた。

二人にはまだ子供がいない、だからこそ身内 の懐妊は人一倍喜ばしい事なのだろう。 桐野や、今夜ばかりは志狼とも杯を交わしつつ、普段は鬼とも恐れられる厳つい顔を喜色満面に綻ばせる修一郎ぬ口から飛び出すのは、子供は男か女か、そして名前はどうするのか、そんな話題ばかりだ。


 その傍らで酒の飲めぬ海華と雪乃は、茶菓を前にお喋りに花を咲かせる。

話題は勿論、海華の体調と、これから迎えるお産についてだ。


 「身体は……特にお腹と腰は冷しては駄目ですよ。つわりはどう? これからは二人分食べなくてはならないから、大変になるわね?」


 「はい、まだ時々気持ちが悪くなる事があるんですけれど……でも、前よりは楽になりました。志狼さんが、食べ易いものを色々考えてくれるんです」


 照れ臭そうに、しかし嬉しそうに顔を綻ばせる海華の身体は、分厚い綿がたっぷり詰められた柿色の半纏に包まれている。

彼女のためにと雪乃が自ら仕立て、今夜持参してくれた物だ。


 そんな海華を目の前に、湯気の立つ湯飲みに口を付けて雪乃はにっこりと微笑む。


 「まぁ、志狼さんが。いい旦那様を持ったわねぇ。うちの人に爪の垢を煎じて飲ませてあげたいわ」


 コロコロと軽やかな笑い声を上げる雪乃につられて、海華も白い歯を覗かせる。

目尻にうっすら浮かぶ涙を細い指先で拭いつ、ふと雪乃は何かを思い出したかのように視線を夫、つまり修一郎へ向けた。


 「ところで海華ちゃん、朱王さんは、今お忙しいのかしら?」


 兄の名前を耳にした途端、湯飲みを口に運ぼうとした海華の手がピタリと止まる。


 「兄様、ですか?」


 「ええ。本当なら、今日ご一緒しようかと思ってお使いを出したのだけれど……一日お留守だったわ」


 ひどく残念がる雪乃の言葉が聞こえたのだろうか、桐野に酌をしていた志狼がこちらを窺うようにチラリと視線を投げてくる。

茶の交換をしてくると言い訳をし、海華は咄嗟にその場から腰を上げた。


 「待て、海華。俺も行く」


 そう一言放った志狼は、修一郎と桐野に会釈するやいなや素早く立ち上がると、海華の手から湯飲みを乗せた盆を取った。


 「志狼、お前なかなか気が利くではないか。 身重の妻を案じるその心遣い、立派なものだ」


 茶化しているのか本心なのかはわからぬが、すっかり酒精が廻りよい心持ちとなっている修一郎が、ニヤリと白い歯を見せる。


 「恐れ入ります。身体に障ると困りますので、箸より重たい物は持たせないようにしております」


 真面目な顔で切り返す志狼、この時ばかりは桐野も笑いを堪え切れなかったように。

小さく吹き出し口許を手のひらで押さえる。

一人真っ赤に顔を染め、室内から逃げるように台所へ向かった海華。

その後を、片手で盆を持った志狼が苦笑いで追い掛けた。


 「嫌だわ、志狼さんってば。修一郎様や旦那様の前で、あんなこと言わなくても……」


 「いいじゃねぇか、別に大嘘は言ってねぇんだしよ。―― それより海華、朱王さんの事 が……。やっぱり、気に掛かるか?」


 盆を竈の脇へ起き、案じるような声色で尋ねてくる志狼へ、海華は戸惑いつつも首を縦に振る。


 「気にならない……って言ったら嘘になるわ。一度、兄様としっかり話しもしたいけど……志狼さん、明日行ってみてもいい? 志狼さんが駄目だって言うなら、あたし行かない」


 ギュッと両手を握り締め。

真っ直ぐに志狼を見詰めて海華が言い切る。

主人である彼の意見を無視して動くなど許されない。

しかし、彼は微かな笑みを浮かべて首を振った。


 「駄目だなんて言うわけないだろ? 明日、行ってこい。その方が朱王さんも話ししやすいだろうからな。……勿論、長屋の前までは送っていく。話が終わるまで、俺は外で待ってる」


 道の途中で何かあったら大変だ、そんな心配から出た台詞に、海華は『過保護過ぎる』と言ってクスクス笑う。

それからしばらくして、夜更かしは海華の身体に障るから、と早々に修一郎と雪乃は帰宅し、後片付けもそこそこに志狼と海華も布団へ潜り込んだのだった……。


 翌日、家事を全て片付けた志狼は、海華を連れて中西長屋へと向かう。

今にも白い物が舞い降りそうな曇り空、数多の人が行き交う道を容赦なく吹き抜ける風も身を切るように冷たく、あっという間に海華の頬は赤く染まる。


 冬物の着物を纏い、その上から半纏を引っ掛ける彼女の風上に立って寒風への盾となり歩く志狼の心には、昨夜から一抹の不安が住み着いていた。


 もし、海華に自分の時と同じ冷たい態度を朱王がとったなら……。

きっと彼女はひどく落ち込むのだろう。

昨夜、屋敷を訪ねてきた雪乃から言われた、妊娠中は気持ちが不安定になる、些細なことでも落ち込んでしまう、と。

だから、自分がしっかり海華を支えていかなければならない。


 朱王がどんな考えなのかはわからないが、先日の様子からするに、どうやら手放しで喜んでいる訳ではないようだ。

とにもかくにも、自分がしっかりしなくては、そう心中で自らに言い聞かせる。

と、海華は急に足を止め、隣にいる彼を不思議そうな面持ちで見上げた。


 「志狼さんどうしたの? そんなに怖い顔しちゃって……」


 「え……? い、や。何でもねぇ」


 海華の視線に内心狼狽え、パチパチと頬を両手で叩いた志狼は、無理矢理引き攣った笑みを作り出す。 『そう?』と一言こぼし、海華は再び歩を進め始めた。

要らぬ心配を掛けたくないとは思うのだが、どうしても顔に出てしまうようだ。

草木染めの 襟巻きを鼻の下まで引き上げ、首を竦めて中西長屋へ着いた志狼は、恐る恐るといった様子で 部屋の戸口を叩く。

しかし、中から返事はない。


 「―― 留守か?」


 「兄様! 兄様いないの? おかしいわねぇ、仕事が忙しい時には、外になんか出ないのに……」


 トントン戸口を叩き兄を呼ぶ海華も怪訝そうな面持ちで小首を傾げる。

もう一度出直すか、そう二人で話をしていた、まさにその時だった。


 「あれぇ、海華ちゃん。来てたのかい?」


 「あ、お多喜さん。こんにちは」


 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、後ろを振り返れば、そこには芋が山と積まれた笊を小脇に抱えた恰幅のよい中年女が満面の笑みを浮かべ、二人を見ている。

彼女は、この長屋の住人であり、名をお多喜という。

朱王の斜向かいの部屋に住まう彼女は、亭主に子供が六人の大所帯だ。


 「夫婦揃って仲のいいことぉ。もしかして朱王さんに会いに来たのかい? 残念だねぇ、今は留守だよ」


 「やっぱり……。どこにいったのか、わかりますか?」


 「知らない……事もないけどねぇ。海華ちゃん、いつまでもこんな寒い所に突っ立ってちゃ身体に毒だよ。部屋に入って待っといで。朱王さんの事は、旦那に話しておくからさ」


 どこか含みを持たせた言い方をするお多喜に海華は大きな目を何度か瞬かせ、またもや小首を捻りながら部屋へと引っ込んでいく。

この場に残された志狼を、お多喜は手招きしながら長屋の奥、井戸端へといざなった。


 「面倒掛けてごめんよ。朱王さんだけどね、ここから少し行ったとこにある神社に行ってるんだよ。安産祈願の御守り買いにさ」


 声を潜める彼女の言葉に、『えっ!』と声を裏返し小さく叫んだ志狼は、信じられないとばかりに目を剥き、身を乗り出す。

あの神も仏も信じない朱王が、仕事が詰まっている上に、この寒い中、わざわざ御守りを買いに出掛けるなど信じられなかったのだ。

志狼の大袈裟なばかりの驚きように、さすがのお多喜も苦笑いをこぼす。


 「あたしもねぇ、朱王さんに真顔で安産の御守りはどこにある?って聞かれた時は驚いたよ。内緒にしてくれって言われたけど……あんた達にゃあ話してもいいかな、と思ってさ。 朱王さん、ああ見えて海華ちゃんの事、凄く心配してるんだよ」


 にこっ、と欠けた前歯を覗かせ満面の笑顔を作り出すお多喜。

その途端、志狼の周囲から一瞬で音が消え去る。

疾風のごとく吹き抜ける冷たい風が、彼の襟巻きを強くたなびかせていった……。



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