拷問
狭い収納スペースの中で少しずつ激しくなってくる一六の動悸とは裏腹に、姉が入ってきてしばらくは特に大きな変化は見られなかった。
ただ時々、ガタッとかゴトッとかいう何かを動かすような音と女性のすすり泣く声だけが静かな部屋に響いていた。
今の状況では外で何が起こっているのか彼には何もわからないが、下手に外の状況を伺えば見付かる可能性もある。
が、結局こんな状況でも好奇心に負けて少しだけ隙間を開けてしまう辺り、やはり彼という人間は欲求や感情というものに対して余りにも理性や理屈の強度が及ばない人間なのだろう。
引き戸を開けた瞬間、あまりの眩しさに彼は一瞬目が眩んだ。どうも先ほどとは違い、部屋の照明がついていたようだ。
彼は部屋の様子をよく見ようと隙間に顔を近づける。
と、その時である。
カツン。
彼の視界に黒いヒールを履いた足が急にフェードインしてきたのだ。
「っ!」
一瞬、叫び声をあげそうになったのを彼は必死に手で口を抑えてこらえる。
幸運にも姉は気がついてはいなかったようで、そのままカツカツ足は離れていった。
(あぶないあぶない。)
恐怖によって一瞬鼻白んだが、それでたじろぐような彼ではない。
気を取り直してもう一度覗き込めば、部屋の風景がはっきりと彼の眼前に広がった。
一見するに、そこは手術室のような部屋だった。
部屋の構造は入り口からみて左右に奥行きのある構造で、彼が隠れている場所はどうやら入り口から向かって左側のようだ。
そして入り口から向かって右側の奥、彼から見れば丁度真反対の位置にベットとも手術台ともつかぬ台が斜めに立てられていて、先ほどのスキンヘッドの女がそこに横たえられ拘束されていた。
その横に注射器のような器具を持った姉が立っており、部屋の壁一面には何に使うのか良く分からない器具がごちゃごちゃと掛けられている。
中には血の跡がこびりついたごつい鉗子ような、見た目からして明らかに物騒な器具もあり、彼は誰にも語られずしてこの部屋の使われる用途を大体の所察してしまった。
姉は禿頭の女に注射器を近づけていく、女は泣きながら必死に身をよじらせて抵抗を試みるが無駄な努力だった。
女の細い首筋に針先が当たり、柔らかい皮膚を押しのけながらゆっくりと刺さってゆく。
裸身がびくっと震え、女の全身に施された刺青の紋様が妖しく歪む。
「ぐ……ぐ……。」
注射器の中に満たされた液体が注がれていくごとに、そんな苦しげなうめき声が女の口から漏れてくる。
やがて注射器の中身が空になると、姉はすっと女から注射器を引き抜いた。
そして呻いている女をよそに壁から開口具のような器具と、玉口枷に見える器具をそれぞれ取り外した。
姉は開口具によって口を開き、手際良く女の口に玉口枷を嵌めてゆく。
そして枷がしっかり固定されているのを確認した後、女から身体を離した。
「むぐ……むぅ。」
くぐもった声とヒューヒューという息が玉口枷の向こう側から聞こえる。
それと同時に唇というストッパーを失った口から粘性のある唾液がとろんと漏れ出してくる。
姉はそれが不快だったのか露骨に嫌そうな顔をして、手の甲で思い切り女の頬を引っぱたいた。
パン、という乾いた音が部屋に響いた。
女は嗚咽を漏らしながら、じっとそれに耐えるようにして俯いた。
姉はそんな女の頭を顎下からぐいと無理矢理持ち上げると、拘束台の端からバンドを伸ばしてきて、女が丁度上を向くような状態で固定されるように調整した。
「―――!……!」
これから行われる事に対する恐怖だろうか、彼女の口から声に叫び声が漏れるが玉口枷のせいでくぐもってまともな音にならない。
必死に身をよじらせ最後の抵抗を試みてもいるようだが、それもまた拘束台にとりつけられたベルトと固定用のバンドが全て吸収し、拘束台をギシギシと軋ませるだけに終わっている。
姉は部屋の奥から色々な器具が満載されたャスターのようなものを引っ張ってきた。
そこからまずテープのような物体を彼女はキャスターから取り上げて、女の右目の目蓋の上下に貼り付けて目が閉じないようにする。
次に細い針のような器具を取り上げて、姉はぶつぶつと詠唱を始めた。
数秒のタイムラグの後、細い針の先がオレンジ色に輝き始める。
女の顔が明らかに恐怖で翳り、その両の眼はかっと見開かれた。
姉は、その針を、女の目玉にゆっくりと近づけて、そして―――
迷うことなく恐怖で揺れる眼球にその針を突き刺した。
一六は何かが灼ける時に聞こえるジュっという微かな音を確かに聞いた。
「グォォォォォォォォォォ――――!」
部屋中に凄まじい絶叫が響き渡り、そして急にぷつんと途切れた。
恐らくは痛みで気絶したのだろう、と彼は思った。
現に彼女の眼は急激に焦点を失い、身体は小刻みに痙攣し、痛みによる反射でかたや透明な涙が頬を伝い、一方では血の混じった赤い涙が頬にすじを残していた。
だが、これは終わりではない。一旦引き抜かれ再び刺し込まれた無慈悲な針の一撃によって、再度女の意識は引き戻される。
―――再びの絶叫。
口に嵌められた玉口枷からは口角泡を吹き散らし、固定された両の手足が狂乱の中でうっ血するほどに暴れまわりもがき苦しみ、刺青の彫られた身体は走る激痛の度跳ね上がり、握り締められた掌からは爪が食い込んだのか、血がぽたぽたと滴り落ちている。
元の世界であれば外傷性のショック死を引き起こしてもおかしくない状況であるように見受けられた。
が、ここの世界は痛みによるショック死という概念が無いのか、あるいは先ほど姉がスキンヘッドの女に注ぎ込んだ液体の為か、女は苦しめど苦しめど死ぬ様子が全くない。
そして死なぬが故に女はこの世の人間があげるとは思えないような絶叫と共に、地獄の苦しみを何度も何度も何度も何度も、味わい続ける事になるのである。
その光景を彼は引き戸の裏でずっと眺めていた。
右目の地獄が終わり、左目でまた同じ光景が繰り返される時も彼はただ眺めていた。
痛みによって腹の中からグロテスクな液体を吐瀉した時も、最後には悲鳴すらも掠れて、まるで俎上の魚のようにぐったりとした姿に成り果てても……。
彼は半ば平然とそれを眺めていたのである。
外の様子に変化が起こったのはあの地獄のような施術から少し後になってからだ。
突如、姉が何かを思い出したかのように部屋から出て行ったのだ。
すぐに飛び出そうかとも彼は思ったが、待て待て、と自分を諌める。
(スキンヘッドの女を残しままにしている以上、すぐに戻ってくるかも知れない。)
何より、今は気を失っているらしきあの女がどのような状態で意識を取り戻すか分からないのも一六にとってはネックである。
もし騒がれれば姉に気がつかれるかも知れない。
(今ここに居る事が姉さんに露見するのは不味そう……というのは分かってるんだけどねぇ。)
特に明確な根拠があるわけではないが、何となく見てはいけないものを見てしまったような感じを確かに彼は受けたのだ。
不思議な事に一六はこういうテの勘を、昔から外した事がない。
元の世界において、司法の目を欺き続け凶行を繰り返せたのもひとえにこの、本能的に危険を察知する動物的勘のようなものがあったが故にである。
尤も、そうした一見にして物事の本質を見極める直感力を以ってしても、彼はその身に訪れる死を回避出来なかったわけだから、彼としてはそうした直感というものをあんまり重要視はしていないのだが。
(それに、好奇心が勝っちゃうのも事実なんだよなぁ。)
あの女が日本語を喋ったという事実は十分彼の興味を引くに値するものだ。
(これを逃せば次はないかも知れない。)
一六は行動を起こした。
引き戸の裏側からするりと身体を外に出す。
静かに引き戸を閉め、部屋の中央へと移動する。
もしも意識が戻れば、彼女が日本人かどうか分かるかも知れないし、それに先ほど、彼はこの女に顔を見られている可能性があるのだ。
暗がりではっきりとは見えなかった可能性が高いが、それでも可能性としては残るのだ。
(ならばいっそ、危険を承知で会話をするメリットは、ある、よね?)
結論ありきのこじつけかも知れないが、しかしメリットがあるのはやはり大きい。
だが、話しに向かう前に確認しなければならない事がある。
(とりあえず、姉さんは今どこに居るのだろう。)
彼は入り口の扉を開き、ホールを確認するが既にそこに姉の姿は無かった。
(上の館まで戻っていったのだろうか。)
とも一瞬考えたがこの女を残したまま上まで戻るとは考えられ辛かった。
(という事は猶予はほとんどない。急ごう。)
一六は部屋の反対側まで移動する。
スキンヘッドの女は拘束台の上で意識を失い、俯いたままだらんと下がっている。
(意外と可愛い……特に、耳のあたりが!)
女の耳は一六のものよりかなり大きく、外側に広がるような形状をしている。
(この可愛い耳をちょん切って、テレビとかネットでよく観る芸人だか手品師だか良く分からない人の物まねをやったらきっと楽しいだろうなぁ。)
一六はちらとキャスターの上を見た。
そこには切れ味の良さそうな刃物がずらりと並んでいた。
彼はゴクリ、と生唾を飲み込む。
(いやいやいや!今はそんな場合じゃない。我慢だ……。)
今までの経験上、耳を切り取ってしまえば、当然今度は内耳が気になりだすだろうし、内耳を引きずり出せば今度は脳の形を見てしまいたくなるのは明白である。
彼は名残惜しげに刃物と女を二度見した後、やっと刃物から目を逸らした。
そして女の身体をゆする。
が、起きる気配はない。
しょうがないので彼は女の頬を思い切り平手打ちした。
本日二度目のパシンという乾いた音が部屋に響いた。
「ガッ!?」
流石にこれには女も目を覚ましたようだ。
女は少しの間、驚きで目を瞬かせていたが、すぐに彼を認識したのか
「フーッ!フーッ!」
と息も荒く、興奮し始めた。
だが、驚いたのは彼女ばかりではない。
一六もまた、動揺していた。
「その目……。」
彼が動揺するのも、無理はない。
何故ならば彼女の両目には女の全身に施されたものと同じ、刺青が施してあったからである。
けれども余り驚いてばかりも居られないので、彼は興奮する彼女の顎を掴んで
「静かにして欲しい。」
と言ってから手を離した。
女は、一六と言葉が通じた事に驚いたのか目を見開いて黙った。
「やっぱり、日本語が分かるんだね。」
彼は静かにそう告げた。
女は力強く頷く
。
「君は……日本人なの?」
再びの首肯。
(ああ、やはりこの人は僕と同じ所から来たんだ。)
彼は納得すると同時に、ずっと引っかかっていた姉の「新しい妹」という部分がここにきてやっと分かった気がした。
一六はゆっくりとした語り掛けるような口調で彼女に話しかける。
「良いかい、今は話してる余裕も時間も余りないから良く聞いて欲しい。まず、僕も君と同じ日本人だ。」
と前置きした上で
「僕もつい最近ここに来たばかりだから、何が何だか全く分からないのだけど、君の今の状況を見るに君の置かれている状況は余り宜しくないようだ。」
実際には余りどころではない状況だが、事実をそのまま告げて彼女を余計に不安にさせた所で一六にメリットは無い。
「このままでは君の命も危ないだろう。だけど安心して欲しい。僕が何とかして君を助ける。同じ日本人としてね。」
そういって、彼女の頭を優しく撫でる。
彼は嘘は言っていない。彼女を救い出したいのは本当だ。
ただしそれは彼女の可愛らしい耳だけであって、おまけ部分には興味はないが。
尤も、普通の人間ならば、こんな状況下で急に自分が日本人だと名乗っても信用したりはしないかもしれない。
しかしそこは一六という人間である。
今の彼女は心身共に磨耗しきった状態であり、謂わば心神喪失の状態に近くなる。
こうした状況においては、人間は優しくしてくれる他者や依存出来る環境に容易く洗脳されてしまう。
この女がそうした状態にある事を既に見抜いた上で、彼は話しかけているのだ。
加えて、彼は人を落ち着かせる声の調子、テンポを全て知っている。
極限まで追い詰められた状態の人間を軽い洗脳状態に追い込む事は彼にとって容易い。
現に今、女は涙を流しながら彼の言葉に頷いている。
「今は時間が無いから、悠長に話してはいられないけれど、君をこんな目に遭わせたあの女が居ない状況で今度もう一度ゆっくり話がしたい。それまでは辛いだろうけど……耐えて欲しいんだ。」
彼は彼女から目線を逸らさずに落ち着いた調子で言葉を投げかける。
こうする事で、更に暗示にかかりやすい状態を作るのだ。
女は急速に虚ろになりはじめた目で頷いた。
「よし、じゃあ僕は一旦消えるから君は目を瞑って、僕がさっき言った事は一旦全て忘れるように、ゆっくりと五十回自分に対して言い聞かせるんだ。五十回聞かせ終わったら再び目を開けて。良いね?」
女は彼に言われたとおり、何の疑問も持たず目を瞑って五十回自分の心に言い聞かせた。
そして目を開けた時、一六の姿は忽然と消えていた。
女は彼に会った事を綺麗に忘れてしまっていた。
彼女は自分でも気がつかない内に自己に暗示をかけ、自分の思考をロックしてしまったのである。
彼を元の世界において短期間でカルト宗教の教祖までに上り詰めさせた、マインドコントロールの真髄がそこにあった。
しかし、それに気がつく者は彼以外には居ない。