国王からの提案
王宮の中に足を踏み入れるのは、これが当然、初めてだった。
広々とした回廊。長く磨かれた大理石の床には、歩くたびに私の姿がぼんやりと映り込む。まるで自分が別の誰かに見られているような、そんな落ち着かない気分になる。
まるで空気に重みがあるかのように、凛とした静けさが空間を支配している。格式と歴史が折り重なったこの空間では、声を上げることすら憚られる。
「緊張してますか?」
隣を歩いていたシャルが、くすっと小さく笑った。その笑みはあまりに自然で、慣れというのは便利だなと感じさせられる。
「そりゃ、緊張するに決まってるよ。王様に会うんだから」
「大丈夫です。お父様は厳しい方ですが、恩を仇で返すような不義理は決してなさいません」
シャルの言葉に少しだけ安心したような、逆に緊張が強まったような、そんな妙な気持ちになる。まだ謁見もしていないのに、喉はすでにからからだった。帰れるなら帰りたい。そんなことを思ってしまうが、もちろん手遅れだ。
やがて、重厚な装飾が施された大扉の前で足が止まる。鋼のような眼差しをもった門番の兵士が一礼し、ゆっくりと扉を開けた。中から流れ出る空気は、さらに別格だった。
扉の奥に広がっていたのは、まるで絵画の世界だった。
天井はどこまでも高く、細工の施された柱が何本も連なり、赤く深い絨毯が真っ直ぐに玉座まで続いている。窓から差し込む陽光は、彩色されたステンドグラスを通して淡く七色に変わり、謁見の間を神聖な光で包んでいた。
そして、その絨毯の最奥――
そこに腰掛けていたのは、まさしくこの国の頂点に立つ男、国王陛下だった。
初老の男性。灰色混じりの髪、深く刻まれた皺、そして何より、圧倒的な存在感。その瞳は鋭く、相手の内面を見透かすように真っ直ぐな光を湛えている。だが、ただ冷たいだけではなかった。その奥には確かに、人としての温もりと信念があるように思えた。
「……顔を上げよ」
重みのある声が空間に響く。思わず背筋が伸びる。言葉に従い、私は恐る恐る顔を上げた。
国王陛下の視線が、私をまっすぐに射抜いていた。その瞬間、心臓がひときわ強く脈を打ち、全身が粟立った。
「よくぞ参った……レナ・フジタ殿」
その一言で、体がびくりと震える。名前を呼ばれただけで、どうしてこんなにも緊張するのだろう。足元がぐらつく気がした。
陛下はゆっくりと玉座から立ち上がり、数歩、私に歩み寄った。その姿には威厳があり、しかし不思議な穏やかさもあった。
「娘を……我がシャルロットを救ってくれたこと、深く感謝する」
その言葉に、私は言葉を失った。
「……いえ、私は……そんな……」
かすれるような声しか出ない。膝の上で指がこわばっているのがわかる。
それでも陛下は穏やかに、しかしはっきりと続けた。
「その献身と勇気に報いるため、王家として貴殿に一つの提案をしたい」
提案……?
「王都にある王立学園への入学を推薦する。国費にて、すべての学費、住居費を支給する。貴殿のような者が学ぶに相応しい場所だと、私は信じている」
「えっ……?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。まるで時間が止まったかのように、思考が追いつかない。
王立学園――それは貴族や王族、国家の将来を担う人材が通う名門中の名門。そこに、私が?
「あの……私は、ただの平民で……それに、私は半年前にこの国に来たばかりの移民で……」
「関係ない」
その言葉は、まるで空間そのものを震わせた。
「貴殿の行動は、そのどれもが王家を救った。出自が何だというのだ? この国を支えるのは、民の意志と力だ。それを私は信じる」
威圧ではなかった。威風でもなかった。ただの言葉だった。だがそれは、どんな勲章よりも重く感じた。
「それに、貴殿は学問の才があると聞いている。その力をより高めることを期待している」
――どうして、そこまで言ってもらえるのだろう。
「……そんな、大したことでは……」
口から漏れた声はかすれていた。嬉しさと同時に、責任の重さに胸が苦しくなる。
ふと、隣のシャルに視線を向ける。彼女は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「レナさん」
隣を見ると、こちらにシャルが柔らかな微笑みを向けていた。
「一緒に、学びませんか?」
「……えっと」
「学園には、私も通っています。そこで、一緒に学友として学びませんか?」
シャルの瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「あなたが私の未来を開いてくれたように、今度は私が、あなたの未来助けとなりたい」
未来。――今まで考えたことなんてなかった。考えようとしたことすらこの半年、全くなかった。けれど。
今、目の前に、扉が開いている気がした。
「……その申し出、喜んでお受けいたします」
言葉を口にした瞬間、何かが確かに動き出した。新しい物語の始まりが、ここにあった。




