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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第四章 天翔ける義賊
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第一話

 天高く馬肥ゆる秋、真っ先にそこ言葉を思い浮かべるように、澄み切った青空が頭上高く広がる。

貧乏だが、活気に溢れた中西長屋にも涼やかな風が吹き込み、洗い立ての洗濯物をはためかせるその下では、襷掛けした女達が洗濯板と盥を前に、汚れ物と格闘中だ。


 かしましい女達のお喋りと、遊び戯れる子供達の歓声、それに混じり、トントン、トントン、と何かを打ち付ける小気味良い金槌の音が辺りに響く。 雨風に曝され黒ずんだ屋根の上で蠢く一つの影、それを下から見上げているのは、ここの住人である朱王と斜向かいに住まう大工の女房、お君だ。


 「大八さんに手間掛けさせて、すまないね」


 「なぁに、いいのさぁ。これがあの人の仕事なんだもの。ちょいとあんた! 手抜きなんかしないで、ちゃっちゃと仕事おしよ!」


 「わかってらぁ、ばか野郎! たかだか雨漏りの修繕に、どう手ぇ抜けってんだ!」


 そんなダミ声と共に屋根の上から顔を覗かせたのは、日焼けした肌に無精髭をはやした中年男、お君の亭主だ。

ふた月ほど前から朱王の住まう部屋の屋根が一部、腐り穴が開いていたのだ。


 「大八さん! どうだ、直りそうかな?」


 「ああ、だいぶ広く腐っちまってるが、板張り替えりゃ大丈夫だ! 今日は仮止めで板張っとくが、明日あたりにゃあみんな直るぜ!」


 額に浮かぶ汗をぐいと拭い、大八は黄色い歯を覗かせる。

最初は一滴、二滴の雨漏りが、最近は室内に桶を二つも置かねば畳がびしょ濡れだ。

思いきって大家に相談してみたところ、修繕代は出すと言ってくれたのだ。


 屋根が腐り落ちる前でよかった、そう笑いながらお君に肩を叩かれ、朱王も苦笑いで返すしかない。

海華が一緒にいたなら、もっと早く大家に修繕を頼んでいただろう。


 「屋根板一枚換えるのも、それなりにかかるからな。修繕だけで済んでよかったよ」


 「そうだよねえ。……でもさぁ、弁天小僧が来てくれたなら、屋根の一枚二枚楽に取り代えられるのにねぇ。こないだは、荒町の長屋に出たって話し、朱王さん聞いたかい?」


 細面をわずかに歪めたお君の口から、『羨ましいよ』との台詞と共に深々とした溜め息が漏れる。


 「羨ましいってお君さん、相手は盗人なんだぜ?」


 「盗人だろうが火付けだろうが関係無いよ。だって、貧乏人の所にお金ばら蒔いていってくれるんだよ? 義賊じゃないか。うちの長屋も貧乏人ばっかりなんだから、そろそろ来てくれたっていいじゃないか」


 不貞腐れたように頬を膨らませ、屋根の上で作業に励む亭主を見遣るお君。

彼女の口から出た『弁天小僧』という聞き慣れない名前の主こそ、今巷を騒がせている正体不明の盗人なのだ。


 名だたる商家や問屋、大名屋敷の蔵を破り、大判小判を盗み出す。

そして、草木も眠る丑三つ時に各長屋を廻りそれぞれの部屋へ金子を放り込んで行くのだ。


 誰もその姿を見た者はいない。

それどころか、金を投げ込まれたのを朝になって知った、という話しもあるほどだ。

その日の食い物にも困る貧乏人にはまさに神様、投げ込まれた金で子供の薬が買えただの、娘を売らずにすんだだの、そんな話しがあちこちから聞こえてくる。


 そんな盗人を誰ともなく金を司る神の化身、『弁天小僧』と呼ぶようになったのだ。


 盗人が訪れるのを待つなど馬鹿げている。

そうは思いながらも、文無しがどれほど惨めなのか、過去に身をもって体験している朱王は、お君の言葉を頭から否定はできなかった。


 「いつまでもしゃべくってねぇで、おめぇも洗濯くれぇしねぇか!」


 「言われなくたってわかってるよ! あーぁ、貧乏暇なしだね」


 ふんっ! と鼻息も荒く前掛けを締め直し、お君は朱王に軽く会釈をしたあと、部屋へと引っ込んでいく。

少しばかり小さく見えるその後ろ姿を目で追いながら、朱王は再び屋根の上を見上げる。


 釘を幾本も口にくわえた大八の降り下ろす金槌が、斜めに射し込む秋の陽射しにキラリと輝いた。



 腐った板を取り除き、仮板を当ててその日の作業は完了した。

明日か明後日辺りには新しい屋根板が当たると大八の口から聞き、朱王もほっと一安心、これで雨が降るたび桶を抱えて右往左往する必要もなくなる。


夕方近くになり、夕餉の支度をしに訪れた海華も修繕の話しを誰かから聞いたのだろう、部屋に入るなりじっと天上を見詰め、どこか安心したような表情を見せていた。

費用は大家が出してくれると言うが、個人的にも大八へ礼をしなければ、そんな事を海華と話しながら夕餉を終え、仕事の残りを片付けるべく作業机へ向かった朱王。


海華も既に帰ってしまい、部屋には朱王が人形の頭を仮彫りする乾いた小気味良い響きと蝋燭の芯がじりじり焦げる低い音、そしてわずかな焦げ臭さが漂うだけ。

深々と静かに更け行く秋の夜、過ごしやすいが、やはり肌寒い空気が充ちる室内に、柔らかな光に朱王の影が大きく浮かぶ。

丸めていた背中を引き伸ばすように盛大な伸びを一つうち、首を大きく回した朱王が作業机の前から立ち上がったのは、糸のように細い月が天高く上がった頃だった。


 部屋の真ん中に手早く布団を敷き、寝巻きに包んだ身体をごろりと横たえた朱王は肺の奥から深く息を吐き出し、全身の力を抜いていく。

屋根の問題も片付いた、受けていた仕事も近いうちに片付くだろう。

当分の間の食い扶持は確保できるはずだ。


 仕事の疲れと先の目処がついた安堵も手伝ってか、横たわる朱王を急激な眠気が襲う。

明日は町へ出掛ける用事がある、寝過ごしては大変だ。

ノロノロと緩慢な動作で身を起こし、掛布を鼻の下まで引き上げて、朱王は静かに目を閉じる。

疲弊した身体と睡魔に浸食されていく思考。

うとうとと微睡みの世界に足を踏み入れた朱王の頭上から、ぎぃ、と何やら乾いた木の軋む微かな音が落ちる。

閉じかけていた瞼が、一瞬で弾けた。


 「―― なんだ?」


 仰向けになったまま、じっと天上を睨む朱王の瞳に、ほんのわずかだがギシギシと怪しく軋みたわむ天井が映る。

修繕用の板を渡した箇所を、猫でも歩いているのだろうか? 眠気に浸食された頭に、そんな考えが浮かん だ、その時だった。


 静けさに満たされていた室内に、ズドン! バリバリッ! と、耳をつんざかんばかりの轟音がとどろく。

嵐の夜、天に炸裂する雷にも似た爆音。

反射的に固く目を閉じ、掛布を頭からひっ被った朱王の上に降り注ぐのは、細かく砕けた木片や真っ白な埃の山……。

一体自分の身に何が起こったのかもわからず、上から襲う衝撃をやり過ごした朱王は、恐る恐るといった様子で掛布を捲り、もうもうと立ち昇る埃にむせ込みながらも天上を見上げる。

そして、目の前に広がる信じられない光景に、 朱王のポカンと口を半開きになった。


 人一人がはまるほどの大きさにぶち抜かれた屋根からは、金砂銀砂を撒き散らしたような美しい星空がわずかに覗く。

そして、丸い穴の真ん中には、藍色の股引きと汚れた草履を履いた人間の足が突き出ているのだ。


 ぶらん、と力無く垂れ下がる一本の足。

唖然呆然とそれを凝視する朱王の前で、足は二、三度前後に振られたかと思いきや、一瞬で視界から消え去り、代わりに穴から突き出たのは黒い手拭いをすっぽりと被った、人の頭だった。


 「こりゃあ派手にやっちまった。姐さん、すまねぇなぁ」


 くぐもってはいるが、それは確かに男の声。

『誰だ』と問う暇も与えず、男は真ん丸に目を見開く朱王へ向かい、ポンと何かを放り投げ、夜目にも白い歯を見せた。


 「修繕代と詫料だ。とっといてくんな」


 そんな台詞を一つ残し、あっという間に頭は穴の向こうに消えていく。

男が放り投げた物が何か、確認しようと埃だらけの掛布に視線を落としたその瞬間、声にならない女のけたたましい叫びが、朱王の鼓膜、そして深い眠りについていた長屋の空気全体を激しく震わせた。







 混乱の夜が明け、お天道様が顔を覗かせたと同時に中西長屋は天地を引っくり返したような大騒ぎ、あちこちの部屋から『弁天小僧が来た!』と狂喜、又は仰天の叫びを上げて、寝巻き姿の住人達が次々と表へ飛び出してくる。

皆の手に握られているのは、鈍い金色に光輝く小判、朝起きたら、枕元や布団の上に置かれていたらしい。


 普段、ほとんど手にする事のない大金に頬を紅潮させ、喜びを爆発させる者らであふれた長屋は、興奮の坩堝と化す。

しかしその中で、朱王だけは苦虫を噛み潰した面持ちを作り出し、ぽっかりと大穴の空いた天上を睨み付けていた。


 弁天小僧は長屋の住人全てに金をばら蒔き帰っていった。

それは朱王も同じであり、布団の上には五両もの大金が投げ込まれていたのだ。

屋根の修繕代としてはいささか多いだろうその金は、どこぞの金蔵から盗み出された物に間違いはない。

やがて、騒ぎを聞き付けた町方や奉行所の同心らが次々と長屋へ駆け付け、現場は更に大混乱か、と思われた。

だが、役人らの姿を見た者は皆、一様に固く口を閉ざし部屋へ隠ってしまったのだ。


 「おい、ちょっと待て! 弁天小僧について話しを聞きたいと申しておるだけではないか!」


 「弁天小僧なんざ知りませんよ。うちにお金が投げ込まれたなんて、誰が言ったのかわかりませんけどね、ここには、うちの人が一生懸命働いて稼いだお金しかありません!」


 「お侍様、こりゃあアタシがカケハギの内職で貯めたお金ですよぅ。こんな年寄から金巻き上げるなんて、あんまりじゃございませんか!」


 「腹ぁ空かせたガキが五人もいるんだ! こいつらの食い扶持ぶち持ってこうってぇのかっ!」


 長屋のあちこちから聞こえる哀願に怒鳴り声、それに続き、幼い子供が泣き叫ぶ金切り声が響く。

室内にまで丸聞こえの喧騒に、上がり框へ腰を下ろしていた北町奉行所与力組頭、桐野数馬はこの部屋の住人、朱王と顔を見合せ苦笑いを浮かべた。


 「どこの長屋でも大体はこの調子だ。――まあ、気持ちはわからぬでもないがな」


 困ったように笑いながら顎の下を指で擦る桐野。

弁天小僧の寄越した金は、言わば他所から盗んだ金であり、そうとわかった以上返さなければならない。 せっかく手に入れた大金をみすみす返してなるものか、皆の頭の中では、そんな考えが浮かんでいるのだろう。


 「素直に金を返したのは、朱王、今のところお前だけだ」


 「赤の他人から金など恵んでもらう謂れはありません。それが汚れ仕事で得た物ならば尚更です」


 どこか憮然とした表情で五両の金が入った包みを桐野へ差し出す朱王。

それを袂へしまいながら、桐野は頭上にポカリと開いた大穴を見上げる。


 「しかし、物の見事にぶち抜いたものだ。お前、このままここにいる気なのか?」


 「はい、しばらくは適当な板で穴を塞いでおこうかと。雨さえ降らなければ、なんとか暮らせます」


 仕事道具だけ雨風を防げばいい、そう言って退ける朱王に、それは無理だとばかりに桐野は小さく首を振る。


 「それは無謀だ。いくら板を当てたとて水は防げぬ。秋は天気が変わりやすいぞ? お前さえ嫌でなければ、修繕が終わるまでうちにいたらどうだ?」


 つまり、八丁堀の屋敷にしばらく居候しろ、と言われているのだ。

自分の身を案じてくれる桐野のありがたくも、畏れ多い申し出に朱王は驚きながらも畳へと手を付いた。


 「ありがとうございます。ですが、妹の嫁ぎ先に厄介になる訳にはまいりません。ここには私一人です。どうにかこうにか暮らしては……」


 「屋根の無い家に住むなど、外で寝起きするも同然だ。儂が心配しなくても海華が心配する。ただ、何もせずにいろと言っているわけではないのだぞ?」


 にや、と意味ありげな笑みを浮かべつつ、こちらを見る桐野。

自分に何をさせようとしているのか、嫌な予感を感じた朱王は思わず彼から目を逸らしてしまう。

結局、桐野の申し出をありがたく受ける事にした朱王は、早速仕事道具や身の廻りの品を詰め込んだ風呂 敷包みを二つ抱え、澄みわたる秋空の下を八丁堀へとむかったのだ。






 「そんな事までさせて、すまねぇなぁ」


 右手一本と足を使い、器用に薪を束ねる志狼の言葉に答えるように、襷掛け姿の朱王が鈍色に光る大斧を高々と振り上げる。

空を切り裂いたそれは、ガツッ! と乾いた小気味良い音を響かせ、大人の腕ほどもある丸太 を一撃の下に叩き割った。


 桐野家の一室で居候状態の朱王、好意として家に置いてもらい、飯を食わせて貰っている以上、生業とする人形造りの他にも何かと雑事を請け負っている。

薪割りや庭木の世話など、ある程度力がいる仕事は、左手の不自由な志狼に代わり自然と朱王の役目になっていた。


 「これくらい、なんて事ないさ。いきなり転がり込んだ身だ。やって当たり前だよ」


 額から流れる汗を懐から引っ張り出した手拭いで拭きつつ、汗で首筋や顔に張り付く黒髪を手拭いと共に取り出した細い麻紐で手早く結い束ねる。

ふと、目の前にある紅葉の木へ目をやれば、青空を埋め尽くさんばかりに揺れる葉は、早くも赤みを帯び始めていた。


 「今年は色変わりが早いな」


 「ああ、朝晩はやたらと冷えるからなぁ。 きっといい色に染まるだろうぜ。……紅葉肴に一杯、ってぇのもなかなかオツなもんだろ?」


 束ねた薪を抱え、にやっと口角をつり上げる志狼。

それはいい考えだ、と言わんばかりに朱王も表情を綻ばせる。

すっかり止まってしまった朱王の手、まるでそれを待っていたかのように、こちらも襷掛け姿に水が並々満たされた小桶を下げた海華が、奥の井戸から姿を現す。


 「ちょっと兄様! なにサボってるのよ、まだまだ薪割り終わってないじゃない」


 グッと柳眉をつり上げ、厳しい声色で叫ぶ海華に朱王はわざとらしく肩をそびやかし、薪割り台に突き立てていた斧を抜き取った。


 「少し休憩してただけだ。そうガミガミ喚くな」


 「さぁ、どうだか。どうせ二人でお酒飲む算段でもしてたんでしょう? そこ終わったら、次は障子の張り替え手伝って頂戴ね」


 『まだまだやる事はたくさんあるのよ』と、捨て台詞を残して海華はくるりと踵を返す。

女の間の鋭さにドギマギしながらも、朱王は何かを思い出したように、去り行こうとする小さな背中を呼び止めた。


 「何よ、お酒なら、お夕飯の後にちゃんと……」


 「違う、その事じゃない。すまないが、これから長屋まで行ってくる。金槌を一本忘れてきたんだ」


 昨夜作業をしていて気付いた忘れ物、無くても特に支障はないが、どうも気になる。

すぐに戻ると言いつつ襷を外す朱王を、海華は片手を上げて押し止めた。


 「それなら、あたしが行くわ。ちょうど街へ用事を足しに行かなきゃならないの。志狼さん、悪いけど兄様と障子張り、お願いできるかしら?」


 小桶を足元に置き、わずかに小首を傾げて尋ねる海華へ、志狼は一も二もなく頷く。


 「わかった。ここは俺達に任せろ。気を付けて行けよ」


 「わかりました、じゃあ、行ってきます!」


 襷を袂に押し込んで、海華の足は大地を蹴る。

朱王と志狼が見送るその先で、散り落ちた茶色の枯れ葉が海華の背中を掠め、乾いた地にその薄く繊細な身を音もなく横たえた。






 財布だけを帯の間に押し込んで屋敷を出た海華は酒屋や八百屋をぐるりと廻り、品の注文と支払いを

次々と済ませていく。

桐野家の台所を預かっている身だ、できるだけ良い物を安く買い求めたい、との気持ちから品定めと値切り交渉は欠かさない。

家の用事をすべて済ませた彼女が最後にむかったのは、自身の実家とも言える場所、中西長屋だ。

とうの昔に嫁いでいった身とはいえ、毎日のように兄の世話へと通う場所。

道の傍らを流れる小川を越えてすぐ、傾き掛けた長屋門が目に入る。


 水面を走る秋の匂いを含んだ風に髪を遊ばせ、 道端で可憐な花弁を揺らす竜胆りんどうを愛でながら、足取りも軽やかに小川を抜けた海華の目に最初に映ったのは、いつも見慣れた長屋門ではなかった。

薄茶の着物を纏い、その端をはしょった若い男が門の前に立ち、じっと長屋の方を見詰めている。

その背中に背負った丸く細長い籠には、隙間なく真新しい傘が差し込まれていた。


 出で立ちからすると、どうやら傘売りのよう。

からりと晴れ渡る秋晴れの空の下に傘売り、と、なんとも妙な組み合わせ。

横顔を垣間見てもこの長屋の住人でないことは明らかだ。

ここへ傘売りに来たのか、それとも誰かの客なのか。

様子からして泥棒には見えず、さして気にも留めずにその横を通りすぎようとした海華へ、男の視線が注がれる。


 「ちょっとねぇさん!」


 「はい? あたし?」


 急な呼び止めに戸惑いながらも後ろを振り返れば、傘を背負った男は、ヘラッと力の抜けた笑みを漏らす。

ほどよく日焼けした浅黒い肌、海華より若いのか年上なのかわからない、どこか幼さの残る容貌を崩し、男はこちらへ向かって小さく会釈する。


 「いきなり申し訳ねぇ。ねぇさん、ここの人かい?」


 「うーん……ちょっと違うけど、ここの人達なら知ってますよ。どなたかにご用ですか?」


 悪人には見えない照れ臭そうな笑みを絶やさない男にそう声を掛ければ、彼は二、三歩こちらに近寄り海華の顔を覗き込むように上体を傾けた。


 「まぁ、用事ってぇほどでもねぇんだがさ、 ねぇさん、あの屋根の修繕してる部屋あんだろう? あそこにえらい別嬪が住んでるって聞いたんだ。ねぇさん知らねぇかなぁ?」


 まるで内緒話をするように耳許でボソボソ話す男の声には一抹の照れと好色さがにじみ、海華は内心で『またか』と溜め息をつく。

屋根の修繕をしている部屋は朱王が住まう部屋だけ。

そこで別嬪と言われるのは、決して海華ではない。


 「スラッと細くて髪の長い、浮世絵から抜け出たみてぇないい女だって聞いた。独り身だったと思うんだけどさ。知らねぇかな?」


 満面の笑みを見せる男とは正反対に、海華は渋い表情を作ったまま。

朱王を女と間違えて長屋に押し掛けてくる、時たまいるのだ、こんなやからが。


 「―― 知らない訳じゃないけど?」


 「本当か!? なぁ、どこにいるか教えてくれ。いっぺんでいいから、この目で拝んでみてぇんだ。頼む、この通り!」


 丸い瞳を輝かせ、まるで神か仏を拝むように、顔の前で手を合わせる男。

この男も、他と同じく現実を知ればひどく落胆するのだろう。

そんな事を考えながら、海華は深い溜め息を吐く。


 「いいわ、その人に話ししてあげる。ところで、貴方はどこのどなたなの?」


 「ああ、そうだった。ここの近くに下川長屋ってぇボロ長屋があるだろう? そこに住んでる弥七やしちってんだ。ねぇさん、あんたの名は何て言うんでぇ?」


 「海華って言うの。下川長屋の弥七さんね、なら、あの人に話ししてから、直接そっちに行くわ」


 「頼んだぜ。…… ねぇさん、いや、海華さんか。これから家に帰るなら、この傘持っていきな」


 そう言うが早いか、弥七は背中の篭から売り物だろう傘を一本引っ張りだし、海華へと差し出す。

いきなりの贈り物に、海華は怪訝な面持ちで弥七を見遣った。


 「せっかくだけど……こんなに天気がいいのに傘は必要ないわ」


 「だが、これから一雨きそうだぜ?」


 にこにこ顔で妙なことを口にする弥七に、思わず眉間に皺を寄せる海華。

カラリと晴れた日本晴れの空には、雨雲など一つも見当たらない。


 「だから、雨なんか降らないわよ、おかしな人ね。とにかく、明日辺りにでも浮世絵の美人を連れて行くわ。楽しみに待っててよ」


 「そうかい? なら、首を長くして待ってるよ」


 傘を再び篭へと戻し、 男は鼻唄混じりにその場から去っていく。

その後ろ姿が完全に見えなくなったのを確認し、海華は修繕が着々と進む兄の部屋の戸口を開けた。

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