走れ王様
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
メロスは激怒した。彼は刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く暴君ディオニスの右頬を殴った。
「己の罪を忘れたのか。疑心に駆られ、人々の忠誠を疑い、無辜の民を殺めた暴君め」
メロスの正論に王は口を噤んだ。
「だが、誰にでも更生の機会が与えられるべきであることもまた真実。したがって償いのチャンスをやろう。なに、私と同じことをすればよいだけだ。三日以内に私の生まれ故郷を訪ね、再び王城へと帰ってこい。貴様の人質になってくれるような臣下も友人も誰一人いないだろうが心配ない。その代わりに王座を賭けてもらうことにする」
メロスは静かに、けれども威厳を以て、そう告げた。王は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。されど、もし申し出を断れば、先ほどから無言でこちらをじっと睨みつけている群衆、自らが虐げてきた民たちの手で、瞬く間に蹂躙されることは明らかだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王はその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、翌る日の午前、陽は既に高く昇ったころ、メロスの生まれた村へ到着した。村人は王のことなど知らぬ。誰に歓迎されることもなく、ただひとり羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。王は跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あのメロスに、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って王座に腰掛けてやる。王は、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、王は、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し、悪魔の囁きにも打ち勝ち、最後の死力を尽して、王は走った。王の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、王は疾風の如く城に突入した。間に合った。
「約束のとおり、いま、帰って来た」
王座に腰かけたメロスは嗄れた声で低く笑った。メロスの顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「血で薄汚れた王座にそこまで執着するとはな。ところでこの三日間、今まで貴様が殺めた臣下や民の数を調べさせた。これまで912名の尊い命を貴様は奪ったのだ。このたびの禊で一人分の罪を許そう。さあ、暴君ディオニスよ、再び走れ。さもなくば、罪を償い磔にかかるがいい」
ディオニスは、すぐさま走り出した。だが、もはや国に帰ってくるつもりはない。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。ディオニスは刑場の牢に一人の男が囚われているのを見つけた。メロスの親友、セリヌンティウスだ。きっと竹馬の友の暴走を止めようとしたのだろう。
これから新たな邪知暴虐の王が辿るであろう血塗られた道程に思いを馳せ、ディオニスは憫笑し、そしてどこかへ走り去っていった。暴君の行方は、誰も知らない。