最終話 はるとともに
夏休みと同じで、あたしとハルは冬休みも塾と図書館で会っている。
私立中学受験組はいよいよ試験が間近に迫っていた。
あたしはというと、小学生の復習コースの振り返りと、塾から渡された『中学の勉強に向けて』と言う本で
中学校で習う範囲の予習をしている。
12月後半、天気予報によると今年は雪が少ない年らしい。
それでも冬は寒い。あたしもハルも外に出るときはコートにマフラー、手袋は欠かせない。
「ハル、試験に集中してね。体の勉強は中学になって十分出来るし、そのころには試験勉強は無いんだから」
これは保健室での一件からあたしが言い出した。優先する勉強を間違えないでねと。
「千秋に勉強の事で指示してもらうなんて思わなかった」
「これも遊佐先生のご指導のおかげです」と言って二人で笑った。
ハルのスケジュールを聞いた。
1月中盤に県内の私立中学を3校受験した後、1週間休み。
休みと言っても試験が無いということで学校はある。
その後は都内に移動してまた試験である。
都内の受験は土曜朝から始まり日曜、月曜と続く、金曜に前入りする3泊4日の受験旅行だ。
その間どこに泊まるのと聞いたら、例の関東にある父方の祖母の家に泊まるとのことだ。
大丈夫なのかなぁ。
そこまで確執があるわけじゃないから大丈夫よとハルは言う。
「でも親戚って言っても、言わなきゃバレないじゃない」
もうしてません、治りましたって言っちゃえばそれで隠し通せると思うんだけど。
ハルは口を噤んだ。
「以前泊ったとき、やっちゃったって言ってたけど」とあたしは追及する。
「言ってない」
「そういう雰囲気だしてたじゃない」
しばらくの間のあと目をそらしつつ、
「昔」と一言だけ言った。
「昔って、いつ?」
「…前の、春休み」
「全然昔じゃないよ」
「もう大昔のことよ!」
頑固にもハルは譲らない。それじゃ6年生にもなってって言われるか。
「大丈夫だと思ったんだもん」
そう言うとハルは私立中学の過去問題集に戻ってしまった。
でもやっぱり入学しないのに都内の私立中学受験って大変じゃないと聞くと、
受験をしないといけない理由を教えてくれた。
受験料を塾が肩代わりしてくれる選抜試験が進学コースにはあるそうだ。
それに合格した人は都内の私立受験に関しては交通費、受験費用は塾が払ってくれるそうなのだが、
ただし塾から指定された中学を受験しなければならないのだ。
ハルはその選抜試験に合格して両親の為に私立中学を受けるらしい、そして塾はハルにそれだけ期待しているという、
お互いの思案が合致したからだという。
ぼんやり生きているあたしにはただ頷くしかなかった。
ちなみに選抜試験受験者は1名、合格者も1名だったそうだ。
やっぱり受けなくてもいいんじゃないと言うと、受験できる年は1回しかないから
合格しましたという実績を持って中学生になりたいと言った。
***
大晦日、年内最後の日。さすがにこの日は塾も休みだ。
その夜、あたしとハルは会う約束をしていた。一緒に玉川神社で新年を迎えようと終業式の日に約束したのだ。
とは言ってもあたしたちはまだ小学生。深夜に二人だけで出かけることは許してもらえない。
だけど家同士の付き合いがあるとなれば別だ。今夜はパパもママも一緒だ。
時間どうしようかと話したところ、両家ともに「紅白は見たい」となったため、放送が終わってから移動という事になった。
小学校近くの玉川神社はすでに人がたくさんいる。
ここから少し歩いたところにある龍道寺から除夜の鐘の音が聞こえた。
吐く息が白い。わずかだが雪が降りはじめているが傘はいらないだろう。
むしろ雪が新年が始まりを演出してくれている。
あたしはハルを探す。まだ来ていないのかな。小学校近くだからか生徒だろうなと思われる親子連れが多い。
「千秋」呼ぶ声が聞こえる。
声がした方向に顔を向けると手を振りながらこちらへ走ってくるハルが見えた。
「あけましておめでとう」
「千秋」
「ハル」
二人同時に新年の挨拶をした。
「今年もよろしくね」
「こちらこそ」
ハルはあたしのパパとママに、昨年はお世話になりましたと挨拶をした。
遅れてハルのパパとママがこちらにやってくる。
新年の挨拶といつも娘がお世話になっておりますと挨拶を交わす。
そういえばハルのパパ、会うのは初めてだ。
「こら千秋、ちゃんと挨拶しなさい」
ママ、言われなくてもわかっているって。
新年の挨拶を済ませるとハルのパパとママ二人から、昨年はありがとう今年も春香と仲良くしてねと言われた。
お参りを済ませ、その後は父母同士、娘同士となった。
お兄ちゃんは不参加だ。友達と別の神社に初詣に行くという。そう言っていたが間違いなく彼女と二人だろう。
ねぇ、甘酒飲みにいかない?とハルは出店の甘酒売りを指した。
神社の境内には深夜の初詣客を見込んでお店が何店か並んでいる。
たしかに寒いから暖かいものが欲しい。行こう。
甘酒を売っているおじさんがサービスだよと、少し大きめの紙コップになみなみと注いでくれた。
猫舌のあたしは、ふーふーと息を吹きかけ、冷ましながらゆっくりと口に入れる。
美味しい。熱い甘酒が冷えた体に染みてが全身が温まる感じがしてくる。
その一方「おじさんもう一杯お願い」とハルはお代わりしていた。
あんなに熱いのもう飲んだのか。
「春香、飲みすぎないようにね」とそれを見ていたハルのママが注意した。
「わかっているから大丈夫よ」というハルだが、あたしには深夜の外出ではしゃいでいる様子がみえる。
お代わりした甘酒をクイっと一気に飲み干す。
どうやら甘酒売りのおじさん、ハルの飲みっぷりに機嫌を良くしたらしく、おじさんの奢りだよとまた甘酒をくれた。
そしてまた一気に飲み干す。そうしたらこんどは違うおじさんが気を良くしてハルにご馳走しはじめた。
こうしてハルは隠れて甘酒をさらに3杯飲んだのだった。
そういえばハルのママってお酒強いんだっけ。これはこの娘も将来、酒飲みになるかもしれないなとあたしは思った。
流石に深夜を回っていると眠くなってきた。
折角の深夜の初詣だけど、小児科からの生活習慣の見直し策からいつも早寝早起きをしているので、
もう睡魔には耐えられそうもない。
それはハルも同じらしく、何度もあくびをして目を擦っている。
娘たちが眠そうということで、残念ながら早めの解散という事になった。
別れ際、午後にまた会わない?とハルから誘われた。
深夜の初詣、やはり少しの時間だけは物足りない。それに勉強の息抜きもしたいからと言った。
じゃあ午後にまた会おうということで深夜の初詣は終わりを告げた。
帰宅すると体が冷えたのでもう一回お風呂に入り、体を温めなおすことにした。
体を冷やさないよう厚手の毛布に湯たんぽと一緒にくるまって布団に入り、
今年は新年早々しないようにお願いしますとお願いしながら目を閉じた。
***
朝になり、本日の挨拶はあけましておめでとうだ。
夜遅かったせいか、あたしが一番最後に起きた。
パパもママもお兄ちゃんもすでに起きていて、こたつに入り新年のテレビ番組を見ていた。
「あけましておめでとう千秋、お餅あるけど食べる?」とママが聞いてきた。
「食べる」
「いくつ?」
「ふたつ」そう言ってあたしもこたつに入った。
どうやら雪が積もることは無かったようだ。外からは低い角度で日光が差し込んできている。
着替えなさいと言うママを無視し、パジャマのまま寒い寒いと言ってこたつに入ると、
そんなあたしを見て「その様子じゃ、今年は"書初め"はしなかったんだな。偉いぞ」とお兄ちゃんが褒めた。
書初め?最初何のことかわからなかった。あ、そういうことか!こたつの中で足を延ばし蹴とばしてやった。
「あたしもうすぐ中学生なんだぞ」まったくなんて無神経な兄なんだろう。
あの彼女さんもハルもこんなやつのどこがいいんだか。
その様子を見ていたパパが「今年はもう中学生か、大きくなるの早いもんだな」と言った。
その一言はなんだか少し寂しそうに聞こえた。
午後になり、昨晩約束した通り、玉川神社でハルとまた会うので家を出た。
日は出ているが外は風が冷たい。しっかり着込んでいかないと風邪を引くかもしれない。
今回もあたしの方が先に到着したようだ。
夜も人が多いなと思ったけど、やっぱり昼間の方が人が多い。
午後になっても参拝客が多いのは、もしかしたらお正月の朝は皆ゆっくりしていて、お昼から来ているのかもしれない。
夜と同じ場所に甘酒売りがいた。けど今度はおじさんではなく若い男性と女性の二人だ。
ハルが来てから一緒に飲もうかと思ったけど、寒さに我慢が出来なかった。甘酒を1杯買って暖を取ることにした。
ごめんね待たせちゃったと、待ち合わせ時間よりより少し遅れてハルが来た。
改めて新年の挨拶をして、飲む?とあたしは甘酒が入った紙コップを指さす。
今日はそんなに寒くないし、昨日たくさん飲んだからもういい、それより早くお参りに行こうとハルはそっけなかった。
そう言う割にはハルは着こんでいる。コート、マフラー手袋はもちろんだがセーターに長いスカート。
そうかな?今日は寒いと思うんだけどな。
冷めて飲みやすくなった残りの甘酒を一気に飲み、ごちそうさまと言って紙コップをゴミ箱に捨てた。
よしもう一回お参りに行こう。
お参りでは、無病息災、健康第一と夜と同じ内容で今年の事をまた願った。
いや今年は少し違う、ハルとの仲がいつまでも続きますように、という願いが追加された。
おみくじを引くと、小吉と書かれていた。うーん、あたしの中学生生活は平穏になるだろうか。
二人で同じ色の身体健康祈願のお守りを授かった。
昨日はパパもママもいたし、夜もおそかったから長く話が出来なかった。
夜は特別な時間だったけど、昼間会う特別ではないいつもの日常はいつまでも大切にしたい。
でも小学校生活が終わり、中学生になると二人とも忙しくなって会っている時間はあるのだろうか。
そう思うと少し寂しさがあった。
それに気が付いたのだろうか、ハルが来年も一緒に来ようねと言った。
「もちろん」そうだとも来年も一緒に来よう。
***
短い冬休みはあっという間に終わり、3学期が始まった。
ある日の晩ごはんのとき、そういえば春香ちゃんはどこの中学校受けるのとママが聞いてきた。
県内の私立を3校と、あとは都内を3校、都内は確か桜原女子って言ってたよとあたしがい言うと、
桜原?とお兄ちゃんが声を出して驚いた。
知っているの、そんなに凄いのと聞くと、中高一貫の学校で、高校卒業後はほとんどの生徒が東大に進む
都内屈指の難関中学だと教えてくれた。
いつも一緒に居るからあまり実感が無いけど、こういう風に外からの反応を聞くと、
ハルってやっぱり勉強できるんだなと改めて思う。
あと、塾の特待生だから授業料が免除になっていること、さらにそこからの選抜試験に合格して
塾からの指定で受験するんだよとも教えた。
お兄ちゃんもママもハルの凄さに改めて驚いていたようだ。
「そんな子が千秋みたいなアホと友達って、世の中不思議だよな」とお兄ちゃん言うと
「ほんとよねぇ」とママが続けた。
1月も後半になり、塾の廊下には受験者が合格した中学校名と合格者の名前とが張り出されていた。
1月の半ばに行われた県内の私立中学入試、ハルは3校とも合格という結果だった。
「祝合格 遊佐春香」の張り紙がある。もう塾の宣伝としては十分な結果を出していた。
ハルの試験は2月が本番だ。
金曜の朝に都内に移動し、その日のうちに試験会場への行き方と電車の乗り継ぎを全部確認するそうだ。
土曜を含め連続3日間試験が続き、帰ってくるのは月曜日の夜だ。
移動の前日、あたしは自分の事でもないのにハルの事が心配で仕方がなかった
「千秋、お母さんより心配している」とたしなめられた。大丈夫だからそんなに心配しないでとハルは言う。
都内にある祖母の家はハルのパパの実家であるし、都内の道はそっちが詳しいということなので
今回はハルのパパが同行するらしい。明日の準備があるからとその日は早めに別れた。
その日パパの帰りが遅かった。
帰宅したパパに今日はずいぶん遅かったんだねと声をかけると、千秋にこれをと包みを渡してきた。
開けるとお守りが入っていた。それは遠くにある学業成就で有名な神社のお守りだった。
仕事が終わった後、思い出して行ってきてくれたらしい。
明日、春香ちゃんに渡してきなさいとパパは言ったんだけど、
「パパ、ハルは明日の朝、あたしが学校行っている間にもう都内に移動しちゃっているよ」というと
大変驚き、だって試験は土曜日って言ってたじゃないかと言った。
事前準備があるから金曜に移動することを伝えると、そうかそれはすまかったなとうなだれてしまった。
パパの気持ちはありがたかったけど1日遅かった。これどうしようか。
電話をして、明日の朝早くに会えないかと尋ねてみたが
申し訳なさそうな声で、ごめんね朝は時間が無いからと断られてしまった。
そうだよね、こっちこそ準備で忙しいところごめんねと言って電話を切ろうとすると、
「千秋、そのお守り千秋が持ってて。それでわたしの為にお祈りしてくれるかな」
あたしが?あたしでいいのかなというと、もちろんよと言った。
***
金曜は朝から気が気でならなかった。
自分の事じゃないのに緊張する。いや不安でいっぱいだった。
ハル、もう新幹線の中かな。いまどうしているんだろう。
昨晩からずっとお守りを握りながら、無事だけを祈っていた。
学業成就のお守りだけど肝心の学業については何も心配していなかった。
「ハルは勉強は出来るけど、いまいち肝心なところでドジ踏みそうなんだよなぁ」
もしダメだったとするなら、それは学業以外の要素が大きい。
事故にあいませんように、風邪ひきませんように、お腹痛くなりませんように、そして何より
ハルがなれない環境でストレスかかえて、おばあちゃんの家でおねしょしませんようにと祈った。
学業成就にそんなお祈りが通じるのかはもはや関係なかった。
助けてくれそうな神様だったら誰でも構わずすがろうと思っていた。
「こら坂井、いくらなんでも授業くらい聞け」
今日1日でリエ先生に何度怒られただろうか。授業は完全に上の空だった。
大変よね遊佐さん、と受験する事を知っている子が話している声が聞こえた。
学校が終わると玉川神社に寄ってお祈りをした。
玉川神社の神様が何の神様なのか、あたしは知らない。
けど小学校に通う子供達なら助けてくれそう。そんな気がした。
土曜日の朝、知らないおばあちゃんにハルが叱られている夢を見た。
6年生になってもまだおねしょがなおらないことで叱られているのだ。
目が覚めるとあたしの部屋。ちょっと下着が濡れている感じがした。急いでトイレに駆け込み用を足す。
また布団に入りなおすと、ハル早く帰ってきてあたしがストレスで潰れそうだよと泣き言を言った。
桜原女子中学校の試験は土曜日午前中、合格発表は翌日曜夕方4時だそうだ。
日曜午前は別の学校の試験、そして午後は月曜の試験の準備をしつつ発表を見に行っているだろう。
日曜日。合格発表の日だ。
だめだ落ち着かない。「だって発表は夕方なんだよ」
千秋が受けたわけじゃないでしょとママは言うが、そうじゃないんだよ。
結果が聞けるのは火曜日に学校に来てからかな?それとも夜に電話くれたりするかな。
「そんなに気になるなら夕方塾に行って聞いてみればいいじゃない」
そうだよママ、なんでそれに気が付かなったんだ。
家にいても落ち着かないので授業が無いのにも関わらずにあたしは塾に来てしまった。
結果がわかればすぐに塾に連絡が来るはず。ここなら最初に聞くことが出来る。
中に入ると復習コースの先生がいた。挨拶をすると今日は自習?と聞かれたので
遊佐さんの結果が気になってと伝えると、今事務室の中はそれでピリピリしていることを教えてくれた。
合否の結果連絡はまだ塾に届いていないらしい。
入っていいよと言われたので、あたしは事務室に入って一緒に待つことになった。
時間は合格発表の時間から5分ほど過ぎている。
夕方4時を15分が過ぎたときだ。1本の電話が鳴る。進学コースの先生が電話をとった。
はい、本当ですか?はい、そうですか、おめでとうございますと電話で話す声がだんだん興奮してきている。
電話を切ると「遊佐さん、桜原合格です」と事務室の外まで聞こえるような大声で叫んだ。
事務室内は歓声であふれた。全国系列の進学塾とはいえ地方から都内の難関校合格者はめったに出ない。
やったね坂井さん、遊佐さん合格だってよと復習コースの先生も大喜びだ。
すごい本当に受かったんだ。あたしは嬉しいと言うよりほっとして力が抜け椅子から立ち上がれなかった。
これでハルは仇を取ってくれたということになるのかなと思うとともに、
きっとこの調子ならおばあちゃんの家でしなかったんだと、そっちの方の心配も吹き飛んだ。
噂の広がりは早いもので、月曜の朝にはハルが桜原女子に合格したことはクラスのみんなが知っていた。
まぁ同じ塾に通っているのはこのクラスにも隣のクラスにもいるし、きっとそこから話が広がったに違いない。
私立中学受験コースは4年生からあるそうだから、他の学年にもきっと話が伝わっているだろう。
流石特待生。来年度の塾の宣伝は文句のつけようがない出来だ。
「千秋、電話。春香ちゃんから」
ママから受話器を奪うように取り、急いで電話に出る「もしもし」
今東京駅だという。これから帰って来るそうだ。
「あのね合格したよ」
「知ってる」
「なんで?」
「塾で聞いた」
学校じゃ大変な噂になっていることを伝えた。今日の午前受験した学校は夕方に発表があり、
受験した学校はすべて合格という結果だった。
「そろそろ新幹線が出発する時間だから」
「また明日」
「学校で」
電話を切るとちょうどパパが仕事から帰ってきた。肩に雪が付いていた。
「降ってきたの?」と聞くと、この調子じゃ明日の朝は積もるかもなと言って靴を脱いだ。
***
火曜日。昨晩から降り続いた雪は弱くなったものの、朝になってもまだ降り続いていた。
「このくらいなら傘いらないよ。それに午後には晴れるって」
傘を持っていくと帰りに忘れそうという事もあって、あたしはコート下に着ているパーカーのフードを被り学校に向かった。
だいぶ雪が積もっている。まだ踏み固められていない雪は柔らかかった。
昨晩ようやく帰ってきたハルに会える。それが一番の楽しみだった。
学校に来たハルはいつもと変わらなかった。
親の言いつけで塾に行かされている、地元の公立中学校に行くが、塾の学費免除の為に仕方なく私立を受験した、
そういうストーリーをみんな信じていたので、合格祝いの言葉より、大変だったねという同情のような感じだった。
本当の理由は誰も知らない。あたしだけが知っている。
今までと何も変わらない日常があった。
「全部の試験終わったからもう滑るって言っても大丈夫だよね」
「大丈夫よ。試験前だってそんなこと気にしてなかったわ」
学校が終わり二人になった帰り道、いつもの玉川神社でいつもの寄り道。
雪はお昼ごろには止んでいたが、積もった雪がシャーベット状態になって道路はツルツルと滑る。
あたしもハルも何度か足を取られ、転びそうになった。
神社の境内に積もった雪は、先に学校を出た低学年の子たちが遊び歩いたのだろう、
新雪の面影はなく、ずいぶんと踏み荒らされていた。
だが雪は片づけられておらず、一面真っ白な世界が広がっていた。
真っ白な世界には音が無く。二人だけの世界のようだった。
「合格おめでとう、ハル。すごいじゃない都内の中学でもすごく難しいって聞いたよ」
電話でも学校でも話したけど改めて合格を祝った。
お祈りしてくれた?と聞かれたので、もちろんだよとポケットからお守りを出した。
渡すことが出来ないでいたお守りを、やっとハルに渡すことが出来た。
「あのときからずっと肌身離さず持っててハルの事、祈り続けてたからね」
学校へ行く時はもちろん、塾でも家でも常に持ち歩き、寝るときは常に枕元に置いていた。
ハルはお守りを受け取ると、まるで宝石を扱うかのように手で包み込むようにした。
「ありがとう。わたし、このお守りずっと、ずっと大切にするから」
もう試験は終わったしそこまでしなくてもと言うと、
「だって千秋がずっとわたしのことを思ってお願いしてくれたお守りなのよ。
それだけわたしのこと考えててくれた思いが詰まっている」
次第にハルは涙ぐんでいた。そこまで言われるとなんだか少し照れる。あたしはハルの顔を見れなかった。
「あのね千秋聞いて」ハルは涙を拭う。
「3勝1敗、わたし勝ったのよ」
え、1敗?なんで?受験した学校全部合格って聞いたんだけど。
「そうじゃないの、わたし外泊でしなかったの。とうとうしなかったの。
もうこれでお父さんもお母さんも誰からも嫌味を言われなくて済むの。おばあちゃんの家でやっちゃったことなんてもう昔の話なのよ」
ハルはそう言って笑った。1敗は昨年の成績らしい。
あたしの知っている限りでは昨年のおばあちゃんの家、あと修学旅行。
うちに泊まりに来たのは練習としているからノーカウントだ。
たしかにどちらの外泊でもやってしまっている。それが一度もなかったんだ。大成果である。
それとこれのおかげと言って鞄から本を取り出した。それはあの児童書『ほけんしつのぱんつ』だった。
持っていったの?と聞くと、もちろん、だってわたしの心の支えになっている本なんだよと言った。
そして本をめくり、挟んでいた1枚の写真を取り出した。
「これって」
あたしととても緊張した顔のハルが写っている。
その写真は修学旅行の時、同行カメラマンに撮ってもらった二人の写真だった。
あたしとハルで最初に撮った写真だ。
「この写真をお守りとして持って行っていたの。これがあれば千秋がそばにいてくれる、だからわたし頑張れた。
千秋がいたから、わたし孤独にならなかったんだよ」
ハルはあたしの手を取ってブンブンと振りまわし、興奮した調子で話し続けた。
「ハルおめでとう、勝ったんだね」改めて言い、あたしも手を握り返す。二人で飛び上がってその勝利を喜んだ。
「ありがとう、そうよわたし勝ったのよ」
そうだ、ハルは勝ったのだ。受験にも、昔の自分にも勝ったのだ。
もうこの子はおもらしはるかなんかじゃない、恥ずかしい子なんかじゃない、誰にもダメな子なんて言わせないんだ。
あなたがいたから、ふたりとも一人、暗い闇の底に落ちることは無かった。
救ってくれた手は、救う手になり、幾重にも重ね合わせた愛はお互いの心と心を包み込んだ。
雲が晴れ、太陽の光が二人を照らす。冬の冷たい空気のなかを澄み切った青空が広がった。
柔らかく暖かい日差しは神社に積もった雪で反射し、広がる世界を光り輝かせていた。
***
後日、塾の廊下には一番上の目立つところに
「祝合格 遊佐春香 桜原女子中学校」 と貼られていた。
塾に合格報告をしに来たときに張っていったらしい。
来年度の塾の宣伝に使われるパンフレットには私立合格者や成績が大きく伸びた人たち声が体験記として書かれていた。
1番最初に登場するのは、塾として大金星を上げたハルだった。
その合格体験記を読んであたしは強張ってしまった。
合格までの勉強方法とそのスケジュールが書かれていたのだが、朝起きてから寝るまでの
ほぼ起きている時間が勉強と書かれていたからだ。
これは塾に通うと言うより、この密度と勉強ばかりのようなスケジュールだから合格したんじゃないだろうか。
あたしは「絶対無理」と声に出してしまった。あたしと会っている時間もあっただろう。
この勉強を何年も続けてきたのか、いやハルの事だ、中学には行っても勉強は続けるんじゃないのかな。
***
二月の入試が終わると季節はあっという間に過ぎ、三月の卒業式に向けての練習が始まった。
練習では入場の仕方、卒業証書の受け取り方、送辞と答辞、退場の仕方までを一通り行う。
何度もやっているうちに、もうすぐ卒業するんだという意識が強くなってきた。
そして卒業式の朝が来た。
ここどこだろう。雲一つない青空の下、白い砂浜の奇麗なビーチ。開放的で気持ちいい。あたしはそこに一人でいた。
今日は卒業式だというのになぜかいつも学校に行く時のようなパーカーとキュロットの普段着のままだ。
ビーチの看板には『大自然トイレ』と書かれている。そうなんだここトイレなんだ。本当かなぁ?
朝、目が覚めて時計を見るとまだ5時だった。
なんでこんな早くに?と思いながらもう一回寝ようとしたら尿意がした。
「おしっこ」と誰に言うわけでもなくつぶやいて起き上がり、トイレに行き用を足して、
さてもう一回寝ようとして気が付いた。
あれ?もしかしてあたしトイレに行きたくて目が覚めた?
お尻と布団を何度も触ってみる。濡れていない。
やっぱりおしっこしたくなったから目が覚めたんだ。そう思ったら「ふふふ」と笑いが出た。
嬉しさのあまり布団をかぶり「やった」と誰にも聞こえない小さな声で喜んだ。
起きる時間になり目覚まし時計が鳴る。目が覚めて確かめるとやっぱり布団は濡れていなかった。
夢でトイレに行ったんじゃなかったんだ。おしっこしたくなって目が覚めてトイレに行けたことが嬉しかった。
「千秋いつまで寝てるの」とママが部屋に入ってきた。
「あ、ママおはよう」
そう言ったあたしは朝から箪笥前に下着を並べていた。
その様子を見て「千秋、またおねしょしたの?なら早くシャワー浴びて着替えちゃいなさい」と声を上げた。
「してない、してないって」
そりゃ疑われることはたくさんしてきたけど、もう少し娘を信じてもいいんじゃない。
「じゃあ、何やっているの」と聞くので、今日履いていくものを選んでいたんだと答える。
だって卒業式だよ。気合いを入れて一番いいものにしたいんだけど、どれにしたらいいか迷っちゃって。
そう言うと、ママはいい加減にしなさい!と怒ったのだった。
***
先日、卒業式用に買ってもらった、プリーツスカートとブラウスに大きめのリボンタイを合わせる。
紺のテーラージャケットを羽織ると、鏡の前にはとても可愛らしい美少女が現れたのでした。
早くもパパが写真を撮ろうと言い始めた。学校遅れるって。
「汚さない様に気を付けるのよ。ママとパパ後から行くから」
「わかってますって」
「それと卒業式終わったら、一回帰って、その後、春香ちゃんたちと出かけるから」
ママそれ昨日も聞いた。じゃあ行ってきます。
最後の登校。玉川神社を通るのも、もう最後だろう。
「6年間お世話になりました。事故にあわず学校に通えたのもみんな玉川神社のおかげです。
ありがとうございました」
本殿の神様に今までのお礼と感謝を伝えてから学校に向かった。
学校に到着し、教室に入るとハルはもう来ていた。
「千秋、おはよう」ハルはブラックのフォーマルのジャンパースカートで、ブラウスには細めのリボンタイだ。
最後まで優等生を崩さない服装だった。
ハルがあたしをじっと見ている。どうしたの?
「わたし千秋がスカート履いているの初めて見た」
「変かな?」
「そんなことないよ、とっても似合っている」
講堂に移動し、いよいよ卒業式が始まった。
校長先生から卒業証書が一人一人に授与される。
それが終わると卒業生に祝辞、在校生からの送辞と続き、
「次に答辞、卒業生代表 遊佐春香」と名前が呼ばれた。
来賓席と父母席が少しざわめいた。桜原女子中学校合格者の名前は思った以上に広がっているようだ。
ハルは卒業生代表に相応しく、堂々と答辞を読んだ。壇上に上がる姿のハルを見るのももう最後だ。
式が終わり教室に戻るとリエ先生からの最後の授業が始まった。
小学校でのこれまでのこと、これからの人生の事、たくさん話してくれた。
「これで終わりだ、以上。では学級委員」
「規律!礼!」と学級委員としての最後の号令が終わった。
「先生」
あたしとハルと二人で最後の挨拶をする。
「先生、お世話になりました。ありがとうございました」
「卒業おめでとう。お前たちこの一年で大きく成長したな」
最後の最後に先生に褒められたのがとても嬉しかった。
思い残すことが無いよう二人で校舎内をまわる。
外に出て二人で校舎を見上げる。
もうここに通うことは無いんだ、これで最後なんだなと改めて思うと6年間の学校生活が思い出され少し涙が出た。
写真を撮る人達、別れの挨拶をする人達から、あたしとハルは少し離れてこれからの事を話した。
「やっぱりお医者さん目指すの?」
ハルは今はどうか分からないけど、自分がしてきた勉強を誰かの役に立てたいと言った。
「わたしたちみたいに困って悩んでいる子の手助けが出来たらいいなって思うの」
「そうだね。なれるよ、みんなを助ける立派なお医者さんになれるよ」
ハルは照れくさそうに笑った。
「でもさ、立派過ぎて、先生は小学6年生のお正月になってもまだおねしょしてたんだよ、
なんて言っても誰にも信じて貰えないかもね」
あたしがそう言うとハルの顔から笑みが消え、大変驚いたような顔をした。
そして感情を押さえているがその口調は静かに怒っていた。
「ねぇ千秋、なんでお正月のこと知っているの。お母さん?お母さんが話したの?」
まって、ハル落ち着いて。
「たしかにお医者さんやお母さんのいうこと聞かなかったわたしが一番悪いし、そりゃお正月早々やらかしたから
言いたいことがあるのもわかる、けど何も人に話さなくてもいいんじゃない?」
だから落ち着いて。
「千秋だからいいって思ったのかもしれないけど、いくらなんでも酷いよ。だいたいあのあとはしていないんだし。
お父さんなんて『今年も書初めしちゃったね』なんて言うのよ。あまりにも無神経だわ」
そうじゃなくて、ハルのママ何も言っていないよ。
「深夜の初詣で甘酒あんなに飲んでいたのに、次の日は全然飲もうとしなかったじゃない。
飲むどころかお店を見ようともしなかった。だから甘酒が原因で何かあったんだろうな、
あたしたちで考えられるのは一つしかないなと思って、あたしも思い当たることがあったからそうだろうなと思って」
ハルの顔がだんだん赤くなる。余計なことを話してしまったことに気が付いたようだ。
「千秋って、その、わたしがしちゃったっていうこと、わかるの?」
「なんとなくだけどね」
「…へ、へぇ、どうして?」
「顔に書いてあるし、あと声にも出る」
「顔?声?」
「そう、例えば朝、教室でおはようって言った時の声の感じや、そのときの微妙な表情でしなかったとか、
今日はダメだったかとか。上機嫌だと最近はいい調子なんだなとか」
ハルは自分の顔を何度か触り、何か言いたそうにしていたが、こらえているようだ。
「ち、千秋はね、探偵とか刑事とか、向いていると思うよ」
「なんで?」
「なんでもよ!」
「そうかな?」
「そうよ!」
あたしは将来どうなるんだろう。
ふと、あたしたちの前にリエ先生がいなかったら、あたしたちはどうなっていたんだろうと思った。
以前ハルが話した、リエ先生が引き合わせてくれた、あたしも誰かと誰かを引き合わせる。
そんなことが出来たらどんなに素晴らしいだろう。
あの先生の後を追いかけてみるのも案外悪くないかもしれないな、そんな気がした。
「千秋!春香ちゃん!」ママが呼んでいる。
「みんなで写真撮ろう」
今行くよ。そう返事をすると、
「千秋、勝負よ。わたしが勝ったらなんでもいう事聞くのよ」そう言ってハルはフライングで走り出した。
「あ、ずるいぞ」
あたしも負けまいと駆け出した。
「あっ!」
慣れていない靴で走り出したハルはつまずき、前のめりで転びそうになった。
あたしは地面を強く蹴り、追いつくととっさに両手でハルを抱きかかえて引き寄せた。
セーフ。転ばないで済んだ。せっかくの卒業式用の服が汚れてしまうところだったじゃないか。
様子を見ていたママたちも胸をなでおろす。
「ありがとう、千秋」
「ドジ。いつも肝心な時にやらかすんだから」
苦笑いするハルをあたしは見た。
「支えるから」
「…うん」
「これからもずっと、いつまでも」
どちらともなくお互いの手を取り合った。
この日、春の訪れとともにあたしたちは小学校を卒業しました。
【千秋と春香 完】




