女主人の神鬼奇譚
とある飲食店のオーナーが、オークションで品物を落札した後に失踪したらしい。
オーナーを探して欲しいと依頼された生ける都市伝説こと「櫻屋敷の女主人」。彼女と共に行動し巨大な体躯を持つ、粗野で酒好きの男「獅天童 朱(してんどう-あかね)」。
依頼を受けた女主人はオークションの品に隠された違和感を嗅ぎ取り調査に乗り出すのだが、相棒(?)である朱は……なんと初手から酒で酔い潰れていて?!
友人以上相棒未満、仲が良いんだか悪いんだか分からない男女バディです。途中で凄惨な残酷描写が入りますがハッピーエンドです。犬がうっすら出てきますが無事です。
拙作「花喰い鬼の恋煩い」と同じ世界観ですがこちらの方がはるかに未来&単体でも読めます。
「オーナーは先日オークションに参加されました。昔から欲しかった商品が出品されるから全財産を賭けても落札するんだと意気込んでおりまして……結果として落札は出来ましたし全財産は注ぎ込まずに済んだのですが。いや、それはともかく……オーナーは本当に嬉しそうで、その後の食事会でも大変上機嫌でした」
依頼人は落ち着きなく両手を擦り合わせては膝に置いてを繰り返す。眉を下げて泣きそうな顔で頭を抱えては何度もこちらを必死に見つめてくる。
「いなくなったのはその後です。一度お手洗いに席を外されて……そのまま戻って来ませんでした。財布も、商品も、ご家族も何もかもを置いて……!食事だって途中です。あの人がそんなことするはずがないんです。オーナーはそのあたりは昔から非常に細かくて、丁寧な方だったんです。レストラン中も探しましたし警察にも届け出ました。けれどいまだに音沙汰も手がかりもありません。奥様も日に日に憔悴されていかれて……もう見ていられません。どんな眉唾な話でも噂でも構いません。どうか、オーナーのことを探して欲しいんです」
確か、彼はかのオーナーの秘書だと言っただろうか。真っ青な顔で彼は何度も頭を下げる。どうか、どうか、と。
「貴方の噂を聞いた時、貴方に出会った時、もうこれに縋るしかしかないと思ったんです。どうか、どうか、お願いします。「櫻屋敷の女主人」さん。もう貴方にしか頼めないんです」
女主人、と呼ばれた女性は少し考えるように目を伏せてから頷いた。神妙なこの場にはそぐわない晴れやかな着物に、艶やかに伸びた黒い髪。簪で差した生花に彩られ隠れる黒い瞳は、なんだか平凡な形なのに印象的だった。
♢
匂いだけで酔いそうだ。
ホテルのドアを開けた瞬間にぶわっと立ち込めた酒気に思わず鼻を押さえながら、「女主人」は一歩足を踏み入れた。
ここは数週間自分と連れが滞在しているホテルの一室だ。それなりの金額を払ってキッチンまで付いた広い部屋を借りているモノの、普通のホテルと違って何でもかんでも一つの部屋に押し込めているわけではない。故にダイニングにあたる部屋で酒盛りをしていたって玄関まで匂いが届くはずはそうないのだ。本来なら。
ふとカランと金属を蹴っ飛ばした音がして足元を見れば口の開いたアルミ缶がゴロゴロと廊下に転がっていた。その数は十本、二十本なんて比ではなかった。なんせ進むにつれて相対的にその数は増えていくし進めば進むほど大小の瓶がこれまた空で転がっている。
コートクローゼットに入っていたアメニティの大袋に、缶や瓶を押し込みながら足を進めていくと次第に地響きのような音が聞こえてきた。床に転がる大量の酒と、ホテルの換気が追いつかないほどの酒気とくれば、その正体は否が応でも察せられるモノである。つまり、いびきだ。
果たして、部屋を出た時には小綺麗にしていたはずの広々としたダイニングは空になった酒瓶やアルミ缶で溢れ、音の発信源であるソファには大口を開けて眠る男がいた。
姓は獅天童、名は朱。名前の響きの柔らかさとは裏腹に一にも二にもまず酒を愛する酒豪であり、現在自身の目の前で上半身裸で眠る大男である。いつもなら爛々と輝いている赤い目は今は閉じられて夢の中だ。ソファに豪快にひっくり返るその手には空の瓶がしっかり握られていてどうやら酒を浴びるだけ浴びて寝落ちたらしい。飲む前にシャワーは浴びたのかタオルが落ちていた。最も、酒の匂いに呑まれて石鹸の香りなんて全く分からないけれど。
あっという間にいっぱいになった袋を二つ、床に一度下ろすと仕方がないので窓を上げた。空気の入れ替えだけを目的に備え付けられた小さな窓をできる限り開けて、エアコンの送風を強くする。ぶーん、と低い音は窓の外の喧騒といびきにかき消された。
「あかね?」
一応声をかけてみるけれど、瞼は開く様子がない。空の瓶を引っこ抜こうとすると渡すまいと手に力がこもって、瓶を割りかねないほどだったから早々と諦めて部屋を片付ける。自分は朝早くに部屋を出て、八つ時の今に帰って来たのだけれど彼は一体いつからいつまで飲んだくれていたのだろう。少なくとも部屋を出る時はまだ寝ていたはずだ。
「あーかーねー?」
もう一度声を大きくして呼んでみる。返事は規則正しいいびきだけだ。はぁ、と一度ため息をついてみるモノの元々期待はしていないから特に残念でもなんでもない。ただ後で何故起こさなかったのかと詰め寄られると厄介だから形だけの声掛けである。なんせこの男、こうなったら自分で目覚めるまで絶対に起きないし、無理に起こすとそれはそれで非常に機嫌が悪くなる。どっちにしろこの男を思い通りに動かすなんて不可能だと知っているから、働きかけだけしておくのが吉である。
あらかた部屋を片付け終わった結果缶も瓶も袋に入り切らないほどで、結局フロントに連絡して処分してもらうことになった。良い部屋に泊まるならそれなりの品格をこちらも保たないといけない、とは昔から何度も繰り返して彼に指導していることだけれど、どうにも他人という存在を見下しがちな朱がそれを聞き入れたことは一度たりともないし、そもそもこの男は出会った時から傍若無人で暴君だ。少なくとも人の不在中に部屋を酒瓶で溢れされるくらいには。これだけの量の酒をまさか自分で買いに行ったのだろうか。しかし彼が両手に酒瓶でいっぱいのビニール袋を持ってスーパーを往復する姿は想像できないから、多分他人に届けさせたに違いない。
とはいえ寝ているのなら幸運だった。多分今回の仕事は朱が聞いたら顔を真っ赤にして怒り出しかねないし、暴れ出しかねない。換気の窓は開けたまま、寝室に篭って先ほど受け取った書類をもう一度広げると女主人は目を通す。
失踪したのは秋山克則氏、五十六歳。職業は都内に何店か店を出す居酒屋のオーナーで家族構成は妻と犬が二匹。子供にこそ恵まれなかったものの、公私ともに人間関係は順調で本人の気質もあり細やかで丁寧なものだった。特に恨みを買っている様子は見受けられなかったという。ただ、少しばかり度を越した趣味があった──収集癖だ。
彼がオークションで落札したのは特記すべきことは何もない、つるんとした白磁の置物だ。否、形が独特である。笹の葉のように細身で長さがあって先が細くなっている置物が一対、並んでいた。下に敷かれている猩々緋の敷布も合わせて飾るモノらしい。ぱっと見で見れば美術館の庭にでも展示されているような、いまいち意図が読みにくくて芸術を読み取るのが難しいような、ちょっと変わった置物だ。けれど、慣れている女主人から見ればそれは正しく──
鬼の角を模した鉢金だった。
♢
「櫻屋敷の女主人」は一種の都市伝説だった。名前の由来は分からない。桜という割には冬にも現れるし、なんなら緑の気配が無いビル街にも砂漠にも現れるし、女主人というには見た目が若過ぎて貫禄がない。ただ、どんな語り部も口を揃えてこう言う。
彼女は探しモノが得意で、見えないモノが見えて、桜のあしらわれた美しい着物で現れる。現れるのは昼夜を問わず新月の日で、次の満月には役目を終えて去っていく。探しモノが見つからなかったことはない。
もちろん、実際に存在しているしこうやってホテルに泊まって依頼を引き受けて金を稼いでいるくらいには人間じみた暮らしをしている。とはいえ着物で活動しているのもモノ探しを主にしているのも嘘ではないから、結果的に都市伝説に沿ってしまうのも間違いないのだけれど。
ぺらぺらと資料をめくる。秋山氏についてはもう十分読み込んだので他について調べることにした。
奥方である秋山めぐみ氏、彼女は主婦業の傍ら生花の教室を開いている。経営に携わっていないが秋山氏が視察に赴く際はいつも同行しており、秋山氏よりも彼女が訪れると従業員が喜ぶらしい。人を褒めるのが上手いのだろう。
今回の依頼人である浦部慎氏。秋山氏の秘書であり彼の優秀なサポート役である。秋山氏とは二十歳以上歳が離れているが関係は極めて良好で、秋山氏自身いずれは跡を継がせるか独立させようとしていたようだ。周囲からは互いにおじと甥のような気安さがあったように見えたらしい。
そして、秋山氏自身の収集していたコレクション。その写真を見た時女主人は総毛だった。詳しくはモノを見てみないとわからないけれど、そこに異質さを感じたのだ。
絵本、巨大な盃、屏風、骨の標本……のレプリカ。一見統一性の無い収集癖だが、テーマなのだろうか、一貫しているモノが一つ。
鬼だった。鬼を描いた物語、爪痕の残った崩れそうな盃、鬼と対峙する武士を描いた屏風、奇妙な角が生え妙に腕も足も大きい骨格標本。どれもこれも、鬼を連想させるモノで溢れている。不思議なことにどれもこれも白い線が一つびっと描かれているようで、どうにも元々あったモノのようには見えない。秋山氏か彼のコレクションに触れられる誰かが書いたのだろうか。
朱が怒るだろうなと思ったのは「鬼」があったからだった。彼は鬼が関わると烈火の如く怒るし短絡的になるから、調査段階の相棒として使えなくなる。それは鬼が嫌いだとか御伽噺だからとかではなくて、生まれ持った性質の様なモノだから仕方ない。だからせめて、この辺りの情報収集だけは今寝ているタイミングで終わらせてしまった方がこの後の操縦が楽になる──経験から女主人はよく理解していた。
ありがたいことに鉢金をオークションに出品した前の持ち主の情報もある程度まとめてくれているようだった。ここから攻めるか、と資料を閉じるとそうっとダイニングを伺う。規則正しい寝息は乱れがない。今のうちに、と女主人はホテルの部屋を抜け出すのだった。
♢
「ええと、秋山さんが落札したって、あれですよね……「乳白の先」、だったかな。物自体白くてくすみがなくて、それが猩々緋の上に乗ってるのがまた互いの色を引き立てていて気に入ってたんですがね。でも段々見飽きてくるというか、ちょっと……思うところがあってオークションに出したんです。特に名のない工房のモノだから、出したところでどんなもんかと思ったら……秋山さんがものすごい勢いで入札してくるもんだから他の参加者も刺激されちゃったみたいで。まぁ、最終的には秋山さんが勝ったんですが」
「乳白の先。……なんだかそのままですね」
「芸術家のネーミングセンスはいまいち分かりかねますからねぇ。直球なんだかそうじゃないんだか」
以前の持ち主だという男はあっさり事情を聞かせてくれた。秋山氏の事情も把握しているらしく、彼の秘書に捜索を依頼されていると伝えれば苦笑いを浮かべられる。多分これは「こんな奇妙な小娘に頼むなんて」という呆れ笑いだ。それと、ほんの少し畏れと安堵が瞳に浮かんでいる。
「プライベートに踏み込むようですが、その思うところについて伺っても?見たところ資産に困っているようにも見えませんが……」
「いやぁ……ハハ、ちょっとした気まぐれというか、なんというか……」
「もしかして……、あ、お化けが出るとか?実際に飾っていると幽霊が出るなんて浮世絵も世の中にありますからね。三回見ると死ぬ、なんて噂のある写真だったり、仮面だったり、そういう都市伝説って尽きないモノですし」
「ハハ、この年にもなってお化けだの都市伝説だの、信じられないでしょう?子供じゃないんだから、……、はぁ、」
確実に誤魔化す笑い方になったのを見透かしているように微笑むと、笑い声は次第に鳴りをひそめてそれからがっくり項垂れた。はぁ、と男が吐いたため息は重い。
「私があれを所有したのは数年前の話です。ですがそれ以来嫌な夢を見るんですよ……全身を縛られたように動けなくて、奇妙に喉が渇くんです。そのうち頭が痛くなって……いい歳ですから酒でも祟ったかと思ったんです。でも何にもない。どんなに食生活を改善しても、運動しても、病院で検査を受けても、治らない。そのうち声も聞こえてきた」
「声?」
「何を言ってるかまでは分かりません。けれどとても、怖くて……」
「……。そのことを秋山氏には?」
「伝えました。私も彼の店を贔屓にしていますし、いい人ですから。けれど彼は「分かった」と、……その矢先に、これです」
へらり、作り笑って男は顔を覆う。次いでますます深く項垂れた。何度か胸を叩くと、この世の全てに絶望したような声を出す。まるで、谷底にでもこれから飛び込まんと言わんばかりの暗さだった。
「秋山さんが失踪したのは私のせいかもしれない。そう思うと今度は夜すら眠れない」
♢
「ああ、標本ですか?いやあ、うちの学生がもしも鬼がいたらこういう骨格をしてるんじゃないかってふざけ半分で作った代物ですよ。いや、ふざけ半分という割にはしっかりと体重や歪み方も計算されているんですが。完成する直前にその人が突然現れて金を出すから売ってくれっていうんですよ。流石に学生も渋りましたけど意外とあの人しつこくて……同じモノをもう一つ3Dプリンタで作るからそっちを貰ってくれって言ってもオリジナルがいい、の一点張りでね。傷一つつけないのと学生が卒業する頃には返す、を条件に今貸し出してるんです。まったく、何を考えているのやら」
「あの屏風ですか?うちが曽祖父の頃から受け継いできたんですけど、元々保存状態も良くないし、鑑定に出しても名もない絵師のありきたりな屏風って言われちゃったし、描かれてる鬼もなんだか怖いし……で処分しようかって話を家族でしてたんです。そしたら買い取らせてくれっておじさんが現れて……そうそう、この人です。元々捨てようとしてる物だったので喜んで買い取ってもらいました。でもなんだか変な顔してましたね、安心というか、不安というか……よく分かんないですけど」
「あきやまかつのりぃ……?あぁ、あの居酒屋チェーンのオーナーだろ?盃?……ああ、あれか。ガキの頃に俺が河原で拾ってよ、妙に気になってずっと持ってた品だよ。あいつとはその頃からの付き合いなんだが、あいつ俺以上に気に入っちまったもんだから、しょっちゅうやれ菓子と交換してくれだのカードと交換してくれだの言うからアイス奢らせて譲ったよ。しつこくてうるさくってよぉ……ボロボロで汚ねぇ食器のどこに惹かれたんだかねぇ。変わり者?いや、普通の気のいいやつだったよ。変なのはそこくらいだな。今の嫁さんとの惚気もしょっちゅう聞かされてるぜ、こちとら男やもめで寂しくやってんのによ。……若い子に男やもめって通じるかい?」
以上、氏のコレクションについて聞き回った結果である。なお男やもめの意味は知っている。
深くなった夜に腹を空かせながら帰るとダイニングには誰もいなかった。ざああ、とノイズのように響く静寂に、そういえば窓を開けたままだったなと近寄れば案の定開けっぱなしだった。あの飲んだくれがこの小さな窓も外のさざめきも気にするわけがない。
ただテーブルの上には湯気が消えかけた食事があるから、朱が自分の分のルームサービスも頼んでいてくれたようだ。本人は席を外しているようでいない。ついでのようにワインボトルが数本並んでいるのは言わずもがなだろう。
ううん、と唸りながらテーブルの上のスープを一口飲むとぬるいがしっかりとした味わいが広がった。コンソメベースの野菜スープのようで、トマトのほのかな酸味が心地いい。一日中頭を使っていたから、野菜の糖分が染み渡る。主食はパスタのようだ。
と、ふと部屋が静まり返って扉が開く音がした。静寂にその身を織り込んでいた音がシャワーの音だったことに今更気がついてそちらを向けば、タオルを下半身に巻いただけの朱がバスルームから出てくる。目が合うと機嫌悪そうに赤い目が細められた。ぽたぽた床に雫が落ちる様が気になって気が気じゃない。汚れる。清掃スタッフがまた頭を抱えそうだ。
「良いご身分だな。朝から出かけて今飯か?」
「それは私の台詞では??」
「酒も全部片付けやがって」
「飲んだのはあかねでしょう。私が一滴も飲めないの知ってるくせに」
「補充しとけよ」
「なんで?」
どすん、と濡れたまま隣に朱が座った反動で一瞬女主人の体が浮いた。今食べているのがスープでなくて良かったと横目に朱を睨むと、彼は全く気にしない様子でぴ、ぴ、とテレビのリモコンを変えている。じわじわソファが濡れていく。かびるかもしれない。本当にやめてほしい。ついでに多分下着も履いてない。立ち上がった拍子に全裸になったって絶対指摘してやるものか。
テレビは変えられるチャンネルのままに音声を垂れ流している。名前も知らない芸人のジョーク、女性タレントの笑い声。天気予報に深夜のニュース。今夜、雨が降るでしょう──月齢はカウントが増えている。見えないほどの細い月。
「資料を見た。お前、手に負えるのかよ」
「人の寝室に入らないでほしい……」
「起きたらいねぇから腹でも痛めてるのかと探したんだよ。何も言わずに置いていきやがって」
「一応起こしましたからね。……手に負えます。残念ながらあかねの管轄外です」
「お前の管轄なら俺の管轄でもあるな」
あ、このパスタにんにくが入っていない。仕事上匂いの強いモノは食べないようにしてくれているのを覚えていたらしい、人を思いやってメニューが注文できるなんてなんて成長だ!と朱に一瞬感動したが、おそらく違うなと思い直した。ルームサービスに匂いの強いモノは入れないでほしいと事前にホテル側に伝えておいた記憶がある。感謝すべきはスタッフとシェフだろう。
「で?進捗は?」
「食べ終わってからで」
「うるせえ。進捗よこせっつってんだろ」
「だから食べ終わったら渡すって……言いながら人の鞄漁らない!……中身を散らかさない!物を!投げない!」
持ち歩いていた手巾をがばっと開かれて、ぽいぽいとハンカチやティッシュが宙を飛ぶ。引っ張り出した手帳を朱が容赦なく開く様を見て、女主人は思わずため息をついた。プライバシーなんてありゃしない。もっとも、見られて困るプライバシーは朱の手の届かない場所にきっちり保管してあるのだが。
手帳を片手に朱はごっごっとボトルに直に口をつけてワインを飲み始めた。ワインボトルで頭を殴られそうだと思いながらルームサービスを一式平らげて、手を合わせる。ご馳走様、と頭を下げ終えた次の瞬間、ごんとボトルの底が頭を打って星が散った。言わんこっちゃない。
「雑魚だな」
「貴方から見たらどいつもこいつも雑魚ですよ……いたた……」
「何してんだお前。けど悪くない。努力は認めてやってもいい。で、お前はどこまで分かった?」
「鬼のよすがを集めてるなあ、までは。秋山氏の目的がいまいち掴めません。だって犬を二匹飼ってて、大事にしてる奥さんがいて、それでいて鬼にやたら執着してる食事を残さない人なんですよ」
意味を知らない人が聞けばめちゃくちゃな理論である。けど、意味がわかっていれば筋が通る理論だ。
この世界は認識されることで回っている。例えば鬼の実在を示したいのであれば証拠を集めて提示すれば、結果は自ずと表れる。それは神様だって都市伝説だって同様だ。
二匹の犬は言うなれば狛犬だ。社や寺院を守護するモノ。この場合対象は会社か妻か。大層な愛妻家と言うからおそらく後者だろう。
そして、鬼の根本は飢餓に繋がっている。仏教の餓鬼道に語られるように、御伽噺に語られるように、あらゆるモノを破壊し踏み躙り食い尽くす。そのあとは何も残らない。
鬼に纏わる物品を集めて、犬を二頭飼って妻を守って、けれど食事は途中で辞めることがないと言われるほど残さない。朱が努力を認めると発言したのがどちらにかかっているかはまだわからないけれど、彼も同じ異常さに気がついている。
この世界には認識されることで存在できる場所があって、モノがある。常識から外れたカードの裏を知る自分たちしか気づかないような、無法地帯を縛るルールがある。人が夢を見て思う数だけ、世界は生まれて消えていく。そういう場所がある。それは女主人も同じ。だから彼女も都市伝説に沿っている。
簡単に、言ってしまえば。都市伝説と語られる「櫻屋敷の女主人」は、現実と非現実の間──カードの隙間に存在する番人のことを指している。
♢
「……こんな、女の子に相談するなんて……」
それから、数日後。女主人と朱は秋山の自宅を訪れていた。疲れ切った様子のめぐみと、彼女を支えるように浦部がせかせかと動き回っては茶を入れたり世話を焼いたりしていた。泣き疲れているのかめぐみの目は腫れぼったい。
「奥様、ですが、……今は少しでも可能性を、」
「夢物語に依存したってあの人が見つかるわけがないじゃない……!貴方、本気でそう思ってるの?!」
どうやら浦部は馬鹿正直に「櫻屋敷の女主人」のことを話したらしい。ヒステリックに叫んだめぐみの胸の内は痛いほどに分かるから、あえて訂正はしないでおく。ここに来た時に浦部から渡された資料を見るに彼女も人を雇って手を尽くしているらしい。そんな中で夫の腹心が都市伝説に頼って、しかもその相手を連れてきたら誰だって正気を疑う。自分だって疑う。
必死に宥める浦部と静観する自身とは裏腹に、同行した朱はつまらなさそうにふんぞりかえっていた。すでに茶は飲み干しているし茶請けの菓子も食い尽くしている。このままでは酒を出せと言いかねないなと口を開くことにした。とはいえ言葉は選ばないといけない。なんせ相手の精神はすでに限界に達している。
「連れて帰ります。必ず」
「だから!貴方も!貴方みたいなふざけた格好したお嬢ちゃんがどうやってあの人を──!!」
「どこにいるかはもう分かっています」
だから、必要な言葉を必要なだけ。有無を言わせない力を言葉に込めて。
人はどんなに絶望していたって、目の前に希望の糸が垂らされれば縋ってしまうモノだ。溺れるモノは藁をも掴むとはよく言ったモノである。それは地獄から這い出ようとするカンダタが如く、あるいは苦難を審判によって救われようとする聖教の如く。
だから、自分はそれを利用する。一縷の望みが存在すると認識させる。そうすれば、
「……ほんとうに?」
「はい。どこにいて、どんな状態かも分かっています。だから、帰ってくるって秋山氏を信じてください。次の満月の夜までに、きっと連れ戻します」
きっとこの人だって夢物語を信じたいし縋りたい。朝目が覚めたら隣で夫が眠っている夢想をこの数日で何度繰り返し、現実を見ろと打ち消したのだろう。けれど、それじゃ足りない。毎朝の絶望を乗り切るために打ち消すのはめぐみ自身に必要なことだったかもしれないけれど、今自分が挑もうとしている事象には逆効果だ。だから無理矢理にでも彼女に認識させる。
──秋山氏が生きて帰ってくる希望を。
──目が覚めたら隣で眠っている夫の姿を。
この世界は認識させることで存在するモノがある。気圧されたように、けれど縋るようにめぐみが頷いた瞬間、その希望は存在を確定した。
♢
「あーあ、大きく出ちまって」
「無いよりかはましです」
ところ変わって秋山氏のコレクションルームの中。あの後魂が抜けたように眠り込むめぐみを浦部に託し、ここを調べる許可をもらってきた。写真越しに見た異質さはその場に立つことで一層の存在感を訴えかけてくる。なおくる途中で秋山氏が飼っている犬──タロとシロと言うらしい──に遭遇した。女主人は非常に懐かれたけれど朱は歯を剥き出しに威嚇されていた。哀れである。
何度も読み返された鬼の絵本は秋山氏が幼少の時に買い与えられたモノらしい。がたがたになった装丁には乱暴に白い線──修正液のペンのようだ──が一本引かれて、どのページの鬼も顔が執拗に塗りつぶされていて、一緒に覗き込んだ朱は顔を顰めていた。ふと、白い線がところどころはみ出ているのに気がついた。いや、これは稲妻の形のような、それでいて、稲妻じゃない、何か。
よくよく見れば他のコレクションもそうだ。無理矢理白い線を描いて、あえてなにか書き足している。文字ではないけれど意図がある。盃も、屏風も、傷一つつけないと約束した標本も、何もかも。唯一「乳白の先」なる例のオークション品だけがそのままの姿をとどめている。
「……気づいたか?」
「はい?」
「血だ。猩々緋だと誰が言い出した?この鉢金、血で満たされてやがる」
朱が乱暴に白い角を手に持つと鉢金に見立てたそれは簡単に離れて転がった。軽く振るとたぽんと音がする。水より粘性があって、夏の水飴より柔らかいモノ。そして直に見て気がついた。
「傷が、ある……?」
真っ白な角の底に引っ掻いたような傷があって、そこからじわじわと黒い染みが広がっている。今朱が触ってついた傷にも見えない。今彼は血で満たされていると言った──この角の中の液体が血であるのなら。下に敷かれた猩々緋が血を吸い続けていたのなら。以前の持ち主も奇妙に喉が渇くと言っていた。そういえば、人間は血が足りなくなると喉が渇くのではなかったか。角が血を吸い、敷き布が血を溜め込んでいく。そういう風に作られていたとしたら。
鬼を模したこの鉢金が、秋山氏に買い取られたことで「鬼の証拠」として完成してしまったのなら?もしこの鉢金がここにある鬼の気配に応えてしまっていたのなら──
びりびりと殺気を放ち始めた朱の隣で女主人はその傷に手を伸ばす。触れた瞬間、声を聞いた。
── ─ ───
─ ────
── ─
─ ── ─
はらがすいた。
うるさい。いたい。うごけない。
のどがかわいてたまらない。
かわきをみたしたくてしかたがない。
けれどてをのばしたらうしなうから、てをあげられない。
なくおんなのこえ。まもるいぬのこえ。
こんなものをのこすとおもったらこどもすらものこせなかった。
しらない。はらがすいた。のどがかわいてしかたない。
あとすこしでてにはいるのに、なぜかえものからとおざかりつづけている。
はらがすいた。はらがすいた。はらがすいた。
もう、たえられない。だから、
だれか、わたしを。
『───、』
わたし、を、── ─ ────
ころし── ─
「──させない。迎えにきた!」
その声にはっと男は上を向いた。多分、顎を持ち上げたから上だ。感覚が分からない程度にはこの闇は深く沈んでいる。
不意に天井がざわめく。粘ついた闇を突き抜けて何かが伸びてくる。パン、とそれが音を立てて光るから、咄嗟に男は手を伸ばしてしがみついた。それは地獄から這い出ようとするカンダタが如く、あるいは苦難を審判によって救われようとする聖教の如く。それはしっかり自分の手を握り返してくる。身体中に巣食っていた闇が震えて、波が引くように消えていく。桜の花びらが舞う。舞った花びらを纏って、誰かが身を乗り出してくる。
それは妙齢の女性だった。この場にはそぐわない晴れやかな着物に、艶やかに伸びた黒い髪。ゆるく編み込んだ生花に彩られ隠れる平凡な形の瞳は──
──金色に輝いていた。
「なん、だ……?」
ざわめく闇が怒りを帯びる。空腹に満ちた悪意の全てが女性に向けられて、それは一つの手を形作った。人と呼ぶには巨大で青い掌。血で黒ずんだ鋭い爪。浮かんだ血管がぴくぴくと脈動し、びっしり生えた毛はそれだけで触れたモノを穴だらけにしそうなくらい鋭い。
鬼の手だ、と瞬時に男は理解した。理解してしまった。目の前の女性は背後に迫る悪意には気づいている様子はない。
だめだ、と叫ぼうとした時に横を大きな体がすり抜けた。
獣じみた咆哮が暗闇に響き渡る。さっきまで女性に襲い掛かろうとしていた巨大な手が、図体のでかい男の前に両断されている。女性は背後を身もせずに、自身に向かってまた宙を蹴った。
「任せた!」
「ああ」
二人に交わされたのはたったその二言だけ。次の瞬間女性は細い腕から信じられないほどの力で自分の体を引いて宙を蹴っている。流れ星より早い速度で、鬼の腕と大男から遠ざかる。
「貴方を掴みにきた!秋山克則氏!」
闇に舞った花びらが籠のように自分を包む。とん、とん、と軽く宙を蹴る女性の腕に籠ごと包まれて、男は自分を、秋山克則を思い出す。
「あんた、は……?」
急速に消えゆく意識の中、かろうじて問いかけたその問いに女性は柔らかく微笑んだ。
「放浪中の隠居人です。あるいは──「櫻屋敷の女主人」と」
なんだ、それは。そう思う間もなく秋山は意識を失った。
♢
とうに女主人はこの空間から囚われの獲物を連れて逃げおおせた。悪意と怨嗟で満ちた空間は低く唸って威嚇し続けているものの、獅天童朱にとってそよ風にも満たない。ただ彼は目の前の不埒モノに対してのみ怒りを覚えて、腹を立てて、はらわたを煮え繰り返している。
朱にとっては女主人の依頼も獲物もどうでも良かったし、泣いていた女も縋った男も威嚇する犬も興味がない。それでもここに立ち続けているのは自分が沙汰を下す側であり絶対的な支配者であると言う所以からだ。
「なな、なんで、どど、同胞、エモノ、ににがしたああ?」
がちがち、と殺気に萎縮しながらも体を再構成しようとする鬼の問いかけに朱は鼻を鳴らす。目の前の鬼が首を逆さにくっつけたり腕と脚を取り違えながら再生していくのを、朱は薄笑いすら浮かべて悠々と見守っていた。
「逃がした?知らねぇな。そんなモンどこにいた?」
「あ、ァア?おお、オマエ、同胞、ちち、ちがぁう……?」
「言葉もろくに喋れない、頭だけが回る若造が偉そうに何を言う?」
朱の姿は変わらない。けれど散歩でもするような足取りで鬼に近づくと、幼子が親の手を引くような気軽さで腕を掴んで引き抜いた。まるでそこにあったから抜いたと言わんばかりの軽さで腕を引きちぎり、投げ捨て、驚いた鬼が後退するのを阻止するように腹をえぐって背骨を鷲掴む。一昔前の力任せのアクション映画のように、抵抗も重力も無視した軽やかさで。
「ア゛、アァ……?!おお、オマエ、ちち、が、あなたさま、は──」
「悪いなぁ、俺は自分の邪魔をされるのも偉そうに講釈を垂らされるのも大嫌いなんだ」
獅天童朱は同胞と呼ばれるように鬼である。それも人の形を保ったまま、安っぽいアクション映画ばりに怪力を出せるほどの。
何より酒が好きで、傲慢で、偉そうで、人の都合など気にしない。気にするはずがない。なんせ、彼は鬼の王だ。名前なんてそう捻ってはいないアナグラムだ。
酒呑童子。あるいは朱点童子。日の本で生きていれば誰もがどこかで聞いたことのある名前。女を裂き、酒を好み、首だけになっても討伐に来た武者を噛み砕こうとした生粋の暴れモノ。高名な鬼たちを従えて、京を荒らした平安の悪夢の権化。
この世界は認識させることで存在するモノがある。信じようと信じまいと、知られるだけで力をもつモノがいる。首を落とされたかつての鬼が、再び生きて形を持っているのがその証左だった。
王を前にして竦む鬼を、まるで検体に刺激を与える研究者のように朱は蹂躙しその体を弄ぶ。ほら、もっと暴れてみろと煽られた鬼が腕を振り上げようとするけれど、肩を回した時にはすでにそこから先はなかった。血が舞い、乱れ、上も下も分からない闇が血に沈んだって王は配下で遊ぶのをやめなかった。再生させて、引きちぎって、その辺りに放り投げてはまた再生させる繰り返しに鬼が泣く。
「赤鬼でもないのに泣いているなんざ情けねぇ鬼だ。なぁ、」
ついには再生する気力すら失い、首だけになった鬼が泣いて許しを乞うのをつまらなさそうに朱は持ち上げた。えぐえぐと喉を詰まらせて泣く鬼の口に手を突っ込んで舌を抜く。顎を引きちぎる。
「木の葉よりも儚く散っちまえ。二度と姿を見せるな」
ばかん、とザクロのように頭が割れた。おびただしい量の血を撒き散らして、あっという間に復活を目論んだ鬼は絶命した。
闇が花びらを散らすように消えて、光の中に溶けていく。一度瞬きをすればナントカとか言った男を抱えて女主人が小さな掌を広げて座っていた。結界を張っていたらしい、彼女の手の中でくるくる花びらが踊るごとに壁を、床を、空中を花びらが滑り円を描いている。
「鬼は?」
「殺した」
若干眉を顰めた女主人の掌に花びらが吸い込まれて消えていくと同時に、彼女の瞳から金色が抜けて黒に戻っていく。
凡庸な容姿の女である。華やかな着物に負けない程度の顔立ちも振る舞いも身についているし、ヒトではないナニカに相対するだけあって胆力もある。これで首が見えれば即座に頭と胴を切り離せるのに、自分といる時は簪を挿さずに緩く編んでおろしているから狙いを定めにくい。用意周到である。
鬼すら恐れる鬼をこの女はまったく怖がらない、というより対等の存在であるかのように扱うから朱はちょっと気に入らない。もちろん今のような扱いになるまで自分たちの間にはいろいろあったし、これからもある予定ではあるが。
「じゃあ、秋山氏を約束通りめぐみさんの隣に寝かせてこよう。命に別状はないし、ある程度記憶は消したから元の生活に戻れるよ。鬼にハマってたって黒歴史にうなされるかもしれないけど」
「俺に運べって言うんじゃねぇだろうな」
「他に誰が運べるの?」
自覚しているのかは知らないが、時々この女はあどけない喋り方をする時がある。そう言う時は、なんとなく言うことを聞いてやってもいいかな、と言う気分になるのだ。理由はまだ、分からない。
空には月が浮かんでいた。満月には一日足りない。
♢
ヒトではないモノは大体一般常識の外で生きている。が、こんなところを報告に選ぶモノは他にそうそういないだろう。
鮮やかなネオンが光る繁華街。明るく髪を染めた男女が道ゆく人々に媚びてはすげなく振られ、それでも笑顔を浮かべ続けている不夜城。酒が入って気が大きくなった人間が肩を組み合い笑っている。仲間内だけで楽しんでいるうちはまだマシなのかもしれないと、今頃ホテルのバーにある酒を飲み潰す勢いの連れを思う。ちなみに酒代は全部朱の財布から出させている。
その中のいかにも安っぽいホストクラブの前に女主人は立っていた。今日も今日とて艶やかな着物に首を晒した、生花が添えられた簪を挿している。受付係が気持ち悪いモノを見る目であんぐり口を開けているのを苦笑いで返すより他は、ない。
約束をしているんです、と相手の名前を告げると受付係の顔はまた二転三転した。それから慌てた様子でピンマイクに話しかけると、にっこり笑って店内に通される。接客中のホストはともかく、ゲストたちは自身を二度見してくるから本当に居た堪れない。初来店であるのに関わらず店内を素通りして奥のVIPルームに通されるからなおのこと居た堪れない。ルール違反もいいとこだ。どうかすくすく育つ話の種になれと願うばかりである。「ホストクラブに通う「女主人」」、なんて都市伝説が生まれるのは避けたいけれど。
どうぞ、と案内された部屋は香水で溢れた眩しい店内とは打って変わって暗かった。神殿か何かのように静まり返っていて、脚を組んで優雅に座っている男が一人いるだけである。艶々とした黒手袋が薄い照明に照り返して、そこだけ何か別の生き物がいるようだ。
ぱたん、と後ろで扉が閉まった。目を合わせた男の瞳には月が泳いでいる。
「……ええと、挨拶がわりに伺うんですが、どうしてここを?」
「信仰を集める手段の一つとして、吾が自ら選択した」
返答内容はおおかた予想していたが、なんか違う。信仰というより火遊びに近い疑似恋愛の場だと思うのだが。
おいで、と子猫でも誘うようにいうように手招きされるが丁重に断らせてもらう。多分これはいわゆる神々の遊びというやつだ。乗ったら干物になるまで心を吸い尽くされて終わるだけである。おそらく。
「先日の依頼についてご報告に参りました。悪鬼は酒呑童子が討伐、該当の物品については鬼の気を払った上で返品済です。こちらをお納めください」
差し出したのは桜の枝で編まれた花籠だ。まんまるに編まれた籠の中に、むんむんと何かを唸りながら粘ついた闇が閉じ込められている。ふわりと籠は女主人の手を離れると男の手に収まった。一度それをしげしげと観察すると、男はぽいと自身の影にそれを放り込んだ。つやつやと輝く触手が伸びて花籠ごと捕食していくのを視界の端に捉えながら、女主人の視線は男から離れない。花籠の中から哀れに泣くナニカが聞こえても聞こえないふりだ。ごめん。
「思ったより小さいな。長い間潜っていたと聞いていたが」
「依代が自分なりに封印を施していたようです。不完成だったけれど……しめ縄を描いて、紙垂までつけて封じていました。妻を社に、犬を狛犬に見立ててまで。人生を賭けて封じていたんです」
「ほお」
「だから、……今回も私の勝ちですよ、月読様。ヒトの勝ちです」
秋山氏には幼少期から鬼が憑いていた。幸か不幸か、彼はそれを自覚し衝動を耐えながら成長してきたのである。時には体を求める鬼に引きずられて外に出るよすがを集め、けれど決定的な一打にならないように封印を拵えて実行した。その封印をよすがに描くことすら、本来ならままならなかったのだろう。
もしはっきりとしたしめ縄を描いていれば、一歩間違えれば周りを食い散らかす最悪の結果になっていたかもしれない。もしかしたら、子供の頃の思い込みが今も続いていただけかもしれない。簡略化された一本の白い線と、拙い紙垂が封印を保ち続けた。後々に聞いたが、彼はいつも修正用の白い液体ペンを持ち歩いていたそうだ。きっと、よすがに出会ったらすぐに封じることができるように。
「……綱渡りだな。愚かにも程がある」
「はい。愚かで勇敢な人間です」
あの後目覚めた秋山氏は何も覚えていなかったけれど、めぐみは目覚めて隣にいる夫を見て仰天したらしい。昼間尋ねた時は嬉し涙で喋れる状態でなかったけれど、繰り返されたありがとうは耳に残って消えない。
めぐみの元を訪ねた後、コレクションルームに入ってから実に一週間ほど二人は出てこず姿を消していたのだと浦部は語っていた。あの時はちょっと予想外とはいえ、結界を超えるとなると時間感覚が狂うのは常なのでそのあたりは適当に誤魔化した。
月読、と呼ばれた男はいっそおぞましさすらある美貌を歪ませて、それから不機嫌そうにコインを一枚放って寄越した。綺麗な放物線を描いて飛んできたそれを左手で受け止めると、ずるずると掌に飲み込まれていく。この時の感覚は正直気持ち悪くて何度経験しても慣れるモノではない。
月読命。あるいは月読尊。太陽の女神を姉に持つ、気難しくて潔癖症で、罰を受けて即退場した、多分この世で一番最初に不遇を受けた三人兄弟の真ん中。
何を隠そう、「櫻屋敷の女主人」の始まりはこの男神との取引である。日常と非日常の隙間、月読が出した命題と知覚できない世界に、ヒトが抗えるか否かの壮大な賭け。正直賭け事にしたくはなかったのだけれど、当時の自分はそれを押し除けられるほど力はなかった。多分、今もない。
「では次だ。また新月の夜に。使いはそのうち送る」
分かりました、とぺこりと頭を下げて退室しようとすると不意に声が飛んできた。櫻屋敷、と綺麗な声が呼ぶ。
「吾は汝に失望しそうだ。ヒトの身で尊大に振る舞い吾に勝ちを譲らぬ姿勢がつまらん」
「本当に自分勝手だ……」
「汝がそう童の顔をするのは嫌いではない。だから、次は膝においで」
「……。ええっとそれはまた難易度が高いというか、胃が痛いっていうか、」
「今でも良い。今の吾はほすとなる信仰を集めたらんとする象徴である。膝に童一人乗せるほど容易いことはあるまい」
「なんか違う」
もうそれ保育園の先生でいいんじゃないかな。急にお兄さんの顔をし始めた月読から逃げられたどうかはまさに神のみぞ知る。添えておくなら──ホテルに戻った時、神臭いと眠っていた朱が跳ね起きた、とだけ。
♢
新月の夜。ひらり、舞う花びらとともに女性が舞い降りる。
神妙なこの場にはそぐわない晴れやかな着物に、艶やかに伸びた黒い髪。簪で差した生花に彩られ隠れる黒い瞳は、なんだか平凡な形なのに印象的だった。
今日も生ける都市伝説として女主人は舞い降りる。乱暴モノの鬼と、気まぐれな月の神様を添えて。
※女主人と朱は別々の寝室かつそういう間柄ではありません。
女主人…人間。着物が似合う顔面。洋服だとモブになるらしい。どこかで聞いたことある屋敷だ。
朱…してんどうあかね。酒呑童子と呼ばれる鬼の大将。うろうろされたら同族でも処す。
月読…つくよみのみこと。姉と弟に逸話をもっていかれ女性にされがちの神様。若干拗ねてる。
よろしければいいねや⭐︎評価、感想等お願いします!