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学生

 ◆


 神奈川県茅ヶ崎市で昭和四八年にこの世に産声をあげた中原は至って普通の子供だった。そして父親は東京都内の建設関係の物資を扱う商社に勤めるサラリーマンで、母親は専業主婦、そして家は借家と言う、本当に至って普通の、中流の家庭に産まれた子供だった。

 産まれて六年くらいした後には、新造の市内の鶴が台の団地に引っ越して、そこから学校へ通った。折しも子供のシンナー乱用やら、自動車の事故やらが叫ばれる物騒な時代ではあったが、そんなことには無縁で育っていた上に、父母の教育方針もあり、早い頃から学習塾にも通いそんな俗っぽいこととは無縁の幼年期だった。正直その頃から友人らに「少し変わっているね」とは言われたが。中学にもなれば人並みの恋愛もしてみたし、もちろん人並みのからかいも、失恋も経験した。仲良くなった友達も、ガールフレンドもいたけれど、中学三年のころ、父親が横浜に新しい家を見つけたということで引っ越すことになった。後に聞いたところでは、それなりの進学校に行かせてやりたいという父親の意向だったらしい。

 横浜の瀬谷に引っ越した直後から、高校受験の話は嵐のように押し寄せた。親の意向としては市内の進学校に行ってほしいと言うことだったし、中原自身も真面目に学業に精を出していた甲斐あって、少なくとも横浜翠蘭高校くらいは受かるだろうと言われた。

 昭和六三年二月、親の期待通りか裏切りか、横浜翠蘭高校に入学することが決まった。中原自身は正直、嬉しくも悲しくもなくただ無心だった。

 そんな教育パパママと化した両親の導きで高校に入ったものの、中原自身は何も思うことがなかった。子供の頃から「良い高校入試行って、そこから良い大学に行ったら、良い会社に入る人生が一番幸せよ」と言い聞かされていたし、この高校生活も実際、その人生の課程の一つくらいにしか感じることができなかった。

 小中学のころとは違い、恋愛にくだらないうつつを抜かすこともなく、「何故この学校に入れたのだろう」と思うくらいに程度の低い生徒が消えていく姿を横目にしながら、将来役に立つらしい公式やら古文やらの勉強をして、気がついたら今度は大学入試の話が出る時期になった。

 父親は口を酸っぱく、いや、自分の耳にタコができるくらい、普段からガミガミと抜かしてきていた。「どうせ入るなら必ず国立の大学へ行け、さもなくばお前は俺の息子とは言えない」と。どうせ市内ならと横浜国立大学を受験することを決め、教師にも親にも告げた。

 親は特に反対することも、賛成することもなかった。「もう少し上の大学はどう?」と小言を言ってきたが、親が言うような期待に応えたいと言う意思もあったし、何しろ同じ横浜市内で、翠蘭の生徒が行くにはうってつけだと思いながら、なしくずし的に受けたセンター試験で、親の期待通りに合格。平成三年四月に横浜国立大学の生徒になることが決まった。



 中原の人生において自由が訪れたのは実はこのころだった。小学校も三年生に入るころには親が「お前は学習塾に行って勉強しろ」と言い出したし、外で級友と遊んでいると母親が「帰っていらっしゃい」と連れ戻し、いずれにしろ無理やり学習机に向かわされた。その頃言われたことは今でも頭のなかで再生される。「今勉強しなかったらいつ勉強するの」、「今のうちから学ばなければ、後悔するのはあなた自身なのよ」と、その言葉一つひとつが耳のなかで鮮明に蘇るほどだった。それくらい、日々の生活に自由と言うものはない子供時代を過ごしていた。

 その不自由を終わらせる提案をしてきたのは、意外にも母親だった。「そろそろアンタも、一人で生活してみないかい?」という提案は、人生のほぼ全てを抑圧されてきた中原にとって願ったり叶ったりの提案だった。諸手をあげて提案を飲んだ。

 家は市内、大学から近い場所という制約つきてはあったが、抑圧され続けた中原にとってはそんな条件は気に求める必要がないほど好条件だった。新居はまもなく、羽沢の貨物駅の裏手で、かつ大学に程近いマンションに決まった。

 平成元年に横浜大学経営学部に進学した中原は、それこそ文字言葉通りに粉骨砕身した。もちろんくだらぬ学生の麻雀やらパチンコやらの邪な方ではなく、学生のもっとも重要視すべきもの、即ち学業の方に。同期たちが時代遅れのディスコやら、自動車改造やら、女友達やらにうつつを抜かしていったり、あるいは外道とされるような物事で学識の場から追放されていく姿を横目に「馬鹿馬鹿しい」と嘲笑しながら。彼が進級していくその姿は誰の目からも優等生に見えていただろう。

 ところが時代の波は、そんな彼にも残酷なくらい大きな波となって押し寄せてきた。



 彼が高校に進学する頃世の中は好景気の波に浮かれていた。土地の価格はバカが見ても分かるくらいに値上がりを続け、日本の中心である東京から一○○キロ離れたような僻地の地価でさえ高騰するくらい。

 日本の中核都市が、いや地方の都市までもが好景気の波にのまれ、株価と地価は異常なまでに値上がりを続けていった時期だった。

 零細から大手に至るまでの企業がカネのやり場所に困り、本業以外の地面に金を遣い始めてしまい、業績が濡れ手で粟の如く上がるなか名門と称された企業が高校卒の人材まで雇い出すような有り様で、学歴神話が崩れるくらいに企業が金も人もかき集めるような狂喜の時代だった。その狂気は中原の高校時代から、大学に入る頃まで続き、後に人々や新聞はこの時期を「バブル時代」と呼んだが、こんな狂った時代はそう長いこと続くはずなかった



 中原が大学三年を迎えた頃、耳にしたくない話が嫌でも入ってきた。いわく「去年の卒業生は全然就職できなかった」「好成績の先輩がサラ金に就職した」「最後まで就職が決まらなかった」。翌年の就職活動は大丈夫だろうかと背筋が寒くなる思いをした。自分がこの大学に入った頃、先輩たちは大手の商社やら、金融機関やら、電機メーカーに入っていったと言うらしいのに、去年の卒業生たちときたらロクな仕事にありつけなかったらしいと。もちろん経済を専攻する中原自身、最近の景気がどうも芳しくないことは知っていた。でも正直子供の頃から人一倍真面目に学業に取り組んできた自分の身に降りかかるものとは到底思えなかったし、なにしろそれは彼らが時代の波に左右される景気とやらに翻弄され、頭の中で何も考えなかった自己責任だろうとたかをくくっていた。

 そんな中原にも、就職戦線が訪れようとしていたが。

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