メイドが見学される面倒な事件 2
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ご令嬢が突然我が館の事務室に現れたのは、その月、つまり八月の初めだった。
「ちょっとどいてどいて、ご主人さま!」
事務室の扉を開けるとFヶ崎が猛然と飛び出してきて、私はぶつかる直前に身を翻した。雇用主である私を押しのけたFヶ崎は振り返りもせずに、メイド服のスカートをはためかせて階段を駆け上がり我々の生活エリアである二階へ消えていった。
私は倉庫の整理をしていて汗が止まらなくなったので、一度エアコンのある部屋で涼もうと、管理棟の事務室に戻ってきたところだった。暑さにあえぎながら安物のネクタイを緩めて、扉を開けた途端にこの仕打ちで、自分の威厳の無さを改めて実感しながら事務室へ足を踏み入れた。
「Fヶ崎は何をあんなに……」慌てているの? と最後まで言い終わる前に、残りの四人のメイド達に囲まれている一人の客の存在に気づき、その顔を見て驚く。
事務室に似つかわしくない来客のためかそわそわと浮足立った様子のメイド達に囲まれて、応接セットの真ん中にすまし顔で座っていたのは、J泉寺家のご令嬢だった。
「あ……あれ? たしかJ泉寺さんのところの……」
状況を理解できていない私に、小さな瞳が薄く微笑みかける。
J泉寺家は地域に住む者なら誰でも知っている名家の一つだ。住宅街の奥まったところにある邸宅は、瓦塀に囲まれた格式の高い日本家屋で、もともと立派な家の多いこの地域の景観を一段と引き上げている。
私は以前ちょっとした事件をきっかけに一家の方々と知り合いになっていた。だが、法曹界だの教育界だのに名を連ねるJ泉家と、数代前に没落し更に先代の大伯母が放り出したその残り滓のような家名を守っているような私とでは、家は近所だとしても住む世界は違っており、予告もなくご令嬢が遊びに来るような間柄では全くないのだった。ましてその日は、ご令嬢には両親はおろかメイドや執事もついておらず、幼いご令嬢本人が我が清貧な事務室に一人で座っていた。
ご令嬢はその年齢にしては小柄な部類だろう。事務室の簡易的な応接セットのソファは大きいものではないが、それでも黒いレザーの上にちょこんと座っていると華奢な印象が強調される。彼女は藍色のワンピースのボタンを一番上まできちんと留め、その上に白い長袖のカーディガンを重ねている。ワンピースの裾からは白いソックスが覗いていて、ぶかぶかの来客用スリッパに入れた足はきちんと並べている。手入れの行き届いた黒髪が頬の輪郭をつたってまっすぐ下に降り、胸の辺りで先端が内側に少しカールしている。よく見ると肌が露出している部分は顔と手だけだ。盛夏だというのに、その恰好で汗一つかいていない。
「御当主様、ご無沙汰しております。J泉寺の娘でございます」
幼いご令嬢はすっと立ち上がり、深々と頭をさげた。
「あ、どうも。こちらこそご無沙汰してます」
慌てて私も腰を折り挨拶に応じると、彼女は満足げに腰を下ろした。ワンピースの裾が翻らないように手を当てる所作がさりげない。
「あったあった! これでしょ?」
突然の大きな声は、振り返るまでもなく2階から戻ってきたFヶ崎で、手に持っていたのは来客用のソーサー付ティーカップだった。来客用と言っても、事務室の奥の給湯室に用意してある来客用よりも更に高価な物で、二階のキッチンの奥にしまわれていたものをわざわざ持って来たのだった。
I海さんが礼を言って受け取り、「ただいま、紅茶をお入れしますね」と給湯室に向かった。
ご令嬢は「ありがとうございます。どうぞお構いなく」とゆっくり頭を下げた。
彼女の動作は一般的な同年代の子供には考えられない程淑やかで、しかも堂々たるものだった。この年にして、どこに出しても恥ずかしくないお嬢さまであると言えるだろう。I海さんによってお茶が運ばれ、私はそれを口にするご令嬢を観察する。ティーカップを持ち上げて口に運ぶ仕草、香りだけで茶葉の産地や収穫時期を当てる感性と知識、お茶を淹れたI海さんへの感謝と感想の言葉、その全てが大人でもそこまでできないような完璧なものだった。
一方で、出会った時から私は、彼女のこうした優雅さが、板についてはいるがどこか人工的であるという、漠然とした印象を持っていた。彼女の実年齢と立ち居振る舞いが、あまりにも乖離しているからそう見えるのかもしれない、と思っていた。
「で」私は切り出した「なぜご令嬢がここに?」
私は説明を求めて、ソファに座る五人のメイドと、彼女らに囲まれて澄ましているご令嬢を見渡した。
「見学したいんですって」
答えたのは本人ではなくI海さんだった。本人は彼女の声にゆっくりと頷いた。
「見学? 彼女がうちの建物を見学したいというんですか?」
我が家の本館は古いことだけが自慢で、誰でも自由に無料で見学できる施設として開放している。J泉寺家のご令嬢だろうと庶民だろうと見学は拒むところではない。
「いえ、建物じゃなくて、私たちメイドの仕事を見学したいんだそうよ。『町の働く人たちを見学して、どんな仕事かを調べ、思ったこと感じたことを文章にまとめて提出しなさい』という、小学校の宿題なんですって。八月の残り三週間、平日の午後に三、四十分くらい見学されたいそうよ」
I海さんの説明を聞いて、令嬢は再び頷く。彼女の風格と『学校の宿題』と言う単語とが不釣り合いにも思える。
町の働く人たちについて調べるというのはなかなか微笑ましい、小学生らしい宿題だ。だが、今月の残り三週間、丸々見学したいというのは驚きだ。彼女が通っている小学校はきっと、登下校時間に門の周りを黒塗りの高級車が埋め尽くすようなところなのだろうが、その小学校が厳しいのか、それとも最近の小学校の宿題というのはどこでもそんなにハードなのだろうか。
「……ずいぶん長いんですね」
「ええ。どんな宿題でもおろそかにできませんもの。納得いくまで見学させていただこうと思いまして」
今度はご令嬢自身が答える。
私は事務室を半周して、一番奥に置いてあった折りたたみ椅子を広げ、それに腰かける。その間に彼女が我が家を見学したいということの意味を考えた。確かに我が家のメイド達も、町の働く人たちに違いない。だが、いろいろな働く人たちがいるなかで、なぜこんな風采の上がらない屋敷のメイド達に着目したのか。
私は、真意のわからない話には乗らないことにしていた。私には、平穏無事に日々を過ごし我が家を平和に保つという使命があるからだ。万が一にも何か面倒ごとが起きたら、そしてそれが遠く大伯母の耳に入り彼女の機嫌を損ねたら、一大事だ。
「そんなの別にうちじゃなくても……パン屋さんにでもお花屋さんにでも頼んだらいいんじゃないですか?」
「あら、そんな凡庸なことでは、高い評価が得られません」
言い方は慇懃だが、私に対する口調にはどこか硬い物を感じる。実は私は出会った時からずっと、この少女によく思われていないという気がしていた。
「……お宅にもメイドさんや執事さんはいらっしゃるでしょ? その人たちを見学しては?」
今度は頭を左右に振って応じた。
「自分の家の人を見学しても、社会の勉強にはなりません。それにお父様の執事も、お母様のメイドも、子供に見学なんてされたら業務の差しさわりになりかねません」
それはそうだが、うちの業務の差しさわりのことはどう考えているのだろうか。
「いーね。うちらのことをしっかり見て、勉強していってよ。それで、学校に『あそこの屋敷のメイドは皆美人で働き者です』って提出してよ」
横からFヶ崎が笑うと、ご令嬢は
「ありがとうございます、お姉さま。勉強させていただきます」
と頭を下げる。
その言葉に、Fヶ崎の口元が密かに反応するのが目に入る。
「事務室に座って見学するだけでいいんですって。邪魔にもならないし、いいですよね?」
I海さんは、口調は控え目だが身を乗り出している。
「でも、うちはそれほど忙しくないし、見学なんてしても面白くありませんよ、きっと」
邪魔にはならないだろうが、彼女が我が家を見学先に選んだ理由がどうしても飲み込めず、私は渋い顔を崩さなかった。『それほど忙しくない』どころか暇なのだが、それを彼女の通う小学校に報告されるのもあまりいい気はしなかった。
メイド達も積極的に引き受ける理由が思いつかないようで、議論は膠着状態に陥った。するとご令嬢が「御当主様、ちょっとお耳に入れたいことが」とゆっくりと立ち上がり、事務室の扉から廊下へ出ていった。私は訝しく思いながらも彼女を追った。
廊下で二人きりになったのを確認すると、さらに用心深く扉に背を向けた彼女は、お耳を、と言って私を屈ませた。彼女の唇が、耳に寄せられると、春の優しい風のような香りがした。彼女は私だけに聞こえるように囁く。その声はトーンが一段低くなり、絡みつくように私の耳を襲う。
「お断りになるようでしたら、お花を用意しなければなりませんね」
彼女の声の変わりように驚き、思わず顔を見る。変貌していたのは声だけではなかった。先ほどの折り目正しい優雅な微笑みは消え、冷酷な視線と意地悪く唇の曲がった含み笑いがそこにあった。面倒事に過敏な私でなくても、嫌な予感を感じさせて余りある表情だ。
「花……何のです?」
息をのんで私は尋ねる。
「御当主様の、退職祝いですわ。私、先代様と懇意にさせていただいていますの」
自分の喉がおかしな音を立てるのが聞こえる。




