episode.1≪起動≫
放課後、僕、こと唐墨孝一は旧館へと足を運んでいた。
部活の掛け声が響く渡り廊下を足早に通り過ぎていく。
僕の通う京誠高校は歴史の深い高校である。数年前までは古く寂れた校舎であったが最近新たに校舎を建設してきれいになったのだ。旧館は初めは取り壊す予定だった。が、どこから力が働いたのか急きょ取り壊しはやめになり残すという方針に変わったらしい。旧館は授業の教室移動でもほぼ使われていない。
だが僕は旧館を大変重宝していた。
旧館にある物理実験室。
高校に入学してから二か月ほどたったがそこが僕の安息の地と化していた。
部活を入っていない僕は放課後に毎日物理実験室に行きのんびりと過ごすことが日課になっていたのだ。鍵もかかっていないし誰もいないので落ち着ける。旧館に行くことは校則で禁止されていないが、教室の無断使用は禁止されている。唯一僕が校則を破っていることだ。
なぜ物理実験室なのかというと匂い、と雰囲気、それがぼくの感性にがっちりと100%マッチしていたからだ。誰しも心安らかに鳴れる場所があるだろう。不良ならコンビニ、主婦なら井戸端、ヲタクならアイドルライブ会場――個人的な偏見だが。それと同じだ。
そうして渡り廊下を浮き足気味に進んでいるとふと視界に見知った頭が過ぎった。
歩くのを止めて窓の外を見る。
そこにはテニスコートが広がっていてウエアーを着た女生徒たちがラケット片手に汗水を流していた。スイングの練習をしていたり玉ひろいをしていたりとせわしない。僕の眼球の黒目はとある人にとまる。
薄い金色。
透き通るような金髪をした少女。肩ほどまである髪を結って、その体はウエアに包まれている。少女はテニスラケットを構えてテニスコートに立っていた。
テニスボールを地面にバウンドさせている。相手コートには腰を低くして構えている女生徒がいる。まさに試合を始めんとしている。
彼女は高々とボールを上に投げた。
勢いよく振りぬかれたラケットがボールをとらえてレーザーのように相手のコートにたたきこまれる。相手は全く反応できていなかった。
15‐0。
二回目、今度は相手は反応してボールをとらえた。だが何とかとらえたという感じですぐに逆サイドにカウンター。
30‐0。
三回目は変化をつけたサーブ、バウンドしてから不規則にボールがはねた。
45‐0。
圧倒的だった。僕は思わず見とれる。結局そのゲームは彼女が取った。
彼女はゲームが終わるとベンチの方へと歩いて行った。タオルで汗を拭いている。隣に座る先ほどの対戦相手となごやかに談笑していた。僕はぼうっと見ていると、ふと彼女の視線が僕の方へと注がれた。目があった。彼女は驚いた顔をした。僕は急いで窓から離れた。心臓に手を当てる。
「しまった……」
見ていたことがばれてしまっただろうか……。僕は固まる。彼女は驚いた顔をしていた。それは誰でもない僕が見ていたからだろう。
ああ、なんてことだ。
ちょっと見ているだけのつもりが阿呆みたいに窓にへばりついて見つかるなんて。僕は頭を抱え込んだ。
彼女の名は鬼怒川笑美。
ロシア人の父を持つハーフでフルネームはもう少し長い。金髪の見た目は目立つことさながら目鼻端麗に整った容貌でも校内で目立っている。
平たく言うと僕の幼馴染だ。
どこをどう平たくしたかというと彼女とはここのとこ話していない。というか高校入学、もっとさかのぼって中学二年のころから話した記憶があいまいになっていた。
昔は近所のよしみもあってよく遊んでいたが僕と鬼怒川が中学にはいってから彼女はテニスをやりだして、そこから疎遠気味になっていった。
小学生のころのように一緒にいるのがなんとなく恥ずかしかったというのもあるのだろう。鬼怒川がテニス部に入ってだんだんと地区大会入賞、地区大会優勝、府大会三位、全国大会入賞と優秀な成績を残していくにつれて僕は彼女から遠ざかって行った。
初めは僕も大会に行って応援していたが鬼怒川が強くなるにつれて取り巻きが増えていった。
彼女は忙しそうに毎日練習していて大変そうにしていた。僕はそれを横目で見ていたわけだがなんとなく鬼怒川が僕の知らないところに行ってしまう気がして、それから僕は彼女を避けるようになった。
原因は分かっている。
それは僕が避けたこともあるがもっと突き詰めれば原因は僕の劣等感にある。
横の窓を見ると手洗い場の鏡に映る僕の姿。
中肉中背の体躯。
さえない顔。
街中にでれば僕のような容姿の男子高校はごまんといるだろう。
勉強しか取り柄がなく地味な見た目で社交性が皆無の僕。
に比べて文武両道、容姿美麗、もちろん学校での評判が高く人気がある鬼怒川。
二人を価値のある人間天秤にかけた時、針は真ん中を指すことはなく鬼怒川の方へと振れるだろう。それ以上でもそれ以下でもない。
僕は鬼怒川と一緒にいるのが申し訳なかったのだ。
∫
物理実験室に着くころにはだいぶ気持ちは回復していたがそれでもブルーが完全に抜けた訳ではない。見上げる。そこには物理実験室と書かれた錆びたプレートがぶら下がっていた。普段なら僕の興奮指数が上昇するところなのだが今日はあんまりだ。左右を一応見渡すが当然のことながら誰もいない。僕は陰鬱とした手つきで実験室の扉を開いた。
実験室はおおよそ普通の教室の大きさである。
しかし雑多に積まれた実験装置や本、器具、模型などで埋め尽くされているので自由に動ける場所はあまりなかった。
しかしそれらは埃を被ることはない。それは僕がひとつひとつ丁寧にいつも掃除しているからだ。
僕は鞄を定位置に置くと旧館の空き教室からかっさらってきた椅子に座った。
椅子の隣にはスピーカーが二つ付いたコンポが置いてある。
僕は鞄の中からCDを取りだしてコンポに入れて再生する。
はじめの曲はJAZZのスタンダードナンバーで低いピアノの前奏から始まる僕のお気に入りの一曲であった。こんな気持ちの時はJAZZを聞いて心を和やかにするのがベターだ。
するとさっきまでモノクロだった実験室に色がともり始めた。
窓は開いてないが心地の良いそよ風に吹かれているような気分になる。
僕は足を組んで目をつぶった。
低いベースの音と軽やかに流れるピアノの旋律、実験室の器具たちが踊り始める。
サックスの音が飛び跳ねてからまって部屋の中で遊ぶ。フラスコの底にたまっている水が音の振動でかすかに揺れている。振り子が音楽に合わせて揺れ始めた。使われない実験室が華やぐ。そこはまさに僕が望む安息の地であった。
一曲目が終わり二曲目に入った。二曲目はちょっとおどけた調子のJAZZで実験器具たちがまた違う顔を表す。
僕は立ち上がった。
壁際に置いてあるコーヒーメイカーのスイッチを入れる。
するとコポコポと音を立てながらコーヒー豆が焙煎されていく。
僕はその足で本棚の方へと歩いていき、適当に一冊の本を手に取る。タイトルは簡素で「ニュートン」。席に戻り中を開くと紙の日焼けしたいい匂いが鼻孔をくすぐった。
――ニュートンは木の根元に座っていた。
その時彼の頭上からリンゴが落ちてきた。
そこでニュートンは気づく。
この地球には重力があると。
それだけではなくニュートンはリンゴが落ちてきたところを見たことから万有引力の存在から星々、天体の動きまでを証明してしまった。
もし僕が木の根元に座っていてリンゴが落ちてきてたらおそらく家に持って帰りリンゴパイにして胃に収まるだけだったろう。そのあと考えることは、りんごはおいしかったなあという感想だけだ。天才とは日常の些細なことで物理法則を見出すらしいが、僕には無理だ。
かの有名な発明王、トーマスエジソンの言葉にこんなのがある「天才は1%の才能と99%の努力である」。
これはもちろん天才が言ったセリフだが、99%の努力というとこより1%の才能、ひらめき、そちらの方が重要である。凡人は1%の才能ですら努力で埋めようとするのだ。つまり100%の努力、柔軟な才能が入る余地はどこにもないわけだ。僕は自分のことを秀才などとうぬぼれるわけではないがそれなりに勉学は励んできたつもりだ。
僕は物事全般にそこそこの努力をしてきた。
もちろん努力が結果に出たこともあるが出なかったこともある。たとえばスポーツ。僕はストレッチや走り込みをどれだけしても運動技能が上達することはなかった。努力や才能、それらの間には大きな溝があり、1%は努力では埋められないのだ。
立ち上がってコーヒーを淹れにいく。マグカップを傾けるとコーヒーの甘い香りが心地いい。
西日が赤く実験室を照らしている。
グラウンドの方に目をやるとサッカー部の部員たちが泥にまみれて練習をしていた。その顔は青春に輝いている。それを見て僕は思う。
もし、僕に少しでも才能があれば彼女、鬼怒川のそばにいられたのかな、と。
÷
「う……ん」
顔面神経が脳へ痛覚信号を送っていた。
顔を上げて頬をさすると皺が寄っていた。机の上にはよだれが付いている。どうやら眠ってしまったようだ。外は暗く腕時計を見ると7時を過ぎようとしている。まずいな早く帰らねば門が閉まってしまう。いやもう閉まっているかもしれない。そうなってしまうと厄介で職員室にいき、「すいませんがまだ僕がいます。門を開けてください」と謝りにいかねばならない。最悪物理実験室を無断使用していたことがばれてしまうかもしれない。
あわただしく片づけを始める。とっくに止まっているコンポの電源を落としCDを取りだして鞄に入れる。本を手に取り本棚に戻そうとした時ひじに何かが当たったような感触がする。机上に置いてあった金属の球にぶつかってしまったのだ。滑車実験で使うもので、それは机から落ちてしまった。音を立ててころころと壁の方へと転がっていく。
「っとと、待て待て……」
僕は球を追いかけていく。すると金属球は壁にぶつかって、「跳ね返ることなく」そのまま動きを止めた。ピタッと僕は伸ばしかけた手を止めた。
うん?
眉を上げる。旧館の壁の材質は木だ。確かにコンクリートや孝一などの物質に比べてやわらかい。つまり反発係数は低いので物が当たってもそこまで跳ね返りはしないだろう。だが、いくら反発係数が低いといえども壁際にピタッと止まるだろうか?
転がって行った金属球はそれなりの質量とスピードを有してあったわけで、ピタッと止まったとなれば木よりもやわらかい物質でなければ衝撃つまりエネルギーを吸収できないわけだ。
僕は壁際の方へと歩いていく。
入り口から見て右側のこの壁はいろいろ雑多なものが置かれていて特に気にかけたことはなかった。大きさは教室の教卓側の壁とほぼ同じ。
少なくとも入学してから二か月、触ったことはない。
僕は壁に人差し指をさしてみる。ふにっと僕の人差し指が沈んだ。それは明らかに木の感触では決してなかった。
「なんだ?」
もう一度触ってみる。
やはり木とは似ても似つかないおかしな柔らかさがあった。ひじの余った皮を押したときの感触に似ている。僕は一度身を引いてみた。見た目は確実にただの木の壁だ。至って普通でそれはもうただの壁。
僕の中で好奇心が芽生えた。
何かがある。
隅から隅までをよく観察してみる。やはり見た目は何の違和感もない。しかし一か所奇妙なところがあった。右端の下の隅。壁が膨らんでいる、というより少しめくれていた。実験室は明かりをつけていないので暗くてわかりづらい。隅に行ってしゃがみ込む。するとそこはやはり壁がめくれていた。僕はめくれているやわらかい壁をつまんで引っ張ってみる。すると想像以上に簡単にはがれた。はがれた部分の壁の向こうを覗いてみる。そこには金属のような物が目に入った。
「金属?」
木の壁、の向こうに金属の壁があるだと?
意味が分からない。耐震のため?
いやいや、それはないだろう。それだったら外部塗装を木材イミテーションにする意味が分からない。
「調べてみるか」
僕は壁際にある物をどかしていった。
机や、実験に使う滑車などを次々と反対側の壁へと持っていく。
今の頭の中にあった学校を早く出なければならないという考えはどこかへ飛んで行ってしまっていた。
数分をかけてようやくすべての物をどかすことに成功する。
額の汗をぬぐい再び壁の方を見る。物があったとこが日焼けせずに色が他のところと異なっている。僕は右端に行きめくれた壁を両手で持った。
そして一気に左側へと体全体を駆使して引っ張っていく。シールをはがす時のような音を立てながら壁がはがれていく。左端に着くとめくれた壁が床へと滑り落ちた。僕は手を放して後ずさる。
「なんだ……これ?」
目の前に合ったのは金属の壁ではなく――機械。
とても大きな機械。灰色の巨大な機械。
壁全体を覆うようにして金属の機械がそこにはあった。
フィルターやパイプのような物が機械に埋め込まれている。そして真ん中にあるはモニターと何かのスイッチ。
左端の上には大小さまざまな歯車が設置されていた。僕の目の前で不気味にたたずんでいる。
「なんだこれ……」
僕はあっけにとられた。額から汗が一滴流れ落ちる。
何の冗談だ?
めくった壁の向こうに馬鹿でかい機械って、学校の七不思議でももう少し現実的なのではないであろうか。これは何かのドッキリか。
地味な僕の地味なリアクションを見て誰が楽しむんだ?
僕は混乱してしばらくの間立ちすくんでいた。身動きが取れず固まっている。夜の静寂が実験室を支配していた。
「……」
どれくらいそうしていただろうか。
やはり目の前にあるのは巨大な機械。目をこすってもそこには確かにある。僕はだんだんと冷静になってきた。
と同時に僕の中でとある思いが膨らみ始めていた。
動かしてみたい。
危険な思考だ。この機械が何のために造られたのか、そもそも動くのかすらわからないのに。今すぐ回れ右をして実験室を飛び出し職員室に駆け込んでこのことを報告すべきだろう。だが頭では分かっているが体が動かない。
目の前の巨大な機械はそれくらいに不思議な、奇妙な魅力があった。
僕はいつのまにか機械の目の前に立っていた。
機械の入り組み方は時計の基盤に似ている。複雑に絡み合って配線コードや歯車がひしめき合っていた。
眼前にあるのは何かのスイッチとモニター。モニターの横には英語で「DISTANT」と書かれてある。
和訳すると距離。
スイッチは三つあってそれぞれ上に「POWER」、「YES」、「NO」と書かれてあった。たったそれだけであった。だが不思議としっくりくる。僕は後ろを向いて誰もいないことを確認した。
右手が動く、人差し指が「POWER」のボタンの前で止まる。
……ちょっとまて、本当に押していいのか?
なぜだかわからないがこのスイッチを押すといろいろと取り返しのつかないことになりそうな予感がした。禁忌を犯す前のような嫌な湿り気が背中を漂う。理論立てて説明できない怖気。その警戒心が一瞬だけ指の動きを止めた。
だが、それよりも僕の中にあるのは圧倒的な好奇心。未知の物に対する知的探究心。その好奇心は警戒信号を発する僕の心を鎮めるに十分だった。
人差し指がゆっくりとボタンを、押した。カチリと何かがはまる音がした。
――瞬間、
ウォオオオオオオオオオオオオオン
唸り声の様な地響きのような低く心臓に響く音がし始めた。
「うわっ」
機械が揺れ始めた。まるで永い眠りの底からたったいま起きたかのように激しく音をたてている。振動で実験室も揺れて頭上から埃が落ちてきた。僕はバランスを保つためにしゃがみこむ。
すると地響きの中、機械のモニターが点灯した。実験室の夜闇の中、黄色く輝いている。僕は緊張しながらもゆっくりと立ち上がって覗き込む。そこには電光掲示板のように何かの文字列が流れていた。僕は踏ん張りがら読んでみる。
「A distant set up is 200000 light years.
Push yes if very well.And if no will be canceled」
――距離設定は20万光年です。よろしければYESを取り止めるならNOを押してください。
「……」
揺れはいよいよ激しくなっていく。旧館そのものがもしかしたら振動しているかもしれない、それくらいに激しかった。音のせいで聴覚がマヒしてくる。
YESを押すか、NOを押すか。
息が荒くなっていた。瞬きが多くなる。心臓は馬鹿みたいに早鐘を打っていた。
この機械はなんなのかわからない、どんな結果を招くか予想がつかない。あとから考えたらこのとき僕はすぐさまにNOを押すべきだっただろう。というか普段の冷静な僕ならなにを間違ってもYESのボタンを押すことはなかったと思う。無神論者だが神に誓ってもいい。しかしこのときの僕は一種の幻覚状態にあったのかもしれない。目の前の非現実的な事態。それがあり得ない選択をさせてしまったとしか言いようがない。
僕は何かに取りつかれたようにYESのボタンを、押した。
一瞬の出来事だった。
機械が発光したと思ったら、目の前が白の世界に覆われた。聴覚も、視覚も、嗅覚も五感すべてがなくなる。まさに無の中にいた。足の底から抜けていくような浮遊感に襲われる。
そして気づくと僕は横たわっていた。床の冷たい感触。
いつの間にか地響きは止んでいた。静けさを取り戻している。頭をうったようで側頭部がズキズキと痛む。体を起こすとさらさらと涼しい風を感じた。
機械があった方を見てみる。
機械がなかった。
あれだけ存在感を出していた機械がなくなっている。
そして代わりにそこにあったのは――
――草原。
実験室の右側には大草原が広がっていた。