メイドがベビーシッターをする面倒な事件 3
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「数字の練習……ですか?」
「そうみたいなの。カズキ君が、数字を書く練習をしたんですって」
三人分の弁当箱を洗いながら、I海さんが私に小声で教えてくれた。
「はぁ……。なかなか賢そうですし、数字の練習くらいはするかもしれませんね」
T橋夫人がカズキ君の弁当を作っておいてくれたので、昼にはそれを少し温めて出すだけでよかった。午前中元気に遊んだカズキ君は、行儀よくそれを平らげた。我々二人の昼食はI海さん特製おにぎりとピンチョスの弁当で、カズキ君が弁当を食べた後で順番に腹に収めた。
食後、カズキ君にリビングで子供番組のビデオを見ていてもらい、その間に二人で洗い物をしながら、彼に聞こえないようにI海さんが囁いたのだった。
他人のマンションでメイドと弁当を食べるという状況も不思議だったが、更にそのあと二人並んで弁当箱を洗う姿は、客観的に見ればきっと不思議な光景だっただろう。しかしI海さんは気にならないようで、説明を続けた。
「先日、カズキ君がママのところに画用紙を見せに来たというのよ、突然ね。その画用紙には1から30までクレヨンで数字が書かれていて、もちろんすごくたどたどしいけど、きちんと並べて書いてあるんですって。カズキ君、それを『かべにはってー』ってねだるんですって」
「まだ三歳で、30まで数字が書けるなんてなかなかすごいじゃないですか」
「でもね、奥さんが『数字の練習ね? 上手に書けたわね』って褒めると、よくわからなかったのか、戸惑ったような顔をしたんですって」
「『練習』が何のことかわからなかったんですかね。子供らしいじゃないですか」
「でしょう? かわいいわよね」
「でも、そんなことがどう気になるっていうんですか?」
「それがね、その紙を片づけようとすると、泣くらしいの」
「片づけると泣く?」
私はI海さんの顔を見る。I海さんは、そうなの、と頷く。
「最初、壁に貼ってくれって言うんで、キャビネットの上の壁に貼っておいたんですって」
「ふんふん」
「で、帰宅したパパにも報告して、良く書けたな、なんて褒めてもらって、二、三日貼っておいた後、奥さんがきちんと取っておくよう、保管箱に入れようとしたらしいのよ。そういう、いろいろ記念のものをしまっておく箱があるんですって」
「ああ、思い出になるようなものとか、よくできたお絵描きとかをしまっておくんですね、きっと」
「ええ、そうみたい。それにしまおうとしたら、『しまわないで、はっておいて』って、真剣な顔でせがんで、奥さんが『大丈夫よ、ちゃんと取っておくからね』って説明しても、どうしても嫌がって、涙までこぼしたんですって」
「へえ」
ちらっとカズキ君の方を見る。こちらの声は聞こえていないらしく、テレビの子供番組にご執心だ。
「立ち話で奥さんからその話を伺ったんだけど、なんだかとても気になっちゃって……。奥さんは全然気にしてなくて、良く書けたから飾って欲しいだけで、それ以上の深い意味はないだろうって言うんだけど。旦那様はどう思う? おかしいと思わない?」
「うーん」私は腕を組むがたいした考えは浮かばなかった。「なんとも言えませんね。そんな気もするし、そもそも子供のやることなんで、いちいち本気でとらえない方がいいかもしれませんよ」
「一緒に聞いていたご近所の奥さんもメイドさんたちも、みんなそうおっしゃるんだけど……」
「そうでしょう」
「でね、どうしてそんなに貼っておいて欲しいのか尋ねても、カズキ君は、理由を答えないっていう話なの」
「答えない……理由がないという訳ではなくて、答えないんですね」
「ええ、とにかくその件についてはだんまりなんですって」
リビングでカズキ君は幼児向け番組の漫画チックな列車の動きに合わせて踊っている。三歳にしては動きも俊敏で、テレビの中のキャラクターの問いかけにも、「はーい、ちゃんとのりましたー」「とんねるだー! きをつけてー」などと的確に答えている。
昼食前に遊んだ時の印象では、話ぶりは達者だし、考え方もしっかりしている。訳もわからず、わがままを言って泣くような子には見えない。しかし、所詮は三歳の子どもだ。
「保管箱というものをよく分かってなかったとか?」
「それが、カズキ君自身もたまにその保管箱を開けて、入っている物を確認したり、眺めたりして楽しむことがあるんですって。だから、そこに入れておけば保管してもらえる、というのはわかっているはずなのよね」
なるほど、それなら保管箱を理解していないということはないだろう。
「それと、気になるのはね、その後は全然『数字の練習』をしないらしいのよ」
「そうなんですか」その意味を考えてみる。子供のことだ。確かに、何かをして誉められたら何度もそれを繰り返ししそうなものである。一回で辞めてしまうというのは不自然と言えば不自然だ。「確かにおかしい感じもしますね。でもやっぱり子供のやることですからね」
「そうやって何でも子供だからって言うけど、あまり馬鹿にしたものじゃないと思うのよね。何かしら意味があったりするものよ。些細なことのように思えて、子供にとっては大事なことだったってこと、あるでしょう?」
なぜかI海さんは頬を膨らませて反論する。理由はよくわからないが、彼女を怒らせるのは得策ではないので、私は話題を変えてみる。
「ところで父親はどんな人なんですか。○○飲料で働いているというのは聞きましたが」
I海さんは一旦膨らませた頬をもとに戻す。
「えっとね、若いのに結構えらい立場で、なんとかマネージャーとか言う肩書らしいわ。とっても忙しいらしいわよ。平日は朝早くから出勤して、遅くまで残業なんですって」
私の生活とは真逆の世界だ。会社員というものはもしかしてそれくらの方が一般的なのかもしれないが、話に聞くだけでも大変そうだ。
「で、その代わり日曜日はめいっぱいカズキ君と遊んでくれるんですって」
「忙しいけどいいパパって感じですね。三歳児にとっては、平日にパパと遊べないのは寂しいでしょうけどね」
「でも、さっきもカズキ君、恨み言を言わなかったじゃない。いつもあんな感じで、パパのことに文句を言わないらしいわ。T橋さん曰く、もっとわがまま言っていいのにって思うこともあるくらいだって」
「まあ、彼にとってはパパってのはいつも家にいないのが当たり前なんでしょう。ママにベッタリで寂しくもないし、案外男親に対してはそんなもんかもしれませんね」
私はまたカズキ君の方を見ようとして視線を動かした時、ふとあることに気づく。
「『数字の練習』を貼ったキャビネットの上って、このあたりですよね。」私はダイニングの壁の一角を指差した。立派なキャビネットの上におしゃれな電話機や趣味の良い小物入れが置いてあり、高そうな絵画や上品なカレンダーの合間のスペースだ。この家は置いてある全てのものが品が良い。「今は貼ってないようですね」
「ああ、結局奥さんが片づけたみたいよ」
「なんだ、そうなんですか。……あれ? 片づけると泣くんじゃなかったですか?」
「そうなの。そのことも妙なのよ。最初に片づけようとした時は、泣いてまで嫌がったっていったでしょ。それなのに、何日か経って片づけたら、何も言わなかったらしいの」
「うーん」確かに不思議といえば不思議だが、やはり子どものやることなのだ。飽きたとか、気まぐれとか考えるのが普通だろう。「そうですかね」
I海さんと二人で腕を組んでいると、「てれびおわったー」とカズキ君が声を上げたので話は中断になった。




