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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第二十二章 蛍の帰郷
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第一話

 湿り気を帯びた空気が満ち満ちる夏の夜、じっとり重たい空気を揺らすように野太い男の声が八丁堀、桐野邸の玄関に響いた。


 『桐野はいるか!?』そう無遠慮にこの屋敷の主を呼んでいるのは、大柄な体を三和土たたきへ投げ出すように座る男、北町奉行 上条かみじょう 修一郎しゅういちろうである。


「海華ーッ! 志狼……誰かおらんのかッッ!?」


「修一郎様、少しお声を抑えて……」


 グダリと力が抜けてしまった修一郎の隣では、提灯を片手にオロオロ声を出す長身の男、朱王が、修一郎を抱え起こそうと四苦八苦している。


 上がり框の冷たさを求めるよう擦り付けられた修一郎の頬はほんのり桜色に染まり、もうかなりの量の酒精を胃袋に納めているだろう。


 元来、生真面目な彼にしては珍しくハメを外して飲み過ぎた。

そして、酌の相手をした朱王は適当なところで彼を止めなかったことを盛大に後悔しているはずだ。


 酔っぱらった彼は必ずと言っていいほど『海華の顔を見に行く』と言って桐野邸ここへ来たがる、その事をすっかり失念していたようである。


 『桐野』『海華』『志狼』とここに住まう全員の名前を大声で連呼する修一郎、すると薄暗い廊下がギシギシと軋み、眉間に深い皺を刻ませたこの屋敷の主が姿を現す。


「なんだ、騒々しい。海華も志狼も今はおらぬ」


 むっつり顔で修一郎を見下ろす桐野へ、朱王は慌てて頭を下げる。


「お騒がせして申し訳ありません」


「なに、朱王のせいではない。こ奴に付き合うのも大変だな。どうせまた、お前の部屋へ押し掛けてきたのだろう?」


 修一郎へ向けられていた顰めっ面が緩み、気の毒そうな声色でこちらを見てくる桐野へ、朱王も思わず苦笑いで返す。

まさに彼の言う通りだった。


 夕方近くに酒瓶を一つぶら下げてフラリと長屋を訪れた修一郎は、そのまま朱王を相手に持参したもの、そして部屋に置いてあった酒瓶を二つ飲み干したのである。

朱王に抱えられ、やっと上がり框に座った修一郎は酒精に濁った眼を擦りつつ、自分の前に立つ桐野を見上げた。


 「俺の事は、どうでもいい! それより……海華は、どこへ行ったのだ?」


 「蛍狩りだ。桔梗池まで行っている」


 「蛍狩りぃ? 志狼も一緒にか?」


 「当たり前だ。海華独りで蛍を見て何が楽しい?」


 呆れたような溜息を一つつく桐野の台詞は最もだろう。

が、朱王にとっては聞き流すことは出来なかった。


 「海華の奴、桐野様を放って出掛けるなんて……」


 「いや、違うのだ朱王。儂が行って来いと言った。もう家事はすべて終わっていたのでな。こんな気持ちの良い夜だ、屋敷に籠っているのは勿体無いと思ってな」


 「そう、ですか。お気遣い頂いてありがとうございます」


 いまだ渋い表情を崩さないまま、朱王は桐野へ小さく会釈する。

桐野直々に許しを出してくれたのならば、彼が苦言を呈する必要はないだが、海華の顔を見てしまえば小言の一つも言いかねない雰囲気だ。

わずかに顔を顰めて口をつぐんでしまう朱王を他所よそに、修一郎はふらつきながら立ち上がり、踵を返し玄関から出て行こうとする。


 「おい、おい! 修一郎、どこへ行くつもりだ?」


 「海華の所だ! その……ナントカ池にいるのだろう!?」


 よろめきながら戸へ手を掛ける。

そんな彼を朱王は勿論、桐野も三和土へ飛び降り慌てて引き留めた。


 「修一郎様! お待ちください!」


 「お前、どこまで野暮なのだ! せっかくの夫婦水入らずを邪魔するな! おとなしく中で待っていろ!」


 朱王と二人がかりで修一郎を屋敷の中まで引き摺るよう連れて行き、客間へ放り込む。

痺れを切らした彼が再び騒ぎ出すのを阻止するためか、桐野は台所へ走り、酒瓶と湯呑、そして適当な乾き物を乗せた皿を手に駆け戻ってきた。


 大トラ状態の修一郎を大人しくするためとにかく酒を勧める朱王、そして桐野は、一刻も早く海華が返ってくれるのを願うばかりだろう。



 酒瓶の酒が半分ほど空になった頃、裏口辺りからヒタヒタと微かな足音がし、続いて中庭で小枝を踏む乾いた音色が立つ。

いち早くそれに気が付いたか、朱王が客間の障子をサッと開くと、キョトンとした面持ちの海華と視線がぶつかった。



「わ! びっくりしたぁ。兄様、どうしたの?」


 朱王の顔をまじまじ見ながらそう尋ねる海華に、一瞬、朱王は言葉を詰まらせる。

と、そんな彼を脇に押し退けて、修一郎が赤く染まった顔を突き出した時、海華は全てが分かったような面持ちで目を瞬かせた。


 「おぉ海華! やっと帰ってきたか!」


 「しゅう……一郎様、ご無沙汰しております」


 ニッコリ笑って修一郎に酌する海華の背後、ちょうど襖に遮られて修一郎から見えない場所では恨めしそうな顔で朱王を睨む志狼の姿があった。

『すまない』と、小さく手を合わせる朱王へ足音も立てずに近寄ってきた志狼は、先ほどの桐野と同じく不機嫌から一転、同情を含ませた眼差しをこちらに向けた。


 「また押し掛けてこられたのか?」


 「あぁ……。その辺りは察してくれ」


 疲れ果てたと言わんばかりに朱王は肩を落とす。

障子の向う側でそんな会話が交わされているなど露知らず、海華の帰宅に上機嫌だろう修一郎の浮かれた声が夜の帳を震わせた。渋々と言った様子で客間に上がり修一郎に挨拶した志狼は、酒の用意をするためか、その場を下がろうとするが、修一郎は彼を引き留める。



 「いや、酒はもうよい。やっと海華が帰ってきたのだ、酒など飲んでいる暇はないからな。海華、蛍狩りはどうだった?」


 「はい、とっても綺麗でした。今年はいつもより多く飛んでいるって聞いてましたから……。あ、そうだ。これ、お土産です」


 にこにこは柄かな笑みを見せつつ、海華は一度修一郎の前から立ち上がり廊下へと向かう。

再び彼女が戻ってきたとき、その手にはわらで編まれた小さな籠、蛍籠ほたるかごが下げられていた。


 「これね、志狼さんが獲ってくれたんです。兄様、行燈消してくれる?」


 彼女に言われ、朱王は隣にあった行燈の灯を消す。

一瞬で闇に包まれた室内、障子から差し込むボンヤリとした月光では互いの顔もわからないほどだ。


 そんな中、ちょうど海華の膝元辺りから緑がかった黄色の球体が三つ、黒い世界に現れる。

ポッ、ポッ、と規則正しい点滅を繰り返す光の点は四つ、五つと数を増しやがて十を超える光の点が宙へ舞い上がった。


 「ほぅ、これは……美しいな」


 暗闇の中からため息にも似た桐野の声が聞こえる。

感嘆の呟きと言ったがいいだろう。

フラリフラリと心もとない軌跡を描いて飛ぶ蛍、夏のひと時だけ鑑賞を許されるいのちの光は、見る者の言葉を一時封じるほどの美しさと神秘さを併せ持つ。

幻想的ともいえる光景だ。


 「見事なものだなぁ。たったこれだけでもこの美しさだ。大軍となればこの世のものとは思えぬだろうな」


 酔っ払いとは思えぬ神妙な口調の修一郎に、『そうですねぇ』と答える海華の声が闇に揺れる。


 「真っ暗な中に光の波が出来ていたんです。星よりずっと明るくて……きっと、一生懸命につがいになる相手を探しているんでしょうね」


 「うむ、そうだな。海華もよいつがいに恵まれたからよいとして、次は桐野、それに朱王、お前たちのばんだぞ」


 どこか茶化すよう聞こえる修一郎の声に、朱王は『努力します』とだけ答える。

すると、海華の物と思われる意味ありげな含み笑いが鼓膜を掠めた。


 「儂は……探すまでもない。『おけい』が戻れば、すぐにでも所帯を持つつもりだ。前からそうはなしているだろう」


 いつもと何ら変わらぬ淡々とした口調で桐野が答えた、その直後だ。

『灯りを付けろ』微かに震える声で修一郎が命じる。

どこか緊迫した声色がしたと同時、チカチカ小刻みな点滅を繰り返す蛍が真っ直ぐに部屋を横切り、静かに畳へと堕ちた。

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