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五人のメイドと面倒な事件簿  作者: 杉村雪良
メイドが焼き芋を焼く面倒な事件
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メイドが焼き芋を焼く面倒な事件 6(解決編 前半)

 私はポットから来客用のカップにお茶を注いで、寒空に我が屋敷を尋ねたH岡氏の前に置いた。

「コーヒーのプロにまさかコーヒーをお出しするわけにはいきませんからね。これ、ジャスミンティーだそうです。私でなくメイドが淹れてくれたんですけど」

「どうも……いただきます」

 午後九時を回ると館の周りは急に静まりかえる。館は駅前の商店街から一歩入った住宅街に建っており、近隣の住人達は既に家庭でのくつろぎ時間を静かに楽しんでいる時間だ。館の三階からは、住宅のまばらな灯りの向こうに、まだ煌々とともる駅前商店街の灯りが見える。約束通り我が家を訪ねてきたH岡氏を三階のサンルームに案内し、腰かけた。

 H岡氏の顔には明らかに憂鬱が張り付いていた。私がどんな話をするかをわかっていて、しかもかなり悲観的な方向でとらえているというのが読み取れた。彼はカップに口をつけたが、ほとんど飲まずに置いた。その際、カップに左手を添えていた。もしかしたら手が震えてカップが音を立てるのを隠すためかもしれないが、その想像が正しいかどうかはわからなかった。

 彼の緊張を解きほぐすような一言を探したが、うまい言い方が見つからないまま、沈黙が流れた。

「私を呼んだ理由を伺えますか」

 意を決したように彼は言った。


 私は、メイド達と一緒にあるものを調べ、あの時H岡氏を驚愕させたことについては明快な回答を得た。そしてそれは、彼にとって愉快な話ではないということは明らかだった。

 どんな顔をして彼に話をしていいのかわからなかったので、特に明確な表情をせずに切り出した。

「非常に面倒な事件でした。私は放っておけと言ったんですがね、メイド達に、はっきりさせておくように責められました。はっきりさせて、あなたを安心させて来い、と。言われて考えると、確かにその方が良いだろうと思ったんです。私にとっても、もしかしたらあなたにとってもね」

 H岡氏をじっと見た。引き締まった頬に整った眉の下の彫りの深い眼差し。背は高く、細い指先。昨日会った時から感じていたが、整って端正な顔をしていた。その瞳には不安と動揺が滲んでいるのが見て取れる。私の焼き芋を強引に奪っていった時のあの表情の根っこにも、同じ不安があったのだろうと思う。

 私はゆっくりと話を続けた。

「考えていたんですよ。あなたが、私の芋と自分の芋を強引に交換した理由をね。紫の芋を食べてみたかったとか、そういうこととは明らかに違う様子だった。」

 その言葉で多少H岡氏の目が動いたような気がした。

「問題は芋じゃない。ではあなたが見ていたのは何か。あなたが見ていたのは、新聞紙だ。あなたは、私の芋を包んでいた新聞紙を見ていた。世の中には、贈答品の中身よりも包装紙に価値を見出す人がいるらしいが、昨日そんな話を聞いていて気づきました」

 私は彼をもう一度見た。カップを口に運んでいたが、今度ははっきりと震えているのがわかった。

「もっと言えば、その新聞紙に載っていた何らかの記事を見て、驚いた。いや、驚いたというより、あなたは怯えた。私から新聞を奪おうと思ったが、それではかえって新聞に注目させてしまう。新聞に何かあると言っているようなものだ。そこで咄嗟に、焼き芋を交換するという体裁をとることにした」

 H岡氏は、窓の外を見ていた。少し待ったが、私の方に顔を向ける様子もなく、何かを言う様子もなかった。私はメモを取り出した。

「調べました。あなたの感情を一瞬にして沸騰させ、冷静で温厚なあなたを奇行に走らせた記事は何なのか。今日、中央図書館まで行って確認してきました。見つけたのは、十年前の十月十六日、地方版に載った、数行の記事です。隣の県の小さな交通事故、全国紙に載る方がおかしいくらいの小さな事件だ。『○○県警は十六日、H岡祐司容疑者(三十二)をひき逃げの疑いで逮捕した。被害者女性(四十一)が未明に自転車を運転していたところ、○○市○○二丁目の交差点付近で、H岡容疑者の運転する自動車が接触、被害者を転倒させ、そのまま逃走した』云々……全部読む必要はないでしょう」

 先ほどまで見えていた上弦の月は雲に隠れていた。心なしか輝きの落ちた駅前商店街の灯りは、それでもまだ消えずに人の営みの存在を主張している。


 私が黙っていると、諦めたように彼が口を開いた。「それで、あなたの目的は?」

「目的……。いえ、目的なんかありません。ただ、そんなことをことさら気にすることはありません、とお伝えしようと思っただけです」

「……は?」彼は目を見開いて私を見た。「それだけ? それだけなのですか?」

「ええ」私は彼の言葉で、彼を怯えさせていたものの正体をはっきりと把握した。「それだけです。私からは、それで終わりです。記事のことであなたを困らせるつもりは全くないし、誰かに言うつもりもない。もしあの記事を見られたことを気にしておいでなら、心配しなくて結構ですよ、というのをお伝えしようと思っただけなんです」

 彼は固まったまま私を凝視していた。私が頷くと、その肩から一気に力が抜けるのがわかった。深いため息を吐いて彼は語りだした。

「まさか、と思いました」もともと低く落ち着いた声を、更に抑えていた。「十年前のことです。忘れ去られた事故だ。しかも隣の県のことです。誰も知っている訳はない。そうあってほしかった。私自身も、あのことは忘れたつもりだったんです。それなのに目の前にあの新聞紙があった。あの記事が目に入った瞬間、恐怖に襲われました。やっと開店できた私の店を、また失ってしまうかもしれないという思いで頭の中が真っ白になりました」

 彼の手は膝の上ではっきりと震えていた。彼は続けた。

「あの時車を停めてその場で警察を呼んでいればと、今でも思います。でも、被害者がすぐ立ち上がったのが目に入ったこともあり、あの時は先を急ぐことを選んでしまったのです。ある事情で、とにかく急いでいて、冷静な判断ができていなかった」

「想像ですが」言おうか言うまいか迷っていたが、そんなH岡氏を見て、口にせずにいられなかった。「奥さんが妊娠しておられた?」

 質問というよりは、願望に近かった。

「どうして……それを?」

 H岡氏は思いのほか驚いたようだった。

「元気な男の子、小学校五年生と伺いました。十歳ですよね。十歳と、十年前。ただの想像です。でもこういうことは、得てして関連しているものです」

「そう……そうなんです」

 彼は遠くを見つめ、また語りだした。

「開店準備をしていました。ようやく自分の店が持てるということで、浮足立っていたことは確かです。出産と開店が重なりましたが、どちらも私にとっては待ち望んだ幸福でした。開店をずらすことはしなかった。妻と二人で、めでたいことは重なるものだと無邪気に喜んでいました。予定日はまだ先でしたが、突如妻が産気づきました。救急車を待つ僅かな時間も惜しいと感じ、自分の車で病院へ向かいました。交差点で、突然ブレーキの音と、自転車が倒れる派手な音が聞こえました。横道から飛び出してきた自転車が、後部に当たったらしい。バックミラーを見ると、倒れた自転車と女性の姿が見えました。血の気が引きました。振り返ると、女性はすぐに自転車を引き起こそうとしていました。少なくとも、何というか最悪の事態ではない、とわかり安堵のため息が出ました。女性が軽く手を挙げたのが、今思えば勝手な解釈ですが、『大丈夫、心配ない』と言っているように見えました。妻のうめき声が耳に入ると、それで再び頭がいっぱいになってしまい、車を走らせてしまいました。」

 H岡氏は、大きく息を吸って、吐いた。

「そのまま妻は分娩室に入り、息子が生まれました。初産と言うこともあり心配しましたが、幸い出産は問題ありませんでした。しかし、妻の着替えや身の回りのものを取りに家に戻った私を待っていたのは、警察でした」

 私は何も言えず、彼の手を見ていた。

「女性は、全治数週間の怪我をしていたようです。警察は私が逃亡したと誤解していたようですが、私はすぐに謝罪をして、被害者とは示談が成立しました。幸運なことに不起訴処分になりましたが、被害者や警察への対応と出産で店の準備どころではなく、結局、開店は中断しなければなりませんでした。少し時間をおいてから開店することも考えていたのですが、あの新聞記事を自分の目で見てしまい、気力を失いました。……大きな衝撃でした。地方版とは言え全国紙に、ひき逃げ犯として自分の名前が掲載されているのです。それを読んだ時には、本当に目の前が真っ暗になりました。突然、周囲の人間にそんな目で見られているような気がしてきました。そういう人にとっては、示談が終わり賠償金を支払い済であることや不起訴になったことなど、関係ないし興味もない。世間にとっては、私は新聞に載った犯罪者なんだ、そんな風に考えてしまいました。そんな私が、何事もなかったようにすぐに客商売を始めることなんて到底できない、と思うようになりました」

 彼はどこか諦めたような目をしていた。口調は落ち着いていたが、それがどんな意味を持つのかは、彼にしかわからないことだろう。

 彼は続けた。

「悩んでいるうちに時は経ち、多少あった蓄えも開店資金の借金返済にどんどん消えていきました。会社員として長年勤めた末ようやくたどり着いた開店でしたが、一度その道を諦め、また会社勤めに戻ることにしました。もちろん事故に対する私の軽率な行動によるものですので、全て私の責任です。ですがまだ開いてもいない店を閉めることを決断した時は、本当につらかった。いつかまた、事件を知る人のいない離れた土地で店を持とうという希望だけが心の支えでした。なんとか知人の伝手で就職できました。妻のため、子供のため、そして新たな店のため、昼夜を問わずに働きました。その会社での仕事は私にとって面白みのないものでしたが、そんな労働が私を平凡で何の変哲もない人間にしてくれるような気がしました。そして、時間とともにあの新聞記事が世間から忘れられていく、私自身も忘れることができる、と思うようになりました」

 彼は息をついた。

 私は、庭で見た彼の息子のことを思い出していた。どこまでいきさつを知っているのかわからないが、引っ越したばかりの土地ですぐに公園に遊びに行く友達を作ることができる子どもに育っていることは確かだった。

「十年です。十年かかりました。借金を返した。生活を安定させた。新しい店の構想を練った。資金を作った。そして世話になった会社を去るために仕事を整理する頃には、新聞記事のことなど頭から消えていました。以前の町から遠く離れた新天地に素晴らしい条件の物件を見つけ、家族を連れてやって来ました。そして今度こそ無事に自分の店を開きました。妻も子供も本当に喜んでくれました。……なんとか、なんとかここまでたどり着きました。その直後に、近所に馴染もうと参加した焼き芋会で、目の前にあの新聞が、あの記事があったのです。その瞬間に、突然あの時の目の前が真っ暗になった感覚に襲われました」

「本当に……私が古新聞なんか見つけたばかりに……」

 私はかける言葉が見つからず、そんな中途半端な言葉が、口から出た。

「いえ……私もあまりのことに動転して、愚かにも目の前からあの記事を消し去ることだけを考えてしまいました。あれはただの新聞紙にすぎない。だがあの瞬間、まるであの新聞紙が、この町の人間も事件を、お前の過去を知っているんだぞ、とでも言っているように感じてしまったのです」

「K条というメイドに、この会の準備をしたり道具をそろえたりしたのは誰かと尋ねていたのはそれですね。新聞が誰の意図で用意されたのかを知ろうとした。黒幕がいるのではと思ったのですね」

「今思うと、錯乱していたようです。お恥ずかしい限りですが……」

「それから、今日私があなたを呼びしたのは、私があなたにこの話をして、だから町を出ていけと言おうとしているとお考えだったのですね」

「……そうです。あるいは、脅迫めいたことを言われるかも、と思いました。申し訳ない。そんな目であなたを見てしまいました」

「待ちに待ったお店の開店ができなくなってしまった絶望と、その後十年間のご苦労は私なんかが気安く察することのできないようなものだったのでしょう。あの新聞記事を目にして、悪いイメージを世間の人たちに投影してしまうのはよくわかる。しかし安心してください。私にはそんな悪事を働くような才覚はありません。日々を無難に過ごそうと思っているだけの小市民です。それに、あの古新聞は、たまたまうちの倉庫から引っ張り出してきただけです。この町に十年前の新聞なんか持っている人は他にいないだろうし、あんな小さな記事のことは誰も知りもしないでしょう」

「私はこの町のことを何も知らない。物件の良さと、何よりも過去の私と縁もゆかりもないという点だけでたまたまこの町へ引っ越してきました。もしこの町の人たちが私の過去を知ったら、どんな扱いをされるかわからない。新聞記事を目にして、突然そんなことも不安になってしまいました」

 私は笑って見せた。

「例えこの町の人たちがあの記事を読んだとしても、きっとそんなことを気にしたりしませんよ。私はあなたの事故を宣伝するような真似は決してしませんが、仮にそれを知ったところで、みんな昔のことだと言って笑い飛ばしてくれます。いい町ですよ。私も新参者ですが、つくづくそう思います。中途半端な私や、問題ばかり起こしているメイド達を受け入れてくれている。冗談かもしれませんがこの町に必要だとまで言ってくれる。本当のお金持ち、旧家、資産家も多い地域ですが、そういった人たちさえも我が家のことを町の一員として扱ってくれる。そういう町なので、まったく心配はいりません」

「実感がこもっていますね」

 そう呟いた彼の手は既に震えていなかった。

「それに、私に言わせればあなたもこの町に必要です」

「……昨日今日会っただけなのに、なぜそこまで言えるのです?」

「コーヒーがおいしかったからです。すぐいなくなってしまうには惜しい」

 私がもう一度笑って見せると、H岡氏も笑った。その笑顔は息子さんとそっくりだった。

「本当にありがとう」

 彼は一度窓の外を見た。夜の街を見つめているようだった。そして続けた。

「一つ質問があります。私は昨日、あの新聞を持って帰ったんですよ。そして、それを家で処分した。だから、例え私が奪ったものが芋でなく新聞だということに気づいたとしても、それがいつのものだったかなんてわからないはずだ。あなたは一体どうやって、私が持って行った新聞が何月何日のどのページかを知ったのです」

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