ただの幼馴染とのことでしたら、婚約者としての距離感を今一度ご説明いたします
王城の大広間には、初秋の夜会にふさわしく、金木犀の香が焚かれていた。楽団の音が高い天井に反響し、磨き上げられた床にシャンデリアの光が幾重にも映り込んでいる。
イゾルデは、婚約者であるオーギュストの隣に立ち、招待客との挨拶を終えたところだった。ふと視線を巡らせると、少し離れた場所で、ミレーヌがオーギュストの腕に自分の腕を絡めているのが目に入った。
「オーギュスト様、こちらのワインを試してみてくださいませんか。とっても美味しいの。私が選んだんですよ」
ミレーヌは、屈託のない笑顔でそう言った。オーギュストも、特に気にする様子もなく、差し出されたグラスを受け取っている。
周囲の何人かが、ちらちらとイゾルデの様子を窺っていた。婚約者の目の前で、これほど親密な振る舞いをする女性がいることに、驚いている様子だった。
こうした光景は、今夜が初めてではなかった。半年前の夜会でも、先月の茶会でも、ミレーヌは同じように距離を詰め、オーギュストは同じように受け流してきた。イゾルデは、その度に黙って見過ごしてきたが、今夜はもう見過ごすまいと決めていた。
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「ミレーヌ、少し離れていただけますか」
イゾルデは、静かにそう声をかけた。感情の色は、声にも表情にも表れていなかった。
「あら、イゾルデ様。心配しなくても大丈夫よ、私とオーギュスト様は男友達みたいなものだから」
ミレーヌは、悪びれる様子もなく、軽やかにそう答えた。
「サバサバしているだけよ。変な意味はないの」
周囲の何人かが、思わずといった様子で息を呑んだ。婚約者の前で、堂々とそう言い切れる神経に、驚いているようだった。誰もが、次にイゾルデがどう反応するかを、固唾を呑んで見守っていた。
「昔からのことだから、気にしないでくれ」
オーギュストも、そう言ってミレーヌを庇った。境界線を引くつもりは、まるでないようだった。
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「では、疑問を一つ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
イゾルデは、静かにそう切り出した。
「ただの幼馴染とのことでしたら、婚約者としての距離感を今一度ご説明いたします」
会場が、しんと静まり返った。ミレーヌが、怪訝そうに眉をひそめた。
「距離感、と仰いますと」
周囲がざわめく中、イゾルデは会場を静かに見渡してから、続けた。
「未婚の男女が、私的に二人きりで訪問し合う頻度について、社交儀礼上の目安をご存知でしょうか」
イゾルデは、淀みなく続けた。
「月に一度程度が、家族ぐるみの付き合いとして許容される範囲とされております。ミレーヌ様は、この一月だけで五度、オーギュスト様の私邸を訪問なさっています」
「そ、それは、たまたま用事が重なっただけで……」
「贈答品の授受についても、伺わせてください。先月、誕生日でもない時期に、オーギュスト様から懐中時計を受け取られたと伺いましたが」
「そ、それは、ただのお祝いというか……」
ミレーヌの声が、初めて上ずった。
「誕生日でもない時期に、婚約者以外の女性から高価な贈り物を受け取ること自体、通常であれば婚約者の同意を得るべき事柄でございます。オーギュスト様、私に一言でもご相談いただいたことはございましたでしょうか」
「そ、それは……悪いとは思っていなかった、というか……」
「思っていなかった、ということ自体が、問題でございます」
イゾルデは、静かにそう言った。責めるでも、詰るでもない、ただ淡々とした口調だった。
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「心が狭い、と思われるかもしれません」
イゾルデは、静かに言葉を継いだ。
「ですが、これは心の狭さの問題ではございません。婚約者のいる殿方への振る舞いとして、作法に反しているという指摘でございます」
「そ、そんな堅苦しいことを気にするなんて……普通はもっと、おおらかに構えるものじゃないかしら」
ミレーヌが、なおも食い下がった。
「おおらかさと、儀礼の遵守は、別の話でございます。それに、堅苦しいと感じられるかどうかは、当事者ではない方の感想に過ぎません。婚約者として、私には確認する権利がございます」
イゾルデの声には、一切の乱れがなかった。淡々と、しかし着実に、論点を積み重ねていく。
「そ、それを言うなら、イゾルデ様こそ、嫉妬深いと思われても仕方ないのでは。婚約者を信じられないなんて」
ミレーヌが、なおも反論を試みた。周囲の視線が、固唾を呑んでイゾルデの反応を待っていた。
「信じる信じないの話ではございません。信頼と、儀礼上の距離感は、別の軸にございます。信頼していても、作法として守るべき一線は存在いたします」
「そんな理屈、聞いたことがないわ」
「理屈ではなく、社交界で長く受け継がれてきた慣習でございます。ご存知なければ、この場でご説明できますが」
ミレーヌは、それ以上何も言い返せなかった。
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「オーギュスト様」
イゾルデは、婚約者へと向き直った。
「殿下がこれまで境界線をお引きにならなかったのは、なぜでしょうか」
「そ、それは……昔からの付き合いだから、いちいち線を引くのも、なんというか……」
「面倒事を避けたかった、ということでしょうか」
オーギュストは、何も言い返せなかった。図星を突かれた、という顔をしていた。
周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き交わし始めた。「境界線を引く覚悟がない」「優柔不断」——そんな言葉が、さざ波のように広がっていく。
少し離れた場所にいた壮年の侯爵夫人が、静かに口を挟んだ。
「殿下は、婚約者よりも、面倒を避けることを優先なさったということですね。それは、いささか頼りないお話に聞こえますが」
オーギュストの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「わ、私は別に、ミレーヌを特別扱いしているわけでは……」
「特別扱いしていないのであれば、なぜ他のご令嬢方には許していない訪問や贈答を、ミレーヌ様にだけ許しているのでしょうか」
オーギュストは、言葉に詰まった。図星を突かれ、何も返せずにいた。
「殿下がそれを『特別扱いではない』とお考えなら、その認識のずれこそが、今回の問題の根にあるかと存じます」
少し離れた場所にいた若い伯爵が、小さく苦笑した。
「殿下、これは分が悪うございますな」
その一言に、周囲から控えめな笑いが漏れた。オーギュストの顔が、さらに赤く染まった。
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「わ、私はただ、円満に過ごしたかっただけで……」
オーギュストが、絞り出すようにそう言った。だが、その言い訳を拾う者は、もう誰もいなかった。
「円満に過ごすためには、時に境界線を引く必要がございます。それを怠った結果が、今この状況でございます」
イゾルデは、静かにそう告げた。
「ミレーヌ様」
イゾルデが、続けてミレーヌへと視線を向けた。
「あなた様に悪意がないことは、存じております。ですが、悪意がないことと、逸脱していないことは、別の話でございます」
ミレーヌは、青ざめた顔で俯いた。自分の振る舞いの意味を、ようやく理解し始めたようだった。
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「殿下」
イゾルデは、最後に一度だけ、まっすぐにオーギュストを見た。
「境界線を引く覚悟のない方と、この先を歩むことはできません」
会場が、大きくどよめいた。
「イゾルデ、それは……」
「婚約解消を、私から申し出させていただきます」
イゾルデの声には、迷いも、感情の昂りもなかった。ただ、静かな決意だけがあった。
「これは嫉妬ではございません。境界線を引けない方との将来に、不安を覚えただけでございます」
「イゾルデ、待ってくれ。今から改める、今からでも……」
「今からでは、遅うございます」
イゾルデは、静かに、しかしきっぱりと遮った。
「今夜このやり取りがなければ、殿下は境界線を引かないままだったはずです。指摘されて初めて改めるという姿勢そのものが、私の不安の理由でございます」
オーギュストは、それ以上何も言い返せなかった。
イゾルデは、深く一礼した。
「では、失礼いたします」
踵を返し、会場の出口へ向かう。誰も、その背を止めなかった。
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廊下に出ると、楽団の音が遠のき、静けさが戻ってきた。窓から差し込む月明かりが、石畳の床に長い影を落としている。
イゾルデは一度だけ息を吐いた。それでも、足取りは乱れなかった。
「見事な判断でした」
声のした方を見ると、王妃付きの女官長エリアーヌが、静かに歩み寄ってきた。夜会には来賓として同席していたはずだったが、広間の中では姿を見かけた記憶がなかった。
「先ほどのやり取り、拝見させていただきました。感情論に流されず、儀礼という基準で筋を通されるお姿は、なかなか見られるものではございません。長く王宮に仕えておりますが、あのような場面で最後まで取り乱さない方は、そう多くありません」
「臆病なだけかもしれません。感情で押し通そうとすれば、ただの痴話喧嘩にしかなりませんので」
「その冷静さこそが、貴重なのです」
エリアーヌは、そう言って小さく微笑んだ。夜会の熱気が引いていく廊下で、その微笑みだけが、妙に鮮明に映った。イゾルデは、その静けさに、少しだけ肩の力を抜いた。
「先ほどの、社交儀礼の細かな基準まで、よくご存知でしたね」
「幼い頃から、侍女長のオデットに教え込まれておりました。感情で物を言う前に、まず事実と作法を確かめよ、と。今夜、ようやくその教えが役に立ちました」
「良い侍女長をお持ちですね」
「はい。厳しい方でしたが、おかげで今夜、取り乱さずに済みました」
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「もしよろしければ、王妃様付きの女官長候補として、正式にお迎えしたいのですが」
イゾルデは、少し驚いたように瞬きをした。
「王妃様付き、でございますか」
「王宮では、感情ではなく、儀礼と筋道で物事を判断できる人材が、常に不足しております。今宵のあなたのお振る舞いは、まさにそれを体現しておられました」
「畏れ多いお話でございます。私にできることでしたら、精一杯務めさせていただきます」
「謙遜なさらずとも。婚約解消という、ご自身にとって大きな決断をなさった直後にもかかわらず、この落ち着きようです。並大抵のことではございません」
「……喜んでお受けいたします」
「先ほど、殿下を庇うような視線が一瞬あったように見えましたが」
エリアーヌが、そう尋ねた。イゾルデは、少し間を置いてから答えた。
「情がなかったわけではございません。長く共に過ごした時間がございますので。ただ、情と覚悟は、別のものでございますので」
廊下の窓から、夜会の灯りが遠く滲んでいた。イゾルデは、前を向いたまま歩き出した。
◇◇◇
一週間後、ランベール伯爵邸に、王妃の紋章が入った正式な招聘状が届いた。
女官長候補としての任命と、来月からの出仕が記されていた。急な話ではあったが、支度に十分な猶予も添えられている。末尾には、エリアーヌの署名と共に、一文が添えられていた。
『境界線を引く覚悟のある方を、王宮はいつも探しております』
イゾルデは、その手紙を静かに畳んだ。窓の外では、初秋の風が庭の木々を揺らしている。
侍女長のオデットが、静かに部屋に入ってきた。
「お嬢様、王宮からの招聘状、拝見いたしました。おめでとうございます」
「オデットのおかげでございます。あの夜、あなたに教わった作法がなければ、あそこまで冷静には対応できませんでした」
「あら、私はただ、礼儀作法をお教えしただけでございますよ。それを、こんな形でお使いになるとは思ってもみませんでしたが」
「その礼儀作法が、私を守ってくれました」
オデットは、少し驚いた顔をしてから、静かに目を細めた。
もう誰も、彼女を「物分かりの良い令嬢」とだけは呼ばないだろう。だが、それでいい、とイゾルデは思った。物分かりの良さとは、時に、境界線を引けないことの言い換えに過ぎないのだから。
オデットが、窓辺に立つイゾルデの背に、そっと声をかけた。
「後悔は、ございませんか」
「ございません。境界線を引けない方と、この先も曖昧なまま歩み続ける方が、よほど恐ろしいことでございましたので」
「良いお答えです」
オデットは、静かに一礼し、部屋を後にした。扉が閉まる音は、いつもより少しだけ、静かだった。イゾルデは、机の上の招聘状を、もう一度手に取り、丁寧に文箱へしまい込んだ。
翌朝、イゾルデは新しい手袋を身に着け、王城へと続く道を、迷いのない足取りで歩き出した。庭先の薔薇が、朝露を纏って静かに揺れていた。
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