メイドがベビーシッターをする面倒な事件 2
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「おねーさーん」屈託のない笑顔のカズキ君がI海さんに飛びつく。三歳の背丈に合わせてかがんだI海さんも笑顔で腕を広げ、迎え入れる。メイド服のブラウスの胸に小さな顔が埋もれる。近所で顔を合わせることがよくあるというだけあり、I海さんとはすでに打ち解けている様子だ。
「きょう、いっしょにでくれるんでしょ?」
「うん、よろしくね、カズキ君」
カズキ君はベビーと呼ぶほど赤ん坊ではないが、幼稚園入園前とのことで、まだまだ小さい幼児といったところだ。発育がよく、I海さんを見つめる目は大きなキラキラしている。
「それでね、私だけじゃなくて、今日は私の雇い主……えーっと、『おともだち』でいっか。おともだちも一緒に遊んでくれるから」
カズキ君は、I海さんが来ることだけを母親から聞いていたらしい。怪訝な顔をして私を見るカズキ君が何か言う前に、母親が「忙しいところ、ママの代わりに相手をしてくれるのよ、仲良くしてね」と優しく釘を刺す。
おねえさんだけでいいのに、という表情になりかけた彼であったが、すぐににこっと笑う。
「じゃあ、おじさんともなかよくしてあげる」
「お、おじさん……」突然の容赦ないカテゴライズに、私は絶句する。
「あらー、優しいわねー、カズキくん。じゃ、今日はよろしくね」I海さんが間髪入れず腰をかがめて両手を差し出すと、部屋の小さな主も両手で応じ、二人は握手を交わす。
「うん! おねーさん、いっしょにあそぼう!」
「おねーさん……」二人の握手を傍らで眺め、つい呟気が漏れる。
カズキ君の部屋は我が館の裏手にある低層マンションの3LDKの一部屋で、見たところ八畳ほどある。家具は上質そうなものばかりだ。小ぶりだががっしりしたベッド、洒落た洋服ダンス、背の低い木製の本棚には色とりどりの絵本が並ぶ。
壁紙は趣味の良いオフホワイトのクロスで、床にはクッション性の高い子供部屋用のマットが敷き詰められている。玩具やハンガーなどが僅かに床に起きっぱなしになってはいるものの、掃除は行き届いている。カズキ君、ひいては両親の生活態度がうかがえる。
比較してもしかたないが、私の私室は屋敷の管理棟の二階にある一番狭い部屋で、この部屋の半分の広さしかない。T橋家のような余裕のあるご家庭に接すると、普段メイド達にご主人様だの旦那様だの呼ばれていても、実態としては私がろくな身分ではないことを改めて突きつけられてしまう。
この部屋の主である三歳児のカズキくんは、マットにぺたっと座ったメイド服姿のI海さんと視線を合わせ、にこやかに話している。
『おねーさん』と呼ばれたからかどうかはわからないが、I海さんはいつも以上に上機嫌だ。
「今日一日、ママの代わりに私たちと遊びましょうね」
「うん!」カズキ君の元気な返事が返る。
T橋夫人が外出の支度をしつつI海さんに話しかける。
「本当に助かったわ。でも本当にいいんですか? お屋敷のお仕事、お忙しいんでしょう?」
上品なワンピースに上品なハンドバッグ、ネックレスや腕時計も上品で、こちらの本意を伺う視線も上品だ。
「あらー、いいのよ。今ちょうど忙しくないし、それに困った時はお互い様ですもの」
今ちょうども何もずっと暇なのだが、無難な謙遜に何か言うのは無粋だろう。
「そう? ほんとはお忙しいんでしょう? それに」T橋夫人は私の方を伺いながら遠慮がちに言う「お屋敷の旦那様にまでいらしていただけるなんて」
「うちの旦那様、子供が好きだから。ご自分から名乗り出てくださったのよ。ね、旦那様?」
「はい……」
まさか依頼主に対し、嫌々来ましたとはいえず、I海さんの思惑通りの返事を返す。
I海さんがT橋夫人に手招きして、二人は廊下に出ると、顔を寄せて声をひそめる。
「その後、カズキ君はどう?」
「どうって、本当に何もないのよ。ほんと、ただの気まぐれだと思うわ。」
「そう……。でも、私からカズキ君に尋ねてみてもいいでしょ?」
「それは別に構わないけど、何も得る物は無いと思うわ」
「わかったわ。でも気にしないでね、私が勝手に気になっただけだから。とにかく今日はゆっくりしてきて」
「どうもありがとう」
T橋夫人はI海さんに手を振って、私にはおじぎをして、束の間の息抜きに出かけて行った。
広告代理店勤務だったT橋夫人は、結婚後も仕事を続けていたが、しばらくして妊娠すると退職し、専業主婦となった。やがて産まれたカズキ君は保育園に入れず、母親がつきっきりで育ててきた。来年から私立の幼稚園に入学させるべく、この秋には受験を控えている。
夫は、日本で水分を摂取する人間なら誰でも知っているであろう大手飲料メーカーに勤務していて、平日は毎日遅くまで働いている。つまり奥さんとカズキ君は、少なくとも平日の間、ずっと二人で生活しているようなものだ。
「今ね、ちょうど昔のご友人が田舎から出てきているんですって。夜はその方の予定が決まっているし、週末には帰っちゃうから、今日のランチしかお会いするチャンスがないらしいのよ。」I海さんは井戸端会議でT橋夫人から聞いた話をそう説明した。「お子さんのことは、私たちで面倒見ますから行ってらっしゃいなって言ったの」
「それは聞きましたけど、さっき言っていたのは何ですか? カズキ君のことで何かあるんですか?」
「ええ、子供らしいと言えば子供らしいんだけど……」
「おねーさん、あそぼう!」
当の本人が割り込んできて、話は中断された。
「あら、早速ね。何をするの?」
「かいじゅうごっこ!」
「あら、楽しそうね。でもそれならわたしより……」
I海さんは、私の方を見た。
「子供に好かれない、なーんて言ってたけど」I海さんは『サメとワニがうじゃうじゃいるかわ』の向こうから、あっけらかんとした声を出す。「好かれちゃったわね、旦那様」
「これは好かれてるんですかね?」
『すごいわるいかいじゅう』である私は『ちょうスーパーうちゅうマン』のカズキ君の猛攻を受けている。相撲の張り手の要領で腹を押され、サメとワニだらけの川べりに追い詰められている。子どもは遠慮と言うことを知らないので、その力は思ったより強い。
「わるものめー! これでいっけんらくちゃくだー!」とちょうスーパーうちゅうマンがさらに力を振り絞り、寄り切られた私は川に転落する。
「ぎゃー、やられたー」私が適当な声を上げると、
「すごいすごいカズキくん、とっても力持ちなのね」とI海さんが賛辞を贈る。
「おじさん、つぎはうちゅうかいじゅうやって!」カズキが小躍りしながら要求する。
「ちょ、ちょっと一回休憩挟んでくれるかい?」
私の悲鳴にカズキ君の顔が曇らないうちに、I海さんが
「じゃ、次はおねえさんが絵本を読んであげる。どれを読んで欲しいか選んでみてね」
と救いの手を差し伸べる。
夢中で絵本を選ぶカズキ君の視界から外れ、先ほどまで大河だったブロックを片づけるI海さんに、顔を寄せて囁く。
「よかったわね、仲良くしてもらって」
「こうなるから子供は嫌だったんですよ」
「そう言わないで。子供のお世話をしている旦那様、なかなか似合ってるわよ。それにね、私思ったんだけど」I海さんは少し間をあけてから「似てるわよ、二人」と笑う。
「ええ?」私はつい本気の声をあげてしまう。「相手は三歳ですよ? どこがどう似てるんですか?」
I海さんは意地悪そうに「可愛いところ」と声を弾ませる。
「からかわないでください」私はどう答えていいかわからず、誤魔化す。「それよりなぜ僕がおじさんでI海さんがおねえさんなんですか?」
「あらー、旦那様、おじさんって呼ばれたの、よほどショックなのね」
「……そんなこともないですけど、だいたいI海さんのほうがと……」と言い終わらないうちにI海さんの目が深刻に冷え込んでいくのを感じた私は言葉を飲み込む。
「おねーさん、これ読んで!」カズキ君が絵本を持って来てくれたのでうやむやになる。
「カズキ君」差し出された絵本を受け取りながら、I海さんが尋ねた。「ママがいなくっても寂しくない?」
「うん、きょうはママ、おともだちとあそぶひだって。だからいっぱいあそんできてねっていったんだ」
「そう、とってもいい子ね。パパはいつもお仕事で遅いけど、やっぱり寂しくない?」
「うん、パパはぼくとママのためにおしごとがんばってくれてるから」
なるほど、年の割にはずいぶん聞き分けがいいようである。
「ごほんよんで! それで、それおわったらまたかいじゅうごっこ!」
聞き分けはいいが遠慮はないようだ。




