6.【大きな忘れ物】
そんな騒ぎをよそに――。
県道の向こうから、ドシン、ドシン、ドシン、ドシンと、なにやら不穏な足音のようなものが聞こえてきた。
恐竜が歩くような重い響き。
ヘッドライトの光に、巨大ななにかがシルエットとして浮かびあがった。
そのフォルムはあまりにも不吉すぎた。
「それはそうと、隠語ネタの続きでした」と、グレイタイプは言った。「最後の【外様系】ですが――これは地球における20世紀時代に、悪と暗黒の力が出現して世界を支配しようとする、いわゆる宇宙的恐怖を描いてたみせたH・P・ラヴクラフトの小説で登場する奴らのことだったりします。まさかアメリカの片田舎にしがみついていた引きこもりの三文文士が看破していたとは驚きです。あれをご覧になってください。道の向こうに立っているあいつ。あいつこそが【外様系】です」
キリンよりも高く、聳えるような大きな身体だった。
頭部には顔がなく、ねじれるような円錐形をしていた。先端に行くにしたがい、まるで鞭のように動いていた。人間に似て、たくましい四肢のそこかしこから棘のような突起物が出ている。イカそっくりの凶暴な触腕がしなっていた。見ただけで正気を失いそうな異形体だった。
「まさか、旧支配者たちの使者……。夜に吠えるもの、這い寄る混沌。これこそがクトゥルフ神話におけるトリックスター」と、社長はパーティションに張り付いたまま呻いた。「田邉をだます、ほんの冗談のつもりだったのに……。まさかニャルラトテップまでが実在するなんて!」
「うわ――――――――っ!」
おれたちはいっせいに悲鳴をあげた。ソプラノからテナーまで揃った愉快な合唱団だった。
【00】だけが、やんややんやと手を叩いている。
フロントガラスの向こうで、【外様系】の邪悪そのものの声がこだます。
「にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
「おい、田邉!」と、社長は叫んだ。「接客態度と【エントツ】の件は許す! さっさと車をまわして、あいつから逃げるんだ。これは命令だ!」
言われるまでもなく、おれはバックギアに叩き込み、アクセルをベタ踏みしていた。
助手席に片手をかけ、リアウィンドウを見ながら真っ暗な県道を必死でバック走行しているときだった。
センタークラスターの無線機が、雑音混じりに鳴った。
こんな緊急時になにごとか。聞くとはなしに聞き、しばらくして誰もが耳を疑った。
「……くり返す、【00】を乗せているタクシーに告ぐ。くり返す、【00】を乗せているタクシーに告ぐ」
「なんだって……。どういうことだ?」
おれはボリュームをあげた。
後部座席に乗せてあるグレイタイプの宇宙人とまったく同じ、男とも女ともとれるキンキン声が車内に響きわたる。
「至急、逃亡をやめたまえ。同乗しているその【00】は嘘をついているぞ。君たち地球人をペテンにかけるつもりだ。くり返す、至急、逃亡をやめるんだ。さもないと、我々は力づくで車ごと破壊しなければならない」
「嘘をついてる?」
と、ざんばら髪の杜山。
いくら巨大とはいえ、【外様系】の歩行スピードは遅く、かなりの差を開けることができた。
待避所のある地点にまでバックしてきたので、おれはセダンを切り返すことにした。
車首をもと来た方角に向け、いざ発進しようとしたときだった。
「君たちの車に乗っている【00】は、【船】が不時着した生き残りではない。そいつは嘘をついている。人類に接触し、丸め込もうとしている【龍系】のスパイなのだ。善良な【00】を気取っているつもりに見えるが、とんでもない裏切り者だ。我々はその反乱分子を追っている。その犯罪者はいずれ、君たちの脅威となるだろう」
おれたちは無線機から聞こえた言葉を信じるべきか否か、判断に苦しんだ。
誰もが口を閉ざして、後部座席に乗せた【00】を見ると、
「【通信機】から干渉してくるこの声に惑わされてはいけません」と、【00】は落ち着いた口調で言った。身ぶり手ぶりで付け加える。「私は正真正銘、不時着した【船】の生き残りです。君たち人類と共存するのを夢見て、はるばるゼータ星と行き来し、不幸にも事故に遭いました。ごく一般的な、無害の宇宙人です。どうか信じてください」
「信じろったって」
「よろしい。では、君たちタクシードライバーの業界用語で、こう表現しよう。【翻訳機】で地球人のことは学習したのだ」と、無線機の向こうのキンキン声が高圧的に言った。「その車に乗っている【00】は、【大きな忘れ物】のお客さまである。くり返す、その【00】は【大きな忘れ物】のお客さまである」
おれと社長は、お互いの顔を見合わせた。――まちがいない。拾った【00】は偽物だ。
タクシー業界の隠語で【大きな忘れ物】とは、大事件を起こした犯人を指す暗号なのだ。
町中で、時には指名手配犯すら拾ってしまうこともある。タクシー会社内どころか、警察側から各社の無線に周波数を合わせ、アナウンスされることもあるのだ。
その場合、「大きな忘れ物のお客さまです」と前置きし、続けて犯人の特徴などを伝え、「お忘れ物は指令室でお預かりしています」と締めるのが習わしになっていた。
どうすべきか思案していたとき。
突如、暗い夜道が真っ白に輝きはじめた。頭上から巨大な物体がシャンデリアみたいにぴかぴか光を放ち、近づいてくる。
【船】だった。
了