夏の夜だ、口説かなくては。
結論。
きゅんべえ効果はすごかった。
大きな紙袋と小さめの持ち手がついたケースを提げつつ夜の町を五十嵐に指定された公園まで歩きながら、俺は改めて紙袋の中身の力に驚いていた。
だって、あんなに頑なだった五十嵐を翻意させたのだ。
ことこの件に関しては、俺はきゅんべえに負けたと言わざるを得ない。
しばらく歩いて公園に着くと、ベンチに座って待っている五十嵐が見えた。
運良く他に人はいない。
近づいて声をかけながら、距離を空けて隣に座る。
「ごめんな、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫。それより、あの、この前はごめんなさい」
「それはさっき電話で聞いたし、大体別に気にしてないよ。それより、これ」
俺はきゅんべえを紙袋から半分取り出し、人形の顔が見えるようにして五十嵐に渡す。
「わあ、おっきいきゅんべえだ!すごいかわいいなあ。うん、すごいかわいい!ありがとう!」
人形を手でふにふにと触りながらはしゃぐ五十嵐は、とても微笑ましかった。
初めて見る私服の五十嵐はオリーブグリーンのVネックカットソーにラメが入ったデニムのスカート、ピンク色の少し凝った作りのミュールという服装で、シンプルな中にも足元がポイントになっていてなかなかに可愛らしかった。
「喜んでくれてよかったよ、持って来た甲斐があった。けどさ」
「なに、三浦君?」
「かわいいか、それ?俺にはただのおじさんにしか見えないんだけど」
俺は正直な感想を口にする。
「えー、すごいかわいいよ」
人形を触り続けながら、五十嵐が言った。
「例えばどういうところが?」
「どういうところって……、全部かなあ。うん、全部だよ、全部かわいい」
要領を得ない五十嵐の説明を聞いて、俺はきゅんべえの魅力の秘密を解明する事を諦めた。
「女子って変なもの好きだよな」
「うーん、男子だってそうじゃない?狩りするゲームとか、ケンカのマンガとか」
「まあそうかもな」
「そうそう、そうだよ」
五十嵐が満足そうにうなずく。
五十嵐がうちに来た時のような、柔らかい空気が段々と流れ始めている気がする。
「それにしても、こんな風にまた話せるとは思わなかったよ」
「ん、どうして?」
「やっぱこの前、怒らせちゃったりしたし」
「怒ってなんかないよ……、それはもういいの。それより三浦君の私服、初めて見ちゃった」
「それはお互い様だろ。俺だって五十嵐の私服、初めて見たよ」
ここで褒めるべきなんだろうが、当然俺にそんなことは出来るわけがない。
「なんか二人とも制服じゃないから、変なかんじがする。夜だし、誰もいないし」
「不良だな、五十嵐。完全に不良だな、こんな時間に家を抜け出して男子と会うなんて」
「そうだね、もう立派な不良だね。髪染めなきゃ。お父さんとお母さん、怒るだろうなあ」
「何色に染めんの?ほら、茶色って言ってもピンクブラウンとかハニーブラウンとか色々あるじゃん?」
「えっとね、緑にする」
よりにもよって、すごいとこ突いてきたな。
「目立つだろうなあ。なんか緑の髪ってアニメっぽいし」
「それで、その緑の髪で、お酒飲みに行くの」
「酒飲みに行くって、本当の不良じゃん!」
「そうだよ、本当の不良だよ、もう誰にも止められないよ。それで三浦君のお店に行くの」
俺の店、って何の話だ?
俺がぽかんとした顔をしていると、五十嵐が言った。
「覚えてない?ほら、前に話したじゃない、三浦君がシャカシャカやってる夜の街にあるお店」
思い出した、この間うちで話した時に五十嵐が俺がバーテンダーっぽいとか言い出して……。
それでたしか、最終的に俺がフラれまくる話だ。
「で、俺が店に来た五十嵐を口説きだすんだろ?」
「そうかもね」
ニヤケだす五十嵐。
「で、当然フラれるんだろ?」
「どうだろうね」
「いや、絶対そうじゃん。それであれだろ、すぐ次の女の人にいくんだろ?なんか五十嵐の中で俺がどういうキャラクターになってんのか、不安になってくるよ。なんかさあ、俺のこと誤解してない?」
「誤解って?」
「すごいかるいヤツだと思ってるでしょ?言葉の端々から五十嵐がそう思ってるのが伝わってくるんだよな」
はっきり言って、心外だ。
俺は自分ではかなり恋愛関係には真面目な方だと思っている。
そりゃあ侑や明日菜の前では下ネタも言うが、そりゃあ人並みにH方面への興味はあるが、基本的には奥手だ。
「別にかるいだなんて思ってないよ、ちょっとからかってるだけ。ただなんていうか……、慣れてるっぽいかんじがするんだよ、女の子に。なんとなくだけど」
慣れてなんか……、いや、よく考えてみれば五十嵐にそう思わせる心当たりがなくもない。
「それって多分、明日菜のせいじゃないかな?ずっと一緒の幼馴染が女だったから、女子と話すのも周りのやつら程は抵抗ないんだと思うよ。それでも男子と話すのよりは、やっぱり緊張するけど」
「そっか、明日菜ちゃんのおかげか。私は男子と話すの、すごい緊張するなあ」
「けど、今は俺と普通に話してるじゃん?」
この前もそうだったが二人で話す時の五十嵐は、とても自然だ。
学校での五十嵐は(もちろん常に観察しているわけじゃないから分からないが)誰といる時でも一定の距離をキープしているような気がする。
少なくとも俺に対してするように、誰かをからかったりとかするキャラではない。
「なんでかな?やっぱり学校じゃない、っていうのもあるかもしれないけど……。なんとなく話しやすいというか、話してて楽しいというか……。なんでだろう?」
「知らねえよ」
笑いながら俺は言う。
そんなの五十嵐本人が分からないのに、俺に分かるわけがない。
「まあ分からないよね、三浦君には」
「さっき『なんでだろう』って聞いたの、五十嵐じゃん。自分だって分からないんだろ?」
五十嵐は口を少し不満そうに尖らせて、髪の毛先を左手で弄った。
「そうだよ、分からないよ」
「じゃあなんで『三浦君には』って言い方になるんだよ?」
「……なんか難しくて、よく分かんなくなってきちゃったな」
そう言って五十嵐は髪を触りながらこの話題をぷつんと終わらせた。
話が終わってしまったので俺は手持ちぶさたになり、何の気なしに無人の滑り台やジャングルジムを眺めた。
気持ちのいい夏の夜だ。
ゆるやかな風が、昼の熱気の名残を少しだけ残した地面を撫で、鉄棒の下をくぐり、俺と五十嵐の間を通り抜けていく。
夏の夜の公園は少し非日常的で、それだけでわくわくするし横にいる女子はかわいい。
出来ることなら、もっと五十嵐とこういう風に話していたい。
今日だけじゃなくて、何度も。
そしてそれは多分可能だろう。
このまま、ただ五十嵐と楽しく話しているだけならば。
しかし、俺にはやらなければいけないことがある。
これから行う自分の行動で俺は、運良く取り戻せた五十嵐との関係をまた失うことになるかもしれない。
そして今度も五十嵐が許してくれてまた楽しく二人で話せるようになる、そんな保証はない。
けれど、仕方がない。
俺はどうしても五十嵐にまたボールに触れて欲しい。
勝負は今日限りと決めていたし、五十嵐もそんなに遅くまでは外に出ていられないはずだ。
俺は残された時間があまりないことを確認しながら覚悟を決めた。
「実はさ、五十嵐を物で釣る作戦なんだ」
俺と同じように遊具を眺めていた五十嵐が、俺の方を向く。
「なんのこと?」
「俺は、やっぱり五十嵐と一緒にフットサルがやりたい」
五十嵐は特に驚きもせず、淡く微笑んだ。
「誘ってくれるのは本当に嬉しいんだよ?でも、私……」
少し黙った後五十嵐は、やがて決心したように話し始めた。
「あのね、三浦君。クラスの皆には言ってないんだけど、中学二年の時に事故に遭うまで、私サッカーやってたの。最初はお兄ちゃんがやってたから真似して始めただけだったんだけど、すぐに夢中になって。事故に遭うまではずっとサッカーが中心の毎日で、ボールを蹴るだけですごく楽しくって。同じチームの仲間と練習したり、部のことを話し合ったり、休みの日は一緒に遊んだり……。もちろん試合も好きだったけど、勝ち負けよりは皆とプレーすること自体が好きだったの。本当に大好きだった」
「知ってるよ」
「え?」
「中二の時、たまたま兵庫に行く機会があってさ、学校のグラウンドでプレーしてる五十嵐を偶然見たんだ。テクニックがあって、運動量があって、何よりすごいパスセンスだったからそれからずっと覚えてたんだよ。高校の入学式の日も、あの時の10番の子だ、ってすぐに気付いた」
俺の言った内容に、五十嵐は驚いた様子だった。
「俺、五十嵐のプレーを見てるんだよ」
俺はもう一度繰り返した。
「……じゃあ三浦君なら解ってくれるよね?あの頃みたいに出来ないんじゃ悲しくなるだけだし、今の
自分と事故に遭う前の自分の差に苦しくなるだけだよ。私はその苦しさが怖いの」
五十嵐は下を向いて、振り絞るように言った。
五十嵐が感じている怖さは、どんなに頑張っても俺には理解出来ないだろう。
どんなに想像しても、全く足りないのだろう。
ただ、それでも。
変わることを怖がってちゃ、前には進めないんだ。
「ブラインドサッカーを観てる時の五十嵐、本当に楽しそうだった。俺には私もやりたい、もう一度プレーしたいって顔に見えた。きっと出来るはずだよ、だから……」
「簡単に言わないで!」
下を向いたまま、五十嵐は震える声で叫んだ。
初めて見る、感情を露わにする五十嵐の姿だった。
「……五十嵐に見て欲しいものがあるんだ」
俺はケースの中から数枚のプリントを取り出し、五十嵐の膝の上に勝手に置いた。
「ここのところ、どうすれば五十嵐がプレーしやすいかを俺なりに考えてたんだ。それをまとめたのがそのプリント。今から説明するね」
五十嵐は返事をしないが、聞いてくれているはずだ。
俺は無言の五十嵐に話し続ける。
「まず、フットサルはサッカーに比べてエリアが狭い。サッカーだとある程度長いパスを蹴る脚力が必要だけれど、フットサルではサッカーで言うショートパスが蹴れれば十分だ。エリアが狭いということは、移動する距離も短くなるということだ。つまりピッチというかコートの広さだけでも、五十嵐にとってフットサルの方がサッカーに比べてプレーしやすい」
隣に座った俺からは、うつむいたままの五十嵐の表情は見えない。
「あと、フットサルにはオフサイドがないんだ。これは上がったまま戻らなくても大丈夫だってことだよ。そのまま前に残ってもいいし、ゆっくり戻ってもいい。オフサイドがないということは、後ろに戻る際にスピードが無くても問題ないってことなんだ。あと、これは勝手に俺が思ったことなんだけど、五十嵐は基本的にコートの中央あたりにいるのがいいと思う。それなら出すパスが短くても大丈夫だし、サイドに比べたらスピードも要求されない。これにはパサーは真ん中っていう俺の固定観念もあるんだけど。ほら、サッカーやってた頃の五十嵐は、ボールを散らすタイプだったからさ。一試合丸々見たわけじゃないから、俺の勝手なイメージかもしれないけれど。それでディフェンスなんだけど、相手は自陣に一人は残しておいて攻めるだろうから、こっちが守る時は三対三の状況になると思う。同数ってことは、マンツーマンにさえ負けなければ守りきれる。言うほど簡単じゃないのは分かってるけど、うちには足が速くて運動神経の良い明日菜もいるし、経験者の侑もいる。なんとか対処出来るはずだ。あと五十嵐以外のメンバーの動き、例えば俺の場合を話すと……、五十嵐?」
説明に必死になっていた俺は、息を飲んで五十嵐を見た。
五十嵐は泣いていた。
地面を見つめたまま、声を出さず涙を膝の上のプリントにこぼしていた。
長い沈黙の後、涙声の五十嵐が小さくゆっくりと呟いた。
「……三浦君が、私の為に、考えてくれたんだね」
少しだけ顔を上げたことによって見えた五十嵐の濡れたまつ毛は、夏の夜の空気に溶け込むようでとてもきれいだった。
「……あのさ、五十嵐」
俺は最後の勇気を出して、一番伝えたかった言葉を口にする。
「五十嵐を助ける戦術を考えている時に、気づいたことがあるんだ。それは、誰かを助けるのはその誰かに助けられることと同じだってことなんだ。俺達は五十嵐を助ける、だから五十嵐は俺達をサポートしてほしい。今の五十嵐は自分の時間が止められてしまったと思い込んでるけど、それは自分で止めているだけなんだ。ちゃんと奥の方にある想いを心の外に出せば、もう一度いろんなことが回り始めるはずだよ。大丈夫、一緒ならきっと出来る」
俺は話し終わった後も、五十嵐を見つめ続ける。
時間が止まったような公園に、やさしい風の音が微かに響く。
「本当にいいのかな、またボールが蹴れるのかな……」
俺は微笑みながら、五十嵐の独り言のような問いに答える。
「心配いらない、絶対うまくいくよ。メンバーも面白いやつが集まってるんだ、きっと楽しくなるよ」
「本当に三浦君達に頼ってもいいの?」
こちらを向き、五十嵐がおずおずと聞く。
暗い中でも、さっきの涙は既にうっすらと跡だけを残して止まっていることが分かる。
「当たり前だろ、俺達も五十嵐に頼るからお互い様だよ」
「本当に、本当にいいの?」
「任せて」
「本当に、本当にいいのね?」
「……五十嵐って、実は結構しつこいのな」
俺は先ほどまでの緊張がほぐれ気が緩みつつあるのか、何度も聞いてくる五十嵐の姿に噴き出してしまう。
五十嵐も繰り返し同じことを聞く自分に気がつき、恥ずかしそうに笑っている。
「じゃあ、あの……、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる五十嵐。
「お願いされました」
満ち足りた気持ちで何気なく前を見ると、公園の時計が見えた。
「うわ、もうこんな時間だ!」
話に夢中になっていて、時間のことをすっかり忘れていた。
「ほんとだ、お兄ちゃんに怒られちゃう」
うちと違って五十嵐は家族が待っているんだ、そろそろ家に帰さないといけない。
もしかしたら夜に家から出てくること自体、大変だったのかもしれないのだ。
「夜に呼び出して悪かったな」
「ううん、それはいいの。チームにも入れたし、きゅんべえも貰えたし。今まで誰にも言えなかったことも言えたしね」
もう帰らなくてはいけないことは分かっているのだが、ベンチから立つことが出来ない。
無理だと分かってはいても、もっと五十嵐と一緒にいたい。
横にいる五十嵐も同じ気持ちだといいのに、と少しだけ思う。
本当に少しだけれど、そう思う。
「結果的にはモノで釣る作戦、大成功だったな」
「何か悔しいな。確かに釣られちゃったわけだけど」
本当にUFOキャッチャーで頑張って良かった。
きゅんべえが無ければこの話、どうなっていたか分からない。
「侑に頼めば、いくらでも獲ってきてくれると思うよ」
「ううん、一つあれば十分。これがいいの」
「ふーん、まあ喜んで貰えてよかったよ。じゃあそろそろ……」
二人揃って立ち上がり、五十嵐はスカートの裾をかるく直す。
俺はその姿をなんとなく直視出来ず、意味なくさっきまで座っていたベンチを見つめた。
「それじゃ……、じゃあね、三浦君」
「じゃあな、おやすみ」
「おやすみなさい」
平静を装ったまま、去り難い気持ちを抑える。
「風邪、ひかないようにな」
「夏だもん、ひかないよ」
「ほら、クーラーつけっぱなしで寝ちゃうとかあるだろ」
俺がそう言うと、五十嵐は愉快そうに笑った。
「大丈夫、ちゃんとタイマーかけて寝ます」
「ならいい。おやすみ」
「おやすみなさい、三浦君」
挨拶をして別れ、一人で公園を出てから後ろを振り向くと、もう五十嵐は見えなかった。
帰り道は、出来るだけゆっくりと歩いた。
気分の良い夏の夜だ、急いで帰る必要なんてない。
それに、たまには季節の匂いを嗅ぐ時間だって必要だ。
そんなことを思いながら、俺はのんびりと夜の住宅街を家まで歩いた。