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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第一章 桜花の待ち人
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第一話

 春霞の薄い衣が、江戸市中を微睡みの中に包み込む。


  眠たげな光を放つ三日月が暗雲の布団に身を沈め、瞬く星を覆い隠すこの日の夜、貧乏人達が身を寄せあって日々を過ごすボロ長屋中西長屋の一室に、ぽつりと小さな灯りが灯った。


  そこは、江戸はおろか上方までその名を知られる稀代の天才人形師、朱王の住まう部屋。

妹である海華が、この春、与力組頭である桐野きりの 数馬かずまの使用人、志狼のもとへ嫁ぎ、今は寂しいが、気ままな独り暮らしだ。


  ……とは言うものの、朱王の身を案じる海華がほとんど毎日のように部屋を訪れては、食事や掃除など身の回りの世話をしてくれるのだ。寂しいは寂しいが、それほど不自由しない生活に慣れ始めた朱王は、今まで控えていた仕事を本格的に再開する事にした。


 その仕事の第一号が、今、朱王の作業机の上に置かれた人形の修繕作業である。


  とある大工の親方が持ち込んだそれは、あちこちが傷み、人毛を植え込んだ髪もあちこち抜け、ざんばらになった、幼い女児を型どった古い人形だ。


 質流れの品だったその人形に、親方は言わば一目惚れ、有り金叩いて即、買い求めたと聞いた時には、さすがの朱王も、なぜこんな古びた人形に惹かれたのかと内心首を傾げた。


  顔は黒く煤け、首筋には深い亀裂が入り、身に纏う茜色の着物は裾が破れて、あちこち変色している。

右手の親指などは先が欠けており修繕にはかなりの時間を要するだろう。


 しかし、金と時間を掛ける価値のある人形なのか、それは客が決める事。

直してくれと言われ、断る理由は何もない。


  人形を預かり、さて作業に取り掛かろうと朱王は彫刻刀に手を伸ばした。

しかし、人形に伸びた朱王の手がその直前で、ぴたりと止まる。


「まさか、な……。だが一応やっておくか……」


  人形を見詰めつつ、ぶつぶつ独りごちながら、朱王は一度机の前から立ち上がるとそのまま土間へ降り、何かを探し始める。


 やがて、戻ってきた朱王の手にあったのは、塩が乗った小皿と湯飲みだった。

塩の入った皿を人形の前に置きその隣に置いた湯飲みに、机の下から引っ張り出した酒瓶から、酒を注ぐ。


 「頼むから、妙な真似はしないでくれよ?」


  そう人形に語り掛け、その場を離れる朱王は、枕屏風の裏から布団を一組引っ張り出した。

清めの儀式のつもりなのだろう。

以前、この手の修理で手痛い目にあっている朱王は、何も無い事を祈りながらも、ちらりと人形を一瞥する。


  今夜一晩は清めの日、修繕は明日からだ。

そう決めたのか、朱王はさっさと布団を敷き、そこへ横たわった。

行灯の火を拭き消した瞬間、くすんだ煙が闇に揺蕩う。








 自己流の『お浄め』を終えた翌日、朝日が昇ると同時に目を覚ますと、いの一番に作業机へ向かい、昨夜置いたままにしていた人形を確かめる。

寝惚け眼を無理矢理開きつつ、机上へ目を遣った朱王は何ら変わりのない人形を見て、ほっと胸を撫で下ろす。


 当たり前と言われれば当たり前なのだが、まずは一安心だ。また何者かが取り浸いた、人形が動いたなどとなれば、目も当てられない。

妙な噂が立つのだけは、もう懲り懲りである。


 やれやれ、と肩の力を抜かしながら、小皿の上で干からびかけた塩と湯飲みの酒を土間に下げて、顔でも洗おうと手拭い片手に表へ向かう。


 戸口を開いた瞬間、清涼な朝の空気が全身を包み込む。神々しいばかりに輝く朝日に目を細め、大きく背を伸ばす朱王の頭上を、早起き雀の群れが忙しない囀ずりを響かせ、飛び抜けて行った。






  人形の煤けた顔を丁重に濡れ布巾で拭えば、その下からは可愛らしい薄紅色の頬が覗く。

 

 ばさつき、傷み放題の髪を取り去り、欠けた右手とボロボロの着物を新品に取り替えて、汚れの酷い場所は古い胡粉を除き、新しい物を塗り直す……。


  一日、二日では到底終わらない人形の修繕、朱王は日がな一日作業机の前に座ったまま作業に没頭していた。

朝も昼も海華が作り置きしてくれたおかずで簡単に済ませ、かわや以外は殆ど表を出歩かない。


 一度仕事を受けてしまえば、畳に根が生えたかの如く動かない朱王を、海華はよく『お地蔵様』と呼んでいた。


  気が付けば、戸口から射し込む光は白から橙に変わり、畳に映る影も長く長く伸びている。

光陰矢の如し、のことわざ通り、一日はあっという間に世界を駆け抜けてしまったようだ。


 薄暗くなってきたのも構わず、朱王の意識は絵筆の先に集中する。

その視界の端で、微かに蠢く人影がある。

がらり、重たい音を立て開かれる戸口の外に何やら風呂敷包みを持ち佇む黒い影が浮かんだ。


「邪魔するぜ」


「どうぞ……あぁ、なんだ志狼さんか」


よく知った声にやっと顔を上げる朱王の視線の先には、義弟である志狼の姿があった。


「仕事中に悪りぃな。これ、晩にでも食ってくれ」


 長い影を引き連れて室内に上がる志狼は、口角をわずかに引き上げつつ、四角い風呂敷包みを朱王へ差し出す。

形からして、それは重箱のようだった。


「いつもすまないな。── ところで、今日海華はこないのか?あいつ、亭主を使いっ走りに使うなんて……」


 『いや、違うんだ』そう言いつつ、志狼は慌てて首を横に降りたくる。

その様子に、朱王は怪訝な面持ちで首を傾げた。


「なら、あいつどこか身体の具合でも?」


「それも違う。俺が……日が落ちる頃に出歩くな、って言ったんだよ」


 『ちょっと妙な噂を聞いたからさ』眉根を寄せ、志狼は彼に似合わない小声で話しだす。

朱王の身体は無意識だろうが、徐々に志狼の方へ傾いていった。


 朱王へ耳打ちするように、志狼が紡いだ台詞は……


 『千桜堂せんおうどうの前に幽霊が出る』そんな、突拍子もない物、『千桜堂の幽霊』それはどこにでもありそうな噂話だった。


 この長屋から少しばかり行った道の傍らに、かなり年期が入っていると思われる、一本の桜の大木があり、その下に子供が一人入るか入らないかほどの小さな地蔵堂がある。


 桜の下に、誰がいつ、お堂を建てたのかは誰も知らない。

その前に、お堂があることすら知らない者も多いだろう。ぼこぼこと地面からはみ出た太い根っこに、人の頭ほどの瘤を幹のあちこちにくっ付ける、苔むした桜の巨木。

その根っこに隠れるように、普段は人目につかない目立たない場所に、お堂は建てられている。


 件の幽霊は、そのお堂の前に出るらしい。


「小さな女の子の幽霊が出るってんだ」


「女の子、ね……いつ頃から、そんな噂が出たんだ?」


  志狼の話ををはなっから疑うような声色で、朱王が顔にかかる前髪を掻き上げる。

その隣に胡座をかいた志狼は、はて、と考え込む仕草を見せた。


「いつ頃か、ってのはわからねぇな。だが、夜になるとお堂の前に五つか六つくらいの子供が一人立っている。こんな時分にどうしたのかと思って声を掛けると、すっと消えちまうらしい」


「へぇ、勝手に出てきて勝手に消えるだけか。なんの害もないなら、そのまま放っておけばいいんだ」


  最初は誰かの見間違いか、面白半分の作り話しから始まったのだろう。

大騒ぎするから尾びれ背びれが付いて話しが独り歩きするのだ。


 つまりは、人の噂が幽霊を生み出す。

ある特殊な一件を除き、幽霊だの化け物だの神仏だのを朱王は信じない、まるっきり信じようとしないその態度に、その頑固さに志狼は思わず苦笑を漏らす。


「やっぱりなぁ。いや、朱王さんなら、きっとそう言うと思ったんだ。俺もさ、眉唾物の話しだと思ったんだが、海華は以外とそんな話しを信じるだろ?」


「── 確かにな、怖いもの見たさで首を突っ込む、それで大騒ぎだ」


 そう呆れ果てたような深い溜め息をつき、朱王は重箱を引き寄せる。

海華の性格ならイヤになるくらい知っているが、ある事がどうしても頭に引っ掛かった。


「だが、あの海華が、よく言うことを聞いたな? 絶対行くとゴネたかと思ったが」


「いや、以外にあっさりだったな。『何かあったら大変よね』ってさ。だから、今日は俺が来たんだ」


 あっさりと言い放つ志狼に、朱王の口元がヒクリと引き攣った。


「── 俺や修一郎様の言い付けは、聞きもしないくせに……」


「ん? なんか言ったか?」


「いいや、なにも」


 急にふい、と横を向いてしまう朱王を前に、不思議そうな面持ちで朱王は首を傾げる。


 なんとも言えぬ複雑な気分に塗り替えられていく心を持て余し、朱王は長めの前髪を苛立たしげに掻き上げた。









 急に口数が少なくなってしまった朱王へ重箱を渡し、志狼は長屋を後にする。


 帰り際『明日の朝は海華がくる』そう伝えるなり、その表情がいくらか和らいだのを見て、彼にも朱王が不機嫌だった理由がようやくわかった。


「なんだかんだ言っても、海華に会いてぇんだなぁ……」


 ぽつりと放たれた台詞がすっかり日の暮れた藍色の空に溶けて消える。

ぼんやりと光る朧の三日月。

まだ提灯までは必要ないが、それでも足元は暗く、左手が不自由な志狼としては転倒する可能性もあるのだ。


 転がる小石も慎重に避けて一人夜道を八丁堀へ向かう志狼の足は、ある場所に来てぴたりと止まった。

そこは、先ほど朱王との話しで出てきた千桜堂の見える場所だ。


 神代かみよの昔からここに根を下ろしているのだろう隆々たる幹。

威厳さえ感じさせる見事な枝、そして、暗い夜空を埋め尽くすが如くみっしりと咲いた薄紅色の花弁……。


 春風に重く枝をしならせるその大木は、言葉では言い表せないほど静かな美しさで満ち、そして得体の知れぬ恐ろしさを醸し出す。


 辺りには猫の子一匹おらず、ただ小さな花弁どうしが擦れ合う音だけが、蜉蝣の羽音のように空気へ広がった。


 あんな話を知ってしまったら、誰しもここを通りたくはないだろう。

さりとてここを避ければ街まで遠回り、 遅くなれば、きっと海華はもちろん桐野だって志狼の事を心配するはずだ。


 彼を囲む闇は深さを増し、反比例して桜花は目映いくらいに白く輝く。

幾度か辺りを見渡した後、志狼の唇から覚悟を決めたような深い吐息が漏れた。


「仕方無ぇか……ま、取って喰われる訳じゃねぇしな」


 誰もいない、己に言い聞かせるよう呟き、志狼は静かに歩みを進める。

一歩、また一歩と足を踏み出し、はらはらと花弁の雨を降らせる桜の下を行く、その時だった。


 白い雨の間から、ちらりと覗く灰色の影。

無意識にその方向へ顔を跳ね上げた志狼の視界に映るモノ、それは、彼が今一番見たくないだろう代物だった。


 地面をのたうつ太い根に守られるよう、ぽつんと建てられた小さなお堂。


 厚い木の板で造られた屋根は緑に苔むし、格子扉はあちこち穴が開いている。

今にも朽ち果てそうな、古くみすぼらしいお堂の後ろから顔の右側半分だけを覗かせ、一人の少女が真っ直ぐな視線を立ち尽くす志狼へ向けていた。


 一瞬、その場から音が消える。

爆発的な鼓動を刻む心臓の音すら感じぬままに、志狼は少女と見詰め合う。


   いや、正確に言うなら、目を反らせなかった、だろう。

指先一つ動かない、足は地面に縫い付けられているようだ。


 目に見えぬ鋼の糸で、がんじがらめにされた志狼の背中や額からは、玉の汗が噴き出して日に焼けた肌を濡らす。


 じぃっとこちらを見詰める顔半分だけの少女……。

その黒目勝ちの瞳が一度瞬きを放った刹那、志狼の視界がグニャリと歪んだ。


 はらはら舞う花弁の間に揺れるのは、血の気の失せた小さなかんばせ

静寂の世界で向かい合う二人、志狼のやや尖った顎の先から、一滴の汗が滴り落ちる。


 すぐにでもここから立ち去りたい、しかし足が動かない。

混乱する頭、動揺する気持ちを必死で鎮めて志狼は口内でへばりつく舌を動かした。


「おま、えは……誰だ?」


 少女は何も答えない。


「── そこで、何をやってる?」


   青白い唇は、固く閉ざされたまま。


   「なんとか言わねぇかッッ!」


 腹の底から轟いた怒号に、凍り付いた空気が無音のままにひび割れる。

半分だけ覗く土気色の小さな顔、うっすらと隈の浮いた目元、艶のない結い上げ髪から伸びるほつれ毛が夜風に揺れる。


   『違う……』


 生気のない、地の底から沸き上がるような呟きが耳元を掠めた瞬間、志狼の全身を鳥肌が埋め尽くす。


 ぶるりと身を震わせたと同時ひゅうっ、と鞭の音を響かせ、地に落ちた花弁を巻き上げる一陣の風が夜道を駆け抜ける。

薄い花弁で白く染まる視界、あっと思った時には、既に少女は志狼の前から姿を消していた。


 風に煽られ、その場に勢いよく尻餅をついた志狼の顔が痛みと衝撃に歪む。

紙吹雪の如く舞い散る花弁を全身で受け、志狼は唇を噛み締めながら、よろよろとその場から立ち上がった。


 見えない何かから解放された四肢、少女の姿を探すため、もうお堂へ目をやる余裕など残されてはいなかった。


 志狼の足が大地を蹴る。

土で煤けた花弁と土煙を巻き上げ転がるように、脱兎の如くその場から走り去る志狼の目は張り裂けんばかりに見開かれ、眼前に広がる薄い闇を凝視していた。


 走って、走って、走って……息が切れるのも構わず、足が千切れるかと思うほどの全力疾走で、志狼は八丁堀まで逃げ帰った。


 足を縺れさせつつ門を叩き開け玄関を跳ね開けて、三和土たたきへ飛び込んだ志狼の身体が勢い余ってその場へ転がった。


「志狼さん? ちょっと志狼さんどうしたの!」


 玄関から響いた派手派手しい物音に気が付いたのだろう、台所の方向から紺の前掛けに襷掛け姿の海華が、血相を変えて駆け込んでくる。


 埃まみれ、土まみれで三和土に倒れ伏し、身体全体を使って荒い息を吐く志狼を目にした途端、海華は悲鳴じみた声を張り上げた。


 まだ桐野は帰ってきていないのだろう。

二人しかいない広い屋敷に、志狼の名を必死で呼ぶ海華の叫びが木霊した。


 しかし志狼は三和土たたきに倒れ込んだまま動けない。

慌てて土間に下りてきた海華に助け起こされたと同時、志狼は怯えの色に染まった瞳で海華を見詰め、戦慄く右手で彼女の腕をきつく握り締めた。


「どうしたの……? ねぇ、何があったのよ?」


「で、た……。千桜堂……でたんだ、見たんだ……幽霊をっ!」


 掠れた悲鳴が玄関に響く。

助けを求めるように、何かに怯える幼子よろしく海華へ強く抱き付いて、志狼はひたすらに『幽霊がいた』と訴え続けていた。

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