3.タクシーの怪異の真相?
「どちらまでご案内いたしましょうか」
「のんびり夜行列車に揺られてもよかったんだが、急な用事が入ってね。緊急の会合に出席しなければならなくなった。至急、岡山の笠岡市まで行ってくれないかね」
「か、笠岡市ですか? そりゃまた、ずいぶんと遠出ですね」
笠岡といや、ここ兵庫を跨ぎ岡山の倉敷市をすぎ、広島寄りってことになる。
おれの頭の中でファンファーレが鳴り響いた。
来た――――! これぞ待望の【万太郎】だ! 東京なら深夜によく出るらしいが、こちとら人口45,000人の土地じゃ、めったに出くわさないんだよ、こん畜生!
ざっと単純計算でも、最速ルートは100kmはある。山陽自動車道に乗れる! 近ごろ【脳梗塞】ばかりでしけてたんだ。――【脳梗塞】は高速に乗ることがなかった日のことだ。=NO高速。
ところが後部座席でくつろいだサイトウ氏は、急ぐわりにおかしなことをおっしゃった。
「裏道を行ってくれ。県道397号をしばらく進んで欲しいんだ。そのあと吹田山口線、それから高速に乗っても、到着時間はさほど違わないだろ。むしろ距離が多少なりとも近くなる」
確かにナビを操作すると、目的地まで97.4kmと表示された。サイトウ氏なりの料金を抑える提案だろう。いずれにせよ、料金は1万超えどころか4万は行く。おれはそのルートに従うことにした。
サイトウ氏は緊急の会合に出席するため、悠長な走りは期待してはいまい。今夜は時間超過の労働になるかもしれないが、稼げるなら喜んで残業してやる。うんとこさ、おもてなしのサービスをお付けして。またご祝儀が出るかもしれないし。
◆◆◆◆◆
無人駅をスタートし、県道397号を道なりに進んでからというもの、サイトウ氏との会話は弾んだ。
緊急の会合に出席しないといけないわけだから少しでも休息しておきたいだろうし、威厳ある佇まいからして、シートに着くなり口を閉ざすか仮眠をとるのではないかと思っていたが、なかなかどうして話好きな人らしい。
要約するとこうだ。
サイトウ氏は若いころ、1日食うのも苦労したほど辛酸を舐めてきたそうだ。両親に見捨てられ、子どもながらにホームレスまで経験した。
今でこそコロコロ転職をする人は嫌われがちだが、昔は若者特有の気まぐれで、さまざまな職業を渡り歩いたと語った。わずかの期間だが、タクシー運転手もしたそうな。
結局サラリーマンにおさまり役員にまで昇進し、3年前に定年を迎えた。一念発起で退職金を元手に小さな事業を興し、最近それが軌道に乗りはじめたという。
「だから、君たち業界人が使う符牒――隠語は少しばかりわかるんだ。私が現役だったころも、無線で隠語を使ってやりとりをしたもんだ」
「へえ。知らずにOBを乗せた日には、よけいなことはしゃべれませんね」
「聞くところによると、むろん死語になった隠語もあれば、現在もなお先輩から引き継がれたそれもあるらしいね。前に高齢のベテランドライバーから教えてもらった」
県道397号沿いは民家も少なくなり、両側も山の斜面が間近に迫った。おれのタクシーの前後を走る車どころか、対向車すらないほどうらぶれていた。
街灯もほとんどなく、陰鬱な景色になる。雨こそ小降りになっているので、いくぶん運転しやすくなったが……。
おれは神戸の繁華街出身で、根っからの華やかな街が好きな人間だ。どうもこんな陰気臭い田舎は好きになれない。こんな暗い山道を走るのは、ぞっとせずにはいられない。後ろに客を乗せているだけ寂しさはまぎれるが……。
「ええ、今でも続く隠語はたくさんありますよ」
「例えば――」と、腕を組んでふんぞり返ったサイトウ氏は、おもむろに言った。「【お化け】なんかどうかね」
「【お化け】は言いますね。遠慮なく言わせてもらえば、ちょうどサイトウさんのような【ロング客】――長距離利用のお客さまを呼んだりしますね」
「【お化け】はめったに出会うことがないもんで、そう呼ぶんだろうね」
「お客さまにとっちゃ、大変失礼な業界用語ですよね。口が裂けても、ご本人の目の前で言うべきではありません」
「ははは……。そういや【お化け】と来れば、嫌でもタクシー運転手につきものの怪談話を思い出すな。ほら、夜道で女を拾ったはいいが、いつの間にか後部座席はもぬけの殻で、シートだけが濡れているって奴」
「またまた、そんな話を……」
おれは動揺を隠しきれず、裏返った声を出した。この手の話は大の苦手なんだ……。
「長年タクシー業界の『あるある』として伝えられてきた、あの怪談についてなんだが、興味深いエッセイを読んだことがある。というのも、乗せたはずの客が自殺志願者か泥酔していたかどうかして、自ら後部ドアを開けてしまい、車外へ転落してしまった説が考えられるというんだ」サイトウ氏はフレミングの左手の法則みたいな手をし、頬に押し当てたまま言った。「客が道路に転落したあと、風圧でドアが閉まったってカラクリだ。ちょっとしたマジックにすぎなかったってことさ」
「いやいや……。そりゃおかしいでしょ。いくら運転に集中してたとしても、走行中にドアを開けたら風も入ってくるだろうし、例え一瞬だったとしても、ドアが閉まったときの音で異変に気づきます」
「世の中にはそそっかしい人もいるもんだ。ハッチバックやスライドドアを開けたまま走行している素人さんの車を、何度か目にしたことがある」
「私どもは、仮にもプロですよ。そんなうっかりさんと一緒にされても困ります」
「ま、それはともかく」サイトウ氏はおれの言い分を片手で制し、話を続けた。「とくに高速道路でまちがって車外へ投げ出されようものなら、次々と後続車に轢かれてしまう。大型車両に矢継ぎ早やられたら、たまったもんじゃない。肉体は断裂し、プレスされて細切れになり、しまいには跡形もなく雲散霧消してしまうというんだ。君もときおり見かけるだろ。不自然に路上に残された革靴やサンダルの片方は、もしかしたら……」
「や、やめてくださいよ。怪談より生々しすぎますって!」おれはルームミラー越しに相手を見ながらわめいた。「だったら、シートがぐっしょり濡れているってのは、なんですか?」
「単に飲み物をこぼしただけかも。あるいは酒を飲みすぎて失禁したのかもしれん」
「仮にそうだとしても、後続車の誰かが、人のようなものを轢いたかもしれないって通報するはずです。そこまで人間は冷たくない。遠からず人身事故だと発覚するでしょ」
「厄介ごとに巻き込まれたくないと思い、逃げるケースだってなきにしもあらずだ」
「そもそも人一人がいなくなれば、身内なり関係者なりが捜索願を出して大騒ぎします」
「行方不明者の届出受理数は毎年8万人にのぼり、届出が出されていない件数を含めれば、10万人以上の人間が姿を消しているとも言われている。なかにはこんな形で、文字どおり消失した事例があるのかもしれん。原因はどうあれ人が忽然と消えるには、それなりに理由があるはずだ。私は超自然現象をいっさい信じないタチなんでね。時間帯が深夜であり、ましてや雨が降っていれば完全消失の条件は整う。それこそ血痕まできれいに洗い流してくれるだろう」
「そんなもんですかね」