夜風の中で
王宮の客室なんて、まるで絵本の中の世界だった。
天井には、細やかな装飾のレリーフが彫り込まれ、壁には過去の王家の栄光を描いたとおぼしき大きな絵画が整然と並んでいる。真っ白なカーテンは風を受けてそよそよと揺れ、その奥からは、かすかに庭園に咲いている草花の香りが漂ってきていた。
完璧に整えられた室内。上等すぎる家具。どこを見ても、触れるのがためらわれるような空間だった。それは美しいというより、むしろ緊張を強いるようで、うっかり壊してしまわないだろうかとつい心配してしまう。
ベッドに身を沈めてみても、眠気なんてどこかへ吹き飛んでしまったままだった。寝具は柔らかすぎて、逆に落ち着かなかった。
(……やっぱり、落ち着かないや)
溜息のように胸の奥で言葉が零れる。私はそっと起き上がり、バルコニーへと歩き出した。
重厚な木のドアを静かに開き、バルコニーへと出る。まだ微かに冬の寒さを残した夜気が、頬をなでていく。でもこの寒さが今は心地よかった。
バルコニーから見下ろす庭園は、月明かりに照らされた木々や花が淡く輝き、池の水面には星のきらめきが映り込んでいる。さらに奥に目を向けると寝静まった街が見える。昼間はとても賑やかだった街も流石に静かになるようだ。
私は深く息を吸った。肺いっぱいに、冷たくて透明な空気が広がっていく。
(……これが、現実なんだ)
半年前まで、こんな場所に自分がいるなんて、想像さえしていなかった。漫然と日々を送って、でも将来の自分について明るい想像なんてものもしてたのだろう。だけど、ここに来てからはこれからの自分についてなんて考えている暇なんてなかった。
――そのとき、控えめなノックの音が部屋の方から聞こえた。
「……はい?」
誰だろう、こんな時間に。 なにかあったのだろうか。
少し警戒しながら部屋の入口の方へ戻り、そっと扉を開く。
「こんばんは。まだ起きているかと思って……」
「シャル……?」
扉の向こうには、淡いピンクの寝間着に身を包んだシャルが立っていた。入浴後なのか、髪は少し濡れていて、頬は少しだけ赤みが差している。その姿は、昼間、王室で見た凛々しい王族ではなく、ごく普通の年頃の少女にしか見えなかった。その姿を見てどこか、ほっとした。
「ちょっとだけ、お話ししませんか?」
「うん。ちょうど寝付けなかったところ」
扉を頷き、シャルを部屋へと招き入れる。そして再びバルコニーへ戻り、小さな丸テーブルを挟んで椅子に腰掛けた。
お互い何も言わずにただ向かい合って座る時間が続く。何か言おうかとも思ったけどシャルがこっちをちらちらと見ながら何かを伝えたいというそぶりを見せていたからそれを待つことにした。
「この一か月……あの事件の対応に追われていて。その過程で、レナさんに関する情報を見る機会があったんです」
「……そっか」
胸の奥がひどくざわついた。だけど、それも当然のことだ。あれほどの騒動があったのだから、私のことが調べられていないはずがない。
「記録にあったのは、“半年前にエングル王国に移住した移民”ということ。それ以外には……ほとんど情報がなくて」
私は目をそらした。逃げるつもりはなかったけれど、視線を合わせるのがつらかった。
「だから、ちょっとだけ気になって……。あの、無理に聞くつもりはありません。ただ――レナさんって、この国に来る前は、どんな生活をしていたんですか?」
シャルの声はあくまで穏やかで、責めるような気配は一切なかった。そこにあるのは心から私を知りたいと願っているような、そんな気持ち。
「えっと……」
でも、言葉が続かなかった。どこから、どう話せばいいのか分からなかった。それは、自分ですら自身のことを理解できていないから。
「ごめん。……ちょっと、うまく言えない」
ようやく出た言葉は、そんな言い訳にもならない、逃げだった。
でも、シャルはそれだけで十分だとでも言うように、小さく微笑んだ。
「そうですか。……わかりました」
シャルはまっすぐ私を見て、目をそらす素振りは見せない。
「あの時、レナさんは……なにも言えなかった私に、それでも手を差し伸べてくれましたよね。あれに、どれほど救われたか」
シャルは目を伏せ、ゆっくりと声を紡いだ。
「だから私も同じように言いたい。今、話せないことがあってもいい。でも――もし、いつか苦しくなったら。誰かを頼りたくなったら。私に、話してくれませんか?」
その瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。迷いのない、澄んだまなざし。
「私は、あなたを見捨てたりしません。あなたが私にそうしてくれたように」
喉の奥が、熱くなった。こんなふうに言ってもらえるなんて思っていなかった。心の深いところに触れられて、言葉が出てこなかった。
「……ありがとう。すごく……嬉しい」
冷たい夜風が吹いても、この小さなバルコニーは、確かにあたたかかった。




