1.2 魔獣〈改訂版1.1〉
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漆黒の毛を纏う牙獣がそこにいた。
うねうねと伸びた黒色の毛が重力に逆らって宙を漂う。
深紅の瞳。異様に発達した2本の牙。滴る唾液がぼたりと落ちると、大理石の石畳が融解し穿たれる。
隆起する筋繊維と骨格は人類のそれとはかけ離れており、成人男性の胴回りをはるかに超えた太さの腕にはそれぞれ4本の鍵爪が備わっている。
生まれ持っての殺戮者。
捕食のためではなく殺すための強さ。
生きながらえるためではなく恐怖を与える為の強さ。
”魔獣”
それも悪魔王から直接血肉を与えられたより高位の怪物だろう。
高い知能と強かさを持つ超越生物がここにいる。
「道スガら四十、殺シた」
そんな獣が”語り”掛けてきた。
「二ツの関所デ十ヅつ。門ノトコろで十。ココマでの間デ十ダ。数ニ意味はなイ」
唸るような声。だが言葉はハッキリと聞き取れた。人語を解する魔の生物は少ない。
「殺シ、愉悦ニ浸リ、根コソギ狩リとり回ッテイれば万ガ一にも我ガ王ノ命ヲ全ウデキぬヤモシれぬ。故二、ヒトドコロデ殺シテよいノは十マでと決メテキた」
獣じみた外見からは予想外なほど舌が良く回る。
「我ガ作ラれた使命ハ”殺戮”。ヨリ多クの生命ヲ殺ストいう役割ノタメだけニ産ミ出サれた。ソんな我ニ、王ハ”唯一人り”殺セト命ジられた。殺スコとが最上ノ喜ビデある我ニ。コレホど人ガ湧イテいう”巣”ニオいて、タッタ一匹ノ猿ヲ殺シテコいとな」
”たった一匹”
その言葉でこの魔獣の狙いがグリンガム王であろうことは推測できた。
「・・・・殺シを自制シ、我慢シ、此処マデ来タ。ソンな我ノ行方ヲ遮ッタのだ死ヌノは当然トして、ダ」
揺らぐ。
逆立つ毛が。取り巻く空間が。魔獣の高ぶる感情に合わせて揺らいで震える。
その感情の向かう先は相対している自分自身だ。
「オオ、我が王ヨ、ドウゾ許シを、コノ愚者ノ息ノ根ヲ止メルほんの一瞬ノミ使命ヨりも死命ヲ優先セし我ヲお許シクダさい。醜ク無様二残酷二。限リナき苦痛と絶望ノ果二殺シテミせます」
この生物は絶対に王の元に行かせてはならない。
対峙してすぐさまわかった。この生物の強さは、危険さはヒトの持ちうるそれとは質が違う。
出払っている本隊が到着するまでの間、こいつを足止めしなくては、王が殺される。それはこの上ない苦痛を伴った凄惨なものとなるだろう。
それだけは絶対にさせない。
「猿の王になド・・・微塵の興味モナイが、臓物ヲ尻から引き摺り出され自ら喰らワセラレル―――」
身を護る鎧は無く、剣は手に馴染まない粗製品。闇夜の帳は魔を根源とする奴らにとっては本領。
此方十二分の状況であっても”この怪物には敵わない”のだろう。だがしかし。
「―――貴様の死に様は観てみたい」
それでも戦わなければならない理由がある。
魔獣の身体が闇に溶けた。
そのように錯覚するほどの速度。
一線。
ロストと魔獣とを継なぐ最短距離を凶爪が閃き駈ける。
ロストがその軌道上に刃を添えたのは反応できたからではない。獲物を狩る獣は無駄な動きをしない。最短最高率をもって獲物を捉える。そこに余計な小細工を用いないのは狩るものと狩られるものという絶対的な関係があるからだ。
ならば、それを前提に置き軌道上に刃を構えていればいい。それが一番生存確率が高いだろう。
「ーーーッッッッッ!!!」
結果として、この行動が功を奏した。
刃の鋒は魔獣の血で濡れて"ロストの右前腕はへし折れ関節から鋭利な橈骨が肉を破って露出する"。
運の良いことに"それだけ"の負傷で済んだ。魔獣をわずかに傷つけるおまけ付きだ。
だがその傷も蒸発する血液が宙に霧散する数瞬のうちに治癒してしまう程なのだが。
「クックック・・・グハァ・・・・グハハハハはははっはハハハはっっはハハ!!!」
魔獣が高らかに笑う。
笑う。笑う。
「死なぬか。嘸かし人間として高い位置にいるのだろうなキサマは。若いナガラも鍛え練り上げられテイル。才あるニンゲンが、努力を弛マヅ、捧げたのデアロウなぁ? 持ち得る全てヲ・・・・」
笑う。笑う。笑う。
嘲り、蔑み、馬鹿にする。
「だが弱い!! 貴様らニンゲンはあまリニも脆弱だ!!! 貴様のような才ある男でも! 我が王の、いや王と比べるにも値せず! 魔に産まれ落ちた我らの前では無象に過ぎぬ! 愉快だ! 種としての絶対的な優位はこれほどまでの優越感を得られるのか!」
獣が喋り始めてどのくらいがたった?
既にぎこちなかった人語の喋り口調は影を顰めた。人類と比較にならない学習能力。
過度の緊張で朦朧とする意識の中、へし折れた腕の痛みだけがリアルだった。
月明かりに照らし傷口を見ると紫色に変色している。魔獣の体組織はすべてが人体にとって有害だ、一つの傷が致命的な事態を引き起こすこともある。
「・・・どう・・したバケモノ? 俺はまだ剣を握れる。腕一本残っていれば、お前の首を・・・刎ね飛ばせるぞ。油断・・・しないことだな」
「グハァ、ずいぶんと苦しそうじゃないカ? 無理をするなそのひしゃげた細腕だけでも人間にとっては重傷のはずダ」
ロストは半身になって剣を構える。腰を据え、目線は真っ直ぐに魔獣へと向けられる。
「少しばかり人間として優秀な貴様への敬意を表し、さて、どう殺してくれようカ?」
魔獣を纏う空気が再び震えていく。
「腕の次は脚だ。両足失って腕一本、良かったな剣は握れるんだそれでも我の首を刎ね飛ばせるのか試してみよウ。芋虫が如く這いずる頭に糞でも擦り付けてゆっくりと踏み砕いてくれようカ? それとも・・・あぁそうだいいことを思いついたゾ」
邪悪な容姿に邪悪な思想。邪悪なオーラを纏って歩み寄る。
「ふっ・・・獣らしい純な脳みそだ」
少しでも獣の興味を惹かなければ。自分を殺す愉悦に浸っている間、その分王達は遠くへと逃げられる。
じりじりと、じりじりと。
警戒しているのではないより恐怖を与えるための緩やかな歩み。
一歩また一歩近づいてくる死を前にロストは酷い耳鳴りに襲われていた。割れると錯覚するほどの激しい頭痛のお陰で辛うじて正気を保っていられるのだろう。
「これから殺す“女”と一緒に楽しもう。嫌がり泣き叫ぶ女の股に貴様の頭をぶち込んでやる。比喩ではない。本当に子宮にぶち込む。女の胎から響く貴様のうめき声はさぞかし愉快なものだろうなぁ」
「・・・・・女、だと?」
その言葉でロストの脳裏に予感が過る。もちろん決して良い予測の類ではなかった。
「お前の目的は・・・・グリンガム王ではないのか?」
「あぁ? そう、そうダ。我が王の命は絶対。誤りなどあろうはずもない。だが実に腹立たしい。我を遣い、ただ一匹、“小娘”ひとり殺してこいなどト。なぜ? なぜ王はそんなものを目障りに思われた? なぜ、なぜだ。ナゼナンダ!!!!」
魔獣の咆哮。疑問と怒りの入り混じった空気の震えがロストの全身を叩く。
それだけでヒト1人くらいは殺せるのではないかという激しい叫びが城下にまで響き渡る。
だが、相対する少年騎士は先の魔獣の言葉を反芻しており、身を怯ませることもなく魔獣を睨みつけていた。
見開かれった眼孔に映る獣の姿は恐ろしさを具現化したような超生物。
けれどもその瞳の持ち主が持ち得る感情は怯えでも、恐怖でもない。
それは
「まさか・・・・お前の狙いはヴェロニカかッ!!!!」
怒り。
そして、目の前の魔獣を確実に葬らねばならぬという純然たる殺意だった。
「少しはマシな顔つきになったなニンゲン。だが、大きな声を出せば力の差が埋まるわけでもあるまい。まぁとりあえず貴様をどうするかは殺してみてから考えるとしよウ」
ロストが仕掛ける。その一歩は鋭く速い。
十分に人間離れした膂力を感じさせる速度の乗った剣筋を魔獣の眼は捉えることが出来ずにいた。
「ーーーッッッッッ!」
先にロストがした反応を今度は魔獣がする形となった。
声にならない鋭い熱が首筋から脇腹へと駆け抜ける。
魔獣がロストの姿を捉えたのは自らの肉を剣が通り抜けた後だ。背後にまわり込み再び距離を取り剣を構えている。
「速いが、浅イ」
蒸発する血煙と共に魔獣の傷がみるみると塞がってゆく。
姿を完全に見失うほどのロストの速さは、魔獣の浮かべる笑みを崩すほどの出来事ではなかった。
さらに、再び爆ぜるように切り掛かるロストの剣撃を魔獣は牙で受け止める。闇夜に散る火花がロストの顔を照らし出すとその表情には明確な焦りの色をたたえていた。
「それは一度見た。同じ過ちを二度三度と繰り返す、愚かなニンゲンと一緒にするナ」
「ぐぅあッッッ!!!!」
三本の爪が距離を取ろうと後ろへ跳んだロストの脇腹を抉りとる。
血肉の弾ける熱に苦悶する暇もなくロストの首筋に死線が過った。致命傷を食らわせた後も二撃三撃と繰り出される爪攻は着実にロストの皮膚を肉を削り取っていく。
その全てが命へと向けられたものであり、寸手のところで躱し、剣で受け確実に訪れるであろう死への時間を長らえさせているロストの寿命を擦り減らす。
「死ね」
左腕
「死ね」
左足
「死ね」
首筋
「死ね」
左肩
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!!」
一撃ごとに確実に増える傷。
一撃ごとにその深さは増していく。
そして、
「・・・・終わりだナ」
魔獣の連撃がやっと止んだのは、握力を失い剣を落とし、自重を支えられなくなったロストが膝を折った決着の時だった。
「・・・ハァハァハァ」
「おぉ、死ななかったか。良かった。これでまだ遊べル」
笑う魔獣にロストは言葉を返すこともできない。
「粘ったじゃないか。ここに来るまでに殺した雑魚どもを合わせてもここまで時は稼げなかったゾ。2分といったところか? どうだ? 嬉しいカ? ニンゲン」
「・・・心配するな・・・・薄汚い獣よ。貴様の首を刎ねる、のに、もうこれ以上時はいらぬ」
俯き、肩で息をするロスト。器官に血が混じり無理矢理に酸素ごと吸い込む。
微動だにすることもできずあからさまな虚勢を張る死にかけの騎士に魔獣は面倒臭そうにため息をついた。
「よく考えれば生きたまま運ぶのはもう面倒だナ。ヴェロニカとかいう娘と既知の仲のようダ。貴様の首ひとつ手土産にして仕舞いにしよウ。この怒りは小娘の苦痛と恥辱にまみえれた死で埋め合わせるとするカ」
ーーー ダメだ。こいつを殺さなければダメだ。ヴェロニカが・・・
「お前は・・・殺す・・・ッ」
「死ぬまで言ってるがいイ。せいぜい"死後の世"でヴェロニカとか言う猿の泣き叫ぶ声を聞いていロ」
ロストの心の臓を踏みつぶすべく上げられた魔獣の足。
1秒先。ロストの生きている可能性は限りなくゼロ。そんな中でもロストの頭の中は魔獣の首を斬り落とすための手段を模索するのでいっぱいだった。
無いものをいくら探しても見つかる筈もなく、ただただ一人の騎士が死ぬ。役目を果たすこともなく。
無様に、無意味に。
これからも魔の物に殺される数多くの命の一つとして消えてなくなる。
"筈"だった。
「少し待て"獣"よ。その男、ただ見殺すには惜しい」
静止の言葉。女の声。
"静止"など一切意に介さず、命そのものを踏みつぶすために振り下ろされた魔獣の足が、その時ビタリと固まった。
その瞬間から、魔獣の興味は死に損ないの騎士から失われ、声の主である少女にのみ向けられた。
「な・・・・ぜッ、どうして、ここにいるんだ!」
にらみを利かせ少女を観察する魔獣に代わり声をあげたロスト。
その視線の先にいたのは。
「―――ヴェロニカ!!!」
件の少女、
「ふむ、これが"魔獣"か。聞きしに勝る悍おぞましさよ。闇を統べる邪悪の権化、悪魔王の血肉を食らいし怪物」
不敵に笑う渦中の姫であった。
「眷属たる貴様の主はどこぞの魔王なるや?」」