第一話
傾きかけた長屋門に麗らかな陽光が降り注ぐ。
江戸市中に数多くある貧乏長屋の一つ、中西長屋の井戸端では、粗末な絣の着物に身を包んだ中年女らが米や野菜を持ち寄って世間話に花を咲かせていた。
軒に集う雀よりも賑やかな女らの後ろでは青っ洟を垂らした男児が竹馬遊びに興じ、その傍らでは籠り人形を背負う女の子が子守唄のような物を口ずさみながら、長屋門を通り抜ける。
貧乏だが明るさと陽気さ、賑やかさにあふれたこの長屋の一室に『稀代の天才』との誉れも高い男が一人住んでいる。
十年ほど前、上方から下ってきたその男は江戸はもちろん大阪、はては京都までその名を知られる人形師である。
彼の作る人形は何十両、時には百両近くの高額で取引され、大名連中や、やんごとなき方々までもがこぞって手に入れたがる逸品だ。
しかし彼は、自身の気に入った仕事でなければ引き受けず、逆にどんな高額な依頼でも気に食わなければあっさり断ってしまう。
それを職人気質と言うものもいるが、『変わり者』と表現したが早いだろう。
その気難しい変人は、名を朱王と言った。生まれ育ちがどこなのか、詳しい事を知る者は少ない。
ただ、彼は作る人形の素晴らしさと同時に、ある事でもその名を知られている。
それは『吉原遊女も霞んで見える』と言われるほどの美貌の持ち主として、だ。
男にしては整い過ぎているといわれる容姿、男としては時にからかいの対象ともなる美しい顔を、彼は好ましくも疎ましくも思っていないようだ。
持って生まれたもの、自分ではどうにも変えようがないのだから。
そんな朱王には依然、共に暮らした妹がいた。彼女の名は海華、道の辻に立ち傀儡を操り芝居を行う傀儡廻しを生業としていた。
兄である朱王とは違い器量よしでも岡目でもない平々凡々の容姿をした彼女だが、底抜けの明るさと活発さは朱王は持ち合わせていないものだった。
朱王のために家事一切を引き受けていた彼女だが、今、その姿はこの長屋にはない。今から丁度十日前、めでたく嫁いでいったのだ。
相手は志狼という、元は忍であり、今は北町奉行所与力組頭、桐野数馬の使用人として仕えている男だ。
伊賀と甲賀、それぞれの血を引く彼は、それぞれから一族の端として命を狙われてきた。
海華と恋仲となってからも敵は襲撃の手を緩めず、一時は海華も巻き込まれ二人揃って、危うく命を落としかけたのだが、魔の手から逃れて無事に生還した。
しかし、志狼は左腕の自由を失ってしまったのだ。
だが、海華はそんな彼の腕代わりになると宣言し、先日、皆に見守られて無事に祝言を挙げたのだ。
長年寝食を共にしたこの狭い部屋から、春の薫風に乗り純白の白無垢に身を包み嫁いでいった海華。
自分の分身とも言える人形を、『独りで寂しくないように』と、ここへ置いていった海華。
心から愛した男、志狼と生死の境をさ迷い、窮地を切り抜け、その動かぬ左手の代わりになると言い切った海華。
そして、朱王が命を懸けて守り抜き、誰よりも何よりも大切に、互いに支え慈しみ生活してきたこの世でたった一人の妹は、自分のもとから旅立って行ったのだ。
寂しくない筈がない、悲しくない筈がない。海華が幸せならば、そう無理矢理己を納得させようとするが、そう簡単に吹っ切れるものではなかったと、朱王は改めて感じていた。
たった一人の部屋で過ごしていると、時間の流れが蛞蝓の如く遅く感じるのだ。
仕事を受ける気にもなれない、何をする気にもなれない、まるで魂が抜けてしまったような朱王。食欲も落ち、傍目から見ても痩せた彼を、長屋の住人らは心底心配している。
恐ろしいほどに家事、炊事のできない朱王に代わり、惣菜や何やらを持参してくれる住人達の目にしたものは、脱ぎ捨てたままの着物が部屋の隅に置かれ、空になった酒瓶や湯飲みが転がる中、煎餅布団に昼過ぎまで潜り込む朱王の姿だった。
『あのままじゃ、朱王さんダメになっちまう』それが大方の意見だ。
朱王自身も、そう噂されているのが薄々わかっているのだろう、更に部屋を出る機会は減っていく。
ここ数日、誰かと言葉を交わした覚えがない、それほどまでになっていた。
「── 海華、悪いが、茶をいれてくれ。…… 海華 おい!」
この日も、起き掛けに布団から顔を出したまま、朱王は寝惚けた声を張り上げる。
しかし、その声に答える者など誰一人としていない。寝起きのぼやけた頭が、一瞬で冷たく冷えていく。
「あぁ……いないんだった、な」
そう一人ごち、不機嫌そうに寝乱れた頭を掻く朱王は、小さく舌打ちしながら、再び布団へ潜り込む。
部屋には、未だ日の光は射し込んでいない。このまま起きても、やることなどないだろう。
掠れた大あくびを一つ放ち、朱王は再び布団へ潜り込む。甘い惰眠の誘惑はすぐさま思考を侵食し、朱王の意識は薄ら闇の彼方へと消えていった……。
眠りという名の重い水の底から、ゆっくり浮上する意識。
己を包む空気は暖かく、そしてどこか懐かしい香りがした。
とんとんとん……と、鼓膜にぶつかる軽やかな音色に、朱王は閉じていた瞼をそろそろ開ける。網膜を焼くのは、戸口から射し込む真っ白な日の光。
古い戸口超しに響く女達の賑やかな朝の囀ずり、清々しく新鮮な朝の風景の中に、小柄な人影が暗く浮かび上がった。
「あ、やっと起きたわね? ご飯出来てるから、早く顔を洗ってきて?」
土間にある水瓶から水を汲み、忙しそうに動き回る襷掛けの紅い着物。
『あぁ』と寝惚けた声色で返事をし、朱王は布団から身を起こした。
ぼりぼりと首筋を掻きつつ、欠伸を一つ放った次の瞬間、そんな朱王の両目が張り裂けんばかりに見開かれた。
「おまっ……っ! 海華ッッ! ……お前、何やってんだっ!」
寝起きの掠れた喉から、すっとんきょうな叫び、いや絶叫が清廉な空気を震わせる。
くるりとこちらを振り返る人影。それは間違いなく、十日前に嫁いでいったはずの妹、海華だった。
「なによ、そんな大声出しちゃって、みっともない」
寝乱れでぐしゃぐしゃの髪もそのままに、穴が開くほど自分を凝視してくる朱王に、海華は呆れ顔で溜め息をつく。
「お前、なんでここに! ……まさか、もう帰されたのか? まだ十日だぞ! 一体何をやったんだ!」
半ば悲鳴じみた叫びを上げる朱王とは反対に、彼女の柳眉は逆立った。
「失礼ねぇ! そんな訳ないじゃない!」
「なら、どうしてここにいるんだ!」
うまく働かない頭に、電撃の如く駆け抜ける混乱。
朱王の頭と同じく沸騰しそうな味噌汁をお玉でかき混ぜて、海華は不機嫌な表情のままちらりとこちらを見遣る。
「どうしてもこうしてもないわ! 兄様が部屋から出てこない、死んでるんじゃないかって、色んな人から言われてさ、覗いてみたら、このザマよ!」
かん! とお玉を乱暴に置き、凶悪な眼差しで海華は朱王を睨む。
先程までの勢いはどこに飛んで行ったのだろう。 朱王は頬を引き攣らせ、唇をつぐんでしまった。
「たった十日だってのに、ろくにご飯も作ってなけりゃ掃除も洗濯もしてないじゃない! 男寡に蛆湧きまくりよっ!」
着物や湯飲みがあちこちに置かれたまま、散らかり放題、荒れ放題の室内をぐるりと見渡し、彼女声はさらに刺々しいものに変わる。
反対に、朱王は背中を小さく丸め完全に沈黙してしまった。
「あたしがいなくても大丈夫だなんて、よく言ったもんだわ、…… 説教はまた後にして、早く着替えて、顔洗って、ご飯食べて頂戴!」
びしりとそう言い放ち、海華は再び背中を向ける。
恐る恐る顔を上げながら、朱王はまいった、と言いたげに苦々しい表情を見せた。
「海華、確かに掃除も洗濯もしていなかった、でも……」
「言い訳は後にして、早く着替えて、ね?」
しどろもどろの朱王へにっこり微笑み、海華は折れよとばかりにお玉を握り締める。
つり上がる口角とは裏腹に、その目は、全く笑っていない。
『はい……』と、消え入りそうな声で答えつつ、朱王は背に突き刺さる彼女の視線にびくつきながら寝巻きを脱ぎ始めた。
湯気の立つ眩しいくらいの銀シャリと共に蒲鉾と海苔の佃煮を掻き込み、油揚げとワカメ、そして小口切りの葱が散らされた味噌汁を一気に飲み干して、朱王は満足げな溜め息をつく。
『ごちそうさん』箸を置きながら、そう呟いた朱王を待っていたかのように、ゆらゆら湯気を舞わせる湯飲みが差し出される。
爽やかな茶の香りが、乱雑に散らかった部屋へ満ちていった。
「お粗末様でした。温かいご飯なんて、久し振りだったんでしょう?」
未だ怒りが治まらないのか、わずかに頬を膨らませ海華は布巾で手を拭う。
情けない話しだが、彼女の言う通りだった。 海華が嫁いでからというもの、おかずを作るはおろか飯すら炊いていなかったのだ。
朱王が作るまでもなく、長屋の女達が、何やかにやと気を利かせ食事を差し入れてくれたのだ。
それはそれで独り身の朱王には有り難い。だがやはり、炊きたて熱々の白い飯と味噌汁に敵う物はなかった。
「美味かった。その……悪かったな、面倒掛けて」
しゅん、としおらしく肩を落とす朱王に、海華は溜め息つきつき茶を啜る。
表で遊ぶ子供らの賑やかな歓声が止まった空気の凝る部屋に飛び込んだ。
「本当に、身体でも悪くしたのかって、心配したのよ? いきなり何でもやれ、ってのは無理なのかもしれないけど……」
一度言葉を区切り、小さくなる兄を眺めて、海華は少しばかりの笑みを浮かべる。
「志狼さんが、様子見てこい、って言ってくれなきゃ、もっと酷い事になってたわね?」
「なに、志狼さんが?」
驚いたように顔を跳ねあげる朱王へ、くるりと振り向いた海華が小さく頷く。
「そうよ、志狼さんが言ってくれたの。兄様、いい義弟持ったわね?」
にや、と白い歯を除かせ笑う海華に、朱王はふてくされた面持ちでそっぽを向く。
湯飲みの茶も飲み切らぬうち、部屋の掃除と洗濯に取り掛かる海華の手で朱王は部屋から叩き出されたのだった。
海華と言う名の嵐に部屋を終われ、何をやるでもなく街をぶらついていた朱王が長屋へ戻ってきたのは、辺りが茜色に染まり始めた頃だった。
恐る恐るといったふうに長屋門をくぐった朱王を待っていたのは大家以下、長屋に住まう者らの質問の嵐、いや暴風雨だ。
先日嫁いだばかりの海華が、実家と言えるこの部屋で掃除洗濯飯炊きに汗を流しているのだから、当然と言えば当然だろう。
皆、海華から粗方の話しは聞いているものの、本当は帰されたのではないか、何があったのだ、とグルリ周りを囲まれて朱王は怒涛の質問責めに合う。
『海華の話し通りです!』繰り返しそう説明……いや、叫びつつ、ほうほうのていで部屋へ飛び込んだ。
夕餉の支度をしているのだろう前掛けに襷掛け姿で土間に立つ海華が出迎えるその部屋は、朝とは見違えるほど綺麗になっていた。
放りっぱなしにしていた着物や肌着類は洗濯され、茶碗はきれいに洗われ、畳も塵一つなく掃き清められ、水拭きされている。澱んでいた部屋の空気事態が、さっぱり爽やかなものに変わっていた。
「お帰りなさい。取り敢えず、出ていた物は全部片付けたから。お夕飯も今作るわ。おかずも、日持ちする物にするわね」
「あぁ、すまないな。でも海華そろそろ帰らないと、桐野様のお夕飯が……」
「大丈夫よ、まだそんなに遅くはないから。おかずもすぐに出来るしね」
にこにこ笑いながら海華は蒟蒻と鰹節の炒り煮を箸で混ぜる。
すると、突然がらりと戸口が引き開けられたかと思うと、斜向かいに住む大工の女房、お君が満面の笑みを張り付かせた顔を、ひょいと覗かせる。
「海華ちゃん、旦那が来たよ」
『なかなかいい男じゃないの』ひやかしの台詞を放つ事も忘れず、お君が白い歯を見せた。
かんと口を開けたまま、反応する間もない朱王と海華をそのままに、顔を引っ込めたお君の背後から、苦笑いを浮かべる志狼が部屋の中を覗き込む。
「あら、志狼さん!」
「どうなってるか気になってさ来ちまった。あ、朱王さんこの間はお世話様でした」
相変わらず左腕は動かないのだろう、白い三角布で吊るしたままの志狼が、ぺこりと頭を下げる。
みるみるうちに、海華の顔に笑顔の花が咲いた。
「やっぱり志狼さんの言うこと聞いて良かったわ。ほんと、凄かったのよ、この部屋」
「そうか、でも仕方ねぇよな。今までお前が全部やってたんだからさ。すぐにやれ、って方が酷なんだ」
『これからも様子見に来ればいいんだ』そんな志狼の台詞に、続々と集まってきた野次馬……特に女連中から、おぉ、と感嘆の溜め息が漏れる。
『理解のある義弟』と『手間の掛かる義兄』の構図が皆の中に確立した瞬間だった。
それぞれの人生を巻き込んだ、新たな物語が今、産声を上げる。




