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傀儡奇伝(くぐつきでん) ~行路の章~  作者: 黒崎 海
第三章 鬼となり、人と化す
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第二話

 巣鴨の外れにぽつりと建てられた塚の本当の名前を知る者はいない。黒ずんだ鉱石を切り出して造られたそれは、いつの頃からか『黒塚』と呼ばれるようになった。人を祀った物か、八百万の神を祀った物か、はたまた畜生塚なのか……知る者は誰もいない。ともすれば打ち捨てられているだろう、得体の知れぬ塚を目指し、朱王は歩みを進めていた。


 容赦なく降り注ぐ太陽の熱波に打たれ、陽炎の揺蕩たう道を行く朱王の胸元が、汗でしとどに濡れる。大小の石が転がる荒れ地を抜けて、辿り着いたは青葉若葉が生い茂る林のすぐ近く。吹き抜ける青嵐、餌を探し求め、鼓膜を突き破らんばかりに喧しく鳴き喚く、墨色をした烏の群れ。幽玄に揺らめく世界を切り裂いて、丸々太った胴を持つ一匹の蝿が朱王の鼻先を掠め、陽炎の中へ消えていく。


 腐りきった血肉、溶けた脂、世の中全ての腐臭を寄せ集め、凝縮させた悪臭が辺りを漂う。朱王の袖口が、無意識に己が鼻へ当てられた。


 柳行李が放置されていただろう場所には、腐汁と血潮が染み込んだどす黒いシミが地面にいびつな絵となって浮かび、その周りの空気を震わせて蝿の一群が宙を飛び交う。骸はとうの昔に片付けられた。しかし、息も詰まるような陰惨な空気は、未だこの場に凝ったままだ。


 風に揺られる木々のざわめき、天空に響く烏の慟哭、肌に感じる羽を唸らす蝿の舞い。死者を糧とする物らの強烈な生命力に包まれて、朱王はその場に立ち尽くす。人と呼ばれる物は、自分の他には誰一人いない。 塚の近くを流れる小川も、この暑さで乾上がってしまったようだ。


 黒髪を巻き上げ、吹き抜ける温い風。ごぉ、と響く風の音の中に、微かに混ざる子供の悲鳴。 幻聴だ、そうは思いながらも、胸が締め付けら れるような息苦しさを感じてきつく唇を噛み締める朱王は、ふと自分の背後で何かが動く気配を感じ、さっと後ろを振り返る。


「―― 朱王、さん」


「志狼……どうして、ここに……?」


 振り返った途端、真っ白な三角巾が日の光りを反射して眩しいくらいに輝く。思わず顔をしかめつつ、朱王は義弟の名を呼んでいた。


「番屋に寄った帰りだ。ここで見付かった子供の母親、長屋まで送ってくれと旦那様に頼まれてさ。母一人子一人の暮らしらしいぜ……」


 子供が死んだ今、母親は天涯孤独の身の上だ。朱王からわずかに視線を逸らし、志狼は沈んだ声色で小さく呟く。しかし、一度咳払いをした彼は素早い足取りで朱王に近寄り、不思議そうな眼差しを向けてくる。


「ところで朱王さん、あんたはなんでこんな所に来てんだ?」


「俺か? 俺は……海華から話しを聞いてな、ちょっと気になったから、来てみただけだ。―― 海華には言うなよ? 変に詮索されたら面倒だ」


 本心は、海華にバレたら小言を喰らう、だろう。 先刻、長屋で交わされた二人の会話を知るよしもない志狼は、微かに首を傾げながらも『わかった』と一言告げ、頷いた。


「頼むぞ。……それにしても、酷い殺され方だったらしいな」


 地面に染み付く死の跡に視線を投げながら、そう口にする朱王に、無言のままで首を縦に振りながら、志狼は癖のある前髪をワサリと掻き上げる。


「筆舌尽くしがたいってなぁ、あれの事をいうんだろうな。餓鬼の腹ぁ切り裂いて、生肝抜くなんざ、人間のする事じゃあねぇや。――でもよ、俺……」


 一瞬言葉を区切り、グッと生唾を飲み込んで、志狼は無意識のうちに両の拳を握り締める。思い詰めているようにも見えるその表情に、朱王は怪訝な面持ちで彼を見詰めた。


「俺……腐れて蛆の沸いた子供にむしゃぶりついて……狂ったみてぇに泣き叫ぶ母親が、妙に恐かったんだ」


 ぐずぐずと崩れ落ちる腐肉に顔を擦り付け、子供の名を呼び慟哭する母親の姿が、この場にあったのだ。骨の髄を震わせる寒気にも似た恐れが朱王を襲い、左腕の肘へきつく爪を立てて呻く志狼のこめかみを、透明な汗が一筋滴り落ちていった。








『母親の姿が恐かった』志狼の発した言葉が澱の如く胸に沈む。何とも言えぬ暗い気持ちを引き摺ってその場を後にした二人。 子供を亡くしたあの母親は、これからどうなるのだろう? 二人の考えていることは、大体同じだ。重く沈んだ気持ちとは正反対に、頭上でぎらつく太陽が、狂い咲いた鳳仙花を眩しいくらいに照らし出し、命短い蝉が断末魔の羽音を響かせる。脳髄が痺れるくらいに鮮烈な晩夏の景色も、今の二人の目には、味気無い白黒の世界にしか映らない。


「…… 朱王さん、よかったらうちに寄って行かないか? 少し休んで行ってくれ」


 朱王の隣を行く志狼は目線だけを動かし、そう告げる。だが、朱王は一瞬躊躇し、緩く首を横に振った。


「いや、今日は遠慮するよ」


 海華と別れたのはついさっき、なぜ志狼と一緒なのか、そう問われれば、今は誤魔化せる自信がない。そんな朱王の気持ちを読み取ったのだろうか、口角をわずかに上げ、志狼が小さく微笑んだ。


「海華の事なら心配すんな。俺が適当に誤魔化すからよ。長屋に帰るまでに干からびでもされちゃ困るからな。茶でも飲んでけよ」


 顔や首から流れ落ちる汗で変色した胸元をつつきながら言う志狼に、思わず朱王も己が胸元に手を持って行く。確かに、そこは水を被ったかのように、ぐっしょりと濡れていた。


「なら、お言葉に甘えて。海華の事は志狼さん頼むか。……しかし、今年は残暑が厳しいな」


「ああ、本当だ。こう暑くちゃ頭のおかしくなる奴の一人や二人、いるかも知れねぇな」


 懐から引っ張り出した手拭いで汗を拭き拭き、げんなりした様子の志狼が吐き捨てるように呟く。白壁の陰では、三毛猫がのんびり昼寝中。大汗流して足早に道を行くのは人様ばかりだ。口を出るのは『暑い』の単語と愚痴だけ、焼ける陽射しに追い立てられて、やっと辿り着いた八丁堀の屋敷では、名前もわからぬ白い花が今を盛りとばかりに薄い花弁を風に揺らす。


『今帰った』乾いた喉から掠れ声を放ち、力無く上がり框へ腰を下ろす志狼と朱王。だが、留守番をしているはずの海華は一向に姿を現さない。


「海華! おい海華! いないのか? 朱王さんが来たぞ!」


 出迎えを待ちきれず、中へ入っていく志狼の後を朱王もついて行く。と、勝手口の方から微かに響く人の声に、二人の足がピタリと止まる。


「なんだ、客か?」


 そう一人ごち、勝手口へ向かおうとする志狼の耳に、『また殺られた』と、いささか物騒な男の囁く声が飛び込み、思わず顔をしかめて朱王を見遣る。


「また殺られたって、前にも誰か殺されたの?」


「そうだよ、お客さん知らねぇかな? 少し前まで黒塚の辺りを彷徨うろついてた乞食の母子おやこがいたんだよ」


「知らないわ。その母子、今はいないの?」


「ああ、もういねぇよ。母親とガキが三人いつの間にか消えちまった。塚の側に血だらけの着物が落ちてたって噂だ。……きっと鬼婆に喰われちまったんだぜ?」


 ひそひそ声で交わされる話しを廊下の端で盗み聞きする朱王と志狼は、いつの間にか海華と、誰かわからぬ男の会話に引き込まれていた。


「お客さんも、あの辺りを通る時にゃあ気を付けな、いつ鬼婆に生肝抜かれるか、わかりゃしねえぜ」


「嫌だ、脅かさないでよ。……でも、本当に用心しないとねぇ……」


『ご苦労様』海華の労いの言葉と共に途切れた会話。カチャカチャと金属が擦れ合う耳障りな音を引き連れて、白いサラシに包んだ物を携え廊下へ出た海華は、そこに立つ朱王と志狼の姿を目にするなり、ヒッ! と小さく甲高い悲鳴を上げ、まるで化け物を見たかのような表情で、その場に立ち尽くしてしまった。


「何よ…… 驚かさないでちょうだい」


 はあ、といささか大袈裟に息を吐き、海華はサラシの包みを胸に抱く。真っ白なそれから突き出た二本の短い棒、よくよく見れば、包丁の柄だ。


「帰ってきたなら、声掛けてよ」


「何回も呼んだんだぜ? お前が気付いていなかっただけだ」


 呆れたような面持ちで告げ、サラシへ向けられる志狼の視線を感じたのか、海華は今出て来たばかりの勝手口をチラと見遣る。


「包丁研ぎの人が来てたの。ところで、どうして兄様が一緒なの?」


「帰る途中にばったり会ったんだ」


「ふぅん……そう。兄様仕事は? 納期近いとかって聞いたけど大丈夫なの?」


 円らな瞳を瞬かせ、チョンと小首を傾げる海華へぎこちない笑みを返し、朱王は小刻みに『平気だ』と頷いた。


「海華、悪ぃけど茶でもいれてくれないか? 干物になっちまいそうだ」


 熱気で赤く火照る顔を志狼が手のひらで仰ぐ。そんな彼の様子を見て、海華は小さく苦笑いだ。


「大袈裟ね。今用意するから、向こうで待ってて。―― あ、今の話し、聞こえてたんでしょ?」


 台所へ向かおうとしていた足を急に止め、わずかに不安げな様子で訪ねる海華に、朱王と志狼は互いに顔を見合わせた後、無言のままに頷いた。


「消えた乞食の母子と鬼婆か……。単なる噂かも知れねぇが、一応、旦那様のお耳に入れておくか? ―― 朱王さんはどう思う?」


「そうだな。何も手掛かりがないよりはマシだろう。奉行所だって、これ以上死人を出す訳にはいかないだろうしな」


 包丁研ぎの話しが真実だとすれば、もう四人は死んでいる事になるだろう。


「本当、イヤな事件が続くわね。旦那様またお帰りが遅くなるんじゃないかしら?」


 ふぅ、と弱々しい嘆息を一つ漏らして、海華は台所へと消えていく。客間よりは涼しいからと、朱王は裏庭に面する縁側へと通された。表玄関の脇に広がる庭同様、他所からは見えぬ裏庭も小綺麗に手入れされ、色とりどりの花々が競うが如く咲き乱れるそこは、さしずめ蝶々や羽虫、そして野鳥らの楽園だ。狭い長屋暮らしの朱王には少々広すぎる感じがする庭を眺め、自然と二人が交わす会話の内容は、やはり海華の事だった。


「あいつ、しっかり家の事は出来ているのか?」


「ああ、言うことなしだ。近所でも、よく働くって評判いいぜ。……ま、俺もこんな身体だからさ、野菜切ったり、雑巾絞ったりって、 色々と出来ねぇ事もあるんだよ。あいつ、嫌な顔一つしねぇでやってくれんだ。本当に、助かってる」


『苦労させてるかな』自嘲気味に笑い頭を掻く志狼を横に、軽く首を振りながら朱王が胸の前で腕を組み、目の前を舞い飛ぶ蝶々を目だけで追い掛ける。


「お前の女房なんだから、それくらいやって当然だ。それより、毎日海華を飯炊きだ洗濯だに借りていいのか? 」


 嫁いだものが、毎日のように実家へ通うのを桐野や志狼はどう思っているのだろう。もし迷惑が掛かっているのだとしたら、ここでけじめをつけなければならない。何より海華が気の毒だ。


 だが、志狼は何ともないと言いたげな面持ちで朱王の方を振り向いた。


「そんなこと気にしねぇでくれ。朱王さんに不自由な思いさせちゃ申し訳ねぇよ。それに海華がいない間、料理やら掃除やらの練習してんだ。何でもかんでも海華に押し付ける訳にゃいかねぇし、少しずつでも、また出来るようにしてぇんだ」


『この事、あいつには内緒な』唇に人差し指を当て、そう小声で頼んでくる志狼に、わかった、と一言告げて頷きながら、朱王はホッと胸を撫で下ろす。 どうやら自分は、二人の負担にはなっていないようだ。


 そして何より、志狼の海華に対する心遣いが朱王には一番嬉しかった。


「これからも、夕方は俺がここまで送るから、心配しないでくれ」


「わかった。その代わり、帰りは気を付けてくれよ?」


 襲われでもしたら一大事、そう朱王の身を案じる志狼に大丈夫だと答え、朱王は汗に湿る黒髪を掻き上げる。 彼は気付いていないのだ。これから自身の身に降り掛かるであろう災難に。


 偶然の女神は静かにその爪を研ぎ澄まし、哀れな犠牲者を待ち構えていたのだ。









「長々とお邪魔致しました」


 広々とした玄関先で深く一礼する朱王の前で、恰幅の良い中年男がゲラゲラと威勢の良い笑い声を発する。その隣では、豪奢な晴れ着に身を包んだ若い娘が、熱と色気の混ざり合った視線を朱王へと注いでいた。


「こちらこそ、遅くまでお引き留めして申し訳ない。家の者に送らせましょうか?」


「いえ、そこまでして頂く訳には……。明かりも貸して頂きましたし、今夜は満月、道に迷う事はないでしょう」


 苦笑混じりに放った台詞に、男は赤ら顔をさらに赤くし獅子に似た顔を思い切り破顔させる。辺りに漂う酒精の匂い。この日、朱王は時折人形の依頼を受ける客、つまり『お得意様』の屋敷へ招かれていたのだ。以前より度々酒宴に誘われる事の多かった朱王。 客である主人より、今、この場にいる娘が朱王に会いたいがため、父にせがんで彼を屋敷に招いているのは、言うまでもない。


『またいらして下さいませ』甘ったるい響きを帯びた娘の声を背に、朱王は屋敷を後にする。太陽が顔を隠してもなお、空気はじっとりとした暑さを含んだまま、肌にぴたりとまとわり付く。ふらふら揺れる提灯と影法師をお供に、長屋へ向かう朱王の顔は、しこたま馳走になった『辛いもの』のせいか、ほんのりと桜色に染まっていた。娘の纏う白粉と匂い袋の香りにはいささか辟易したが、振る舞われた酒と料理は絶品だった。そんな事を思いながら、人気の途絶えた道を行く。


 深い藍色の夜空には黄金の満月が浮かび、その周辺をたなびく薄い雲は、天空を舞う龍のよう。ただ静かに美しく時が過ぎて行く夏の夜。突如頭上高く響いた断末魔の叫び、雷鴫かみなりしぎの絶叫に思わず肩を跳ね上がらせて、朱王の歩みがピタリと止まる。


「…… なんだ、脅かすな」


 頭上を仰ぎ見て、姿形のわからぬ相手に文句をこぼし、もう一度しっかり提灯の柄を握り締めた、その時だった。まっすぐに暗闇の奥へと続く一本道、その遥か彼方から、生暖かい空気を震わせて『ぎゃ――――っ!!』と鼓膜をつんざく人間の悲鳴が、満点の星空の下に轟いたのだ。


 雷鴫かみなりしぎの声などではない。明らかに人間の、しかも女の悲鳴だ。朱王の全身に鳥肌が立つ。と、次の瞬間彼の足は強かに地面を蹴り飛ばし、闇を突き抜け悲鳴の上がった方向へと駆け出していく。 その手には、もう提灯は握られていなかった。


 直線を描いて地へと降り注ぐ月光。それを頼りに夜道を駆け抜ける朱王の髪は漆黒の中でも美しく輝き、それは黒馬のたてがみを思わせる艶を放つ。息を切らし、汗を散らして、駆けて駆けて駆けて、辿り着いた道の先で目撃したもの、それは地面に這いつくばるように蠢く、異質な二つの影だった。


 乾いた地面の上で狂ったようにばたつく二本の白い足。若草色の着物の裾がはだけて宙に舞う。細く華奢な身体の上に跨がる襤褸布ぼろぬのの塊、夜目にも白いざんばらの白髪が夜風にたなびき、同時に鼻をつく濃厚な血の香りに、朱王は思わず 口許を押さえる。


 激しい痙攣を繰り返し、やがて力尽きたように地へ落ちる足。猫が喉を鳴らす、ごろごろと鈍い音と共に襤褸布ぼろぬのの塊がゆっくりと立ち上がる。声も出せず、身動きも取れない朱王へと振り向いたのは、口から胸元を深紅の血潮で染め上げ、手には粘りつく朱を滴らす出刃包丁を握った、一匹の『鬼』だった。


 血走った虚ろな瞳が朱王を射る。垢染みた顔に深紅の血化粧を施した鬼は、空気に触れ、どす黒く変色した血潮の滴る出刃を振りかざし、朱王へと突進した。我に返り咄嗟に身をかわす朱王の首元を、空を裂く鋭い音を立て血染めの刃先が、掠めていく。老婆とは思えぬ素早い動きと、明らかに急所を狙い繰り出される刃の嵐に丸腰の朱王はなすすべなく翻弄された。


 乱れる足元に転がるのは、無惨に喉笛を掻き切られた若い女の骸。光を失った目は張り裂けんばかりに見開かれたまま夜空を睨み付け、首も千切れそうなほどに深い傷口は、未だ生臭い赤を溢れさせたままだ。


 息をつく暇もない、声を上げる暇もない。黄ばみ、あちこち抜けた歯を剥き出しに狂気の笑顔で襲い来る鬼の胸を力一杯突き飛ばし、よろけながらも踵を返し逃げをうった途端、右腕に走る灼熱の痛みと衝撃に、朱王の顔が苦痛に歪む。


 墨色の着流しは二の腕の部分がザックリ裂け、みるみるうちに黒いシミが広がっていく。熱く染み込む痛み、全身を駆け巡る恐怖と噴き出す汗……。後ろなど振り返っている余裕など無い。ただひたすらに今来た道を必死で駆け戻る朱王の右腕からは、深紅の血が玉となり、宙に散る。そんな彼を嘲笑うかのように、雷鴫かみなりしぎの甲高い叫びが満点の浮かぶ夜空へと響き渡った……。







「兄様……! 兄様、にぃ様ぁっ!」


 腹の奥から響く叫び。今にも泣き出してしまいそうな面持ちで、海華は柳町にある番屋の戸口を叩き開けた。戸が吹き飛んでしまいそうな勢いと、室内に雪崩れ込んでくる海華と志狼の姿に、ぎょっと目を見開いた忠五郎と留吉の隣には、右腕にまっさらな包帯を巻き、死人のように蒼白い顔をした朱王の姿があった。


「兄様……どうしたのよ? ねぇ、何があったの、大丈夫なの!?」


 室内へ飛び込み、朱王の膝にすがり付き何があったのか問いただす海華の傍らでは、朱王と同じく顔色を蒼白にさせた志狼が、腕の包帯へ視線を向けたまま土間に立ち尽くす。そんな志狼の肩を、忠五郎が軽く叩いた。


「二の腕の所を切られたらしい。まぁ、傷は浅ぇみてぇだから、安心してくれ。ところでよ志狼さん、桐野様はなんと仰ってるんでぇ?」


「あぁ……塚の側に死骸はなかったらしい。 だが、辺り一面血の海だったそうだから、殺しがあったのは間違いねぇ」


 そう呻きつつ、志狼は奥歯を噛み締める。鬼婆の襲撃を命からがらかわし、この番屋に朱王が転がり込んで来たのは、つい数刻前。右半身を血に濡らし、息も絶え絶えの朱王から事の経緯を聞いた忠五郎は、直ぐ様留吉を桐野の屋敷に走らせたのだ。


「てぇ事はだ、その女の骸はどこいったんですかねぇ? ドロンと消えてなくなっちまった、なんてこたぁ……」


 こめかみの辺りを掻きながら呟いた留吉を『馬鹿ぬかすな』と一喝、忠五郎は日に焼けた浅黒い顔を苦々しく歪ませる。死骸はどこへ消えたのか、三人の頭に同じ疑問が渦巻いたその時、海華に支えられるように朱王が立ち上がる。『大丈夫なのか?』そう小声で問いかけてくる志狼へ無言のまま頷いた朱王は鈍い痛みを発する傷口に手を添え、微かに唇を震わせた。

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