メイドがベビーシッターをする面倒な事件 4
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ひとしきりクレヨンでお絵描きをしたところで、既に三時に近いことに気づいた。T橋夫人からが書き残していったメモに、三時からはお昼寝だと書かれていた。
立派なベッドはがあるが、カーペットの上にゴロ寝でよいとのことである。いつも添い寝をしてやらないと寝付けないとのことなので、必然的にそうなったのだろう。
カズキ君は床にタオルケットを引いて、嬉しそうに転がる。ぷよぷよした四肢をマットに気持ちよさそうに投げ出す。寝転がると、幼児体型が強調されるようだ。珍しい来客に気分が高揚しているようだが、眠れるのだろうか。
I海さんが隣に寝転がる。メイド服で床に横たわった彼女は普段目にすることができない姿だ。私は座って二人をぼんやり見ていたが、I海さんが「落ち着かない」とのことで、私も横になる。二人でカズキ君を挟む格好だ。I海さんはカズキ君に向かっている。私も腕を枕にしてカズキ君を眺める。ふと、I海さんの顔が近いことに気づくが、そこで慌てたりしたらどんな風にからかわれるかわからないので、何でもない風を装う。
「不思議ね。旦那様とこんなことするなんて」
I海さんが感慨深げに言う。
「成り行き上ですね」
「いろんなことが起こるわね」
じっと彼女の顔を見る。
ふっと、彼女の微笑みの質が変わったように思ったが、それが何を意味するかはわかららなかった。
「それにしても付き合ってくれてよかったわ。カズキ君、思ったより元気で、私一人じゃ大変だったかも」
「全く、うちのメイドたちはすぐ面倒ごとを持ってくるんだから」
なるべく軽い口調で言って見せると、I海さんはふふ、と笑う。
「旦那様も損な役周りね」
「本当ですよ」
私が何の気なくいつもの軽口で応じると、I海さんは一瞬目を伏せ、その後じっと私の目を見る。
「ね、辞めようと思ったりしないの? 旦那様を」
「は?」
突然の言葉に私は返事ができずまじまじと彼女を見返してしまう。
「辞めようと思えば辞めちゃえるでしょ。旦那様、手に職はあるし。お屋敷はおばさまに返すなり公的な機関かどこかに丸ごと寄付するなり、何とでもなるじゃない」
「それはまあ……」
「ある日突然、無理矢理旦那様にさせられたんだから、お屋敷がどうなったって、旦那様の責任じゃないし、逆にこんなにいいように使われることに旦那様には何のいいこともないじゃない。ね、何か思うところがあって、こんな損な役を続けているの?」
「……別に、何も考えてませんよ」
「ほんと? わた……何かに気を遣ってたりしてない?」
徐々にI海さんの顔が近づく
「してませんよ。考えすぎです」
「ねー、おはなししてるとねむれないよ」
半ば存在を忘れていたカズキ君が不満の声を上げ、私は我に返る。
「ごめんごめん」二人の声が揃う。
カズキ君は、お昼寝の時間にお話しするなんて、という顔をしていたが、我々が話をやめ、二人で見守っていると、そのうちに瞼が落ちてゆく。
「もうちょっとかしらね」
声に出さずに唇の動きだけでI海さんがそうつぶやく。
実際の年齢よりも利発そうに見えるカズキ君だが、瞼が完全に下りたその顔は突然幼いものになり、まるでもっと小さい赤ん坊のような印象になる。
「可愛いわよね、子供って。やっぱり旦那様とは似てないかな」
「そうですよ。僕がこんな子どもに似てるわけないでしょ」何の気なく答えたつもりだったが、我ながら否定的な響きを伴っているようにも聞こえる。
「……旦那様、ひょっとして、妬いてる?」
カズキ君に気を使って小声ながら、なぜかI海さんの声がぱっと明るくなる。
「や、妬い……なっ――」我ながら変な声が漏れる。
「遊んでいるときに、カズキ君が私に抱きついたときも、変な顔してたでしょ」I海さんは目を輝かせる。「旦那様、妬いてるのね」
「だっ――」
私が抗議しようとすると、それを制して
「しーーっ」
I海さんの掌が私の口を塞ぐ。
うーん、とカズキ君が寝返りを打つ。ほとんど寝入る直前のようだ。
カズキ君の頭越しに、I海さんの顔に近づいて最小音量で囁く。「こんな小さい子に妬く訳ないでしょ」
「あら」I海さんがますます嬉しそうにくすくす笑う。「小さい子相手じゃなかったら妬いてくれるの?」
「もう、知りません」私は、I海さんとカズキ君に背を向ける。
くすくすとI海さんの声が聞こえていたが、背中を向けたままでいると、そのうちI海さんの声は子守唄に変わる。
I海さんの歌を聴いたのは久しぶりで、私は聞き入ってしまう。
はっと気づいて目を開ける。
唇が触れそうなほど近くにI海さんの寝顔がある。驚いて飛び起きる。腕時計を見ると、四時十五分。眠ってしまったようだ。それも一時間以上も。
ふと気づくと、二人の間で寝ているはずのカズキ君の姿が見えない。
嫌な予感がする。
廊下をそろりと辿ってキッチンに行くと、カズキ君がタオルケットを抱いて床で寝ていた。すやすやと寝息を立てている。一旦は眠りに落ちたが、我々が寝てしまった後で目が覚め、這いだしてキッチンに来たらしい。何か危ないことでもしていなくてまずは胸をなでおろす。
よく見ると、その手には赤いクレヨンが握られている。力尽きて寝てしまったらしい彼の前の壁に視線を移す。数字が目一杯書かれた画用紙がキャビネットの上に乗っていた。




