1.「【ネギ】入ってますよ」
おれは地方都市の繁華街を縄張りにしているタクシードライバーだ。
さながら回遊魚のごとく、【流し】が基本のおれたちは通称【マグロ】と呼ばれた。もっともしけたご時世、なかなか客はつかまるものではない。
業界のみならず、ガソリン代の高騰に営業所は頭を悩ませていた。円安やらアメリカの金融政策やら、ロシアによるウクライナ侵攻などの時代のうねりで、えらい迷惑を被っていた。能動的に客を【キャッチ】しに行くべきだとは思うが、そうもいっていられない。
昼すぎからぱらつきはじめやがった。15時が近づくにつれ気を挫くほどの雨脚になり、夕方には本格的となった。
だからこそ今日は、赤穂中央病院の入り口で待ち伏せしていた。いわゆる【付け待ち】ってやつだ。
とはいえ、おれの前には同じサボテン・タクシーの同僚たちのみならず、ライバル会社のタクシー8台が数珠つなぎとなって停まっており、なかなかスムーズに客をつかまえられないのだが。
【とぐろを巻いた】以上、いかなることがあっても割り込んで客を奪ってはならない暗黙のルールがあった。【ハイエナ】をやった日には、仲間内は言うに及ばず、他社からも号車を憶えられ総スカンを食らう。
おれはため息ばかりついていた。
病院から出てきた患者や見舞客はマイカーに乗る人が多かったし、そうじゃなくても大抵は市バスを使う。わざわざ初乗り運賃1.3kmで700円を使うほど、誰もがお人よしではないのだ。
タクシードライバーの誰もが退屈そうにスマホをいじったり、缶コーヒーに口をつけたり、あくびを噛み殺していた。
窓枠で頬杖をつき、雨雲が広がる空を見あげたときだった。
センタークラスターに備えられていた無線機から、魅力たっぷりのオペレーター・杜山の声が聞こえた。
『えー、こちらサボテン・タクシー営業所より。JR備前福河駅で配車希望との連絡がありました。お名前はサイトウ ケンジさまだそうです。どなたか至急向かってください』
「もらい!」と、おれはスピーカーマイクを手にし、「こちら3号車、備前福河駅ですね。了解。ただちにお迎えにまいります!」
と、言った。
赤穂中央病院から備前福河駅までは、国道250号線に乗れば15分もかかるまい。
おれはあみだにかぶっていた制帽を正し、キーをまわしてエンジンをかけた。
セダンが息を吹き返す。おれより前に【付け待ち】したサボテン・タクシーの同僚たちは、もうしばらく待てば客をつかまえることができるだろう。最後尾のおれには分が悪すぎた。
アクセルを踏んで車列からはみ出す。
【付け待ち】していた同業他社のタクシーたちを尻目に、病院の正面玄関から出た直後だった。助手席に放ってあったスマホがブルったのだ。
あわてて縁石沿いに停め、電話に手を伸ばす。
ディスプレイには今しがた無線連絡があったばかりの『杜山』の文字。さては大っぴらに言えそうもない愛の告白は個人の携帯電話でってわけか――?
「ナベさん。田邉さん。いま電話かけても大丈夫?」
耳に当てるなり、マカロンみたいな甘ったるい声が聞こえた。オペレーターになってからまだ半年足らずの新人だが、前職は繁華街でキャバクラ嬢をつとめていた29歳の美人ちゃんである。
「どした。わざわざ電話してくるってことは、よほどの内密な話らしいな」
「しょってるー。ちがいますったら」と、杜山は甲高い声で笑い、小声で続けた。「ご忠告です。――最近、接客態度がなってないって、【ネギ】入ってますよ。それだけじゃありません。運転も荒く、料金もぼってるんじゃないかとの疑いもかけられてるんです。会社の沽券にかかわるって、専務もご立腹ですよ」
「まさか。おれはちゃんとしてるつもりだぜ。きっと営業所の誰かが妬んで――」
言下に否定しながらも、内心ギクリとせずにはいられない。
おれの成績はトップではないにせよ、まんざら悪くはない。1カ月の営業ノルマ未達を意味する【ゲタわれ】だったことは、タクシードライバー歴16年、一度たりともなかった。そのかわり多少荒業を使わなきゃ、ノルマはこなせないのだ。
ちなみに【ネギ】とは、客からのクレームのことを指している。京都名産の九条ネギにかけているのだ。九条=苦情ってわけだ。
「言い訳はよろしいです。今のところ上には報告していないですが、社長の耳に入ったら、大変ですよ」
「はいはい。反省します。お利巧さんにしまーす」
と、おれはおどけた口調で言い、遮るように通話を切った。
社長がなんだ。潤沢な資金でいくつもの不動産投資に手を広げ、片手間でタクシー会社の経営をしているにすぎない守銭奴じゃないか。ハレー彗星じゃあるまいし、めったに営業所に顔を出さないので、おれでさえトップの顔を忘れてしまったほどだ。
◆◆◆◆◆
しばらく国道250号線を走らせているときだった。
10メートル前方歩道側で、傘をさして手を差し出している人物が見えた。そのころには雨脚も激しく、視界が制限されていた。
せっかくダッシュボード上の実空車表示器を『迎車』にしていたのに、えてしてこんなときにかぎって乗車を求める人が現れるものだ……。
以前のことである。
おれは怠りなく実空車表示器を切り替えていたにもかかわらず、乗車拒否されたとのクレームを入れられたことがあった。理不尽な言い分だった。単に空車であるサインを見ていないだけで、決め付けはよくないだろうに……。
会社のイメージダウンにつながるので、おれはハザードを点け、仕方なしにセダンを歩道に寄せた。
助手席側の窓を開けた。
いかにも上品そうなばあさまだった。渋い色合いの着物を着付け、ばっちり決めている。
「あいにく予約が入ってましてね。これから迎えに行く途中なんです。申し訳ありませんが、他のタクシーをあたってください」
「バスを乗りすごしてもうてな。この雨やし、歩くんが億劫や。せっかくの京友禅を濡らしちゃ嫌やし。恵照院までなんやけど、乗せてくれへんかね」
「急ぐんだけどなあ」おれは老女と国道の先を見比べながら言った。近ごろは人の話を聞かない老人が増えた気がする。「……しゃーない。どうせ進路方向ですし。よろしいですよ、お乗りください」
「おおきに。助かるわ」
胸中で舌打ちしながら後部ドアを自動で開けた。これが田舎のクォリティって奴だ。
恵照院なら、たかだか800メートル先じゃないか。頑張って歩けない距離でもあるまいのに……。