日常
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二○二○年四月、神奈川県横浜市。中国発の新型感染症が国内にも入りこみ、急速に感染拡大の波を広げつつある最中、中原芳男は今年で四七歳になった。
朝、もはや聞きあきた目覚まし時計のけたたましい音に叩き起こされると、寝ぼけ眼を擦りながら時間に視線をやると、時計の針はちょうど七時を指していた。年のせいか重くなった身体を引きずるようにベッドから起こし、自分とおなじくらいくたびれたドアノブに手を掛けて階下へ向かう。
居間の襖を開けると、初老と言えるような歳をとうに過ぎ、この家とおなじくらいの老体になりながらも、小気味良い包丁の音を立てて台所で炊事をする母の姿が目に入ってきた。「芳ちゃん、おはよう」と聞きあきた声がきこえる。「ああ、メシ」とそっけなく返すと、食卓には一応白飯と鮭に納豆と言う、胃袋に優しい献立が並んだ。急いで掻き込むようにして平らげた。
「ごっそさん」の声に呼応して母も「あいよ、急ぎなよ」と子供に諭すように返してきた。風呂場の脇の洗面所で顔を洗って髭を剃り、ふと歯を磨くがてら洗濯機に目をやるともう既に水をかき回す音がしていた。「相変わらずマメな奴だな」と独り言をいう。勤務先のドレスコードに沿ってすこしくたびれた背広に身を包み、ネクタイを締めて玄関に向かうと母がカバンを持ってきた。その姿はまるで夫の出勤を手伝う妻のように見える。「気を付けるんだよ」「はいよ、いってきます」と家を跡にした。いつもと全く変わらない日常の日課に、内心飽き飽きしながらも。
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中原の住む瀬谷辺りはどうも坂が多い、というよりかは、横浜市自体がやたら坂が多い街だ。東のとっ外れから西の畑の方に至るまで、親の敵のように坂が多い。最近では自治体もそれを知ってか「健康宣言、歩こう」なんて珍妙な宣伝をし始めている。途中のコンビニエンスストアでペットボトルのお茶と握り飯を買い込み、十分も歩いて厚木街道の信号を渡ると、相鉄の希望ヶ丘駅に着いた。ここからいつも各駅停車に乗り、二十分ほどかけて勤め先の最寄り駅、天王町の駅で降りた。
中原の勤め先は駅から歩いて十分もしないところにある。九○年代に作られた近代的なオフィス・ビル南北に別れた作りだが、二○二○年の今でも古くささを感じさせないし、何よりも自分の勤め先がこんな綺麗な建物に入っていること、そして己がそこで働けることにすこし誇りと満身を得ていた。自らの雇用を忘れれば、だが。
左腕に付けている愛用の時計の針は八時三○分を指していた。「まだ余裕があるな」と、一階ロビーの喫煙所に足を伸ばした。愛煙している水色のハイライトに百円ライターで火をともし、煙を吐き出す。肺から取り込んだ物質が血の波に乗って全身に行き渡る感覚を覚えながらスマートフォンを取り出した。一応社会人たるものと、検索サイトのニュースくらいはいつも目を通す、ついでにネットのゴシップ記事を見るのが中原の日課。
一本吸い終えてからエレベーターに乗り込み、一○階の仕事場に降り立った。カードキーを読み取り部にかざし、自分の席に座って電源を入れ、音楽を聴く用途には使えなさそうなヘッドセットを頭に付ける。そんないつもの仕事はオペレーター、噛み砕いてしまえば電話番だ。別に好きごのんで始めた仕事ではないが、二年とすこしも続けると板にあってしまった。いわゆる非正規の仕事を転々とし、気がつけばこんな仕事くらいしか選択肢がなかった。
「おはようございます」と管理者の疲れ気味の声で朝礼が始まる。「受電数は昨今の情勢もあり増加傾向にあります。いつも皆さんに実践していただいてますが、明るく元気にお客様に応対していただきますよう、本日も一日よろしくお願いいたします」。いつもの定型句が終わると、受電のけたたましい音が鳴り始めたー。
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中原は別に、やりたくてこの仕事に就いた訳じゃなかった。何年か前まではこんな仕事があることも知らなかったし、自分の中ではいつかはもう少し安定した、少なくとも年老いた母を安心させられるような仕事に就くことが目標だったが、それはこの歳になるまでどうにも叶えられなかった。いつかは、いつかはーそう考えている内にこんな歳になってしまった。
二年ほど前、その頃勤めていたのは倉庫でのピッキングのアルバイトだった。指定された荷物を積み上げたり、梱包したり、出荷の手配をしたり、そんな仕事をしていたが、会社の業績が傾き始め、経営の見通しが悪くなったとして雇い止め、首切りを通告された。
そんな中で一応再就職活動もした。足しげくハローワークに通い、営業・事務・梱包・建設さまざまな仕事に応募してみたが、どれもほとんどは面接にさえ進むことができなかった。なんとなくインターネットで仕事先を探していたとき見つけた派遣会社の求人に応募した時、すぐに紹介されたのが今の仕事だった。
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「では、インストール画面の操作方法がわからないと言うことですね?」「それでは今から同じ画面を出しますのでこの通りに操作してください」。情報化社会と呼ばれる現代、新たにパソコンを始める層の中には老人も相当数いるのか、平日のこんな時間に電話をかけてくるのはどうも老人が多い。最初の頃は内心「そんなことさえわからないのか」と見下していたが、最近では架けてくる相手を幼稚園児か何かと思い、親切丁寧に教えてやってる。それに、手取り足取り教えてやると満足度が上がり、ひいては自分の評価が上がる。
実は中原の周りには、ほんの数人ではあったが高評価を連続して取り続けた結果、下請け会社の正社員に引き抜かれた奴らがいた。今の管理者も実は派遣上がりで、真面目にやると報われることになっていた。しっかりと真面目に仕事に精を出し、いつか派遣の身分から社員に引き抜かれることを夢に見ながら、黙々と仕事に取り組む中原の姿勢と評価は社内でも、派遣元でも評価が高いものだった。
とはいえ、中原には少しだけ不安があった。実は今までは六ヶ月の契約で派遣されていて、仕事を始めた当初から続いていたのに、今年の四月から突然、二ヶ月の契約更新に切り替わった。派遣元の営業は「スタッフの皆さんがバラバラの契約期間なのでそれに合わせて欲しいとの要望です。あなたを切るわけではありません」と言っていたが、それでもやはり不安だった。
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午後五時半、日が暮れつつある時間に一日の仕事が終わった。中原も退勤の波に揉まれながらパソコン上のメモを規則通り始末し、机回りを丁寧に片付けてビルを後にした。
「何が居酒屋だ。このバカ野郎ども」小声で毒づいた。昨今の緊急事態宣言とやらをうけ、街の灯りが少し寂しくなりつつあるにも関わらず、自分と同世代かそれより下の初々しいサラリーマンが飲みの話をしているのは、少し中原の劣等感をくすぐった。
朝とは逆の経路で電車に乗ると、何だかんだで楽観的な話をしているのが耳に入る。「今年はあんまり旅行できなさそうだねー」「新入りの竹下くんも中々・・・」自分の知らないところで、いつもと変わらない世の中がある。そんな世の中のすみっこに自分が生きているような気分が、漠然とした不安と虚しさになって心を押し潰してくる。
いつも通りスマートフォンに目をやり、愛読しているいわゆる「まとめサイト」の記事を見ながら、希望ヶ丘の駅まで時間を潰した。
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帰宅するサラリーマンの列に紛れながら駅を降り、古びれた飲み屋に目も暮れず自宅まで歩いた。玄関の扉を叩くと、母がカギを開ける。
「お帰り」「ああ、ただいま」と儀式的なやり取りをすると、背広とネクタイを手慣れた手付きでいつの間にか母が持っていった。きっと父にも同じことをしていたのだろう。
台所からは、子供の頃から味に慣れ親しんだカレーの香りが鼻を突く。まさかこの歳になってまで母親と朝晩ともにするとは予想外だったが。
少し重たいながらも夕飯を平らげて風呂に入り、二階の子供部屋に戻る。ここが中原の長年の世界だった。色褪せた子供机の上に載せたパソコンがどこか歪な姿であったが、ベッドもタンスも全てが四○年選手で、その隅々にまで中原の人生が刻み込まれていた。パソコンを立ち上げると、空虚な時間潰しが始まる。もっぱらインターネットの掲示板で無責任なことを書き散らしてみたり、ブログの記事に一喜一憂、一笑一怒する、そんな姿は中原しか知らない。夜も更けた頃、モニターの光に照らされながら身体をベッドに投げ出した。
いつも思っていた。「どうして、俺の人生はこうなったんだろう」。答えのない問いかけに回答はなかった。