突然の姉宣言
主人公の異常性に関してはこれから徐々に書いていくつもりです。
その日、岡崎一六は前の日に自分が死んでしまった事などすっかり忘れていつも通りの朝を迎えた気になっていた。
彼はいつも目覚まし時計が鳴り出すきっちり五分前に起きるのが習慣になっていたから、起床と同時にほとんど反射的に本来目覚ましがある筈の場所へ手を伸ばした。
と、そこで一六は伸ばした手に奇妙な抵抗を覚えた。
妙にネットリとした、何かが絡みつくような感覚である。
正体の掴めぬ感覚に驚いた彼の意識は急激に覚醒した。
目を開けると同時にがばっと―――勢いよく上体を起こしたつもりだったが、本来腰の位置にあって力の作用点となる筈のベットが何故か消失していて、本来上体を起こす事に使われる筈だった力はそのまま身体を回転させる方向に向かい、彼の身体は45度ほど回転した後に何か固い物に腰がぶつかって静止した。
それもその筈。
この時一六は暗く怪しい雰囲気を醸しだす部屋の中央に据えられた大きなガラス容器の中に入れられていたのだから。
更にガラス容器の中には微かに泡立つ謎の緑の液体が一杯に満たされており、彼の身体はその液中にプカプカと浮いている格好になっている事も付記しておかねばなるまい。
当然だが、彼がこの意味不明な状況を理解するのはもう少し先の話となる。
一六が自分の置かれている状況が理解できず、混乱していたのと丁度同じ頃。
赤い絨毯の敷かれた西洋調の薄暗い廊下をゆらゆらと歩く一人の女性の姿があった。
いや、女性というよりも少女と言うべきだろうか。
腰まで垂れた長く白い髪、不健康なまでに薄く淡い色をした死人のような肌。
それとは対象的に薄く朱を引いた口唇は確かな生命の色を感じ取らせ、大きな眼に据えられた栗色の瞳は確かな意思の光を持って炯々と輝く。
細く長い睫毛は月の光を吸って光沢を帯び、彼女が瞬きをする度まるでそれ自体が生きているかの如く蠢く。
しかし同時に今にも折れそうなほど細い首筋は僅かに覗く襟元からでもはっきり分かるほど浮き出た鎖骨の上へと伸び、どこか人形じみた顔へと通じて彼女にどうしようもなく無機質な印象を与えている。
しかもその上、ただでさえこの世あらざる雰囲気を醸しだす容姿をしているというのに、よりにも着ている服が真っ黒なフリルのドレスに同じ白いリボンとフリルによって装飾の施された黒色のカチューシャときたものだから、白い髪と肌だけがぼうっと浮き出てきて見る者に何とも怪しげで不可思議なコントラストを印象づける。
生と死、動と静、有機質に無機質、白と黒。
正にこの世界の相反する二つの概念が渾然一体となって彼女の身体を形作っている。
彼女を一言で表すなら―――そう、矛盾。
だが何故であろう。不思議と彼女からは矛盾を感じないのである。
矛盾するものが必ず持つちくはぐさを彼女は持ち合わせていない。
彼女はゆらゆらと自然な足取りで廊下を歩いてゆく。
目指す先は勿論、岡崎一六を納めたガラス容器の部屋である。
矛盾の少女が静かにドアを開けて部屋に入ってきた時、既に岡崎一六は一応の落ち着きを取り戻していた。
尤も現状が彼の認識のキャパを遥かに上回ったままであるのもまた事実である。
けれども、とりあえず今の状況をある程度推測出来る程度には頭を整理出来ていて、ついでに昨日自分が死んだ事も思い出していた。
(何とも間抜けな死に様だった。)
今思い返すだけでもつい舌打ちをしてしまうほどだ。
しかし今はそれを後悔している時ではない。
一体何故自分はこうして生きているのか。それが問題だ。
起きてすぐの状態にあっては奇跡的に一命を取り留めたのかとも思ったが、今現在分かっている情報から類推するにどうもそうでないらしい。
何より鮮明に蘇った死の瞬間の記憶がそれを強く否定している。
部屋に入ってきた少女は室内の左右にある棚から本をいくつか取り出し始めた。
(この少女をすぐにでも問いただしたい気持ちはあるけど……)
だがまずは情報を再度分析して、論点を明確にすべきだろう。
現状彼が分かっている事は三つ。
一つ目、今自分が使っている身体は論理的に考えてあり得ない事ではあるが、元の自分とはまるっきり異なった人物のものだという事。
これは起きて一番に気がついた事だ。何故ならば本来の身体にはあった筈の男の象徴が綺麗サッパリ消えていて代わりに女性のそれらしき器官がついているからである。胸も若干膨らんでいる。
しかも背もかなり縮んでいるようで、他にも様々な事実から鑑みるにどうやら急に自分の身体が女性化したというよりは全く別の身体に意識だけ移したという考えの方が(それでもかなり無理があるが)理に適った推測であるようだ。
二つ目、ここは自分が暮らしていた場所とは根本的に異なった技術や概念で動く世界である可能性がある事。
自分の入っているガラス容器に満たされた液体ひとつ取ってみても、彼の常識の範囲を超えた物質である事は疑いようがない。
恐らくこの感じからすると彼の口腔から内臓に至るまで完全にこの液体で満たされているが呼吸が阻害される感じは全くない。だが、そんな性質を持った液体は少なくとも彼は見た事も聞いた事も無い。
三つ目、そもそも自分がどうしてここに居るのかがまるっきり理解できかねる事。
そう、今やはっきりと思い出した記憶によれば自分は間違いなく死んだ筈である。
では何故自分はここに居るのだろうか?
分からない。
とりあえず彼が論理的に分析出来る範疇を軽々と超えてしまっている事だけは分かる。
現状を一刻も早く認識する為には兎にも角にも情報が必要だ。
(整理すると、大体こんな感じか。)
だが、差し当たって問題点が一つある。
それは自分をこの状況に置いた存在とは対等な関係性を築けない可能性がある事だ。
これが問題だ。
自分をこの状況においた存在の常識が根本的におかしい可能性もあるが、少なくとも治療もしくはそれに近い目的の為に自分を謎の液体と共にガラス容器に浸しておくとはいささか考え辛い。
もっというならば自分がホルマリン漬けにされた実験動物になったような雰囲気を彼は感じ取ったのである。
だが行動しなければ状況は改善しないだろうし、今は危険を冒してでも情報が欲しい。
彼は意を決してガラス容器を内側からコンコン、と叩いた。
先ほどからひたすら棚から本を取っては数ページめくり、また戻して新しい本を手に取る動作を繰り返していた少女だったが、一六の呼びかけに気がついたのか視線をこちらに移し近寄ってきた。
だが、彼はそこで思わぬ問題とぶつかった。
「@$&”※!*%*#~!?」
近寄ってきた彼女が何か言葉を発したのだが、まるっきり通じないのだ。
彼は心の中で舌打ちした。
そもそも言葉が通じないという問題を完全に失念していたのだ。
考えてみれば当然の話である。
今目の前に居る少女はどう見ても日本人ではないし、日本語が当たり前のように通じると思っていた自分が愚かしい。
一応、日本語以外にも英語と中国語を彼は話せるがさっき聞いた感じだとそれらとも違う言語のようだ。
(とりあえず、迷っていてもしょうがない。)
一六は即座に言語による少女との意思疎通をあきらめ、ボディランゲージによってどうにかする方針に切り替えた。
ガラス容器の内側を先ほどより強く叩き、次に自分を指差し、そして少女を指差して、最後に外を指す。
少女が何か喋るがやはり通じないので反応はせず、同じ動作をもう一度繰り返す。
何度かそうしている内に、彼女はなんとなく意味を察したらしく手の平を下にして『動くな』という意味らしきサインをした後、小走りで部屋から出て行った。
いや、多分そうだろうと彼は推測しただけであって、ひょっとすると別の意味なのかも知れないが。
けれどもとりあえず『今からお前を殺してやる』という感じではなかったので、一旦は大人しくしておく事にした。
(しかしまぁ、よくよく考えてみればわざわざ蘇生させたものを殺す道理はないか。)
仮に彼女が自分を蘇生させた存在であるならば、当面は生かしてもらえるかも知れない。
死ぬよりもひどい目に遭わされる可能性もあるが、今それを憂いた所で自分に出来る事は何も無い。
どうせ一度死んだ時点で全てを失ったのだから、何も恐れる事は無いのだ。
(ただ、たった一つだけ望む事があるとすれば……。優香だ。)
優香。彼の脳裏に強く焼きついた存在。一六が付き合っていた彼女。
もしももう一度彼女に会う事が許されるのならば、今度こそ確かめたい。
彼は本当に彼女を余す所なく愛せるのかどうかを。
少女が部屋から足早に去っていった後、ほどなくして再び彼女は一六の前に姿を現した。
左右の脇にはそれぞれ何やらごちゃごちゃとした良く分からない物品と分厚い本を抱えている。
そしてそれらを丁寧に床へ並べていくと、本を開いた。
少女は本の内容と見比べるようにして、床に紋様のようなものを描いていく。
それが次第に形を為していくにつれ、全体の形状が浮き彫りになってくる。
彼が一見するに、まるでそれは黒魔術に使われる魔法陣そのままのような印象を受ける具合だった。
(早速僕を魔術か何かの実験に使うつもりなのだろうか。)
そんな事をぼんやりと考えていた彼であったが、今のままでは特に打つ手なしとみてつい今しがた編み出した何も考えずひたすら体育座りで謎の液体の中をプカプカ浮く遊びを続行する事にした。
それから更に幾ばくか時間が過ぎて、遂にその魔法陣らしきものが完成したのか少女は手を止め、そして立ち上がった。
そこからおもむろに一六の入っている容器の方に向かうと何やらモニョモニョと呟いた後、右手を正面にかざしヒュウっと真横に一閃した。
すると、あたかもその手の軌跡を追うようにして彼を納めるガラス容器の表面がくぱぁと開かれていくではないか。
にも関わらず、奇妙な事に彼の浮いている謎の液体はゼリーの如く固まったままで一滴も外に漏れ出さない。正に微動だにしないのである。
ガラス容器の表面を真横に切り開いた線は今度は次第に上下に広がって楕円状の穴になった。それでもまだ穴の拡張は止まらず、やがて穴の大きさが一メートルほどに達した所でやっとその拡張を終えた。
ガラス容器にぽっかりと空いた穴がその拡張を終えた様子を確認した少女はやはり再びモニョモニョ呟いた後、右手の人差し指と中指をくいっと上へ折り曲げた。
すると驚くべき事に、先ほどまでは微動だにしなかった謎の液体がグニャグニャと動き始めたのだ。
そうして徐々に形を変え始め、一六を液体の内部に納めたままの状態でガラス容器の穴からするすると出て行こうとしているではないか。
これには流石の彼も少々動揺して、慌てて液体の外に出ようと試みたが内部の液自体にはほとんど弾性が無い癖に外の空間との境界に当たる部分だけ、厚いゴムか何かが出来ているようにブヨブヨとしていて彼の身体を外部に出す事を猛烈に拒んでいる。
二、三度脱出を試みた彼だったが為す術もなく押し返される自分の、今や昨日より前の面影を微塵も感じさせないか細い腕を見て、
(ああ、これは無理だな。)
と悟った。
よってとりあえずは少女と液体の為すがままにさせておく事にした。
下手をすれば液体の変形にあわせて、自分の身体が変な方向に折れ曲がったりするかも知れないと懸念していたが、謎の液体は一六の身体を内部に抱えたまま、器用に容器の外へと這い出た。
そしてそのまま、ずりゅ、ずりゅ、ずりゅ。とまるでアミーバのように少女の方へと這ってゆく。
彼の身体も一緒に引きずられていく格好だ。
しばらくそうやってずりずりと地面を引きずられていった後、とうとう謎の液体は魔法陣の中央にたどり着いた。
少女が液体の中に横たわる彼の姿を覗き込む。
心なしか少女は微笑んでいるように一六には思われた。
彼女は手に持った分厚い本のページをめくり、聞き覚えの無い言葉を唱え始めた。
それと同時に床の魔法陣が少しずつ、少女の言葉に呼応するかのように真紅の色に輝き始める。
(一体何が始まるというんだろう?)
今更ながらに彼の胸中では自分がこれからどうなるのだろうという漠然とした不安がよぎった。
その不安を一層かきたてるように魔法陣の輝きは更に増していき、彼の身体にまとわりつく謎の液体はコポコポと泡立ち始めた。
そうこうしている内に、やがて一つの変化が現れた。
「ッ!?」
彼の身体の内外に満たされている謎の液体が突如として、今までからは考えられないほど凄まじい圧力で暴れだしたのである!
既に彼の上下の穴という穴から内臓に至るまで完全にこの液体で満たされている状況であるからして、その痛みは想像に余りあるものであった。
「――ッ!―――ッ!」
彼は当然、凄まじい勢いでもがき苦しんだが手足は実体の無い液体の中で水をかくばかりで、口腔を塞がれているから声を出す事すらもままならない。
耳から入った液体は内耳を通って頭を内側から圧迫し、喉から入った液体は胸の辺りでふくらみ、股の穴から入った液体が内臓をまさぐる。
急激な嘔吐感と呼吸不全からくる意識障害、思考を根こそぎ刈り取られていくこの感触。
この常軌を逸した痛みと苦痛と不快感の中で、彼はつい昨日味わったばかりの「死」という絶対的な概念を再び突きつけられていた。
ただ唯一違いがあるとすれば昨日味わった死は今よりも遥かに静謐であった。
自分の「生きる」という機能が一つ一つ閉じていく感じをただ静かに受け止めていた。
つまりそれの意味する所は、彼はまだ死んでいないという事だ。
急激に落ち込んでゆく意識を引き戻して、何とか持ち堪える。
そして一瞬でも早く苦痛が終わってくれる事を祈りつつ、ひたすら耐える。
永遠とも続くような長い陵辱の後――――
遂に彼は、べしゃっ。という音と共に、冷たい床に背中から落とされた。
「がっ、げほっ!ごほっ!」
落ちた拍子に反射的に息を吸い込んだらしいが上手くゆかず、線の細い身体を一杯にまで折り曲げて盛大にむせた。
と、ふと彼の額に温かい感触が触れた。
目を開けてそちらを見れば、かがんだ少女が彼の額に手を当てて、ゆっくりと愛おしげに彼の額を撫でていた。
一六の視線に気づいた少女はにっこり笑いながら口を開いた。
「始めまして、私の名前はニルヤアンナ・スフィール。貴方の姉よ。」
昨日死んだ筈の自分が何故か生きていて、わけのわからない容器の中に閉じ込められ、言葉が通じない少女と出会い、良く分からない内にひどい目に遭わされ、そしてまた良く分からない内にいつのまにか言葉が通じていて、姉が出来た。
こうしてサイコパス岡崎一六の転生は分からない事だらけのままに、幕を開けたのである。