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3話 宿題が終わった日

夏休みが始まった。


始まってみると塾に通う夏休みは案外悪くないものだった。

塾にはハルがいる。毎日会うことだってできる。

とは言っても、基本は勉強。さらにあたしとハルでは選択している授業のコースが違うので

同じ時間に勉強といっても教室は全然違うから、隣同士で勉強することは無い。

けれど、朝から会い、選択した授業が無いときは、塾の自習室、または近くの

市立図書館で会うようにしていた。午後の授業があるときはお昼のお弁当も一緒に食べた。


ハルが塾の特待生という事を教えてもらった。全国模試の偏差値が規定値以上あれば

特待生として扱われ、塾の学費が免除されるという。

さらに何度か行われる選抜試験に合格すること、加えて有名私立中学を受験することが条件であった。

この塾からあの有名私立中学への合格者が出ましたというのが塾の宣伝になるという。

「塾のお金だって結構かかるでしょ。お父さんとお母さんになるべく負担をかけないようにしないと」

勉強をするとこういうメリットもある。あたし、そういう考え全然無かった。

これはハルと友達にならなかったらずっと知らなかったことだろう。


ハルは1を聞いて10を知るタイプではない、天才でもない。ひたすら努力の人だ。

なのであたしが勉強に躓いた時に聞くと、どこで躓いているかをきちんと教えてくれる。

そんなの簡単でしょ、そんな事もわからないの?とは絶対に言わない。

自分もわからないを潜り抜けてきたからだ。


「えーっ!3年生からやりなおしなんてやだよ」

思わずあたしは声をあげた。これでも自分は6年生であるというプライドがある。

ここから始めて勉強の基礎を固めて行くことが大事だと

ハルこと遊佐先生は言う。勉強に関してはハルに絶対敵わないのでこれは大人しく従うしかない。

「国語、算数、理科、社会とあるけど」

口に出して言いやすさというのもあるが、これは勉強の土台となる順番かもしれないとハルは言った。

「文章が読めて理解できないと算数も理科も社会できないでしょ、だから先に国語から勉強して」

そうなのかな?きっと全国2位が言うからそうなんだろうと思い、あたしは国語から勉強を始めた。


***


「ところで夏休みの宿題はいつ頃終わる予定なの?」

お互い今日の塾の講習が終わり、塾にあるジュースの自動販売機前で話しているとハルが尋ねてきた。

普通、夏休みの宿題というものは夏休みの最後の日までかかるものだよと言うと、

まぁ確かにそういう考えもあるかもしれないけど、普通は7月中に終わるものよと言った。

いやいや春香さん、それは普通じゃないです。

クラスの大半は、いやハル以外7月中に終わらせてはいないと思うよと言うと驚いた顔をした。

7月中に終わらせれば、あとの時間は全部自分の勉強に使えるし、気兼ねなく遊べるから楽しいよと。

こうして夏休みの宿題短期決戦は、年頃の娘の由々しき問題についての会議の席で議題に上がり、

賛成多数で可決されたのであった。

「春香ちゃん、よろしくね」

「任せてください」

あたしの意向はほぼ無視され、7月の空いている時間はうちにハルが来て一緒に宿題をすることになった。


「それで春香ちゃんは明日からうちに来るのか」

部活から帰り、台所で1人遅い晩ごはんを食べているお兄ちゃんにあたしは話した。

「そうだよ」

「いつまで?」

「宿題が終わるまで。でも一応7月いっぱいかな。それで悪いんだけど」

あたしは手にした麦茶を少し口に含んでから

「ちょっと家から出ていて欲しいんだ」

「千秋、そんな言い方ないでしょ」

話を聞いていたママが窘める。

「なんでだ?」

「だってお兄ちゃんがいると、ハル、気を使いそうだし」

流石に同じ部屋にはいることはないが、小学生の妹の友人がいるところに高校生の兄がいる。

「確かに気を遣うかもしれないな」

晩ごはんを食べ終え、お兄ちゃんも麦茶を手にする。

「部活があるから日中はいないし、会うことは無いから心配するな」

それに「31日は友人宅に行き、翌日まで遊ぶ予定だからその日は帰らない」とママの方を見て言った。

「やった!ありがとう!帰ってこなくていいよ」

「千秋!」ママはさっきより語気を強めた。


「遊びに行くのその日だっけ?」とママが聞くと、「そうだけど、何か?」とお兄ちゃんが聞き返した。

すると、31日はパパもママも仕事で隣の県に行くので夜までは帰らないというではないか。

「千秋、1人でお留守番大丈夫?」

そんな小さい子じゃあるまいし。帰って来ないわけじゃないんだから大丈夫に決まっているじゃない。

それに、はやく宿題終わらせれば、ハルと二人で誰にも邪魔されず遊ぶことが出来るかもしれない。

これは思ってみないチャンスが舞い込んで来たぞ。よし31日に向けて宿題頑張るか。


「そういえば千秋が友達を家に連れてきたこと、あまり見たことないな」

そう言うお兄ちゃんにあたしは口を尖らせた。

「だって、干してあるシーツとか見られたら嫌だし」

うっかり家で遊ぶ約束した日にしてしまったら、相手は人の家の洗濯物なんて気にしないと思うけど、

もしかしてバレたりしないだろうかと、あたしが気になって気になって落ち着かない。

「春香ちゃんならいいのか?」

あの子なら、少しは分かってくれると思うんだ。多分だけど。


***


さて学校からの宿題だが、国語、算数、理科、社会が一冊になったそれなりの厚さがあるワークドリル。

自由研究または読書感想文の課題がメインだ。課題についてはハルの指導で読書感想文を選択することにした。

「だいたいこのくらいのペースで進めば、7月中には終わりそうね」

一日で進めていく目標ページに付箋を貼り、早速スケジュールが立てられ宿題開始となったが、

立案者と実施者の間で性能の乖離がありスケジュールは遅延が発生していた。

それでも7月31日、とうとう終わるめどがついた。


「どう宿題終わりそう?」

晩ごはんの後、スイカが出された。

ママが切ってくれた三角に切られたスイカは片手で持って食べやすく、いくらでも入りそうだった。

「うん、何とか終わりそう。みんなハルのおかげだよ」

居間でママと二人、スイカを食べながら答える。

お兄ちゃんは自室にスイカを持って行き、パパは明日に備えて先にお風呂に入っていた。

「明日はママとパパは夜まで帰って来ないし、お兄ちゃんもいないから気を付けるのよ」

パパとママは朝から隣県まで電車で移動だ。車じゃないのは仕事の後、食事会が開かれお酒が出るかららしい。

三つ目のスイカに手を伸ばそうとしたところで、ママに注意された。

「千秋そろそろ食べるのやめなさい」

「なんで?」

「夜そんなにスイカ食べたら、またおねしょするでしょ」

「大丈夫だよ、多分だけど」

とはいうものの、去年までを振り返ると思い当たる節がいくつもあった。

うちで食べるスイカは毎年農家を営んでいるママの親戚から送られてくる。

今年のスイカは例年より甘くて美味しかった。こんな美味しいの食べないだなんて。

あたしは自分の部屋に戻るふりをし、ママが見ていない隙にこっそりとスイカを手にし、

さらに口にもくわえて居間を出た。


***


週間天気予報では31日は朝から強い雨とのことだったが、

朝から気温は高く雲一つない青空が広がる快晴だった。

雲の動きが遅く、雨は夕方から夜にかけて降る予想に変わっていた。

しかしそんな天気予報とは裏腹に、あたしの布団は雨模様だった。


口にこそ出さないが、出張で早く出かけないときにあたしがしてしまったことで

ママは少しピリピリしていた。

明らかにスイカをつまみ食いしたのが原因なので罪悪感がある。

シャワーで体を洗い流し、洗濯は自分で行った。洗濯物はあたしの物だけだった。

「今日は天気がいいから早めに乾きそうだけど、雨降るらしいから早めに取り込むのよ」

「お昼には塾から帰るからそのときやっておくよ」

1人遅れて台所で朝ごはんを食べる。早めに食べて後片付けも早く終えられるようにと、

朝ごはんにおにぎりを握ってくれたのだけど、あたしがおねしょをしてしまったせいで片付けが遅れていた。

それでも急いで口にし、後片付けを終えた。

居間のつけっぱなしになっていたテレビでは今日の星座占いがやっている。

あたしの星座は最下位だった。最下位の星座の貴方、突然の雨に気を付けましょうと

天気予報と同じことを言っていた。

「雨の難はもう過ぎちゃったよ」と庭に干されたシーツを居間から見つつ、テレビの電源を消した。


あたしも塾に向かう準備を終え、パパとママと一緒に家を出る。

お兄ちゃんの部活は午前中のみ。すでに家を出ていたが、帰りはあたしより先だろう。

駅まで一緒に行き、パパとママを改札口迄で見送った。

「お昼ご飯は冷蔵庫にあるから。それと春香ちゃんに出すお菓子も用意してあるから」

戸締まりちゃんとするのよそう言って、パパもママも駅の改札を通って仕事に向かった。

スイカある?と聞きたかった。けれど電車の時間ギリギリになってしまった原因でもあるので

流石にこれを聞いたら怒られるのではと思って聞けなかった。ハルにごちそうしたかったな。


***


少し早い時間かなと思って塾に到着するとハルはすでに来ており、自習室で1人課題を行っていた。

まだ自習室に人は少ない。隣の席に座り、今日宿題どうする?夕方から雨が降るらしいけど聞いた。

天気予報では強い雨と言っていたので、遅くなってしまったら帰り道のハルが雨にあたってしまう。

宿題のサポートに来てもらったのにそんなことになってしまっては、ハルに申し訳ない。

二人で気兼ねなく遊べるかもしれない日ではあったけど、それはまた今度になるだろう。

ハルも天気予報は気にしていた様子だった。

「夕方までに終わりそうだから大丈夫よ。それにわたしが少し早く千秋に家に行けばいいだけじゃない」

夕方からの雨の事を考えると、ゆっくり来てよとは言えず、わかったと返事をした。

ということで宿題短期決戦は予定通り行われることになった。

予定通りではあるがハルが早めに来るとなり、あたしには塾から急いで帰らなきゃいけない理由が出来た。

朝干してきた洗濯物全部片づけないと。

おねしょの洗濯物は見られたくなかった。千秋は今日おねしょしたんだと知られたくなかった。

わかってくれるかもしれないけど、ハルの前では格好悪いところ出来るだけ見せたくなかった。


午前中の塾を終え、お互い家でお昼を食べてからあたしの家で夏休みの宿題をする。

復習コースの授業が終わると急いで教室を出て、家に向かって走った。

家に帰ると部活を終えたお兄ちゃんがすでに帰って来ており、

ママが用意してくれていたお昼も食べ終え、友達の家に泊まりに行く支度をしていた。

あたしは冷蔵庫からママが用意していてくれていたお昼を電子レンジで温め、

急いで食べ終える。食器の片づけを終えると洗濯物の取り込みに取り掛かった。

「ねぇ、手伝って」

準備を終え、友達の家に向かおうとしていたお兄ちゃんを玄関口で呼び止める。

ハルが来る前に急いで洗濯物取り込んで片づけたいんだ。

午前中のカラッとした暑さのおかげで、シーツもバスタオルもタオルケットもパジャマも全部乾いていた。

まったく自分の分なんだから自分で方付けろと、それでも手伝ってくれて取り込んだシーツをあたしに投げてきた。

「春香ちゃん相手でも嫌なのか?」

「やっぱり見られたくない。恥ずかしいし、格好悪いし」

ちゃんと乾いているか確認し、洗濯物を大急ぎで片づけた。


***


予定時間より少し早く家のチャイムが鳴る。ハルが家に来たのだ。

「こんにちは、お邪魔します」

洗濯物の取り込みを手伝ってくれたおかげで出かけるのが遅くなったお兄ちゃんが玄関でハルを出迎えてくれた。

「こんにちは、もしかして君が春香ちゃん?かな」

「遊佐春香です。いつもお世話になっております」

「初めまして、千秋の兄です。千秋がいつも迷惑かけてすまないね」

初対面の二人が挨拶をしているところにあたしも入る。

いらっしゃい、先にあがっててよと、あたしはハルを居間に通した。

なんとか洗濯物の片付けはハルが来る前に全部終えることができた。


「すごくかわいい子なんだな、春香ちゃんって」

まったく、これだから男と言うのは。

「最近の小学生はみんなあんな感じなのか?」

「まさか、あの子だけ特別だよ」

たしかにハルの容姿は目を引かれるものがあるけど、まさかお兄ちゃんの口から出るとは思わなかった。

「お兄ちゃん」あたしは改まって言った。

「小学生相手は犯罪だからね」

お兄ちゃんは目を細め、バカもいい加減にしろと言って、あたしの額にでこぴんした。

靴を履きながら家の事をあたしに話す。

「父さんも母さんも夜には帰るそうだから」

「はいはい」

「俺は泊りで帰らないから、きちんと戸締まりするんだぞ」

「わかってるわかってる」

「あと、夕方から強い雨らしいから早めに終えて、春香ちゃんを家に帰すんだぞ」

「やっぱり降るのかなぁ」

見上げると空は曇りひとつない快晴だ。これが夕方から崩れてくるなんて信じられなかった。

行ってくると言って、お兄ちゃんは友達の家に出かけた。


千秋の家って涼しくて気持ちいいね。

居間で足を崩した姿勢でハルは言った。ここ数日毎日来ていたせいかすっかり慣れ親しんでいる。

今日はエアコンを付けていない。

この家は古い家だけあって小さな窓がいくつかあって風通しがとても良いように出来ている。

居間の窓と奥の部屋の窓を開けていると風の通り道出来て、湿度も下がり自然と家全体が涼しくなるのだ。

そう?でも古い家だよ。あたしはエアコンが良く効いている最新のマンションの方が快適だと思うよ。

台所から麦茶を用意してハルに渡した。お互い飲み終えると早速宿題に取り掛かった。


***


「終わった!宿題終わったぞ!」

ワークドリルに張られたスケジュールの付箋が全部なくなった。

後回しにすると絶対終わらないからと、ドリルと並行して進めていた読書感想文も全部書き終わった。

信じられなかった。毎年毎年夏休み最終日までかかっていたあの宿題が7月中に終わってしまったのだ。

あたしは何か人生でもとても大きなことをやり遂げた満足感でいっぱいだった。

「わたしはあと読書感想文だけね」あたしに付きっきりのハルはそれでもワークドリルを終えていた。

ハルのペースならもっと早く終わらせることが出来ただろう。

時間を見ると夜の6時。まだ明るいがもう夕方だ。残念ながら二人で誰にも邪魔されず気ままに遊ぶ時間は無かった。

「じゃあ、わたしそろそろ帰るね」とハルが立ち上がった時だ。

外からサーッという音が聞こえてくる。雨が降り始めていたのだ。


傘貸すよと言うと、ハルは少し考えた様子で最近の雨は強く降ったと思ったら、あっという間に晴れることが多いので、

雨が落ち着くまで少し待たせてもらっていいかなと、座布団に座りなおした。

「千秋こそ一人で大丈夫なの?」

「ハルこそ遅くなって大丈夫なの?」と聞き返す。

「もう少ししたら電話貸してもらえる?家には遅くなると伝えるから」


念のために戸締まりを確認しよう。開いている窓は全部閉める、カーテンもだ。

全部の部屋の窓が閉まっていることを確認した。

窓を全部閉めるとさすがに暑い。あたしはエアコンの電源を入れ、冷房の温度を合わせた。

さっきまでまだ明るかった外があっという間に暗くなる。

想いとは裏腹に、雨が弱くなる気配は一向になかった。

「いざとなればタクシーを使えば大丈夫よ。うちまで初乗り料金くらいでしょ」とそう話しているときだ。

電話が鳴った。ちょっと出るねと言ってあたしは電話を取った。

「はい、もしもし」電話の相手は仕事で出かけているママだった。

「はい、はい、え、動かない?」

雨の影響で電車が運休になったらしく、パパもママも帰ってこれないそうだ。隣県の方はもっと雨が強いらしい。

「いい、お兄ちゃんが居るお宅に電話して帰ってきてもらうようになさい、そうするのよ」最後にママはそう言って電話を切った。

確かにそうした方がいいんだけど、晩ごはんの席で帰って来なくていいなんて言ってしまった手前、電話しづらかった。


「千秋のご両親、大丈夫なの?」

電話ではビジネスホテルが取れたからそこに宿泊して、明日の朝いちばんで帰ると話していた。

「そう、それはよかった」

けどどうしよう、今晩あたし一人きりだ。

それならうちに来る。ハルが提案する。

「お父さんもお母さんもいるし一人でいるよりずっといいわ、そうしましょうよ」

いい提案だと思うけど、ちょっと困りごとがある。

ただ泊まるならいいんだけど、あたしには一つの心配事がある。長年の大問題、おねしょ問題だ。

友達の家族が全員いるところで、もしおねしょしたらどうしよう、これさえなければいいんだけど。

前回のお泊り会のような特殊な会だったり、ママも一緒にいるのであればいいけど、1人というのは。

そう思うとその提案を受け入れることが出来ない。それに今朝してしまった分より一層不安が大きかった。

あたしがなかなか返事をしないででいると、ハルは察してくれたのか

「ごめんなさい、わたしが千秋の立場だったらやっぱり嫌かも」とまた少し考え、

千秋を1人には出来ないから今日はここに泊めてと言った。朝まで一緒に居ましょう、家には電話でそう連絡した。

このときあたしは無邪気にも、朝までハルと遊べるなどと考えてしまっていた。


雨は止む気配がない。むしろ雨音は夕方よりも強くなっていた。

「ねぇ何か聞こえない」ハルがカーテンを開け、暗い空の遠くを見る。

光ったと思ったら轟音が鳴る。雷だ。

まだ遠い感じ。しかし轟音は次第に大きく聞こえるようになり、だんだん光った時と音が聞こえる間隔が短くなり始めた。

あたしもハルもどちらともなく、お互い寄りあう。光った瞬間、さらに大きい轟音がなった。

「ヒッ」ふたりで手を取り合う。どうしよう、こんな時にあたしはトイレに行きたくなってきた。

その時、明かりが消えた。停電だ。エアコンが停まる。

風通しが良い家とは言っても窓を閉めていればもちろん暑い。

少しだけ窓開けることにしよう。窓開けると雨音と雷の音が余計大きく聞こえる。

雨の様子を見ようとカーテンを開けたとき、外からの雷光が部屋全体に差し込む。

一瞬明るくなるとほぼ同時に、今までのよりも大きい空気が震えるような雷鳴が家を包むように鳴り響いた。

「ど、どこかに落ちたのかな」まだ耳の奥で雷鳴が響いている感じがした。

そうねといい、ハルは「雷は1秒間に30万km、音は1秒間に340mの速度。

音が聞こえるまで2秒くらいあったから340掛ける2で約680mくらい離れていると思うわ」と雷が光った時と音が聞こえたときの

時間差から距離を割り出していた。

意外と冷静だなと思ったが、そうじゃなかった。どことなく落ち着きがなくそわそわしている。

だからからそんなこと話して気を紛らわそうとしているのだ。

すぐ治まると思った停電はまだ復旧しない。弱ったなぁ、トイレ我慢出来るだろうか。

あたしはトイレを我慢しているのでしだいに口数が少なくなる。

ハルは気を紛らわそうとして次々と話しかけてくるが、それに答えることが出来ないでいた。

とても長い時間が経った感じする。


居間の蛍光灯がカチカチッと鳴った。停電が復旧し電気が使えるようになったのだ。

よし今のタイミングでトイレに行こう。そんな時だ、玄関口にある家の電話が鳴った。

ただの電話の着信音のはずなのに怖い。なんでこんな雷の夜に電話だなんて。いったい誰から?パパ、それともママ?

雷の音と電話の着信音が鳴り響く。ずっと鳴りっぱなしで電話は切れそうもない。

ホラー映画でこういうシーン見たことがあるのを思い出した。

誰からもかかってくる予定のない電話。ただの電話だろうと思って安心して出ると、

電話口から地の底から呻くような怨霊の声が聞こえるんだ。

「千秋!変な事言わないで!!」


電話は切れない。出るしかないのか。今にも漏れそうなトイレを我慢しつつ恐る恐る電話に出る。

「もしもし」

その声「お兄ちゃん!」

「もしもし、千秋か?」

聞きなれたいつもの家族の声がする。その安堵で恐怖と不安が消えた。

でもそこで体から力が抜けてしまい、声も出せなくなって、あたしはその場にへたり込んで動けなくなってしまった。

なんでお兄ちゃんから電話が、何かあったんじゃ!?

「もしもし、お電話代わりました、私春香です」

落とした受話器をハルが拾い、代わりに電話に出た。

「はい、いえ、あの、千秋なら大丈夫です」

何度もこちらを見ては電話に応対する。

「いえ、えっと、今日は電車が動かないとかで、家にはわたしと千秋の二人です」

電話を終えたらしく、受話器を電話本体に置きこちらに振り返る。

「お兄さんすぐ帰ってきてくれ、あ、あの、千秋」

へたり込んだあたしは体の力が全部抜けてしまい、その拍子で我慢していたおしっこが全部流れ出てしまっていた。

そんなあたしにハルはどう声を掛けてよいのやら困惑した様子だった。

「その、大丈夫?」

「うん」あたしはそう返事するのが精いっぱいだった。

今日は夏休みの宿題全部終わって最高の日じゃなかったの?

最下位の星座占い。その中であたしが最下位だった。

おねしょはする、ハルの前でおもらしまでする。こんな格好悪いところ見せることになるだなんて。


***


帰ってきたお兄ちゃんは全身ずぶ濡れだった。

タクシー使わなかったの?と聞くと、待っていられないから走ってきたと玄関口で雨水を落としながら答えた。

本当にそうなんだろう。ズボンの裾は走った時に跳ね返る泥で汚れていた。

急いでバスタオルを持ってきてお兄ちゃんに渡した。

「でもなんで?だって今日は友達の家に泊まって帰って来ないはずじゃ」

「こんな夜に小学生の女の子ふたりだけにしておけるわけないだろう」

頭と顔をバスタオルで拭きながらそう言った。

友達の家で見たテレビのニュースで電車が停まっていることを知って家に電話したそうだ。

それでパパもママも帰れない事を知って戻ってきてくれたのだ。

9時を過ぎると、雷は通り過ぎたらしく、次第に雨は小康状態になってきた。

お兄ちゃんが呼んでくれたタクシーに乗ってハルは帰っていった。

ハルが帰るとあたしはお兄ちゃんにしがみ付き小さい子のように甘えた。

「なんだ雷が怖かったのか?」

「怖かった。ごめん。帰ってこなくていいなんて言って」と謝った。

まったくしょうがないやつだと、頭を撫でてくれた。いつもの力任せではなかった。

しばらくしてハルから無事に家に着きましたと電話があった。

「晩飯は食ったのか?」

おかしを食べたからと答えると、それじゃダメだろと言い、冷蔵庫を確認してこれで我慢なと、

卵が乗っていない冷やし中華を作ってくれた。

冷やし中華はすこし濃い目の味で、運動部の男子なら好みそうな味付けだなと思いながら食べた。


***


「あの、今晩なんだけど」

「ダメだ」

雷雨はとっくに過ぎたけど、今晩1人で寝るのは怖かった。なので今晩は一緒にとお兄ちゃんの部屋に入り込んだ。

高校生が寝るにはまだ早い時間。部屋で雑誌を読んでいたお兄ちゃんはあたしがまだ何も言っていないのにも関わらず

断りの返事をした。

「俺のベッドを汚すからダメだ」

「今日はしないと思うよ。多分だけど」

「お前の多分は信用できない」

何という事だ。そりゃ普段から信用されることは何一つしていないという自覚はそれなりにある。

けれどそこは可愛い妹、こんな日は十分に甘やかしてあげるのが兄としての勤めではないだろうか。

「ダメだ」

交渉は失敗に終わった。仕方なく肩を落として部屋に戻ろうとすると、

「自分の布団を持ってこい。この部屋にいてもいいから」

やった!お兄ちゃん大好きと、あたしは急いで自分の部屋から布団を持ってきた。


その夜は昔のことを思い出し夢に見た。

おねしょをした事が知られたくないので、汚した下着を隠したり、濡れた布団をドライヤーで乾かそうとしたり、

なかなか布団から出ずに抵抗したりしていた。

布団を被って泣いているあたしは「なんでいつもママに言うの!」と悪態をついてはお兄ちゃんを困らせていた。

そのたびに、母さんは怒らないからちゃんと言うんだよと諭されたんだ。

そうだ、お兄ちゃんが小学校の修学旅行に出発する日の朝、あたしはやってしてしまったんだ。

あれは何年前だろうか。ママは千秋が修学旅行に行く時までは治るからと言ってくれたが、

修学旅行前どころか、行って帰って来ても、不祥の娘はいまだにおねしょが治っていないことに胸の奥がチクリとした。

そんな夢を見たからだろうか、目が覚めると正しいのはお兄ちゃんだということが証明されてしまった。

「うわ、やっちゃった」タオルケットを剥ぐと布団には小さな世界地図が出来ていた。

久しぶりの二日連続。昨日たくさんの出来事があったから心と体が不安定なのかもしれない。

まだ寝ているお兄ちゃんに向かって「ごめん」と言って、汚れ物をまとめお風呂場に走った。


シャワーで体を洗っていると洗濯機の音に交じり、「しないんじゃなかったのか」と声がした。

怒られる!ベッドは汚さなかったけど、さすがにお兄ちゃんの部屋でのおねしょはまずいだろう。

それに今回は二日連続だしなぁ。

「洗濯が終わったら朝飯食いに出るから支度しろ」と聞こえた。

怒っているんじゃなかったのか。お風呂場から顔だけ出し「外に食べに行くの?」と聞き返すと、

「嫌な事が続いただろう。そういう時は積極的に楽しいことをして嫌なことを忘れるんだ」

そう言い残して洗面所から出て行った。

「わかった!」そう返事をするとあたしは急いで体を洗い、お風呂から出た。少し気分が晴れやかになった。


***


とりあえずどこに行くか目的の店は決めないで家を出た。大通りまで出れば朝から営業しているお店があるだろう。

そこで適当な店に入ることにした。

思わず朝から外食。そんな出来事に二日続けておねしょをした憂鬱さはどこかに飛んでいってしまった。

よし、ちょっといい朝ごはんをご馳走してもらおう。

そう現金に思ったあたしは可愛い妹作戦としてお兄ちゃんの腕にしがみついてアピールを始めた。

「暑いから離れろ」

照れるない、照れない。こんな可愛い妹と一緒だなんてお兄ちゃんは幸せじゃないか。

どこにしようか迷いながら歩いていると、数人の高校生くらいの集団がいるのが見えた。

その中の一人がこちらに気が付いたらしく「坂井君」と呼んで手を振って近づいてきた。

誰だろう?お兄ちゃんの知り合いだろうか。

「もしかしてその人が妹さん?」

とても綺麗な女の人。初めて会う人だ。お兄ちゃんと同じ高校生だよね。

大人の雰囲気があってもっと年上のように思えた。

その人はあたしに向かって「放っておくわけにはいかないから帰るって飛び出していったのよ」と教えてくれた。

「余計なことを」と言うお兄ちゃんに向かって、本当の事じゃないと笑って言った。

「雷、怖くなかった?」

「え、あの」

「帰ったら泣いてしがみついてきた」

「泣いてないよ!」


その女の人と別れ、見えなくなってからあの人誰?と聞いた。

「俺の彼女」

うそっ!お兄ちゃん彼女いたの!

「ああ」

あれ?でも昨日は友達の家に行ったんじゃ。

普段読んでいる少女漫画には出てこない大人の恋愛展開。あたしの頭ではもう追いついていくことが出来なかった。

そしてあたしを指さし、お前のような小便臭いガキとは違うんだぞと笑った。

こんなに可愛い妹に向かって何という暴言!

悔しい!昨日も今朝も、それに内緒にしているが夕方も、やっちゃただけあって本当に何も言い返せなかった。

お兄ちゃんに完全に打ちのめされた。

もう可愛い妹作戦はお終い。

「あたしあそこがいい!」と朝食ビュッフェをやっていると地元グルメ雑誌に載っていた駅近くの国際ホテルを指した。

お前にはまだ早すぎると手を引かれ、チェーンのハンバーガー店に連れていかれたのだった。


家に帰るとパパもママも帰っていた。

「大丈夫だったか」と聞くパパにお兄ちゃんは問題は何も起きなかったこと、

ハルが遅くまで居てくれたがタクシーで帰らせたことを話した。

干してあるシーツを見て「千秋は晴れでも雨でも変わらないのね」とママはため息をついた。


***


「この間はごめんね、帰りが遅くなって叱られなかった?」

「むしろ千秋ちゃん大丈夫かって、お父さんもお母さんも心配してたわ」

塾のジュースの自動販売機前から自習室に向かう最中、先日の出来事について話す。

「でも、あんな大雨のなか走って帰って来てくれるなんて、千秋思いのいいお兄さんじゃない」

わたしは兄弟居ないからと羨ましそうな口調でハルは話した。

実感が全然ないけど兄弟がいない人からすればそうなのかなと思った。

あたしのことガキ扱いするし、居たら居たで大変だよ。兄弟がいることで発生する苦労を切々と語った。

「そうそう彼女いるんだって。あたしびっくりしちゃったよ」

大通りで出会った大人っぽい女の人の事をハルにも教えてあげた。

自習室に到着すると、そこそこ人は居るものの隣同士になれる二人分の席が確保できた。

席に着き、ハルは自習用のテキストを準備し始めながら、そうなんだ彼女いるんだと言った後、

「それは残念」と付け加えた。

残念?残念って何が?

「さて、今日の勉強始めましょうか」

「ねぇ、あたしの質問に答えてないよ。残念って何?」

「千秋、自習室は私語厳禁よ」


夏休みは半分が過ぎようとしていた。


【続く】

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