12 新たに覚醒したもの、またその世界
よく見れば、兜の男は左の脇腹から血を流していた。相当な量が瓦礫を伝っている。
じくじくと破壊された体組織から、こぽり、こぽりと断続的に血が溢れ出している。かなり痛そうだが、そのダークブラウンの瞳は鋭く、その顔は冷徹なまでの平静さによって揺るがない。
男が何かを囁いた。
低く深みのある声質と、やはり落ち着き払った口調が内心を読み取らせなかった。
そんなことを考えていると、おそらく俺からの応えがないことに男は眉根を寄せた。それで男にも感情があるとわかった。がしかし、返事はできない。何言ってるのかわからないんだからしょうがない。まさか「いてーよー、マジ痛いんだよー」とか言ってるわけではあるまい。
俺が首を傾げると男はどこか得心がいったような表情を浮かべて呟いた。
「……ルガルタ……」
「なんて?」
聞き返す俺の言葉に反応せず、男はおもむろに手を掲げた。一瞬の後、その手には剣が。
振り返って見ると狂犬を串刺しにしていた長剣は消え失せ、屍だけが残されている。
魔法。
やり方がわかれば俺も使えるのだろうか。
しかし今はそれよりもまず考えなければならないのは、俺はこの兜の男に救われたということなのだが……本当に助けるつもりで剣を投げたということでいいのかどうか。
言葉も通じないし、表情からも心の裡を推し量ることはできない。それはつまり、次の瞬間にどのような行動を取るか予測できない、ということでもある。
「……」
俺は大きく息を吐き出して、努めて肩の力を抜いた。
剣の投擲すら察知できなかったのだ、気にしたところで意味がないと考えを改めた。
男の発する圧力は相変わらずだが、敵意は感じられないし(その感覚にどこまで信を置いてよいものか自分でもとんとわからないけれど)、彼が俺を殺す気ならすでに死んでいるだろう。
逡巡は一瞬に収める。
助けてくれたという前提で行動しよう。
一応、男の助けになれるはずだ。怪我を治す手段を俺は持っているから。
怪我が治った瞬間に殺しにかかってくるなんてことはないと信じたい。
瓦礫の山の麓まで進んだ。
ポッケから治癒の指輪を取り出し男に向けて放り渡した。
昨日一度使った際に、三つはまっている石の一つが光を失ってくすんでいたが、朝になると光は戻っていた。時間を置けば何回でも使えるらしい。回数制限とかが無ければだけど。
指輪をキャッチした彼は目を眇めて指輪を確認すると、こちらを見て頷いた。
指輪が微かに光る。
間を空けてもう一度。
さらにもう一度――指輪にはまっている石の数だけ光った。放り返された指輪を受け取る。石は三つともくすんでいる。使おうと集中してみるが反応なし。これで今日は打ち止めか。どのくらいの時間を置けばまた使えるようになるのか計っておかなくては。
指輪を三回使用しても、彼の傷は完治には至らなかった。指輪の治癒効果も治せる範囲や程度に限界があるみたいだ。
指輪をポッケにしまい、続いてリュックからあるだけの種類の小瓶を取り出した。赤、白、青、緑。タオルに包んでいたそれらはどれも割れたりしていない。よかった。
左手の指の間に挟んだそれらを男に向かい掲げて見せる。
「なんか使える?」
終始無言でのやり取りというのも何なので、あえて声に出してみる。
正直な話、打算はありありだ。彼が白うさぎでも火星人でもなんだっていいから、この不思議の国の導き手になってはくれないものかと思っている。
導師とは言わないまでも、教師くらいは何とかお願いしたい。
右手で順に一本一本抜き出して見せる。
彼は赤の小瓶に頷いた。小瓶を受け取ると上部を親指で飛ばし、中身を飲み干す。ほどなく彼の身体から赤い湯気のようなものが僅かに立ち昇って消えた。
男は左手で自身の鬼の兜を鷲掴み、位置を調節しながら立ち上ると何事か呟いた。
光り輝く紋様が軽く掲げた男の右手を取り囲む。その手を滑らせるように動かすと、紋様は動き、広がり、回転し、ひときわ明るく輝きを放って身体へと吸い込まれていった。
瞬く間に傷は修復され、衣服についた汚れさえ塵となって宙に散っていく。
その光景に呆けていた俺は、瓦礫が転がって立てた音に我に返った。
そしてその時には――男が目の前に立っていた。
視覚が処理落ちしたかのように、転移したのかと思うほど、唐突に。
だがそうではないという証拠に、遅れてやってきた風圧に俺の髪がかき乱される。
驚愕に思わず喉が詰まった。
相手の身長は少なくとも190センチ。
男の指が、俺の額に触れた。
自分の行動がどういう結果をもたらすか。早くもその答えを知る時が来たと思った。朝、事件現場でのじいさんと興島の顔が想起された。
男の指先が光る。
眩しさに目を細めた。
身体がぐらりと揺れて、そのまま膝が砕けて倒れる。両手をついて、倒れ伏すことまでは何とか防いだ。
「なにを……」
と、問うまでもなく、俺は今なにをされたのか、男がなにをしたのかが不思議と理解できていた。
「ディ……【急送】……?」
無意識に口をついた。
俺は今、魔法を体感したのだと理解した。
◆
【急送】
魔法使いが所属先を知らせるだとか、連絡先を渡すような、かなり限定した情報を便利に送るのに使う魔法。情報量を増やすほどに制御が困難になり、受け渡す情報の取捨選択が難しくなる。予期せぬ個人情報が相手方に渡ってしまう恐れがあるため、この魔法で多くを渡すような真似はふつうしない。やるとすれば、よほど気心の知れた、強固な信頼関係によって結びついている者同士くらいのものだ。
◆
そういった事情すら今の俺は〝知っている〟。
それを、この兜の男は会ったばかりの俺に施したということに驚いた。
「礼だ」
男はそう言って背を向けた。
言葉も、わかる。頭の中でいちいち変換するようなたどたどしさはあるが、確かにわかる。喋ることも。
「なんで」
俺の質問の意図を正確に読んだのだろう、彼は答えた。
「時間をかけるのも面倒だっただけだ」
つまり、俺が必要としている知識と受け渡す情報のすり合わせが面倒だから、テキトーにまとめて情報を送った、と。
彼自身の個人情報も多少知ることになったのだけど、それすらもたいしたことではないということか。
膨大な情報が脳の神経細胞を駆け巡ったために立っていられなかったわけだけど、逆に言えば、情報過多で気が狂うようなこともなく、その程度で済んだとも言える。【急送】の魔法にそもそもそういったリスクはないのか、セーフティは付いているのかどうか、それらの知識はなかった。実は結構危ないんじゃなかろうかと思った。無事だったからいいんだけど。
「なあ、アンタの名前……〈汚れた水〉じゃなくて本当はラン・クザルっていうんだな」
彼を追っていた二十人余りの者たちが、敵意と憎しみを籠めて〈ダートウォーター〉と呼びかけていたはず。その長い黒髪を指して渾名したもののようだ。
追われていた理由についてもわかった。
この男、国で非人道的な実験・研究を主導していた作戦将校を殺害し逃亡。特務部隊に追われ、ついにはこのダンジョンの奥底まで来るはめになったようだ。
立ち止まった背中に向かって俺は声をかけた。
「ありがとう、ラン・クザル。俺はハレヲ。またな」
男は鼻で笑ってまた歩き出す。
「もう会うこともないだろう。キツネ目」
「キツネ目て……」
なんて呼び名だ。〝はろ〟よりヒドイ。と言っても初めて呼ばれたわけじゃないのが何ともやるせない。
◆
『キツネ野郎がっ!』
『ヤバい時にニヤついてっから言われんだよ』
『ニヤついてない』
『遠目からでもわかんだよ。お前が笑ってっと、あ、ホントにヤバいんだなってさ』
『なんだそりゃ…………いやマジでなんだそりゃ』
◆
変な記憶が呼び起こされて、片手で両目を覆って揉みほぐす。
しかし、情報というもっとも重要なものをもらったことを考えれば、ある意味ラン・クザルはとても良い導き手となってくれたと言える。
跳躍する姿勢を見せたラン・クザルに、そういえば最初に見たときも飛んでたなと思い出し、その前に声をかけた。
「メシ食ってかねえ?」
戻ってきたラン・クザルとインスタントラーメンを食べた。
「──新たに覚醒したもの……ね」
▼
知識を得たことで、さまざまなことに推測が立てられるようになり、得心がいくこともままあった。
――ルガルタ――。
新たに覚醒したもの、またその世界そのものを指す。
では、覚醒とはなにかと考えたとき、それは魔力の獲得を意味し、多元宇宙の仲間入りをも意味するのだとか。
そういった知識が思い浮かべようとすればしただけ湧いてくる。しかし【急送】の魔法も完璧ではない。使わない知識は時間とともに普通に忘れていくのだ。
受け取った情報を引き出しておくことがとても重要になってくる。
つまり記録だ。
受け取った情報はたとえば『たらこパスタ』のレシピを思い出そうとするように具体的でなくてはならない。『たらこパスタ』のレシピを思い出す過程で、ほかのパスタのレシピの記憶が連鎖的に脳裏に甦るようなことはあっても、まったく思い浮かびもしない考えの情報は引き出せない。
こうしている間にも忘れていくものがあるのかもしれない。
できるだけ多くの情報を引き出すには、考えなければ。
「よし」
家に帰ったらしばらくは端末にデータを詰め込む作業になりそうだ。
GLOSSARY
-用語集-
●【急送】 魔法
精神魔術ではなく幻術に分類される。
実はセーフティは付いていて、受け手が許容できない情報量の場合、脳への負荷がある水準に達するとシャットアウトする。