第一話
藍色に染まる夜空に、真円の満月が浮かぶ。
春も半ば、夜風も肌に優しく変わる季節となった。
辻行灯の光が宵闇をボンヤリ照らす。
冴えた月明かりと正反対な、その柔らかな光を見上げ、朱王はホゥと小さな溜息をついた。
「どうした朱王さん、溜息なんかついちまってよぉ」
ヘラヘラと、やたら陽気な志狼に左の肩を強く叩かれ、朱王の体が僅かに傾ぐ。
「いい月だ、と思ってな。それより志狼さん、飲み過ぎたんじゃないか?」
千鳥足で隣を歩く志狼に声を掛ければ、彼は笑いながら首横へと振ってみせる。
「あれっくらいで酔っ払いなんかしねぇよ。でも、確かにいい夜だなぁ。旦那様と海華に感謝だ」
相貌を緩めて言った志狼に、朱王も同意するよう頷く。
この日、湯屋から帰った朱王達に『たまには二人で楽しんできたらどうだ』と勧めてくれたのは桐野であり、お屋敷のことは任せてと快く送り出してくれたのは海華なのだ。
『早く帰ってあいつの顔が見てぇ』盛大にニヤけながら言う志狼に苦笑いしつつ、朱王は道の先へと視線を投げる。
と、闇の向こうにポツリと浮かぶ一つの明かりに彼の目は吸い寄せられる。
自然と、朱王の足はその場で止まった。
「あ? 朱王さん、どうした?」
「ぁ、あぁ。あれは何かと思ってな」
朱王の指差す方向を、目を細めて眺めた志狼は『蕎麦屋の屋台じゃねぇか?』と答える。
確かに、提灯を下げた屋台のようにも見えるが、蕎麦屋にしては小さいような気がした。
「気になるなら行ってみるか」
志狼の一言で、引き寄せられるよう明りの方向へ向かう。
やはり、それは屋台だったが蕎麦屋ではなく、小間物を扱う屋台だった。
屋台の横には白髪の老婆が一人、ちょこんと座り、『いらっしゃい』と消え入りそうな声で二人を迎えた。
朱王が初めて見る小間物の屋台、そこには色褪せた布で作られた巾着やら、小さな鏡、粗末な木製の簪や帯留めなどが、所狭しと並べられている。
決して高価ではないが、女子供が好きそうな物だ。
きっと、酔客相手に手土産を売っているのだろう。
人気の無い今時分でも商売になるのか、そう思いながら懐紙入れを手に取る朱王の横では、志狼がまじまじと簪を眺めている。
「簪なんざ海華は使えないぞ?」
「分かってらぁ。……あいつも、髪の一つくれぇ結えばいいのなぁ……。お? なぁ婆ぁさん、この箱はなんでぇ?」
簪を品定めしていた志狼は、屋台の奥にある巾着の陰に隠すよう置かれていた四角い箱を指差す。
それは埃で薄汚れた一尺あるか無いかの古びた木箱だ。
志狼の問いに、首からぶら下げた手拭いで首元を拭った老婆は皺の刻まれた顔を軽く顰めた。
「それですか? 外国から来たバケモノですよ。うちの息子がねぇ、どっから持ってきたんです」
「外国のバケモノぉ? 息子が持ってきたって、勝手に売っていいのかよ?」
「かまやしないよ、あのバカ息子仕事も碌々しないで、悪い仲間とフラフラ遊び歩いてさ。これでも売れりゃ、家賃の足しくらいにはなるでしょうよ」
そう吐き捨てて、老婆は継ぎ接ぎの当たった着物の袖を捲り、木の箱を取り上げて志狼の目の前に突き出す。
「息子が言うにゃぁね、これは幸福を運んできてくれるらしいですよ。見てくれは悪いけど、あちらの国じゃ神様扱いらしくてね」
「へぇ、神様ねぇ……」
「そうだよ。大事にすると、願い事を叶えてくれるんだって」
それを聞いた途端、志狼の目に光が宿り右手が懐へと伸びる。
「おい、志狼さん……」
「いいじゃねぇか朱王さん。他所の国の神様だぜ? それに、願い事も叶えてくれるってんだからよ。きっと海華も喜ぶぞ」
せめて中身を確認してからにしろ、そう言いたかったが、酒精の廻った頭ではそんな判断も付かないのか、志狼はさっさと老婆に金を渡して箱を小脇に抱えてしまう。
『いい土産ができた』と満足げな志狼の背中を追って八丁堀へと急ぐ朱王の頭上では、薄く棚引く黒い雲が月を飲み込む寸前だった。
裏木戸をから屋敷に入った二人を出迎えたのは、茶と菓子の乗った盆を手に離れへ戻ろうとしていた海華だった。
二人が帰ってくるのはまだまだ先と思っていたのだろうか、彼女は少しばかり驚いた様子だ。
「あら、早かったのね」
「あぁ、志狼さんがな、早くお前の顔を見たいってさ」
そう言いながら左の肘で志狼を小突くと、彼は紅くなった顔を更に紅くする。
「止めてくれやい朱王さん。海華、お前に土産買ってきたぞ」
「お土産? その箱のこと?」
志狼の持つ木箱に視線を向けた海華の顔がパッと華やぐ。
それに気をよくしたのか、志狼は縁側に飛び上がり『向こうに持って行くぜ』と言って離れへと駆けていく。
「なんだか嬉しそうねぇ。志狼さん、何を買ってきたの?」
「俺も中身は分からん。早く行って開けてやれよ。俺は、桐野様にご挨拶してくる」
出掛ける時は心付けももらっていた、もう一度礼をしなければと桐野の自室へ向かう。
部屋で茶を啜り、書物に目を通していた桐野も海華と同様、朱王達の早い帰宅に『ずいぶん早かったな』と一言漏らした。
深酒は明日に響きますので、そんな言い訳をしたその時だ。
障子の向う、離れの方向から『キャァ!』と短くも鋭い海華の悲鳴と、何か硬い物が落ちる音が二人の鼓膜を揺さぶる。
何事だ、そう思う間もなく朱王と桐野は部屋を飛び出し離れへと走った。
ドタドタと足音も荒く廊下を駆けた朱王の手が襖へと掛かる。
勢いよく 開け放たれた襖の向う、そこには畳に尻餅を付いた志狼と、顔を真っ青にして彼の背後に身を隠す海華の姿があった。
「どうしたお前たち、何事だ?」
ただならぬ二人の様子に、桐野も案ずるように志狼の傍に膝を付く。
すると彼は気を取り直すようにその場に正座をして、部屋の隅を指差した。
彼の指差す方向、文机の脚元には、あの屋台で買った木の箱が斜めになって落ちている。
「旦那様……、朱王さん、俺……とんでもねぇモノを買っちまった……」
酒精で紅潮していた頬は紙の様に真っ白だ。
朱王は何も答えぬまま、放り出されていた箱を己の傍に引き寄せる。
埃で白っ茶けた箱、それに手を掛け固く蓋を開ける。
鼻につく埃臭さと黴の臭い。
蓋が取り去られた瞬間、真っ直ぐこっちに向けられる二つの眼窩と視線がかち合い、朱王は金縛りにあったかのごとくその場に固まっていた。




