恋を夢見て
まるで女神のよう――近頃、そう噂になっているのはアンナ・マクベルト侯爵令嬢である。
元より美しい顔立ちではあったが、幼い頃から第一王子・オスカー殿下の婚約者として王妃教育を受けてきたために人前であまり表情を崩さない。社交用の「完璧な笑み」を顔に張り付けていた。それも美しくはあったがどこか無機質に思えた。ところが、その表情に変化が起きたのだ。
彼女は学院の昼休み、裏庭のベンチにゆったりと腰かけて、ハンカチーフに刺繍をするようになった。好いた男性に贈る品として定番である。
高価な宝石を扱うように慎重に丁寧に一針一針縫っていく。
集中しているせいかいつもの「完璧な笑み」はなく、柔らかく優しい眼差しに、見た者は誰もが思わず足を止めてしまう――美しい絵画のような光景。
更に時折切なげな息をつく。それは間違いなく恋をする人のものだ。
そう、彼女は恋をしている。
しかし、同時にそれは憐憫を誘った。
彼女の婚約者オスカーは、現在別の女性に夢中だからだ。
オスカーとアンナは互いに将来夫婦となり国を守り未来へとつなげていくよう幼い頃から教育を受けてきた。もっと遊びたいと思ったことも、もっと自由に振る舞いたいと思ったこともあったが、オスカーがへこたれたときにはアンナが、アンナが立ち止まったときにはオスカーがいて、それぞれに「自分だけではない」と思うことで頑張ってこられた。情熱的なやりとりはなくても穏やかに恙なく二人の仲は良好だった。
雲行きが怪しくなったのは半年前。
ルーベン学院では毎年、春先には新入生と共に編入生も受け入れをしている。貴族の中には養子をとったりするケースもよくあり、多いときには十人ほどの編入生が入ってくる。今年入ってきた者の中に彼女がいた。マリア・クラーク男爵令嬢。彼女は男爵の愛人の子で長らく市井で暮らしていたが、クラーク男爵家の正式な一人娘が事故死して、跡取りを失ったために引き取られたのだという。
マリアは、いじめられた。事故死したクラーク男爵家の一人娘コレットの友人たちにである。生前コレットはマリアの存在に心を痛めていた。自分と同じ年の娘がいる。父の不貞の証。その娘がコレットの居場所をかっさらっていった。これではあまりにもコレットが可哀想。そのような気持ちからマリアをやり玉に挙げたのだ。
だが、マリアは負けなかった。持ち前の天真爛漫さで彼女たちと少しずつ和解していった。
その様子にクラスメイトのオスカーは感心し、話をするようになった。
それが、はじまり。
マリアは当初とても恐縮していた。だが、話しかけられる回数が増えて少しずつ慣れてくれば喜びを感じるようにもなった。マリアにとってオスカーは住む世界が違う存在だ。そんな人から優しくされて浮かれてしまうのは仕方ない。
マリアの目の奥にある熱にオスカーもまた新鮮さを感じた。
オスカーに憧れを抱く者は男女問わずいるが、彼の周囲にいるのは貴族で感情を出さないようにと教育を受けてきた者ばかりである。ところが、マリアは教育を受け始めたばかりで素直に感情が出る。わかりやすく憧れているという目で見たのは彼女が初めてだったのだ。
オスカーはマリアの強さと明るさに興味を覚えて近寄った。最初から好意を持っていた相手からこれまで味わったことのない視線を受けて彼の熱も刺激された。
やがてオスカーはマリアに恋をした。
マリアはそのことに気づいてからは距離を取ろうとした。当然である。オスカーは皇太子で婚約者のいる身。成就しない恋だ。それに誤解を恐れずに言えば、マリアがオスカーに向けていた熱は芝居役者に憧れるようなもので、成就しないとわかっているからこそ、気軽に憧れを抱いたのだ。それが、違ってきたとなれば逃げだしたくもなる。しかし、
「どうか避けないでほしい」
とオスカーに懇願された。
「私は将来この国のために尽くしていく。卒業したら婚約者と婚姻を結ぶ。未来のない私と恋人になってほしいなんてことは言えない。それでも、どうか、私が今抱いている気持ちを否定しないでほしい。君への思いは、私がはじめて自らの意志で手に入れたもの。君を想うことを許してほしい」
それは、間違いなく懇請であった。
美形の皇太子にそうまで言われて、心が揺れない女がいようか。
二人はオスカーの片思いという建前で、思いを重ねていった。
周囲の反応は様々だったが、二人の期間限定の恋を応援する者は多い。
貴族には学生時代に自由恋愛を謳歌するという者も結構いる。多くが政略結婚をするので、何の責任もないときに多少の羽目をはずすことは暗黙の了解として認められるのだ。
オスカーはこれまで真面目に生きてきた。その彼の初恋を見守ってやろうという者たちの意見はわからなくもなかった。
ただ、問題は彼には婚約者がいること。
アンナがどう動くのか。それにより状況は違える。
アンナの行動に特段変化はなかった。
見て見ぬふりをしている。容認したのだろう。寛容な態度にこれまたさすがは未来の王妃殿下であるとほめそやす者もいた。
そうして、二人が事実上の恋仲となって一月ほど経過した頃、アンナが一人でベンチに座り刺繍を始めた。恋するようなうっとりとした表情で。
オスカーが別の女性に恋をする姿を見て、アンナは自身がオスカーに恋をしていたことに気づいたのではないか? そのように噂された。
それまでどちらかといえば兄妹のような関係の二人だったが、第三者が介入することで本当の気持ちに気づくというのはよくあることだ。
恋心に気づいたアンナはどうするか? 今度こそ二人の仲を裂こうとするのでは? と思われたが、アンナは何もしなかった。ただ、ベンチに座って静かにハンカチーフを刺繍をする。
だからこそ、悲しい。
アンナは今日もまたオスカーがマリアと睦まじく過ごしているときにたった一人でハンカチーフを刺繍をする。愛する人を思い、愛する人の恋の邪魔をしないように。
◇
オスカーは苛立っていた。
苛立ちの正体がわからないことにも苛立っていた。
いや、わからないわけではない。アンナのことだ。
オスカーはマリアに恋をしていることをアンナに伝えた。
黙っていてもいずれは周囲から漏れ聞こえるだろうから、それならば事前に自分の口から言うべきだと思ったからである。
オスカーはマリアに恋をしていたが、アンナとの婚約を撤回する気はまったくなかった。というのもこれは王命による婚約であり、アンナはオスカーと同様に幼い頃からこの国のために生きるように教育を受けている。教育の中には表には出せないような国の暗部についても含まれていた。それは枷である。もしこの婚姻がなくなるようなことになれば秘密を知っている者に待っているのは死。オスカーもアンナもすべてを知ったからこそ国を治めていく他にない。二人の婚約は命を賭すほどのものである。
だから、オスカーは学院を卒業したらアンナと婚姻する。
そこに一つの迷いもない。
ただ、だからこそ、自由な今だけ、マリアとの恋に興じたい。
「この先、辛いこともあるだろう。そんなとき、彼女との恋が私の生涯の慰めになってくれる。だから、卒業するまで私が彼女を思うことを許してほしい」
真正面から、愚直なほど馬鹿正直にオスカーは述べた。
アンナはオスカーが嘘を言わない人であると知っていた。長い付き合いだ。卒業までという言葉に嘘はない。卒業してしまったらマリアのことを美しい思い出としてアンナと夫婦となるよう努力する。それは信じられた。
それに、彼の初恋を叶えてやりたいという気持ちもあった。
アンナはオスカーを大切に思っている。彼に子どもらしい子ども時代がなかったこと。皇太子として大変な重責の中で、やりたいことの多くを我慢して過ごしてきたこと。それはアンナも同様であったが、そんな日々の中でオスカーに恋が舞い降りた。恋とは突然訪れてしまうものだと聞く。それがオスカーに訪れ、そして、オスカーはその恋を甘受したいという。
卒業までの間、それくらいの自由は許されるべきではないか。
アンナは反対する理由が見つけられなかった。
だから、頷いた。
アンナの承諾を得て、オスカーも罪悪感を持つことなくマリアとの恋と心から向き合えた。
そうであるのに、近頃になってアンナのことが噂になった。
ベンチに座りオスカーのためにハンカチーフに刺繍する姿に、アンナが可哀想だという声も上がってきている。
マリアとの恋を認めると言いながら同情を引く振る舞いをするアンナにオスカーは失望と憤りを感じていた。
これはもう一度話をする必要がある。
オスカーは昼休みにアンナが刺繍しているというベンチに向かった。
噂の通りにアンナはハンカチーフを広げていた。
オスカーはますます頭に血が上って、ずんずんと近寄って行ったが。
(――………っ)
アンナの顔が見える位置まで来て立ち止まった。
アンナが見たこともないような表情をしていたから。
オスカーはアンナのことなら大抵は知っていると思っていた。幼い頃から一緒に過ごしている。王妃教育を受ける中で、社交用の仮面をつけるようになってからも、オスカーといるときだけはそれを解く。表情豊かとまではいかずとも、他の者には見せることを許されなくなった顔を、オスカーの前でだけは見せた。オスカーもまたそうである。最近ではマリアの前でも表情を崩すようになったが、それでも全部とまでは行かない。本当に皇太子の仮面を取ることができるのはアンナの前でだけ。
しかし、今のアンナの表情はどうか。
これまで一度たりとも見たことがない「女」の顔をしている。
ドキン、とオスカーの鼓動が大きく脈打った。
知らない。見たこともない。愛する人に恋焦がれるアンナの姿に、オスカーは身動きできなくなった。
オスカーは結局何も言えずに踵を返した。
その間も、ドキン、ドキン、と心臓が早鐘を打った。
アンナは美しい娘だ。その娘が熱っぽい眼差しで一生懸命にハンカチーフに刺繍をする姿は、なるほど噂になるのも頷けるほど切なく胸を掻きむしられる。しかも、その相手が自分であるのだから殊更に。
オスカーとアンナの間にあるものは友愛と信頼だった。
そこに情熱という恋に必要なものはないとばかり思っていた。
しかし、アンナのあの表情は疑いようもない。
あんな光景を見ても尚、アンナにマリアとの邪魔をするなと言えるほどオスカーは冷酷ではなかった。
それよりもオスカーはアンナに酷いことをしていると申し訳なくなり、彼女のハンカチーフが完成し渡されたときのことを想像して、どんな顔で受け取ればいいのかと戸惑いを感じていた。おそらくあれはオスカーの誕生日に贈られるのだろう。一度も「恋人らしい」物を贈り合ったことはなかった。必要なものばかりを互いに渡していた。だが、今年は違うのだ。そう思うと余計にオスカーの胸は苦しくなった。アンナの中にオスカーへの恋心があるなら、マリアとの恋は少し早いが終わりにするべきかもしれない。アンナを苦しめたいわけではない。そのようなことを考え始めた。
しかし、オスカーの誕生日に例のハンカチーフが贈られることはなかった。
例年の通りアンナからは必需品――万年筆が届いた。
執務に必要なものとしてオスカーが使う万年筆はアンナが、代わりに社交に必要なものとしてアンナが使う扇をオスカーが、それが恒例である。
(マリアとのことを気にしているからか)
アンナもまた自身の言葉に責任を持つ性格だ。言ったことは守る。オスカーとマリアの恋を認めると言った以上、卒業するまではアンナはオスカーに大手を振って思いを伝えることはしない。それはオスカーとマリアの恋の妨害になるから――そう思っているのだろうとオスカーは考えた。
婚約者なのだから堂々と思いを伝えてよいはずの立場でありながら、それが許されない。許さなくしたのは他ならないオスカー自身である。
オスカーはますます自分がとんでもないことをやらかしたのだと自責の念にかられた。
いくらマリアと恋をしているからとはいえ、アンナに思いを伝えられてそれを無下にするような真似はしない。そのことをわかってほしくて、さりげなくアンナに告げた。
「ハンカチーフに刺繍をしているそうだね」
「え? ……ああ、ご存じでしたの?」
「噂になっているから」
オスカーは何をとぼけているのかと少しだけ表情を顰めた。
だが、アンナは小首を傾げて、噂ですか? と告げた。
「君が、昼休みに裏庭のベンチで刺繍していると専らの噂だよ」
オスカーが答えるとアンナは目を大きく見開いて、まぁ、と小さく悲鳴をこぼした。
「わたくし、人目につかぬように裏庭でしておりましたのに……」
オスカーもアンナも忙しい身である。きちんと確保できる自由時間は学院の昼休みくらいだ。だから、マリアに恋をする前はオスカーとアンナは二人で昼食を取り共に過ごした。今はオスカーはその時間をマリアと過ごしている。アンナは一人……その時間しかないから刺繍をした。なるべく人目につかない場所、裏庭でこっそりと。
それでも、噂になってしまった。
普段のアンナなら気づいただろうが、ここのところふわふわとしていて、気づいていなかったと。
「恥ずかしいですわ」
さっと頬を染める。
周囲の様子も目に入らないほど夢中になって刺していたことが恥ずかしかったのだろう。
オスカーは顰め面から一転して口元が緩んでいく。
「君は目立つからね。……それで、そのハンカチーフはどうしたんだい?」
「ええ、もうすぐ完成いたします。わたくし、あまりこのようなことをしたことがなくてなかなか難航してしまって……」
オスカーは納得した。
アンナはなんでもそつなくこなすと思っていたが裁縫関係は苦手らしい。誕生日までに間に合わなかったのだ。苦手なものをそれでも懸命に仕上げようとするアンナをオスカーは微笑ましく思った。
「王妃教育の他にもやるべきことが多くあるしね。裁縫まで手が回らないのは仕方ないと思うよ。だが、上手下手なんて些末な問題さ。君が思いを込めて作ったということが大事だから」
「……そう、でしょうか」
「当たり前じゃないか。それを無下にするような男はいない」
「そう言っていただけると心強いです」
にっこりと笑うアンナに、オスカーも笑顔を返した。
しかし、あの会話からすでに二週間が経過しているがアンナがオスカーにハンカチーフを渡すことはなかった。
まだできていないのか? と思ったがアンナは裏庭で刺繍をしなくなった。出来上がったということだろう。それとも挫折してしまったのか……仮にそうだとしてもアンナの性格ならばできなかったと話にくるだろうにそれもない。
あの会話だけでは足らなかったのか。慎み深さも度を越すと厄介である。早く渡してくれたらいいのに――と苛々とした。
渡されたらどうすればいいのかと戸惑っていたのに、渡されないことを苛立つというのも奇妙な話だ。どうしてこれほど苛立つのか。何かおかしい。そう思うのにオスカーは苛立ちを止められなかった。
だが、いつまでもイライラしていても仕方ない。
オスカーは再びアンナに話をすることにした。
ちょうど、今日は王妃殿下と王妃教育のあとにお茶をする日だ。今ならばまだ宮殿内にいるだろうと王妃殿下の気に入りの庭へと向かった。
王宮にはいくつかの庭園があるが、二人がお茶をするのは決まっている。ローズガーデンと呼ばれる先々代の王妃が古今東西から多種多様な薔薇を集めた庭だ。
たどり着くと予想していた通り王妃殿下とアンナがお茶をしていた。
甘い匂いの中、鈴を転がしたような可愛らしい声がオスカーの耳に届く。
「随分楽しそうですね」
オスカーが声をかける。
「あら、オスカー様、ごきげんよう」
「お前がここへ来るなんて、珍しいこと」
にこやかに迎え入れてくれたアンナとは対照的に王妃殿下の方は少々棘がある。
以前はアンナの王妃教育のあとの茶会にオスカーもよく参加していたが、マリアに恋をしてから、空いている時間は彼女と過ごすか、彼女のことを考えたり恋文をしたためるのに使っている。顔を見せなくなった息子へ王妃殿下は機嫌を損ねているのだ。
オスカーは少々気まずくなった。
「まぁ、来てしまったものは仕方ありません。お座りなさい」
王妃殿下はやれやれと言いながらも追い返すことはせずオスカーに席をすすめた。
メイドがお茶の準備をしてくれる間、オスカーは「それで何を笑っていたのです?」と少しでも楽しい雰囲気に戻そうと問うた。
「アンナの恋の話ですよ。本来なら同じ年の者たちとしたいでしょうけれど、流石にそれは体裁がよくないですから、わたくしが話を聞いていたのです」
「いいえ、王妃殿下。わたくしは王妃殿下に聞いていただけてとても楽しいですわ。王妃殿下は聞き上手でいらっしゃいますから」
「ふふ、わたくしもアンナの話は楽しいですからね。彼の君を想って照れる顔はなんとも愛らしい。アンナが幸せそうでわたくしも嬉しいわ」
王妃殿下の言葉に、まぁ、とアンナは両頬を押さえる。耳まで真っ赤だった。
そんな二人のやりとりにオスカーはぽかんとした顔になる。
アンナの恋の話――それは即ちオスカーの話であるはずだ。しかし、雰囲気からそうではないように感じ困惑した。
「今はね、アンナが丹精込めて刺繍をしたハンカチーフを贈ったときのことを聞いていたのよ。ああ、そういえばアンナに助言をしたそうね。それで勇気が持てたそうよ。お前もたまには役に立つのね」
「は?」
それは決定的な内容だった。
あのハンカチーフはすでに贈られている。だが、オスカーはもらっていない。
内容は理解できるが、意味がわからない。オスカーの思考は止まる。何も言葉が出てこない。
「失礼いたします」
そこへ従者がやってきた。アンナの帰りの馬車の支度ができたと伝えるためだ。
「それでは王妃殿下、オスカー様、わたくしはこれで失礼いたしますわね。ごきげんよう」
「ええ、また来週にお話いたしましょう」
アンナは颯爽と退席していく。
オスカーは呆然としたままそれを見送った。
夏の力強い緑の匂いがする。
水を遣ったばかりなのか、よく見ると薔薇の花びらには水滴がついていた。時々それが落ちて葉を揺らす。落ちどころによっては次々と弾けていった。
アンナが去ってしまったので茶会を終わらせるかと思ったが、王妃殿下はメイドにお茶を淹れなおさせた。
新しく出された紅茶のカップを王妃殿下が持ち上げるとオスカーはそれが合図のように口を開いた。
「アンナが恋をしているとはどういうことですか?」
ぼそりと告げた声は低い。
王妃殿下は優雅にお茶を堪能してから、
「どうとは? 言葉の通りですよ」
「いえ、ですが……アンナが好きなのは私ではないのですか?」
「お前、何を言っているのですか? どこからそんな誤解をしたのです?」
誤解という言葉が強くオスカーの胸を貫く。
表情を失うオスカーを王妃殿下は一瞥して、動揺を悟らせるなんて一体これまで何を学んできたのですか、と嘆いた。
それから、はぁ、とわざとらしくため息をついて、
「お前は、なんとかという娘と恋をしたいとアンナに話したそうですね。そのことを相談されたのですよ」
と話し始めた。
アンナはオスカーからマリアと恋をしたいと言われて認めた。
オスカーの初恋を実らせてやりたい。そう思った気持ちに嘘はなかった。だが、同時に胸にぽっかりと穴が開いた。オスカーの「彼女との恋が私の生涯の慰めになってくれる」という言葉が思う以上にアンナを打ったのだ。
アンナはオスカーと支え合っていくのだと思っていた。
だが、オスカーはアンナ以外にもそういうものを見つけた。これから先辛いことがあるとき、現実を忘れて、マリアとの美しい思い出に逃げることができる。
それは大切なことだ。オスカーが倒れたとき、アンナも倒れていない保証などないのだし、支えはいくつもある方が賢明である。
でも、では、アンナは?
アンナには何もない。
そんな思い出は一つも。
ただ、オスカーだけを頼りにしていくことにどうしようもない寂しさが生まれてしまった。アンナも心の支えとなるような恋に憧れた。
しかし、それは難しい。
真面な思考を持っている者なら、未来を考えるからである。
マリアが将来誰かと婚姻を結んだとき、オスカーはかつて恋した女性が困らないようにその夫を優遇するということはあるだろう。一方で、アンナと恋をした男はどうだろう? オスカーはアンナの恋人だった男を優遇するだろうか? 余程寛容か、余程愚鈍であれば、アンナが世話になったと優遇するかもしれないが、自身の妻と親しくしていた男となど距離をとる可能性の方が高い。まったくフェアではないが人の心とはそういうものだ。故に、アンナは美しく魅力的な令嬢だが、何らかのハプニングがあって恋に落ちてしまうならまだしも、未来の出世を差し出してまで積極的に恋をしようとは思わない。近づかないよう回避する。
アンナがもし恋をできるとしたら直接オスカーと関わることがないような平民である。
だが、アンナは平民と関われるような身ではない。身分もそうだが、お忍びで市井に行くような時間がないのだ。
アンナに恋の機会が訪れることは極めて難しいと言わざるを得ない。
話を聞いて、王妃殿下はアンナに薬を与えた。
それは代々王妃に受け継がれる秘薬である。
現在では一夫一婦制だが遡れば側妃や愛妾が公認されていた時代もある。否、一夫一婦制となってからも非公式で愛人を囲う王もいた。王にだけ許される特権。王妃はそれが許されない。ただ国のために責務をこなすのみ。
だが、そのような環境では王妃の心が病んでしまう。王妃とて重責を担う身、愛してくれる者が必要だ。そこで開発されたのがこの秘薬である。
秘薬を飲めば夢の中で王妃は王妃だけを誠実に真摯に愛してくれる者と恋ができる。悲しい現実を忘れて、幸せな夢を見ることで精神を保つのだ。
「夢、ですか」
アンナは最初疑問を抱いた。
夢などで愛されて何の意味があろうか。
「夢と現実と、そこまで違うものかしら?」
王妃殿下は告げた。
王妃殿下は幸いにして秘薬を使うことはなかったが、先代の王妃はこの薬を縁にしたという。
物は試し。つまらないと思ったらやめたらいいのだから――そうすすめるとアンナは頷いた。
「それで、アンナはその薬で夢の中で恋をしていると?」
「ええ、そうよ。夢といっても一晩だけ見るものではなくて、毎夜毎夜続きを見られる効能があるの。はじめは夢の中で誰に気兼ねすることもなく心のままに振る舞えることが楽しかったみたいだけれど、少しずつその人と関わりを重ねて恋になっていったそうよ。今ではすっかり恋する乙女ね。恋をすると女は美しくなるというけれど、花開いていくアンナの姿はとても可憐だわ。お前もそう思うでしょう?」
「……っ」
オスカーは声にならない悲鳴を漏らした。
たしかに、ここしばらくアンナは急速に美しくなった。恋をしているからだろうと噂されていた。そして、それはその通りだったが、恋の相手は自分であると信じていたオスカーにはこの事実は受け入れがたいものだった。
「何をそんなに驚いているの?」
王妃殿下はオスカーの様子を理解できないとばかりに言った。
「アンナが誰かと恋をするとは思っていなかったとでも? お前がけしかけたのでしょう」
「けしかけたなんて、そのようなことは」
「『アンナも学生のうちに恋を楽しんでおくといい』と言ったのでしょう? その言葉にアンナは余計に恋を夢見るようになったと言っていましたよ」
オスカーはいよいよ言葉を失った。
王妃殿下の言う通りだったからである。オスカーはアンナにマリアのことを打ち明けたとき「君も学生のうちに恋を楽しむといい」と言った。オスカーが学生の間に恋を楽しむなら、アンナもそれをする権利はある。自分が味わっている感情をできるならアンナにも味わわせてやりたいと思ったし、自分だけが勝手をしている後ろめたさもあって口を出た言葉だった。
ふぅっと王妃殿下は本日何度目かのため息を吐き出した。
「婚約者から、他の者と恋をしろと言われて何も思わないわけがないでしょう? 嫌われて軽蔑されてもしようのないことを言ったのです。けれども、アンナはそんなお前を受け入れてくれた。その上で、お前がそんなことを言うほど恋とは素晴らしいのかとますます興味を持った。わたくしはアンナの寛容さへの感謝と、息子であるお前の愚かさへの詫びとして、王妃となったときに渡される秘薬を先に渡すことを決めました。
あの子は、今、幸せな恋をしている。そのことを感謝しているとわたくしに言いました。
だからといってお前の罪が消えたわけではありません。そうであるのに罪を犯したお前がどうしてそのような傷ついた顔をしているのですか?」
王妃殿下は突き放すような冷たい声で問いかけた。
だが、問うまでもなく王妃殿下にはオスカーの気持ちが手に取るように分かった。
オスカーとアンナの仲は本当に順調だった。安定した関係。だが、人というのは贅沢なもので安定していればその分今度は刺激が欲しくなる。そんなときに出会ったのがマリアだったのだ。
オスカーは卒業までの間マリアと恋をすると言った。
しかし、恋とは期間を決めてできるものだろうか? そんなに割り切れるものだろうか? 割り切れるというならばそれは戯れにすぎない。――そう、オスカーがマリアを憎からず思っているのは事実ではあっただろうが、オスカーが信じているほどの情熱的な恋ではない。アンナという帰るべき場所があった上で、青春を彩る美しい思い出とするための、恋をしたいがための恋である。
とはいえ、恋に恋をしているのか、本当に恋をしているのか、それは経験を積まなければわからないものだ。まだ年若く、これまでそういう経験がなかったオスカーが誤ったとしても若気の至りであり、責めてやるのは少々気の毒だ。気の毒だが、だからといってアンナとマリアという二人の女性を巻き込んでしまったのだから「わかっていなかったのだから仕方ない」で済ますわけにもいかないと王妃殿下は思った。
オスカーには何をしたのかをきちんと理解させ、彼の心が本当は誰にあるのかをわからせねばならない。絶対になくならないと、自分のものだと無意識に思い込んで信じていたものが、そうではないのだということも。
王妃殿下の思惑は上手くいったようだった。
オスカーはアンナの心が別の男にあるのだと知り、アンナを美しく花開かせたのが自分ではないと知り、今、ようやく、自分の心を知りつつある。第三者が介入することで本当の気持ちに気づくというのはよくあることなのだ。
その夜、オスカーは一睡もできなかった。
今頃眠りの中でアンナはその思い人とやらと会っているのだと思うと胸が張り裂けそうに痛み眠るどころではなかった。すべては夢であり、現実ではないといくら言い聞かせても、アンナが恋をしているのは事実である。その男のために、今までしたことがなかったハンカチーフに刺繍をする練習をしていた。夢の中で作って渡したのだろう。きっとそれだけではない。他にもいろいろなことをしているはずだ。そして、それをオスカーは知ることができない。何をしているのかもわからないことが余計に想像を掻き立てて苦しくてたまらない。
アンナが、自分以外の男と恋をするなんて。
その男によって美しくなっていくなんて。
それはすべて自分のものだと、心が、魂が叫んでいる。
オスカーは気づいたのだ。たしかに、マリアへの好意を抱いた。マリアの目の奥にある熱に焦がれた。オスカーがほしかったものだったから。けれど、本当はそれをアンナから与えられたかったのだ。だが、アンナはそのような目でオスカーを見ることはない。二人の間にあるのは情熱ではない。アンナはそういったものを持たないのだと思い、それをくれるマリアとひと時の恋をしようとした。
だが、実際はどうだ。アンナは情熱を持った。
あの情熱をどうしてオスカーには向けてくれなかったのか。――いや、違う。先に自分が情熱をもって接していたらアンナも返してくれたのではないか。恋人らしい振る舞いを、愛を乞うことを、オスカーからしていれば、アンナもそうなっていたのではないか。
オスカーが行動しなかったのは、つまらない矜持からだ。
先に行動に移せば、自分の方がアンナを好きであると言っているようなもの。そんな真似はしたくないと本当にどうしようもないほどくだらない見栄を張った。
マリアとの恋も、アンナに嫉妬して傷ついてほしい気持ちがあった。
アンナにもこの幸せを味わってほしいなどと思いやっているような綺麗ごとを装い、「君も恋をしたらいい」と酷いことを言えたのも、アンナが恋をする相手などいないと思っていたからだ。
そうである。オスカーは建前として自分が恋をするならアンナもする権利があると言いはしたが、皇太子である自分の婚約者のアンナに近付く男などいるはずがないと高を括っていた。
その狡さが、幼稚さがもたらした結末が現状である。
隠し持っていたどろどろとした醜い本音が溢れでてオスカーを呑み込んでいく。向き合わなかったものに復讐されている。
こんな愚かな振る舞いをしていなければ、アンナは他の誰かを求めることもなく、静かに穏やかにオスカーの側にいてくれただろう。その安寧さえもオスカー自身がぶち壊したのだ。
◇
翌日、寝不足でフラフラな状態でもオスカーは学院へ向かった。
やらなければならないことがあったから。
そして、昼休み。
オスカーはマリアと話をするため、近頃二人で過ごしているガゼボへと向かった。
話とはもちろん、マリアとの恋に終止符を打つことだ。
アンナへの気持ちを自覚した以上、この恋を継続するわけにはいかない。
ガゼボにはすでにマリアがいて、オスカーを待っていた。
真っ白なガゼボの周囲には生き生きとした緑が生い茂っている。ここで、オスカーたちが昼食をとることは知れ渡っているから、他の生徒は気を遣って立ち寄らなくなった。
オスカーは何と切り出そうか深呼吸をしながら近づいた。マリアはオスカーに気づくと立ち上がった。二人の距離が近づいていく。オスカーの足取りはどんどん重くなったが立ち止まるわけにはいかない。
オスカーはガゼボに辿り着いて中に入りマリアの正面に立つ。
二人の視線が交差した。
こういうのは躊躇ってはいけない。
だが、次に予期せぬことが起きた。オスカーが話す前にマリアが、がばり、と勢いよく頭を下げたのである。
「申し訳ありません殿下。私は、これ以上殿下と親しくすることはできません」
マリアはきっぱりと言った。
マリアもまた現実というものに気づいたところだった。
市井で暮らしていた頃の幼馴染と再会したのがきっかけだ。貴族の生活はどうか。苛められていないか。心配してくれたが、マリアはうまくやれている、それどころか殿下と親しくしていると自慢した。すると、その様子に幼馴染は顔を顰めて、「あんたって権力に目が眩んでそれで喜ぶような子だったの?」と告げられた。言われたときはむっとして、嫉妬してそんな嫌なことを言っているのでしょう! と暴言を吐いて喧嘩別れしてしまったが、遅効性の毒のようにじわじわと後になって効いてきたのだ。
そうなってみれば、幼馴染の言う通りで、自分がただ浮かれていただけだと急速に恥ずかしくなった。
マリアはオスカーに憧れを抱いていた。出会うはずがなかった人と出会えて喜んだ。それだけだったのだが、思いがけずその後、オスカーの方から追いかけられた。地位も権力もある美形の男性から求められてふわふわと夢見心地になった。それはそれで楽しかったが、一度立ち止まってしまえばもう続けてはいられない。しかし、どのようにオスカーに告げればいいのかマリアの方もまた切り出し方を探っていたのである。
たしかに、この数日マリアの態度は少しよそよそしいものになっていた。だが、オスカーはアンナのことで苛々していたために見過ごした。もっと注意深くしていればそのことに気づけただろう。
それで、本日、勇気を出して切り出すに至ったと。
マリアの発言に、オスカーも詫びた。
自分がいかに酷いことをマリアに求めていたのか。
冷静に考えれば期間限定の恋などマリアに対してもすこぶる失礼だ。彼女にも彼女の人生がある。年頃の娘なのだから、オスカーがいなければ他の将来のある令息と関係を築けるだろうに、それを奪っているのだ。どうしてそんなことができてしまえたのか。ほとほと自分勝手さにオスカーは腹の底が冷えた。
だが、マリアはオスカーを少しも責めなかった。
「いいえ、オスカー殿下。どうか謝らないでください。殿下は何も悪くありません。だって、殿下が私におっしゃったのは『思うことを認めてくれ』だったではありませんか。ですから、殿下のお気持ちと向き合おうとしたのは他ならない私の意志なのです。
……ふふ、私、本当に浮かれていたのですね。でも、仕方ないです。だって、殿下ですよ殿下! この国の皇太子様が私を思ってくださっていると知って浮かれないはずがありません。けれど、それは恋とは違います。現実味のない物語の主人公になったみたいに私は殿下に思われていることに酔っていたのです。ええ、ですから、謝るならば私の方です。私は夢から醒めました。ですから、殿下のお気持ちに応えられません。申し訳ありません」
申し訳ないと繰り返すマリアに、オスカーは戸惑った。
昨日、オスカーはアンナへの気持ちを自覚し、同時にマリアへの恋心も消えていった。だから、まずはマリアとの関係をはっきりさせなければと考えてここへきたのだが、どう切り出してもマリアが傷つくのではないか、泣かれてしまうのではないかと心配していたのだ。
ところが、蓋を開けてみれば、マリアはオスカーに憧れはしたが、好きではなかったと、ただ皇太子という地位に浮かれて、雰囲気に流されてしまっていただけと告げられた。マリアを傷つけることなく、向こうから先に振ってくれてありがたい反面、マリアは自分を好きではなかったのかと思えば複雑になってしまう。マリアのことも結局はオスカーの独りよがりでしかなかったのだ。
自分はとんだ自惚れ屋であることをとことん示されて苦笑いがこぼれる。
「それでは、失礼しますね」
一方でマリアは清々しい笑顔で言うと、その場を去っていった。
オスカーはしばしの間その場にたたずんでいたが、やがてマリアの去った方角に背を向けて歩き始めた。
オスカーが向かうのはアンナのところである。
アンナは刺繍をすることをやめてからも昼休みは裏庭のベンチで過ごしている。
裏庭はガゼボのあったところのような庭園という雰囲気ではなく楓や欅の木が植えられていて森の中にいるような気分になる。
整備された歩道が終わり、土の上に出た。
そのまま先に進んで行くとアンナの姿が見えた。
楓の木の下に設置されたベンチに腰かけて本を読んでいる。時々風が吹いて、アンナの柔らかな金色の髪を撫でる。アンナは頁から手を放して乱れた髪を耳にかける。そうしてまた本を読み進める。薄っすらと唇をほころばせて、楽しそうな姿に、アンナの存在に、喧しいほどオスカーの鼓動は高鳴った。
「アンナ」
呼びかける。
声は少し震えた。
アンナは、オスカーの姿を認めると不思議そうな顔をした。
「……オスカー様。どうなさいました?」
「話が、ある」
真剣な声にアンナは何事かと開いていた本を閉じて聞く姿勢に入った。彼女の脳裏にはマリアのことを打ち明けられた日のことが浮かんでいた。あのときもこんな風に真剣だった。
今度は何を言われるのだろうと自然と肩に力が入る。
オスカーはアンナの前まで行くと片膝を立てて跪いた。
地面に突いた膝に冷たい土の感触が伝わってきて、オスカーの身体にある熱を少しだけ冷ます。
アンナは驚いて、え、と小さな声を漏らした。彼女が呆然としていると次にオスカーは本の上に置かれたアンナの右手に両手で触れた。それからその手を自身の額に押し付けるようにして、
「愛しています。私の側にいてほしい」
それは零れ落ちるような告白だった。
本当は他に、マリアのことや、傷つけるような酷い言葉を言ったことを謝罪してから告げるつもりだったが、アンナを前にしてもう溢れる思いをとめることはできなかった。
言葉にしてみると少し静まったはずの体温がじんわりと上昇していき身体が熱くなっていく。血潮が騒めくようでオスカーは泣き出したくなった。
そう、オスカーはアンナを愛していた。
もうずっと昔から。
ただそれは恋という情熱を通らずに形作られてしまったから、そして、当たり前のように育んできたから、愚かにもわからなくなっていた。
だがこうして言葉にすることで、どれだけアンナを思っていたのか、それが切ないほどオスカーの心に満ちて行った。昔読んだ青い鳥の寓話のように、幸せが目の前にあったことを、悲しいほどに理解した。
夏の日差しが、キラキラと落ちてくる。
楓の枝々に連なる青葉の隙間を抜けて二人の上に。
しばらくの沈黙の後、
「どうされたのですか、オスカー様」
神妙なアンナの声がした。
あまりのことに彼女は困惑した。
突然告白をされて困惑しない者はいない。
「もしかして、マリア様と何かあったのですか?」
それから問いかけた。
マリアとの間になにがしかがあって、それでアンナに甘えてきたと解釈したのだ。
「違う!」
オスカーは慌てて否定した。
だが、そう思われても仕方のないことをした。
「……いや、違わないか。マリア嬢との恋は終わったよ。だが、それが理由で君に愛を告げたわけではない。そうではなく……逆なんだ。私は君への愛に気づいた。だから、彼女との恋を終わらせ、君に想いを伝えにきた」
「それは……」
アンナは、それ以上は続けずに目を閉じた。
聞きたいことはあった。何がどうしてそのようなことになったのか。あれほど熱心にマリアに恋をしていたのだ。だが、アンナは尋ねることをやめた。オスカーのけして多くはない言葉の中から真実を読み解き、何を伝えようとし、それに対して何を言えばいいのかを問いかけるように自分の心と向き合うことにした。
何故なら、彼女には優先させたいことがあったから。
静かな時が流れる。
その間も、オスカーが握った手をアンナが振り払うことはなかったが。
「……オスカー様。わたくしはオスカー様を大切に思っております。昔も、今も、その気持ちに変わりはありません。ですから、学院を卒業しオスカー様のお側でオスカー様を支えて国を治めていく気持ちにも何ら変わりはございません。けれど……わたくしは、今、恋をしています。王妃殿下から頂いた秘薬にて、夢の中で愛する人を見つけ恋をしました。わたくしは彼を愛し、彼に愛されて、幸せを感じております。もう少し早くそのように言ってくだされば引き返すこともできたでしょうけれど、わたくしはもうこの恋を捨てることはできません。この恋の夢を卒業するまで見続けたいのです。どうかお許しください」
アンナは目を開けて真っすぐにオスカーを見つめながら告げた。
それはオスカーにとって残酷な内容だった。
だが、すべてはオスカーがはじめたことである。卒業まで恋を楽しむ。アンナにもそうしろと告げたのは他の誰でもないオスカーだ。
それでも、ここでオスカーが許さないと告げればおそらくアンナは夢を見ることはやめるだろう。代わりにオスカーへの信頼は失われ、そして夢を見なくてもその男のことを心で思い続ける。だが、許すと言えば、オスカー自身が言ったことを守り、アンナの恋をアンナがオスカーにしたように容認すれば、卒業したあとアンナはこの恋をきっぱりと思い出にしてオスカーと向き合うだろう。
アンナは嘘は言わない。
あと半年。半年間我慢すれば、オスカーにチャンスが巡ってくる。それがたとえ二番目の恋であれアンナと一から恋を始められる。
アンナの発言はそういうことである。
アンナは恋をやめない。――その強い意思に今度はオスカーが目を閉ざした。
これがアンナの決断。
簡単に許されるとは思っていなかったが、それでも僅かの期待を捨てられなかった。それが木っ端微塵に打ち砕かれた。
オスカーの真っ暗になった視界の中で後悔と日差しの残像が目まぐるしく点滅している。
何故自分は最初から素直にならなかったのか。
自分の気持ちを自覚していれば、少なくともアンナが秘薬を使うことはなかった。オスカーと穏やかな関係を築いていったはずなのだ。そこに激しい情熱はなくても愛はあった。ただオスカーだけを愛してくれた。
けれど、オスカーはそれでは満足できなかった。男女としての情熱を求め、その求め方を誤ったのだ。
アンナは恋を知った。故に、この恋が終わり、オスカーと向き合ったときこれまでにない顔を見せてくれるだろう。だがそれはオスカーではない別の男によってもたらされたものである。
想像し、オスカーの心は潰れそうになる。
アンナから情熱がほしかったがこんな風にして手に入れたいものではなかった。
だが、もう、今更だ。アンナは恋を知った。その恋を無理に止めたらアンナの心は永遠に手に入らない。オスカーが彼女の心を手に入れられるとしたら、それは卒業後彼女が納得してこの恋を終わらせたあとでしかない。
そして、それでもいいから彼女の心がほしいと――そう思う気持ちがオスカーの中にはあった。
悲しくて、悔しくて、叫びだしたいのに、他の男との恋で知った彼女の変化など見たくないと思うのに、アンナから男として愛されたいという欲求を捨てることもできない。
だから、オスカーはアンナの申し出に頷くしかなかった。
こうして、オスカーの狂おしいほどに嫉妬にまみれた半年の幕が開けた。
どこまでも間抜けな男。愛する人の初恋を結果としてお膳立てし、尚且つそれを見守ることになった愚かすぎる男の贖罪と禊の時間――その苦い苦い罰の先に、恋を夢見て、今日もオスカーは眠れぬ夜を過ごすのだった。
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