琥珀色の風鈴
「ねえ、あれどこやったの」
「玄関に置いといたわよ、忘れないように」
台所に立つ母さんは、そう言ってこちらを見た。
「あ、そうなんだ。ありがとう」
「ええ」
ぼんやりとこちらを眺める母さんを尻目に、俺は家を飛び出した。
自転車にまたがると、突き刺すような日光が、俺を襲う。
8月の午後1時。
ああ、俺は、今、世界で一番暑い場所にいるんじゃないのか?
そんな馬鹿げた思考が頭の中でふわふわと波打つ。
視界もままならない。自転車のグリップが灼けるように熱い。
体中から汗が吹き出るのを感じた。
「くっそ、あちーな」
俺は思い切り右足でペダルを踏み、自転車で走りだした。
緩やかな下り道を、軽快に自転車で駆け下りる。
滑るように、快調に、飛ばしていく。
だが、日差しは相変わらずだ。
頭の上でいくつもの蝉の声が通り過ぎるのを感じる。
まったく日陰がない。なのに蝉の声は鳴り止まない。
やかましい。
一体こいつら、どこから鳴いてやがるんだ。
下り道をしばらく走ると、ひらけた場所に出る。
抜けるように大きな青空と、入道雲。
そして、目の前には錆びれた踏切が姿を現す。
不運なことに、遮断器からは規則正しいサイレンの音が聴こえた。
点滅する赤色灯は日光に溶けて、光っているのかも分からない。
「ああ、ここなげーんだよな。勘弁してくれ」
そう思って時間を持て余し、自転車のブレーキを思わずカタカタしてしまう。
ワンマンの鄙びた2両編成が、ゆったりと踏切を過ぎていく。
「もっと早く走れないのか」
そんなことを思う俺をよそに、電車は「ぽー」と間抜けな汽笛を鳴らした。
遮断機が上がる。と同時に、俺はペダルを思い切り踏む。
もちろん、立ちこぎだ。
早く、行かないといけない。
無我夢中で自転車をこいで、汗で前が見えなくなる頃、
仰々しい耐震対策の鉄骨に囲われた、ボロい建物が見えてくる。
俺の中学——だ。
だが、正確には今はもう中学ではない。
去年、俺たちが卒業すると同時に、廃校になった。
今は誰もいない。
生徒も、先生も、用務員のおっさんも、給食のおばちゃんも——
誰もいない。
主を無くした校舎は、ただただ寂しくそこに佇んでいるだけだった。
学区が統合され、中学は中央の市立中学に統一された。
なので、校舎だけがそのまま残され、抜け殻のように置き去りにされた。
去年までは、俺も、友達も、後輩も、みんなここにいた。
雑草が生い茂った校庭の、向こう側には——バックネットがある。
あそこにはいつも野球部がいたっけな。
キャプテンの風間の奴が、いつもふざけた声を出していた。
馬鹿なやつだったけど、面白い奴だった。
校庭のこっち側には——サッカー部だ。
いつも重そうにゴールを運んでたっけ。
あそこ、なんかヤンキーみたいな奴が多くて嫌だったな。
中央には、陸上部——
いつもラダーとミニハードルが散乱してたなぁ……
エースの石山がいつも怒鳴っていた気がするな。
大変だよな、運動ができる奴も。
……こうしてみると。
本当に何もないし、誰もいなくなっちゃったんだな。
学校の敷地内に入って、しばらく歩いてみる。
自転車置場にたどり着く。
もちろん、何もない。
セメントの間から生えるいくつかの雑草と、近所のごろつきが残したであろう吸い殻。
あとは、蝉。
うるさいくらいの、ミンミン蝉の声。
誰もいないってのは、寂しいな……。
嘘みたいだ。
ついこないだまで、ここにみんないたのに。
「いつもならこの辺で、吹奏楽の連中が外練してたよな——」
そう思って耳を澄ますが、もちろん楽器の音は聞こえない。
今ののぼせた頭なら、幻聴でも聞こえてくるかと思ったが——
「あれ?」
今、蝉の声に混じって、何かが聴こえた。
確かに、聴こえた。
高く響く、心地よい透明な音。
その音をたどって歩く。
体育館の裏だ。
「待ってたよ」
そこには見知った顔があった。
そして、青々とした桜の木に、一つだけ風鈴が提げられていた。
「もう来てたのか。連絡くらい、くれよな」
俺が肩を竦めてため息をつくと、彼女は申し訳なさそうにした。
「ごめんね。風鈴つけるのに夢中だったから」
なんだそれ、と思わず笑ってしまう。
「それで。いつ行くんだ、向こうには」
「んとね……明日かな」
「明日?」
驚きで、俺の声は少し裏返ってしまった。
「うん、なんか早まったんだって」
「そうだったのか……」
リーン、と提げられている風鈴が澄んだ音を響かせた。
それが、夏の終わりと別れを告げているようで、無性に切なくなった。
「ねえ、ちゃんと持ってきたの」
彼女に言われて、俺はすぐにポケットから取り出した。
「持ってきたよ、風鈴」
そう言って、彼女に差し出す。
「うわ、琥珀色だ。こういうのも、可愛いね」
すでに提げてあった風鈴は綺麗な水色をしていた。
彼女はその風鈴の隣に、俺の琥珀色の風鈴を提げた。
こうして並べると対照的で、暗色とパステル色のコントラストが面白かった。
二つ一緒に鳴る風鈴の音と、鳴り止まない蝉の声。
陽は、少しだけ傾いたのだろうか。
遠くで、カブが走り抜けていく音が聴こえた。
ふと、彼女が言った。
「風鈴も二つ並べると、なんだか夫婦みたいだね」
そして、えへへ、とはにかんだ。
——願わくば、この時間が止まればいいのに、と思った。
永遠に。
彼女は、どう思っているんだろう?
俺は口を開く。
「この学校も、ついこないだまでみんないたのに。今じゃもう、誰もいねえんだ」
「そうだね」
彼女は寂しそうに答えた。
見上げれば青空に、嘘みたいな真っ白の雲。蝉の声に、風鈴の音。
ああ、夏が終わる。
夏が終わると——
「お前もいなくなっちゃうし。ほんと……」
寂しいことばっかりだ。
「え? 今なんて——」
「いや、なんでもない」
なんでもない、ということにしておきたかった。
今、言うべきことではないから。
「あのさ」
彼女が不意にこちらを見た。
その瞳には、青空が収まっていた。
「また、戻ってくるからね。ここに」
「ここへ?」
瞬間、熱気をまとった風が、俺と彼女の間を吹き抜けた。
「そうだよ。その時は、この風鈴が目印」
彼女は白い歯を見せてにこっと笑い、風鈴を指差した。
「この風鈴みたいに、また一緒にここに来るんだよ。きっとね」
「——うん」
「だから、約束」
そう言われて指切りを交わした。
「それは、何年後になるのかな?」
俺はそう訊こうとして——すんでのところでやめた。
この言葉が、彼女のこれからの人生を、きっと縛ってしまう。
それは、俺の本意ではない。
いつか、今日の約束のことなんて忘れて、彼女は光の中へと消えていく。
真夏の太陽みたいな、真っ白な光の中へ。きっと。
でも、それでいいんだ。
彼女がその時、笑ってさえいれば——
俺にとっては、この瞬間が永遠だから。
風が吹いて、チリン、と心地よい音が響いた。
琥珀色の風鈴、いつまでも彼女の隣でそよいでいてくれよ。
『琥珀色の風鈴』