第一話 「五億年」
「この赤いボタンを押せば、おぬしは五億年の間閉鎖空間に閉じ込められる。しかしその間の記憶は消去され五億年しっかりと経った後には、無事何事もなかったようにここに戻ってこられるというわけじゃ。同時に貴様は100万円もの大金を手にすることができる。どうじゃ?労せず大金持ちになるチャンスじゃぞ?」
浮浪者風の怪しげな爺さんはそんなことを言っていた気がする。
その時人生に絶望していた私は何も考えずにそのボタンを押しってしまった。
もうどうにでもなれと。
気づいたら真っ白なタイルが敷き詰められた果てしない空間にいた。
照明も何もないのにうっすらと明るく、見渡す限り何もないことが確認できる。
初めの一週間は何もせずに過ごした。
床の上に座り込み孤独な世界で私は死んでいくんだろうと思った。
腹も減らず、眠気もない、だけど意識だけはしっかりと覚醒していた。
ボーっとすることはできても決して眠ることは許されなかった。
ひと月が経った頃、さすがに暇を持て余した私はひたすら歩いたりしてこの空間を検証してみることにした。あれだけ引きずっていたはずの現世のこともどうでもよく思えてきた。
すると、まさにこの空間は無限とも呼べるものであり果ては存在しないだろうということが分かった。床は一面タイルが敷き詰められているが当然破壊することはできず傷さえつけることはできなかった。この後本当にここで五億年もの時間を過ごさなければいけないと実感し始めたのもこのころだった。
一年がたったころ相変わらず飢えも病気もしないこの体は健康そのものだった。しかし、その精神はボロボロであった。暇つぶしに今までの自分の人生を事細かに思い出してみたり、妄想で物語を作ってみたりもした。他人が入り込む余地のないこの空間では新鮮な発想や予想できない事柄が起こるはずもなく、退屈だけが積もっていった。特に頭がいいわけでもない私では紙やペンもないこの空間では暇をつぶすのはもう限界だった。
そして発狂した。
何度もここで死のうと思い舌をかみ切ったり、頭を思いきり地面に打ち付けたりした。
そのたびに何度も謎の力で回復し、決して死に切れることはなかった。
五年がたち、もはや気力が尽き、床に伏してただ漫然と過ごしていたころ夢か現かわからない中ひらめきがあった。何をしても完治するこの空間では自分の体をおもちゃにしてみればいいのでは?と。
かつては研究者だった性か、思いつくと途端に気力が湧いてきた。まずは現象の観察からだ。
床に思いきりこぶしを打ち付けてみる皮がめくれ、表面は赤くなっている。しばらくすると何事もなかったようにこぶしは完治した。しっかりと観察していたがその程度の外傷では自然に治ったとしか認識できなかった。現世ともはなれ、一度精神を壊した私は際限なくエスカレートしていった。目つぶし、骨折、指の噛み千切り何でもやった。たとえ四肢が欠損したとしても痛みこそ感じれど骨格から肉がつくまで完全に再生した。
それが私の唯一の暇つぶしとなった。自分の体を破壊し、再生する。自分の体こそが遊具負荷をかけるため、指一本で体を支えようとしたり足の指がつぶれるほど全力疾走し続けたりした。との空間では疲労は回復すれど、筋肉がもとよりつくことはない。
何年も何年も狂気とすら思える自傷を繰り返すうちに私は人体の構造について確実に理解が深まっていた。
身体には一本の線が通っている全身を使った効率的な人体破壊は同時に効率的な身のこなしと転じてその破壊力を外側に向けることもできるようになった。
ある時、拳をふるうたびに風を切るような音が鳴るようになった。
その次は空気との摩擦に熱を感じるようになった。
さらにその次音を置き去りにした拳からは衝撃波が発生するようになった。
無限に広い空間では空気の流れは起きない。
しかし、私の周りでは音速を超えて動く私の周りに常に暴風が渦巻いていた。
見よう見まねの正拳突き、もっぱら今では独自の型となったが。
大地を根底からつかみ取るような踏み込みの際に、ふと力の流れが抜けていくのを感じた。
「今まではこんなことはなかったはずだが。なぜだ?」
ふと足元に目を落とすと白いタイルが割れていた。きれいに真っ二つである。
「やった!やったぞ!絶対破壊不可能だった床が割れている!これでまた1000年は暇つぶしができそうだ」
思わず叫んでしまったほどにそれはうれしかった。
タイルのひび割れ自体は何らかの力によってすぐに修復されたが私は笑みを浮かべながら床を殴り続けた。
そのうち地に足をつけずとも打撃を効率的に放てるようになり、空間を自由自在に駆け回りながらひたすら研鑽を積んだ。
そして4億9900万年後。
私の放つ拳は空気との摩擦によって電圧を生み出し、プラズマを放ちながら地面に修復不可能な大穴を穿ったのだった。
ついに世界が崩れ去った。
よろしくお願いします。