3話
勤務先である「たけなか法律事務所」に入り、薄暗いフロアの電気をつける。職場全体につけるのはまだ早すぎてもったいないので、二つある入口と所属している婚姻契約課のところだけだ。
自身のパソコンの電源を入れ、引き出しから除菌シートを取り出す。床などの掃除は業者に委託しているが、デスクの上は各自の責任になっている。
毎日掃除する決まりは別に無いのだが、毎朝軽くでいいからやるということにしないと、自分の性格上とことんまで放置してしまうだろう。自分の部屋なら誰にも迷惑はかけないが、職場ではそうはいかないので、勝手に自己ルール化した習慣の一つである。
簡単に拭き終わり、立ち上がったパソコンに触れる。始業時間までメールチェックしたりニュースを読むことも、習慣化している。
依頼人の都合にある程度左右されるので、始業や終業の時間は有って無いようなものなのだが、なるべくコントロールして一定の時間にするようにしていた。
自分で経営しているならともかく、雇われのうちからあんまり依頼人に振り回されても、長く続けていけないと考えるからだ。それに、あかりと過ごす時間を、きっちり確保しておきたい。
「そろそろかな」
給湯室に行き、コーヒーを二人分淹れる。芳しい香りに、目が覚める。一つは自分のデスクに、もう一つを課長である相田 圭亮のデスクに置いた。課長の方には、スティックシュガーとミルクを忘れずに添える。
淹れたてのコーヒーを一口含むと、ピピッと電子キーの音がする。直後、婚姻契約課に近い側の扉が開いた。
「おはようございます、相田課長」
「紺野さん、おはよう。今日も早いね。それに、コーヒーもいつもありがとう」
「好きでやっていることですので、お気になさらないでください」
皺一つなく整えられたスーツに身を包み、朝から血色の良い相田課長は、たいていともこの次に出社してくる。毎日のことなのに律儀にお礼を言ってくれる相田課長に、仕事のやる気をもらうことを業務スタートにしているのだ。
「紺野さんは今日、面会予定あるの?」
「午前に一件、午後に二件です。午前の件は来所いただけますが、午後はどちらも外になります」
「担当の割り振りが多くて、すまないね。もうすぐ新人が来たら、少しは負担が軽くなると思うから、それまでよろしく頼むよ」
言葉だけではなく、心から申し訳なさそうな相田課長に、上司に恵まれたなとしみじみ感動する。
「大丈夫ですよ。忙しいことは、苦じゃないですから。それに今日のお昼頃の一件は、飯島様ですし。付き合いの長い依頼人ですから、気軽に豪華なランチを楽しめる良い機会です」
「おお、飯島様。確か、また新しく養子を迎えるんだったかな?」
互いにコーヒーを飲んだり、パソコン画面を見ながら、のんびりと会話する。
「そうなんです。最新の婚姻契約を結んだ配偶者との間の、養子にするらしくて。何度も経験されていらっしゃることですけど、トラブルは未然に避けたいという慎重な方ですから、改めて婚姻契約の確認をということでの面会です」
「素晴らしいねえ、僕も飯島様を見習わなきゃな」
「課長は十分素晴らしいじゃないですか。九人の実子がいらっしゃるんですから、私たち部下として自慢ですよ」
子どもを積極的に多く養おうという風潮が強い昨今だが、実子で九人は一般人になかなかいない。ベビーシッターが雇え、子どもの数が社会的ステータスになる金持ちは別だが、どんなに子どもを多く持つメリットがあろうとも物理的に面倒をみられる限界があるからだ。
「子どもはかわいいからなあ。僕は運がいいんだよ」
デスクの上に飾られた三枚の家族写真を眺めて幸せそうな表情をする相田課長に、羨ましい気持ちが募る。
そろそろ結婚してあかりにも弟か妹をと、ほんの少し前まで疑いなく考えられていたのに。相手を選り好みしているわけでもないし、相手に他の家庭があっても構わないと思っているのに、よりによって婚約者が一夫一妻派に走ってしまうとは。
まだ次の相手を見つけようと思えるほどに割りきれていないが、相田課長のデスクの上の写真の、四枚目になれたら素敵だなあなんて妄想できるくらいには回復したようだ。
相田課長は三つの家庭それぞれ円満な様子で、初婚の相手としては願っても無い相手だろう。少なくとも、一夫一妻でないことだけは確かなのだし。
「おはようございます!」
「おはようございまーす。あ、いいな。あたしもコーヒー淹れてこようっと」
一人二人と出社してくる人が増えてきて、職場に活気が出てくる。失恋しても、時間は容赦なく進む。それならば、あかりと過ごす時間と、次の金曜日を楽しみに、今日も仕事を頑張ろう。




