騎士団長は『月うさぎ亭に』通いたい
Kindleにてお読みいただける「ワンコ系勇者は図書館司書を離さない」のスピンオフになりますが、これだけでも十分にお読みいただけます。
20代後半の大人のちょっとコミカルな恋愛を書きたくて、勢いで書いてみました。
騎士団長は、『月うさぎ亭』に通いたい
日本からこの世界に迷い込んで、十年が経った。
最初の頃は毎日泣いていた気がする。
家に帰りたい。
家族に会いたい。
コンビニのおにぎりが食べたい。
スマホを触りたい。
そんなことばかり考えていた。
けれど人間とはたくましい生き物だ。
十年も暮らせば異世界生活にも慣れる。
王都の外れで『月うさぎ亭』という店まで経営しているのだから、自分でも驚きだ。
「いらっしゃいませー!」
昼時を過ぎた店内は少し落ち着いていた。
常連客たちがのんびりお茶を飲みながら談笑している。
異世界の食材と日本の料理を組み合わせたうちの店は、ありがたいことに結構繁盛していた。
人生、何があるか分からない。
十年前の、十五歳の私に教えてあげたいくらいだ。
『あんた異世界で飲食店やってるよ』って。
たぶん信じないだろうけど。
三年前には、さらに信じられないことも起きた。
日本から勇者が召喚されたのだ。
それがユーマだった。
ユーマは勇者として世界を救い、今では公爵になっている。
相変わらず真面目で優しいし、最近は可愛い奥さんもできた。
めでたい。
実にめでたい。
ただ、そのせいで少し困ったこともあった。
「こんにちは」
聞き慣れた低い声が店内に響く。
私は思わず顔を上げた。
そしてため息を吐く。
「……また来た」
思わず本音が漏れた。
「ミサキ、聞こえているぞ」
「すみません。心の声が口から出ました」
「全部出ているな」
レオンは呆れたようにため息を吐く。
だが、慣れた様子でいつもの席へ向かった。
窓際の二人席。
最近では完全に指定席になっている。
最初は驚いたのだ。
だって騎士団長である。
王国でも指折りの偉い人である。
そんな人が突然うちの店に現れたのだから。
最初に来た時はユーマと一緒だった。
同じ日本人だけれど、英雄のユーマと騎士団長。
店内のお客さんたちは緊張しっぱなし。
私も危うく注文を聞き間違えるところだった。
それが……。
二回目。
「また来た」
三回目。
「また来た」
四回目。
「また来た」
五回目。
「また来た」
いつの間にか常連になっていた。
しかも最近はユーマがいない。
一人で来る。
普通に来る。
何なら週に何度も来る。
「騎士団長って暇なんですかね」
ぽつりと呟く。
すると近くにいた常連客のおじさんが吹き出した。
「ミサキちゃん、その発言はなかなか勇気がいるぞ」
「でも週に何度も来るんですよ」
「人気店だからじゃないか?」
「それなら嬉しいですけど」
私はレオンの席を見る。
今日も黙々と定食を食べている。
どうしてそんなに来るんだろう。
やっぱり日本の料理が珍しいのだろうか。
まあ、確かに私の料理は美味しい。
それは認める。
自分で言うのもなんだけど、かなり美味しい。
十年も作り続けているのだから当然だ。
レオンが箸代わりの木製フォークで器用に唐揚げを口へ運ぶ。
そして無表情のまま頷いた。
……あ。
今の絶対、美味しかった時の顔だ。
分かる。
最近ちょっと分かるようになってきた。
「なるほど」
私は一人で納得した。
「やっぱりご飯だな」
あれだけ通う理由。
きっとそれしかない。
そう結論付けた私は知らなかった。
騎士団長が通っている理由が、料理だけではないことを。
***
その変化は突然だった。
いつもなら週に何度も顔を出すレオンが来なくなったのだ。
一日。
二日。
三日。
最初は気にもしていなかった。
騎士団長なのだから忙しいのだろう。
魔物討伐だって、王都の治安維持だって騎士団の仕事だから、来ない日くらいある。
むしろ今までが来すぎだった。
そう思っていた。
けれど。
一週間。
二週間。
さすがに長い。
私はカウンターを拭きながら、ちらりと窓際の席を見る。
レオンがいつも座っていた席。
今は別のお客さんが使っている。
当たり前だ。
店なのだから。
でも何となく落ち着かない。
「ミサキちゃん、どうした?」
常連のおじさんが不思議そうに聞いてきた。
「え?」
「さっきから入口ばっかり見てるぞ」
「見てませんよ」
「見てた」
「見てないです」
「見てた」
おじさんは断言した。
失礼な。
私はそんな分かりやすい人間じゃない。
……たぶん。
「騎士団長か?」
「違います」
即答した。
おじさんがにやにやしている。
腹が立つ。
「そういえば最近来ませんね」
「ほら気にしてるじゃないか」
「だから違いますって」
本当に違う。
ただ少しだけ心配なだけだ。
毎週のように来ていた人が突然来なくなったのだから。
常連客が来なくなれば気になる。
店主として当然である。
うん。
そういうことだ。
そして、さらに数日が過ぎた頃だった。
カラン、と扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
いつものように顔を上げた私は、一瞬言葉を失った。
そこに立っていたのはレオンだった。
ただ、何かがおかしい。
「……レオンさん?」
「久しぶりだな」
声はいつも通り。
けれど顔色が悪い。
というか、げっそりしている。
頬が少しこけている気さえする。
騎士団長なのに。
王国最強クラスなのに。
なぜか負け戦から帰ってきた兵士みたいになっていた。
私は慌てて水を持っていく。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
全然大丈夫そうじゃない。
「何かあったんですか?」
レオンは盛大なため息を吐いた。
そして頭を抱える。
騎士団長が、頭を抱えている。
これは相当だ。
「父が急病でな」
「あっ」
なるほど。
だから領地に帰っていたのか。
レオンは侯爵家の嫡男だ。
騎士団長である前に、貴族の跡取りでもある。
私は思わず姿勢を正した。
「お父様、大丈夫だったんですか?」
「元気だ」
「よかった」
「元気すぎるくらい元気だ」
ん? 何かおかしい。
レオンは再びため息を吐く。
今日だけで何回目だろう。
「病気は嘘だった」
「は?」
思わず素が出た。
「母と父の策略だ」
「策略」
「私を領地へ呼び戻すためのな」
「……何のためにですか?」
レオンは遠い目をした。
そして静かに答える。
「見合いだ」
私は固まった。
「見合い」
「ああ」
「お見合い」
「ああ」
「結婚の?」
「ああ」
なるほど。
げっそりしている理由が分かった。
レオンは目の前の水を一気に飲み干した。
まるで嫌な記憶を流し込むように。
「二週間で二十人だ」
「多くないですか?」
「私もそう思う」
真顔だった。
どうやら本当に大変だったらしい。
私は思わず笑ってしまう。
レオンほどの立場なら見合い話なんて山ほど来るだろう。
二十七歳。
侯爵家嫡男。
騎士団長。
顔もいい。
むしろ放っておく方がおかしい。
「モテる人は大変ですねぇ」
「全く嬉しくない」
レオンは心底嫌そうな顔をした。
私はまた笑う。
けれど、その時だった。
ふと気付く。
見合い。
結婚。
つまり、レオンはいつか誰かと結婚する。
当たり前のことだ。
当たり前のはずなのに、なぜだろう。
胸の奥が少しだけ、ちくりと痛んだ気がした。
私は慌ててその感情に蓋をする。
そしていつもの調子で笑った。
「そのうち素敵な奥さんが見つかりますよ」
私はいつものように笑った。
レオンは黙っている。
珍しい。
からかうと、だいたい何か返ってくるのに。
不思議に思って顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。
真っ直ぐに。じっと。
その視線に落ち着かなくなる。
「……レオンさん?」
「見つからない」
低い声だった。
「え?」
「そんな相手はいない」
私は首を傾げる。
侯爵家の嫡男で騎士団長。
見合い話だって山ほど来る。
選び放題だろう。
そう思ったのに。
レオンは静かに言った。
「三年前からずっと同じ女しか見ていない」
私は瞬きをした。
言葉の意味が分からない。
いや。
分かりたくないのかもしれない。
「だから見つからない」
レオンが立ち上がる。
いつの間にか店内が静かになっていた。
常連たちが全員聞き耳を立てている。
やめて。
「レオンさん?」
「好きだ」
心臓が止まった。
「え」
「ミサキ」
頭が真っ白になる。
聞き間違いだろうか。
いや。
聞き間違いじゃない。
騎士団長はそんな冗談を言う人じゃない。
「三年前からずっと好きだ」
その瞬間。
私の口は脳より先に動いていた。
「じゃあ結婚します!?」
店内が静まり返った。
私も静まり返った。
レオンも静まり返った。
……あ。
やばい。
やばい。
やばいやばいやばい。
何言ってるの私!?
好きだと言われたからって!
普通そこは告白でしょう!?
なんで結婚なの!?
私は慌てて両手を振った。
「違う違う違う! 今のなし!」
レオンが眉をひそめる。
「何がだ」
「全部です!」
「全部?」
「忘れてください!」
叫んだ。
顔が熱い。
絶対真っ赤だ。
穴があったら入りたい。
今すぐ王都の地下に埋まりたい。
レオンはしばらく黙っていた。
そして。
「断る」
私はがっくり肩を落とした。
ですよね。
そりゃそうだ。
告白された直後に結婚しますとか言い出す女なんて怖い。
重い。
面倒くさい。
完全にやらかした。
「ですよね……」
消えたい。
本気で消えたい。
しかし次の瞬間。
レオンが静かに言った。
「忘れることを断る」
私は顔を上げた。
レオンは珍しく少しだけ笑っていた。
ほんの少し。
でも確かに。
嬉しそうに。
「私は了承したつもりだが」
「……へ?」
「結婚だ」
思考が停止した。
「いや待ってください」
「待たない」
「待ってください!」
「三年待った」
店内のあちこちから吹き出す音が聞こえた。
***
レオンとの婚約が決まってから、一つだけ困ったことがあった。
本当に一つだけだ。
たぶん。
きっと。
おそらく。
「ミサキ」
「はい」
「ミサキ」
「聞こえてます」
「ミサキ」
「だから聞こえてますって」
レオンがいる。
今日もいる。
毎日いる。
朝いる。
昼いる。
夜いる。
仕事はどうした。
騎士団長だろう。
王国最強だろう。
侯爵家嫡男だろう。
なぜ毎日カフェにいる。
私は厨房から顔を出した。
「レオンさん」
「なんだ」
「仕事は?」
「終わった」
「まだ昼前ですよ」
「急いだ」
威張ることじゃない。
とにかく部下がかわいそうだ。
私は盛大なため息をついた。
そんな私を見て、常連のおじさんが笑う。
「騎士団長、すっかり月うさぎ亭の住人だな」
「違う」
レオンが真顔で答えた。
「婚約者の店だ」
「余計悪いわ」
店内に笑いが広がる。
レオンだけが真顔だった。
この人、冗談が通じないのである。
「ミサキちゃん」
若い男性客が話しかけてきた。
「この前教えてもらったプリン、作ってみたんです」
「本当ですか?」
「はい」
「すごい!」
思わず身を乗り出す。
料理の話は好きだ。
しかも異世界で日本風のプリンを再現するのは結構難しい。
「今度持ってきます」
「ぜひ!」
「感想も聞きたいです」
「もちろんです」
楽しく話していた。
本当に。
ただそれだけだった。
なのに。
ガタン、と椅子が鳴る。
振り向かなくても分かる、レオンだ。
「いつだ」
案の定だった。
男性客が固まる。
「え?」
「持ってくるのはいつだ」
「えっと……」
「何日後だ」
「え?」
「何時だ」
「え?」
「二人きりか」
「違います」
「そうか」
レオンが座る。
店内全員が同じ顔をしていた。
何なんだこいつ。
そんな顔である。
私も同意見だった。
閉店後。
最後のお客さんを見送った私は、にっこり笑った。
「レオンさん」
「なんだ」
「少しお話があります」
レオンは素直についてきた。
裏庭に出る。
夜風が涼しい。
私は腕を組んだ。
レオンも腕を組んだ。
なぜ対抗する。
「お客さんを怖がらせないでください」
「怖がらせていない」
「怖がらせてます」
「確認しただけだ」
「何をですか」
「危険人物ではないか」
「ただの常連さんです!」
レオンは不満そうな顔をした。
二十七歳の侯爵家嫡男とは思えない。
「ミサキ」
「なんですか」
「男は狼だ」
私はしばらく黙った。
そして。
「その台詞、あなたが言います?」
レオンも黙った。
数秒後。
「……そうかもしれない」
「そうです」
即答した。
レオンは咳払いをした。
少しだけ気まずそうだ。
珍しい。
「だが」
「だが?」
「ミサキは無防備だ」
「普通です」
「普通ではない」
「普通です」
「かわいい」
「関係ありません」
「ある」
「ありません」
まただ。
また始まった。
私は額を押さえる。
この人、本当に騎士団長なんだろうか。
王国を守れるのに、自分の恋心は全く制御できていない。
そのくせ本人は大真面目だから困る。
「とにかく!」
私は指を突きつけた。
「営業妨害は禁止です!」
「営業妨害ではない」
「営業妨害です!」
「……努力する」
渋々という顔だった。
たぶん納得していない。
全く納得していない。
それでも私が怒っていることだけは伝わったらしい。
私はほっと息を吐いた。
その時だった。
レオンがぽつりと言う。
「嫌だったか」
「何がです?」
「嫉妬したことだ」
私は言葉に詰まった。
嫉妬した、素直に言うレオンが羨ましいと思った。
レオンは真っ直ぐこちらを見ていた。
少しだけ不安そうに。
私は思わず笑ってしまった。
「嫌じゃないですよ」
「本当か」
「でもほどほどにしてください」
「善処する」
「信用できません」
「努力はする」
それだけ言って、レオンは私の手を取った。
大きな手だった。
剣を握る手。
たくさんの人を守ってきた手。
その手が少しだけ力を込める。
「好きだから仕方ない」
反則だと思った。
そんな顔で。
そんな声で。
そんなことを言われたら。
私はもう怒れなくなってしまうのだから。
***
閉店後。
最後の客を見送った私は、大きく伸びをした。
「ふぅ」
今日も忙しかった。
洗い物を片付けながら、明日の仕込みを考える。
すると。
カラン、と扉のベルが鳴った。
「あれ?」
振り返る。
閉店の札は出してある。
誰だろう。
そう思った瞬間。
「ミサキー!」
元気な声が響いた。
私は思わず笑顔になる。
「ユーマ!」
勢いよく飛び込んできたのは、王国の英雄その人だった。
その後ろには妻のリンディアもいる。
「こんばんは」
「こんばんは」
私は二人を迎え入れた。
結婚して一年以上経つのに、この夫婦は相変わらず仲がいい。
というか。
仲が良すぎる。
「リン、ここ座ろう」
「うん」
「寒くない?」
「大丈夫だよ」
「本当?」
「本当に」
「でも上着貸そうか」
「ユーマ、私、寒くないから」
「そっか!」
にこにこ。
リンディアも笑っている。
私は呆れた。
毎回これである。
そして。
店の隅から低い声が聞こえた。
「相変わらずだな」
レオンだった。
ユーマが振り返る。
「あっ、レオン!」
なぜか嬉しそうだ。
大型犬が仲間を見つけたみたいな顔をしている。
「聞いたよ!」
嫌な予感がした。
レオンもしたらしい。
露骨に顔をしかめている。
「何をだ」
「婚約!」
「……誰から聞いた」
「王都中」
それはそうだ。
騎士団長の婚約である。
噂にならない方がおかしい。
ユーマは嬉しそうにレオンの肩を叩いた。
「おめでとう!」
「ありがとう」
「でもさ」
ユーマが真顔になる。
嫌な予感がさらに強くなった。
「レオン」
「なんだ」
「愛情表現足りてる?」
店内が静まった。
レオンが眉をひそめる。
「何の話だ」
「だから愛情表現」
「している」
ユーマとリンディアが顔を見合わせた。
それから同時に首を傾げる。
「してる?」
「しているのですか?」
夫婦揃って疑問形だった。
レオンの額に青筋が浮かぶ。
「している」
「例えば?」
ユーマが聞く。
「毎日来ている」
「それだけ?」
「それだけではない」
「他は?」
レオンが黙った。
ユーマも黙る。
リンディアも黙る。
私も黙る。
長い沈黙が流れた。
「……ないの?」
ユーマが言った。
「ある」
「言って」
「毎日来ている」
「それ最初に聞いた」
レオンの敗北だった。
「駄目だよ!」
ユーマが立ち上がる。
「好きならちゃんと言わないと!」
「必要ない」
「必要あるよ!」
「伝わっている」
「伝わらないよ!」
「伝わる」
「伝わらない!」
子供の喧嘩みたいになっていた。
リンディアがそっと口を開く。
「私はユーマに、一日に何度も好きだと言ってもらえて嬉しいですよ」
レオンが黙る。
「会いたかったと言われるのも嬉しいですし」
黙る。
「可愛いと言われるのも」
黙る。
「愛していると言われるのも」
完全に黙った。
私はなんとなく気まずくなった。
しかしユーマは容赦がない。
「ほら!」
「……」
「リンのこと、毎日好きが更新しているよ!」
ユーマはリンディアの肩を抱き、頬にキスをする。
「ユーマっ!」
「大好き! 愛してるっ!」
「もう」
リンディアが照れている。
レオンが死んだ魚みたいな目をしている。
たぶん見たくなかったのだろう。
その日の帰り際。
ユーマは最後まで力説していた。
「とにかく言葉!」
「……」
「好き!」
「……」
「可愛い!」
「……」
「会いたかった!」
「……」
「分かった!?」
「……善処する」
「絶対分かってない!」
***
そして翌日。
私は仕込みをしていた。
まだ開店前だ。
なのに。
カラン、と扉が開く。
早すぎる。
誰だろう。
顔を上げた瞬間、レオンだった。
「おはようございます」
「おはよう」
なぜか妙に真面目な顔をしている。
私は首を傾げた。
すると。
レオンが口を開く。
「会いたかった」
私は固まった。
「え?」
「会いたかった」
二回言った。
顔は真顔。
耳だけ赤い。
ものすごく赤い。
私は理解した。
ユーマだ。
絶対ユーマだ。
昨日のせいだ。
「レオンさん」
「なんだ」
「無理してません?」
「していない」
即答だった。
しかし耳は真っ赤だった。
***
それから数日後。
月うさぎ亭では、ある賭けが流行っていた。
「今日は何回だと思う?」
「五回」
「いや七回だな」
「俺は十回」
「騎士団長ならやる」
カウンターの向こうで聞こえてきた会話に、私は頭を抱えた。
「皆さん」
にっこり笑う。
「営業中です」
常連たちが一斉に目を逸らした。
怪しい。
ものすごく怪しい。
私はため息をつく。
最近の月うさぎ亭はおかしい。
原因はもちろん一人しかいない。
店の一番奥。
窓際の席。
そこには今日もレオンがいた。
いつもの席。
いつもの真顔。
いつもの紅茶。
そして。
「ミサキ」
「はい」
「今日もかわいいな」
店内から拍手が起こった。
やめて。
本当にやめて。
私は顔を覆った。
「六回目」
誰かが言った。
「まだ昼だぞ」
「今日は記録狙えるな」
「皆さん?」
笑顔で呼びかける。
全員が静かになった。
よし。
これで平和になる。
そう思った瞬間。
「ミサキ」
「なんですか」
「会えて嬉しい」
「朝からいますよね?」
「それでもだ」
拍手。
また拍手。
もはや演芸場である。
カフェではない。
私は遠い目をした。
閉店間際。
最後の客が帰る。
常連たちも帰る。
ただ一人を除いて。
「レオンさん」
「なんだ」
「閉店です」
「知っている」
なのに帰らない。
最近は片付けを手伝うのが当たり前になっていた。
騎士団長が皿を運ぶ。
侯爵家嫡男が床を掃く。
この世界はどこへ向かっているのだろう。
「それ、私がやります」
「私がやる」
「お客さんですよね?」
「婚約者だ」
万能の返答だった。
悔しい。
反論できない。
しばらくして。
店の片付けも終わった。
夜の静かな店内。
ランプの灯りだけが揺れている。
私は椅子に腰掛け、大きく息を吐いた。
「疲れました」
「そうか」
レオンが向かいに座る。
しばらく沈黙が続く。
不思議と気まずくない。
昔からそうだった。
レオンは無口なのに、一緒にいても疲れない。
「ねえ」
私が口を開く。
「なんだ」
「結局、どうして毎日来るんです?」
レオンが瞬きをした。
まるで不思議な質問をされたような顔だった。
「好きだからだ」
即答だった。
あまりにも即答だった。
私は思わず笑ってしまう。
「そればっかりですね」
「事実だ」
「他に理由は?」
「ない」
レオンは真顔で答える。
「会いたい」
「うん」
「顔を見たい」
「うん」
「声を聞きたい」
「うん」
「だから来る」
それだけ言って紅茶を飲む。
本当に、それだけらしい。
私は少しだけ視線を落とした。
胸の奥が温かくなる。
こういうことを平然と言うようになったのは、つい最近だ。
以前のレオンなら絶対に言わなかった。
きっとユーマのせいだろう。
私はくすりと笑った。
「レオンさん」
「なんだ」
「私、最初はびっくりしたんですよ」
「何がだ」
「急に好きとか、会いたかったとか、かわいいとか言い出したから」
レオンが少しだけ眉をひそめる。
「嫌だったか」
その問いに。
私は首を横に振った。
「いいえ」
本当に嫌じゃなかった。
むしろ、嬉しかった。
少し照れるだけで。
「知ってますから」
「何をだ」
「好きだってこと」
レオンが黙る。
私は笑う。
「毎日来ますし」
黙る。
「毎日見てますし」
黙る。
「毎日言いますし」
黙る。
それから。
ほんの少しだけ。
レオンが笑った。
「そうか」
「そうです」
「なら良かった」
その笑顔は一瞬だった。
でも私は知っている。
王都の誰も知らない顔だ。
騎士たちも知らない。
貴族たちも知らない。
私だけが知っている顔。
それが少しだけ嬉しかった。
常連たちは明日も来るだろう。
きっとまた騒ぐだろう。
騎士団長が何回「好き」と言うか賭けるかもしれない。
私は怒るだろう。
レオンは気にしないだろう。
そしてその次の日も、きっと同じように扉が開く。
「ミサキ」
そんな声が聞こえて、私は呆れながら笑うのだ。
月うさぎ亭の常連客が一人増えた。
いや。
正確には。
ずっと居座るつもりらしい。
そしてたぶん。
私もそれを追い出す気はない。
――おしまい。
作中に登場した、ユーマとリンディアのストーリーは、↓からご覧ください。
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