【八】ロライア宮、外部用入口
「うっ…」
腰が抜けてしまったジェナは、警備師団長の前ながらへなへなと崩れ落ちてしまった。騎士としてはあるまじき失態で、通常であれば真面目さの滲み出るジェナが決して行わない事だが、遠映版越しとはいえ免疫がない状態で会話をしながらマッツの観察を受けていたのだ、ヴァネッサ警備師団長も可哀想だという目でジェナを見ている。
「大丈夫か?」
「あれが、本物なんですね…、噂通りだった…」
縋るように見上げた遠映板は、先程までの緊張の漂う様子など無かったかのように、美しい木目を見せている。
警備師団長室は白と黒でまとめられており、優しい印象の光が自宅のような居心地の良さを感じさせる。だからこそ余計にマッツが映る遠映板の違和感が大きく、さらに言うと両側に花や植物の模様を施した警備師団長室の遠映板のデザインとのちぐはぐさに表情筋が崩れないようにと、マティアスは、より緊張感を高めていたのだが、マッツに慣れていないジェナはマティアスの雰囲気も含めて怒りを買ったのだと勘違いしたようだった。
「表情を変えない人だから、そう見えるのかもしれないけど、あの状態が基本なんだよ。せっかちっていうのは本当だけど、あれは怒ってたわけじゃない、ジェナがどういう人か観察してたんだ。隊長の怒りはもっと恐ろしいし、あんな事でいちいち怒らないさ」
怖い気持ちは分かるけど。と微笑むマティアスに、何とも言い難い不安が肩にのし掛かってきている気がして震えるが、自分の状態を改めて認識したジェナは慌てて立ち上がると、耳まで赤く染めてヴァネッサ警備師団長に深い深い敬仰の礼を行った。
「緊張します。…マッツ隊長もいらっしゃるんですよね?」
二日後、マティアスとジェナは貴族街と王都市街の間の川に面して建てられた王宮と神殿の緩衝地でもあるロライア宮へと向かっていた。
あの後、ハルバーマの元へ向かったが、マッツの指示により釈放されていたハルバーマは冒険者組合に向かったと疲れ果てた表情のアレクから教えられた。
同行することが決定した以上、自己紹介や諸々の確認をしてしまいたかったのだが、釈放の旨を聞いたハルバーマは、風のように足早に去って行き、机に突っ伏したアレクには止める言葉を口に出せるほどの精神力が残っていなかったという。
爽やかな好青年を数時間でここまで追い詰めるハルバーマにゾッとしながら、頑張ったアレクにカフヴィと王都で大人気のケーキ、スパイスの効いたコルヴァと酒の風味が広がる甘くてしっとりとしたサバリンを差し入れたのは当然だろう。
「恐らくは。ところで、アレクはどうだ?」
「差し入れで顔色は多少戻ったんですが、少しぼーっとすることが多くて。あの日の夜はみんなで気を利かせて一人でゆっくりとサウナに入らせてあげたらしいんですが…、顔色は良くなったんですけど、生来の人懐っこさに陰りがあるんですよね」
「まさかハルバーマが何か仕掛けたのか?しかし、そういった報告はなかったはずだが…」
「あの部屋はアレクの相方のザッハが壁の向こうから見ていましたし、ザッハからもハルバーマがおかしな行動をとっていないと確認済みなんですが、相方の変化に自分が何か見落としたんじゃないかと悔やんでいました」
「直接聞いて見るしかないか」
「はい、オリヴェール隊長から指示を受けていますので、いざとなれば警備師団に移動させてもいいかとも思うのですが…マッツ隊長がいらっしゃるなら違う対応の方がいいでしょうか?」
白い牛の乳を混ぜたレコーチの様な艶のある瞳に怯えを隠した不安いっぱいの視線は、先日のマッツからの“観察”が相当負担だったのだろう。マティアスは困った様に眉を下げながら緩く首を振る。
「いや、逆に隊長にはいてもらった方がいいと思う。高ランク冒険者なら王宮隊のマッツ・サラの名前は知っているだろう。のらりくらりと躱せるような生易しい人じゃないし、隊長が圧をかけたら一発だと思うんだよな」
「マッツ・サラの圧ですか」
「ああ、この間の観察どころじゃない、殺気を含めない圧でも冷や汗も震えも止まらないからね。青い眼を見ると体が勝手に敬礼をして了承してしまうほど威力がある」
絞めあげるどころじゃない丸呑みされる恐怖なんだ。となぜかマッツを大蛇に喩えているマティアスに突っ込むことさえできずに遠映板で見たマッツの瞳を思い出しジェナはぶるりと震えた。
くすんだ赤茶色の外壁と緑がかった紺色の傾斜のある屋根に、濃く深い落ち着いた緑色が窓枠を飾るロライア宮は、伝統的な煉瓦と木材で建てられた木骨煉瓦造建築で、初代ロライが王宮として建て使用されていたが、再度御降臨されたロライア様に二代目ロライが譲られたそうだ。
定期的に掃除をして空気を入れ替えているそうだが、千年以上ここで暮らす存在がいなかった為、どこか物悲しい雰囲気が漂うロライア宮は、およそ千八百年ぶりのスミンフィジャ王国への御降臨に際し、宮全体の大改装を行なっている。
他国に御降臨されたとしても、定期的に各国を周りこの世界に幸せを蒔くロライア様が、スミンフィジャに訪れる事もあるため、その際に使用する場所はロライア様に相応しい状態に保っているが、細々とした部分は修復が必要なのだ。
また、ノック様がスミンフィジャに現れてくださった事で、ロライア様の御降臨が叶うという喜びと、ロライア様、更には母なる神とその眷属の皆様の慈悲深さに、畏敬と感謝を込めて、スミンフィジャ王国は変わったと示すためでもあるそうだ。
大通りから渡る橋の先にはロライア宮の礼拝堂があり、誰でも入れるそこは、国民にとってロライア様への信仰に関する重要で大切にしている場所の一つでもある。
ロライア宮は広大な土地を含めて高い塀が囲い、堀とその外側には石垣と四つの塔がある。
礼拝堂からロライア宮へは周囲の塀よりも高く川にはみ出すほど大きな煉瓦壁の正門があり、四つの塔も含めて王都騎士団が常に駐在している。
ロライア様がいらっしゃらなくても、王都騎士団では名誉職として非常に人気の高い配属先だ。
マティアスの指導官で元上司はこの塔のうち北西の塔を守る塔守護の役についていて、マティアスの元職場と言っても過言ではない。
良くも悪くも思い出深いこの場所に早くも関わるとは思っていなかったマティアスはなんとも言えない表情で周囲の石垣に目を向けた。
「緊張するな」
「はい、ロライア様が居られなくても月に一度、礼拝堂に行くのは王都民の習慣ではありますが、塀の内側となると王宮騎士はもちろん、ロライア宮に配属になった騎士でも一部の者しかも入れない場所ですし、今はライア様とロライ様の許可がないと入れませんからね」
「分かってはいたけど、ノクトグアルというのは凄いな。…見合う大変さはあるだろうが」
「ふふっ、そうですね、更に気が引き締まりました」
外部からロライア宮敷地内には礼拝堂の西側にある建物から入らなければならない。
この建物は主にロライア宮への荷物の受け取り場所であり、正門に常駐する王都騎士団の監視兼宿舎でもある正門東塔を通って正門入り口へ向かう。
建物には入ると机や台などが左右に並べられた広々とした空間が広がっている。
その部屋の先の通路には立入禁止と書かれた板が宙に浮いており、何がしかの魔術方円がかけられている。
立入禁止区域に入った瞬間、全身にぬるりとまとわりつくような感じがして動きづらくなったが、おそらく魔術方円によるものだったのだろう、ノクトグアルとして賜った装飾品に魔力を通せば案の定不快な感覚はすぐに元に戻り、先へと進めた。
突き当たりを右に曲がり進むと真っ白なドアが見える。
ドアの横には四角の白い部分があり、二本の線が入れられた木の枠で囲んである。その下には縦は薄く、横に細長い穴が空いてあり、そこにノクトグアルのカードを入れ白い部分に左手を触れると魔力を流した。
ドアの取っ手の上部にマティアスの名前が浮き出ると、カチッと音が鳴る。
マティアスと代わりジェナがカードを入れ白い部分左手で触れ魔力を流すと、マティアスの名前の上にジェナの名前が浮き出た。
再度カチッと音が鳴るとガチャリと鍵が開いたような音が鳴った。
「おそらく通路にかけられてた魔術方円と連携しているような気がする、何にしても凄いな」
「大人数で荷物を運ぶ時は大変ですね、渋滞しそう」
ジェナの少しだけズレた発言につい二度見をしてしまったが、収納と保管の魔術方円を使用しないで大量の荷物を運ぶ事がある事を思い出してマティアスも確かにと頷いた。
ロライア様が他国に御降臨されてスミンフィジャに最初に訪問された際は、ロライやライアから喜びの品をお贈りするのが習わしだが、内外にアピールする為に魔術方円は使わずに列をなしてロライア宮へと運び入れる。
それは王都騎士団の仕事でもあるのだが、確かにその際は、この建物内まで運び入れると聞いた事がある。
ロライア様の側近が魔術方円を使ったとしても、王宮からロライア宮まで列が数時間途切れないという話を聞いた限り、大容量の収納と保管の魔術方円を使っても何度もこのドアを行き来するのではないかと思う。
「ロライア様が誕生された暁には各国から祝いの品が送られてくるから、側近は安全確認から選別まで大変なんだろうな」
「他人事みたいに仰ってますけど、我々がロライア様の側近になる可能性もあるのですよ」
仕様がない人だと言わんばかりにジェナは少し咎めるように言葉にするが、マティアスは肩をすくめると、白いドアの取っ手に手を伸ばし、回した。
「あれっ?」
回るはずの取っ手が回る事はなく、どんなに力を入れてもビクとも動かない。
「どうしました?」
「いや、開かないんだ」
ジェナが試してみるも変化はなく、押しても引いても、持ち上げるように力を込めても、下げようと体重をかけても全く開く気配がない。
「もしかして鍵が閉まった…なんて事はありえますかね…?」
マティアスも頭の隅の方で考えていた事だが、そうだとしたら非常に困る。なんせノクトグアルの証の一つであるカードは穴の中に吸い込まれたまま戻ってきていないのだ。再度、同じ手順を踏もうにもカードが無いとできないだろう。
試しに、扉の横の白い部分に魔力を流してみたものの反応はなかった。
「前後も上下もやってみましたね…あとは左右でしょうか。ドアを左右に引っ張ってみましょうか」
ジェナの提案で左右に引っ張ってみるものの開く気配は微塵もない。
「どうすんだこれ!」
「まさかロライア宮に入るだけでこんなに苦労するとは思いませんでした。…いえ、防犯上は非常に有効ですが」
「これが、俺たちのミスじゃなくてわざとならそうだけど、今のところわかっ、どあああ」
ドアに寄りかかるように手を置いた途端、マティアスはドアの向こう側へと倒れるように消えていった。
驚いたジェナが咄嗟に手を伸ばすものの、間に合わず、ドアの向こうから転んだような大きな音がする。声をかけようとドアに近づいた瞬間、下の方からぬっと手が出てきた。
「ひっ」
恐ろしげに後ろに飛び下がると、俺だよ、という声と共に両手と顔だけがドアから突き抜けてジェナを見上げた。
「び…っくりしました。脅かさないでください」
「あはは、申し訳ない、でもこのドアはこのまま通れるようだよ」
「あっ、本当ですね」
どうやらこのドアは取っ手を持つと実体化する魔術方円が施されているようで、取っ手にさえ触れていなければ行き来できるようだ。
通り抜けたすぐ横には向こう側と同じように四角の白い部分とカードを入れる穴があり、ノクトグアルのカードが浮いている。自分のカードを手にするとドアからカチッと音がした。
「なるほど、カードを取ると取っ手に触っていなくても通れはしないな。ジェナはまだ通れるか?」
「はい、まだ通れますね。…カードを取ると…通れません」
感心するようにドアをペタペタと触っていると、後ろからコホンと咳払いが聞こえた。
「マティアス様、ジェナ様、研究熱心なのはようございますが、そろそろ移動なさってください」
振り返るとラヘネンがにこりと微笑みながら立っている。
気配を全く感じさせずに接近していたラヘネンに、声も出せずに顔を引きつらせた二人は呼吸が止まるほど驚いた。
「私がここにいるという事は…お分かりですね?」
和かに微笑むと、布の擦れる音さえ出さず優雅に方向転換すると、通路の先、ロライア宮へと歩いていく。
驚き、静止してしまっていた二人は、ラヘネンの言葉を反芻すると、真っ青な顔をして慌てて後を追いかけた。