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ともこの金曜日  作者: ナタデココロ


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1話

 

 落ち着いた音楽が会話の邪魔にならない程度に流れ、視界を遮らないくらいに落とされた照明の、バーの半個室。行きつけというほどではないが何度か通いなれた店内で、岩谷 聡の声は小さくなどないはずなのに、耳から滑っていった。


「え? 聡、ごめん、もう一度言って」

「俺と別れてくれないか、ともこ」


 聞き間違いだと思いたかったが、どうやらそんなことはなかった。最初に言われた時に理解を反射的に拒んだのは、あまりにも想定外すぎる言葉だったからのようだ。


「どうして?」


 お互いが好きなお酒におつまみが並べられたテーブルの一角には、観光情報雑誌。来月それぞれ有休を取って三人で旅行に行こうと話したのは、つい一週間前のことではないか。

 さっきまで、楽しみにして練ってきた旅行プランを話すのを、頷きながら聞いていたのに。……なんで。


「晴香と、結婚する」


 顔を青褪めながらの告白に、だからどうしたとしか思えない。


「晴香さんって、確か、お付き合いし出してまだ半年の彼女よね? おめでたいじゃない。そんなに悲痛な顔をしなくてもいいのに」


 まだ大学生で、健康的に日焼けした肌の印象か、快活そうなイメージの女性を思い出して、長い関わりになることを嫌とは思えない。

 聡と会う時間の配分などは話し合わなくてはならないだろうが、きちんと取り決めれば良いだけのことだ。


「いや、それは、まあ。結婚することは、嬉しいよ。でももう、ともこに会えないから……」

「だから、どうして? 浮気はよろしくないけど、私たちも結婚したら問題ないじゃない。良いきっかけだし、あかりも喜ぶわ」


 あかりとは、ともこが四年前に迎えた養子で、今年小学六年生になった。あかりを引き取るために便宜的に結婚した男性とは円満に別れ、現在は母娘二人で暮らしている。

 そして、ともこと聡は、交際して二年になる。聡はあかりの存在を歓迎してくれていたし、目立った喧嘩もなく穏やかに付き合ってきて、相性が良いことは聡もわかっているはずだ。


 双方が仕事も大切にしていたので結婚のタイミングが掴めないでいたが、これを機に聡は私と晴香と、他の交際相手とも結婚したら良い。婚姻に関する法律が大幅に改正され、三十年以上が経つ。複数婚は当たり前の世の中だ。

 ともこはあかりと二人での生活に満足しているので、聡の主家庭にしてもらわなくても構わない。


「ともことは、結婚できない」

「……なにそれ、意味わからない。じゃあ、小百合さんや、美恵子さんとはどうするの?」


 聡の他の交際相手として紹介された、女性たちのことを尋ねる。どちらも私より先に聡と交際していて、それなりに交流してきた。


「小百合と美恵子には既に話をして、別れてもらった」

「…………」


 今までの付き合いからは考えてもみなかったことばかりを言われ、何を返せばいいかわからない。

 店内にいる若い年齢層らしき客たちの騒がしい声が響くなか、思わず黙り込んでしまう。


「小百合は主家庭の夫との二人目の子が生まれたばかりだから、もともと会う頻度を減らしていたんだ。美恵子は、新しい結婚をしようとしていたところだって。こっちが面食らうほど、どちらもあっさりしていたよ」


 苦笑してビールを口にする聡の顔が知らない人のものに見え、ザッという音が本当にしたのではないかというほど、急速に体内から熱が失われていく。


「だから、私にもあっさり別れろって?」

「そんなことは言ってない! ……あ、すまない、大声を出すつもりはなかった。かからなかったか?」


 立ち上がろうとした時の反動で少し溢れたビールを、聡は慌てておしぼりで拭いている。私にもかかっていないか気にしているようだが、そんなことは、今どうでもいい。


「小百合さんと美恵子さんのことは、わかった。二人とも以前お会いした時は聡と結婚したがっていたから、まだ納得はしていないけれど、とりあえずいいわ。でも、私は違う。あかりが聡の仲を応援してくれていたし、私自身もいずれ、ううん、すぐにでも結婚したいって思ってる」


 二十五歳の時に友人の紹介で出逢い、順調に交際してきた。聡は複雑な事情のあるあかりとも仲良くなってくれて、結婚するものだと信じて疑わなかった。


「ともことは、結婚できないんだ……」


 目をそらしながらボソボソと話す態度が我慢ならず、冷えていたはずの熱がどんどんと昂っていく。


「なんでよ! 晴香さんと結婚できるなら、私とも結婚できるじゃない! どうして、私は駄目なの!?」


 大きく息をつき、呼吸を整える。そうしなくては、熱くなってきた目頭に力を入れることができそうにない。

 店内のざわつきが静まったような気配がするが、配慮なんてしている余裕は皆無だ。


「晴香が妊娠した。早急に籍を入れることを、彼女にも彼女のご両親にも、望まれている」

「おめでとう。それで? 私と結婚できない理由になってない」

「晴香とご両親は、一夫一妻を婚姻契約に盛り込みたいと言っている。それが、結婚する上で譲れない条件だと」

「一夫一妻。今どき、とんでもないことを言う人たちなのね」


 配偶者とともに多くの子どもを養うのが美徳とされる世の中で、より子どもが誕生する可能性のある複数婚が歓迎されるのが一般的だ。一夫一妻だなんて、恋に盲目になっている時期にしか考えもしない。


「それでも、俺は従わないといけないんだ」

「そんなの、おかしい。むしろ、私とも正式に婚約しているのだから、法的に不利になるだけよ」


 結婚が簡単にできるにも関わらず、成人同士が結婚を前提としない交際をすることは世間的によろしくないから、簡易なものであっても皆たいてい婚約している。

 かくいう私と聡も、交際を本格化した頃に婚約を済ませていた。


「必要なら、慰謝料を払う。相場より高くても構わない」

「そんなことを言いたいんじゃっ! ない、よ……」


 衝動的に頭に血が昇るものの、聡の言葉が自分の中に浸透するうちに、情けない気持ちの方が強くなってきた。

 慰謝料を払う。それも、高額で。

 私とも婚約していることを盾に、晴香の一夫一妻の要望を断ればいいのに、そうはしない。それほどに別れたがっている男を引き留めて、これからどうするというのだろう。


「ちょ、ともこ!」


 ゆっくり味わうことが好きなお気に入り酒を、一気に口に流し込む。


「うるさい!」


 聡のビールも奪い取って、全て飲み干す。もう、本当に、馬鹿らしい。


「ごめん、ともこ、ごめんよ。ともこのこと、すげえ好きだよ。旅行に行くのも、楽しみにしてた。でも、駄目なんだ」


 おろおろとしながら、私の口元を拭ったり背中を擦ってくる聡の手を、払いのける。こんな情けない男に慰められるなんて、冗談じゃない。


「私と、小百合さんと、美恵子さん。トラブルなく交際していた私たちを切ってまで、晴香さんを選ぶ。その理由だけ教えて」

「だから、一夫一妻「そうじゃなくて」……え?」

「私たちと別れるのも、晴香さんと別れるのも、どちらにもリスクがあるのよ。同じ慰謝料を払うなら、晴香さんと別れる選択肢もあったじゃない」


 相手が言うのだからなんてことを、理由にはさせない。聡自身が、晴香を選んだのだから。


「晴香には、子どもがいる」

「子持ち女性は、一番モテるのよ。必ずしも、実の父親である必要はないわ。私もあかりのおかげで、よく良縁を紹介してもらえるし」


 金銭的に余裕がある限り、養子をもらってでも子どもを多く持ちたがるのが常識だ。基礎給付金は生まれた翌月から支払われるから、その金銭的余裕すらたいした問題にならない。

 しかも、学生にして未婚の母にならんとしている女性を養うという美談まで、おまけについてくる。晴香は聡と別れてもすぐ、新しい男性に恵まれるだろう。


「それは……」


 聡は答えあぐねているのか、口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返している。そのまぬけな顔を見ていたくなくて、目をそらす。


「晴香は、直属の上司の、娘さんで、その……」

「あ、もういいわ。よーく、わかったから」

「は?」


 鞄から財布を取り出し、無造作にお札をテーブルに置いた。


「なにしてっ、お前が聞いたんだろ!」

「お前?」

「うあ、いや、ともこです。はい」


 ちょっと睨んだだけで威勢が悪くなる。嫌だ、なんで私、早く結婚したいと望むほど好きだったんだろう。


「最後まで聞く必要ないって、わかっちゃったもの。結局、私でも小百合さんでも美恵子さんでも、そして晴香さんですらなくて、聡は仕事と自分かわいさを取ったのよ」

「な、何を言ってるんだ」


 コートを羽織り、簡単に身なりを整える。まだ春先なので、慌てて店を飛び出しても寒い思いをするだけだ。


「そういうことでしょう。私、婚姻契約をもとにして付き合えて、あかりを尊重してもらえるなら、特に結婚に条件は求めないつもり。でも、トラブルを未然に防ぐためには、最低限の価値観の一致が必要よ」

「俺とは、一致しないってわけか?」

「そ。さっきの言葉でようやく知れたわ。私よりも晴香さんの方がいかに好きか語ってくれたら、涙にくれることになっても、聡のことを好きなままだったのに」

「仕事は大事だろう! この結婚は断れない。何が悪い!」


 同じく立ち上がった聡がもっと興奮し出す前に、半個室となっていたスペースから出ることにする。


「おい!」

「悪くないわ。私も、仕事好きだもの。でも、婚約者と一方的に別れる時の理由には、私ならしない。私の嫌いなところをあげつらねられる方が、いい」


 傷ついて思いきり泣いて、次に進めるのに。こんなときは悪役に徹してくれたって、いいじゃないか。


「な……」

「私の職業上、婚約書に基づいた手続きをします。気持ち的に、慰謝料なんて一銭ももらいたくないけど、しかたないわ」

「待てよっ」

「さようなら。あとは、書類のやり取りだけ、よろしくね?」


 それ以上はもう、言わないと後悔するようなことは何もなく、週に一度は必ず見ていた顔に背を向けた。

 

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