メイドが映画のメイドに憧れる面倒な事件 1
紅茶好きの人間が突然コーヒー党に鞍替えするということがあるとしたら、理由はいろいろ考えられるかもしれない。実際我が家でも、あるメイドが突然コーヒー好きになったことがあった。その理由は実に奇妙で馬鹿馬鹿しく、呆れるようなもので、つまりこの回顧録に加えるのにちょうど良いものだった。そういう訳で、今回は皆さんにその事件のことを紹介しようと思う。
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当時私が五人のメイド達と暮らしていたあの館は、駅前商店街を抜けて閑静な住宅街に入ったあたりに位置していた。近所には、自然を愛で、季節の行事を大切にする人たちが多く、地域は四季折々の風物詩にあふれていたように思う。
例えば春を感じさせるものはたくさんあった。メイド達に『梅のおじさま』と呼ばれるほど立派な梅の木を擁しているお宅があるのだが、季節になると流麗な細身の枝に花弁が散りばめられ、通行人に豊かな香りを振舞った。駅向こうの稲荷神社に初午ののぼりが立ち、寿司屋のおすすめにヒラメやサヨリの文字が載り、バレンタインデーには毎年何かしら騒ぎが起こった。
I海さんというメイドのこだわりで、我が家の朝食は必ず和食だった。焼き鮭かアジの開きかめざしに納豆や豆腐などが定番だったが、旬を感じさせるようなものを出してくれることも多く、セリやフキノトウ、からし菜のお浸しなどが出ると季節の話が盛り上がった。パン派のメイドもいたが、毎日早起きしてキッチンに立ってくれるI海さんの好みに合わせるのは当然だったし、私は和食の朝食がとても気に入っていた。
駅前の和菓子屋に蓬餅が並び、桃の節句が終われば、多少は寒さも和らぎ、気の早い誰かから花見の話が出始めるだろう。季節の移ろいをのんびり楽しむには良い季節ともいえた。
「ご主人様、そんな悠長なこと言ってる場合じゃなんですよ」
K条というメイドは五人の中で一番、というか唯一仕事熱心で、労務と経理をほとんど全部任せていたため、時期によってはとても忙しくなるのだった。
「年度末を越せるかどうかなんですよ。決算に来年度予算、備品の棚卸、みんなの契約更新、業者さんの契約更新、役所への各種届け出、やることはいくらでもあるんですよ」
彼女と私の机の上にそれぞれ置かれた「未」のラベルの箱は書類や書類ファイルが山積みだった。言うまでもないが「済」のラベルの箱は空に近かった。
「まあまあ、僕にできることは協力するから」
私は彼女を宥めつつ、あらためて一番上の書類をしげしげと眺めた。備品管理表だ。これくらいなら私にも手伝えるだろう。
「Kちゃんならだいじょーぶだよー」Fヶ崎というメイドが、こちらの気も抜けるような声を出す。「だって年末もそんなこと言って、結局年は越せたじゃーん」
「薄氷を踏む思いだったのよ」K条が頭を抱える。何を思い出しているのかは聞かないことにしよう。
「あっ、あの、何か手伝えることありますか?」A田というメイドが、うろたえながら手を挙げ、「何もできないですけど……」と付け加える。
「ありがとう。書類整理とか、そういうのお願いすると思う」
「わたしも何もできないけど」U月というメイドがなぜか胸を張る。「大伯母様に謝ることがあったらその時は一緒に謝ります」
「あ、あの、ありがとう」K条がその申し出を持て余しているのは、冗談か本気かわからないからだろう。「そういうことにならないように頑張りたいけど」
この回顧録には何度も書いていると思うが、この話を最初に読む読者の方のために再度書いておく。我が家は、明治期に建てられた洋館である『本館』を擁する屋敷で、その本館や庭を広く一般に無料開放することが生業だ。五人のメイド達は屋敷の維持と見学者の受付や案内が仕事で、私も彼女たちも他に仕事はしていない。私は先代の当主である大伯母に半ば騙されるようにして当主にさせられてしまい、メイド達の面倒を見る日々だ。
館の見学は無料なのだが、では私たちはどうやって暮らしているかと言うと、財産を一切合切自分の名義にして高跳びした大伯母から、寄附という形で毎月わずかばかりの振り込みがあり、それだけを頼りに日々つつましく暮らしているのだ。だから私は、ご主人様だの旦那さまだのご当主様だのもてはやされても、大伯母には頭が上がらない。ただの『雇われご主人様』に過ぎない。
決算も予算も、私や役所が許しても、もし大伯母が許さなかったら全てご破算だ。
「あまり根を詰めないでね」I海さんというメイドがK条の前に紅茶のカップを置く。「何事もリラックスが大事よ」
「ありがとうございます」甘く芳醇な香りに、ふとK条の張りつめた眉から力が抜ける。
I海さんは料理の腕も確かだが、紅茶を淹れることにかけてはかなりの腕前だった。こうして時折淹れてくれる紅茶は、産地も風味も実に様々な茶葉の中から、その時々に合わせて彼女が選んでくれるものだ。鮮烈な茶葉の香りの場合もあれば、とろけるようなミルクティーや華やかなハーブティーなど、種類は豊富で、いずれにしてもたった一杯のお茶が気持ちを優しく豊かにしてくれるのが不思議だった。そして我々が紅茶を褒めると、にっこりと笑ってありがとうと言う彼女自身も、そんな紅茶の効果を更に高めるのだった。
「まー、確かにKちゃんに仕事してもらってばっかりだからね」Fヶ崎が神妙そうに言った。「うちらもできることはしないと」
「そう言ってもらえると助かる」K条が応じる「勤怠表でしょ、日誌のチェック、領収書出してない人もいるでしょ、金庫のお金が全然あってないから立替金も各自チェック、もらっていない見積もりもあるし」
「ちょっ、ちょっと」Fヶ崎が慌てる「結構多いなー」
「言っときますけどこれ全部、本来毎月のことなのよね。それと、壊した備品は全部リストにしてもらって、文房具で足りないものがあったら請求してもらって……そうそう今年は制服の予算も立ててあったから買い替えるけど、各自必要な着数を確認してください」
「制服買い替えるの?」気になって尋ねる。
「はい、そろそろくたびれてきたので、綺麗な物以外は。……あ、でもメイド服だけですよ。ご主人様のは制服じゃありませんから」
私は吊るしのスーツを一張羅にしていた。
「前から不思議だったんだけど、僕だけ自費なんだよね。みんなだけずるくない?」
「そういう予算が立ってないとしか……」
確かに、手元の備品管理表の一覧にはメイド服が欄だけがあり、私のスーツは無い。戸惑うK条に反論しようとすると、U月が私の肩に手を置いて首を振る。慰められているのか諫められているのかよくわからない。
「じゃあ、来年度予算に入れますか?」K条が尋ねる。
「できれば、そうしてもらえる?」
「じゃあ、ご主人様のスーツも予算で買うことに賛成の人」
K条が顔を上げて皆に呼びかける。A田だけが遠慮がちに手を挙げる。
「満場一致じゃないですね。却下です」
K条の冷たい言葉が虚しく事務室に漂う。
我が家では、大きな変更があるときは、私とメイド五人の全員が賛成すること、と決めてあった。一応誰かの暴走を止めるためのアイデアだったが、一人でも反対者がいると決定できないと言うのは思ったより厄介だった。特に私にとっては。
「……だろうと思ったよ」私は肩をすくめる。「いいよ。諦める」
「皆さんも新たな予算は項目別にまとめてください。それから予算と対応した計画書類、管理部門の方も」K条が再び指を折り始めるが、既にFヶ崎の姿はなく、どこかに逃げて行ったと思われた。




