夜明け
「そっか……」
シャルが王族……なんとなく高い身分なのかもしれないとは思っていた。けどまさか王族までとは思わなかった。
だから彼女は言えなかったんだ。自分の立場が私に与える影響の大きさを、きっと怖れていた。
「教えてくれてありがとう。でも、大丈夫。私はもう、最後まであなたと一緒に戦うって決めたから。やめてって言われても、聞いてあげないから」
泣きじゃくるシャルを、そっと抱きしめた。
こうして触れていると、彼女はただの、年相応の女の子なんだってわかる。
でも、その少女が一人で悩み、苦しみ、怯えていた。どれほどの時間を、孤独の中で過ごしてきたのだろう。
「とにかく、逃げよう」
私の言葉に、シャルは静かにうなずいた。
瞳にはまだ涙の余韻が残っていたけれど、その奥には確かな覚悟が宿っていた。
私は鞄に最低限の荷物を詰めながら、頭の中で行動の優先順位を組み立てる。
水筒、保存食、地図、薬、そして現金。
この街を出るには、駅から列車に乗るか、港で船に乗るしかない。人目につかず、確実にたどり着けるルートを選ばなければ。
「寒いから、これも忘れないでね」
私は赤い外套をシャルに差し出した。
「でも……レナさんは?」
「大丈夫。昨日、新しいのをもらったから。ほら」
袋から深い緑の外套を取り出して見せると、シャルの目がわずかに揺れた。
「……ありがとう、レナさん」
「いいの。さ、準備しよう」
私は笑ってみせた。どれほど不安を拭えるかはわからない。
けれどその笑顔が、ほんの少しでも彼女の支えになればと思った。
「荷物はこれで全部?」
「はい。すぐ出られます」
シャルは赤い外套をきちんと羽織る。
私は彼女の手を握った。まだ少し冷たいけれど、しっかりと握り返してくれる。
「行こう。絶対に、二人で逃げきるよ」
「……はい!」
ドアの向こうに、夜明けが近づいている。
けれどその前に、私たちは先に、夜の闇へと一歩を踏み出した。
◆ ◆ ◆
夜霧が濃く、あたりの輪郭をぼやかしている。
ランプを消したまま、私たちはアパートの裏口から静かに外へ出た。
警察の姿は、まだ見えない。夜明けと同時に本格的な捜索が始まるだろう。だからそれまでに、どこかに身を潜めなければならない。
「駅と港、どっちに向かう?」
「駅にしましょう。船は乗船手続きが厳しいですし、警備も多いです」
「了解」
目的地を決めた私たちは、駅を目指して慎重に路地を進んだ。
——しかし、中心街へ差し掛かろうとしたそのとき。
鋭い笛声が背後から響き、ガス灯の下に黒いベレー帽をかぶった男たちが現れた。
その中のひとりには見覚えがあった。マルタン商会の構成員だ。
総勢6人。警察より先に動いていたのか……!
「走って!」
私たちは反射的に駆け出した。
数十メートルも進まないうちに、T字路が見えた。
左が港、右が駅。
「シャル、分かれて!」
「えっ……!?」
「私は左、シャルは右!」
迷う時間はない。私は彼女の肩を押し、反対方向に跳ねた。
赤い外套が躊躇いながらも離れていく。その瞬間、男たちの目が私に集中した。
「赤が協力者、緑が王女だ!」
「狙いを外すな、緑の外套を追え!」
追手のうち5人が私の進む左へとなだれ込んできた。
——やっぱり、敵は私たちの情報を掴んでいた。
しかし、思った以上の人数だったのは想定外。逃げ切れるかはわからない。
靴音が石畳を叩く。
私はとにかく走った。大通りを避け、小路を縫うように逃げ続ける。
……そのときだった。
乾いた破裂音が響き、右足に激痛が走った。
「ッあ……っ!」
思わずその場に崩れ落ちた。
今まで感じたことのない痛みが、全身を貫く。
地面に広がるのは、自分の血。夜霧の中、鉄の匂いが立ち上る。
(撃たれた……?)
立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
足元が、じわじわと温かく、そして冷えていく。
背後から、足音。
「まったく……手間かけさせてくれたな、王女様よぉ。あの時はびびっちまって殺し損ねたが……」
声。あの時の、あの男——。
「さて、死ぬ前にその面、拝ませてもらおうか」
男がフードを乱暴に引き剥がす。冷たい空気が頬に触れた。
そして、男の目が私の顔をとらえる。
「……なっ!? お前、あの時の!」
一歩、後ずさる男。その表情には、驚きと……恐怖が浮かんでいた。
「……まさかまた会うなんてね。全然嬉しくないけど」
男の顔が歪む。怒り、混乱、そして失態に対する焦りが交錯する。
「チッ……まさか協力者が囮になるとはな……!」
「どうした、見つけたのか!」
背後から仲間の声。次々と、男たちが集まってくる。
「騙されたんだよ! 見ろ、この女は王女じゃねぇ!」
「なんだと……!? じゃあ王女は反対に?」
「クソッ……この女が逃がしたのか!」
怒号が飛び交う。混乱の中、彼らの視線が一斉に駅側の方角を見た。
「こいつはもう放っておけ! 本命は王女だ! 探し直すぞ!」
「じゃあ、この女は?」
「後で処理しに戻る。弾の無駄だ」
彼らは一人を残して踵を返した——その瞬間。
「行かせないっ!」
私は咄嗟に魔法を放った。
突風が走り、男たちの体が路地の壁に叩きつけられる。
「なっ……一体何を……!?」
「もう……遅いよ」
続けて魔法を発動させる。すると、動揺する男らは次第にその動きを鈍らせ、最終的に意識を失った。。
男たちが崩れ落ちるのを見届けて、私の意識も、暗く沈んでいった。
(シャル……お願い。無事でいて……)
◆ ◆ ◆
その頃、シャルは駅前の市場通りに差しかかっていた。
追っ手をなんとか振り切り、駅近くの路地裏に身を潜めている。
なぜ自分を追ってきたのがたった一人だけだったのか――
息を整えているうちに、その理由に気づいてしまった。
赤い外套。
これは、昨日レナから譲り受けたものだ。
それまでずっとレナが着ていた。最初に出会った、あの地下室から助け出してくれたときも――彼女はこの赤い外套を着ていた。
つまり、追っ手が持っていた情報では、赤い外套の人物は“シャルロットではない”と判断されたということ。
「そんな……」
かすれた声が漏れる。
視線が自然と、袖口へと落ちていった。その布地に、まだレナの体温が残っている気がした。
いつも隣にいて、どんなときも自分を支えてくれた――あの人の、ぬくもり。
「また……私のために……!」
こみ上げてくる衝動に、シャルは思わず口元を手で覆った。
怒り。恐怖。後悔。そして何より――自分の無力さに対する、悔しさ。
自分は、ただ守られているだけだった。
逃げることに必死で、誰かを守ろうとする力も、勇気もなかった。
それでも、レナは……。
レナは、もう“恩人”という言葉では収まらない存在になっていた。
ほんの数日間の出会いだった。けれど、その短い日々は、これまでの人生で一度も感じたことのなかった温かさに満ちていた。
王族として生きてきたシャルは、誰からも敬われ、恐れられてきた。
常に距離を置かれ、誰とも真正面から向き合うことなど許されなかった。
レナは、自分が王族であると知らなかったのかもしれない。
けれど、だとしても彼女は――まっすぐに、私という一人の人間を見てくれた。
そして、彼女は自分の正体を知ったとしてもその態度を変えることは無く、こうして……
レナの言葉、笑顔、手の温もり。
そのすべてが、シャルの心に深く刻まれていた。
――だったら、私は。
「助けないと……」
小さくそう呟いて、シャルは立ち上がる。
遠くから、汽車の汽笛が響いた。始発の時間が近い。
列車に乗れば、この街を出られる。もっと安全な場所に身を隠すこともできる。
けれど。
レナは今も、きっとこの街のどこかで、自分を守るために戦っている。
その事実だけが、シャルの背中を強く押した。
――そのときだった。
「おい、そこの君。少し待ってくれないか」




