2.おいしい【万太郎】はいないものかね
近距離を指定する客のことを【コロ】、【ハズレ】と、おれたち業界人は隠語で呼んだ。昔はお客さまは【神様】とは言ったものだが、【コロ】を拾ったところで、燃料ばかり食って割に合わない。
【コロ】ってのは、タイヤがコロコロ動いた程度の短距離指定の客のことを指す。言わずもがな、この手の隠語は当のお客の前で言うのは憚られるが。
新年度に入ったというのに、個人的な営業ノルマは達成していても、サボテン・タクシー全体の【水揚げ】は低迷していた。【水揚げ】は説明するまでもないだろう。
やれやれ……。どこか、おいしい【万太郎】なお客はいないものかね。
【万太郎】、もしくは【万収】とは、料金が1万円を超えるほどの長距離を指定してくれる客のことだ。なかなか出くわすことがないため、こんな客をつかまえた日には、内心ガッツポーズを作りたくなるほど心が弾むものだ。もちろん喜んで、最上級のおもてなしをしつつ、目的地まで送り届ける。
【万太郎】、【万収】の他に、こんな上客を別な隠語で呼ぶこともある。――それが【お化け】である。
一瞬ドキリとさせられるが、これもビックリするくらいの長距離を指定してくれる人のことを指す。
【お化け】と来れば、むしろ素人さんは、こんなタクシーの怪異を想像するかもしれない。
――暗い夜道で、一人の女をタクシーに乗せる。
いやに顔色の悪いその女は、確かに後部座席に乗せたはずなのに、気づいたら消えていなくなっている。
女の座っていたシートは、ぐっしょりと水に濡れた跡だけが残される――昔から伝わる定番の怪異だ。
おれたちの業界では、文字どおりの幽霊を指すのではなく、同業他社も含めて【お化け】とは、こんな上客を意味するのだ(もちろん例外もあり)。
他にも興味深い隠語がある。
例えば【ゾンビ】。
これはストライキや台風、大雪などで公共交通機関が麻痺したために、大勢の人間がタクシーに乗ろうと、あちこちで手をあげている状態からこう呼ぶのだ。ゴールデンウィーク、年末年始の連休前の深夜も【ゾンビ】は出やすい傾向がある。うれしいやら忙しくてきついやらである。
【ゾンビ】はえてして【青タン】にも結び付きやすく、稼ぎ時でもある。【青タン】ってのは、22時から朝5時までの深夜割増料金のことだ。
むろん、この隠語も客の面前で使うべきではあるまい。
幽霊、怪物つながりでいうと、【ブツブツ霊】ってのもある。
これはちょいと頭のおかしな客のことだ。拾ったはいいが、後部座席で下を向き、ブツブツと独り言を呟いているような手合いを呼ぶ。
おれたちはどうしても前を向いて運転しなくちゃいけないので、いくら運転席の真後ろにパーティションがあるとはいえ、背中をブスリとやられやしないか、気が気じゃない。【ブツブツ霊】を拾ってしまったら、とにかく関わり合いは避けるに越したことはない。
厄介な客はいくらでもいる。
代表的なものが【20】。
【20】とは、やくざ風の客のことだ。なにが風だ。もろにそのものを、拾ってしまうことだってめずらしくない。
8+9+3で【20】って意味だ。露骨なそれではバレる恐れがあるから、このように難解な符牒にしたのだろう。
ましてや酒が入っている状態なら、なんのかんのと言いがかりをつけられ、料金を払わず逃げていく【カゴ抜け】どころか、有り金を奪われる事件になることすら稀にある。
おれも若いころ、深夜の繁華街で流していたときに、苦い経験をしていた。警察に被害届を出したが、相手は捕まらなかった。
国道250号線を道なりに進んでいると、目指す恵照院の建物が左手に見えてきた。
このころになると、日も暮れ、街灯があちこちに点き、濡れたフロントガラスにまだら模様となって見えた。
寺院は左折してすぐのところにあった。
正門前でパーキングする。
料金700円也。子どものお使いじみた、ケチな仕事だった。
「せっかく先客あるのを知らんでごめんなさいね。これ、お釣りはいらへんから。取っとき」
京友禅を身につけた老女は3,000円をコイントレーに置き、手のひらをかざした。こんなご祝儀もあるから、【コロ】もまんざら捨てたものではない。
「ありがたく頂戴致します」と、おれは恭しく言い、運転席の横に付いてるレバーを引いた。エンジンの負圧を利用して、後部ドアを自動的に開閉できる構造になっているのだ。ドアが開くと、老女は傘を差し、さっと雨の中に身を躍らせた。おれはその背中に、「お気をつけて。またのサボテン・タクシーのご利用をお願いします!」
と、声をかけた。
こうして老女は踵を返し、寺院の奥に消えていった。
おれは気をよくして、ふたたび車をスタートさせた。今度こそ杜山が指定した備前福河駅に向かう。
◆◆◆◆◆
だだっ広い水田と野菜畑、休耕田とが交互に広がる平野を横に見ながらセダンを進めた。
国道は単調なストレートと緩やかなカーブのコンビネーションで、区画整理された市街地と比べ、民家はまばらだし街灯も少ない。路面も手入れされていなかった。いかにも行政から見放された感があった。
福浦橋の手前の小さな交差点を左折する。
しばらく行くと、赤穂線の無人駅である寂れた駅舎が見えてきた。
あれこそが備前福河駅である。
配車を希望したサイトウ ケンジなる人物がどこにいるのか、頭を悩ませる必要もなさそうだ。
駅舎の入り口で、遠慮がちに手をあげたスーツ姿の男を認めた。無人駅にはその男、たった一人だった。
おれはスピーカーマイクを取り、無線を使った。
「こちら3号車、たった今、備前福河駅に【現着】しました」
【現着】は現場到着の略だ。
おれはハザードを焚きながら、すかさず車を寄せる。
バキューム式の後部ドアを自動で開け、
「サイトウさまですね? 本日はサボテン・タクシーのご利用、ありがとうございます。お迎えにあがりました」
1オクターブくらいあげて、明るい声で言った。
「おう。急に呼び出したりしてすまないね。よろしく頼むよ」
後部座席に乗り込んできたサイトウ氏は、中折れ帽子を目深にかぶり、みごとな白い髭をたくわえた中高年男性であった。仕立てのよい生地の上下で決めている。さぞかし羽振りがよさそうだ。そのわりにはほぼ手ぶらだった。暗いのにサングラスをかけている点も気になった。