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9.

茂雄が次に目にしたのは、白い天井だった。規則的な升目が並んでいるが、じっと見つめているとぼやけてくる。

──ここは。

声に出したつもりだったが、声にはなっていないことを知る。腕を上げようとして点滴の管が繋がれていることに気付く。

──病院か?

もう片方の腕を動かそうとして、ふいに視線に入ってきたのは包帯を右手に巻きつけた少女だった。

その少女は、切り揃えた黒髪をわずかに揺らして、こちらを心配そうに見ている。

「朔子さ……」

今度はひどく掠れていたが声が出た。

「あ、よかった。しげっち目が覚めた」

ひょこりと顔を出したのは、広夢だった。

「……家は大丈夫ですか?」

 弱々しい声で茂雄は訊ねる。体を横たえているのに、目眩がした。

「無理して喋らないほうがいいよ。今、順を追って説明するから」

 広夢の口調は落ち着いていた。茂雄は頷く。

「まず、家の被害はそれほどではないよ。オリーブの樹の枝の一部が倒れて、

すぐそばの窓を直撃した。ガラスが割れて、しげっちは怪我をしたんだ」

 ゆっくりと、こちらの疑問に沿うように広夢は説明してくれた。

「家の被害がそれほどではない」という事実に、茂雄は胸を撫で下ろした。

「今、都ちゃんが業者さんに破損した箇所を片づけてもらって、新しい窓の手配を

してくれてる」

 茂雄は再び頷いた。

──それよりも何よりも、朔子は……。

 茂雄は朔子を探して視線を泳がせる。朔子は確かにそこにいた。

 少し顔色が悪いような気がするが、ざっと確認したところ、手のひらの包帯以外は

目立った怪我がないようだ。

「朔子ちゃんは、ガラスの破片が手に当たったのか小さな切り傷ができただけ」

 広夢の言葉を聞いた朔子の両目からぽろぽろと涙がこぼれた。

「しげっちが守ってくれたんだよね。ありがとう」

 広夢はそこで複雑な表情を浮かべた。

 何か重大な後悔を残してしまったというような、すっきりしない顔だった。

「俺は急いで二人の元に戻ったんだけど、そのときにはもう遅かった……しげっちが

朔子ちゃんをかばう形で倒れていたのを見つけたのは俺。で、病院に運んだのも俺」

──広夢と都のご家族の具合は大丈夫だったんだろうか。

 茂雄の心に疑問が浮かんだ途端、広夢は承知しているとばかりに頷く。

「うちの親も都ちゃんの親戚の人も、駆けつけたら急に良くなったと目を丸くしていたよ……朔子ちゃんの仕業だよね」

 軽く睨むように広夢は朔子を流し見る。朔子は目を伏せ、何も言わなかった。

「まあ、ちょっとわかってはいたんだけどね……わざと二人きりにしたんだ。致命的な事態には陥らないだろうと思っていたけど、もう少し早く戻ることができればよかった」

 広夢の中ではすべて予見通りに進んでいたのか。

 勘のいい男だとは思っていたが、茂雄は少なからず驚いた。

──それにしても。

 茂雄は、朔子を見つめて安堵した。普段は強気な態度に出ることが多い朔子が、目に涙をためて茂雄を見つめている。

 と、茂雄が思ったそのとき、朔子が茂雄の頭を抱くようにしがみついてきた。

 子どものように声を上げて、朔子が泣きじゃくっている。

 あたたかい。

 茂雄はそう思った。完璧とは言えなかったが、朔子を守ることができたようだ。

「しげっち、今笑った?」

 動かない手を朔子に回した茂雄に、広夢が驚きの声を上げる。

「……しげっちが笑うところ、初めて見た」

 広夢の発言に茂雄のほうが驚いた。ぷっと朔子が吹き出し、目尻にたまっていた涙を拭う。

「私だって笑います。人間ですから」

 ひどく掠れた声だったが、茂雄はそう、広夢に言い返した。


 結果から言うと、朔子の家の修繕費用はなかなか痛かった。

 ガラスを丸二枚取り換えたのと、雨が吹き込んだ畳を丸ごと取り替えなければならなかったのだ。

 しかし、オリーブの樹を根元から切り倒さなくて済んだ。一部の枝は捩じ切られるように折れてしまったが、

大部分は残ったのだから。

 母の汲が大切にしていたというオリーブの樹。花を拾おうとしたという母。

──自分の命を投げ打ってまで、子どもの自分を残してまで取るべき行動だったのだろうか。

 茂雄の中には変わらず苦いものが残ったが、時が経つにつれて癒えて行くだろうと思った。

 小さなものを慈しむ心を持つ優しい母だったのだ。

 そんな母を、茂雄は愛していた。

 もう少し年齢を重ねればきっと、母の心中に近付くことができるだろう。そして、今は受け止められない現実をより深く理解できるようになるだろう。

──この人がそばにいてくれるなら。

 ちらりと茂雄は視線を向ける。

「茂雄ちゃんの言う通り、枝木の手入れぐらいはしてもらっておいてもよかったかも」

 頑なにオリーブの樹を守り、家を一部損壊してしまったせいで朔子は珍しく反省したらしい。しおらしくそんなことを言っていた。しかしそれも一週間と持たず、元のやや高飛車な少女に戻ってしまった。あっという間に強気な物言いをする朔子を、茂雄は懐かしく感じた。

 それにしても家は不思議だ。不動産屋を始めて、茂雄は折に触れてそう感じるようになっていた。家は人を容れる容れ物というだけではない。人の心に合わせて伸び縮みする。家を持つことがある人の目標になり、枷にもなる。温かい場所にも、足を向けるのが辛い場所にもなり得る。家は、いく通りもの物語を今日も紡ぎ続けるのだ。

──そう言えば、生まれたこの家の物語をほとんど知らない。

 茂雄が意識を向けた途端に、ちらりと視界を横切る浅黄色の着物が見えた。

「まさか」

──貞さん!?

 茂雄は心の中で叫んだが、既にそこには貞さんの姿はなかった。

 しかし確かに貞さんはこの家の近くにいて、家を守ってくれている。初めてそれを実感した瞬間だった。

「私にも貞さんに会える資格ができたということかな……」

 でもはっきりと貞さんに言葉をもらえるのは、まだまだ先のようだ──。

 茂雄は微笑むと、何度となく開けた我が家の玄関に手をかけた。


「茂雄ちゃん、たまには草むしりを手伝ってくれない?」

 容易に、すぐ会いに行ける家霊と言えば。

 枝の一部を風にもぎ取られたオリーブの木のある一軒家に足を運べば、今日も少しだけおせっかいな家霊である朔子が出迎えてくれた。

 開口一番、お説教と言おうか文句から始まる。威厳とは程遠いが愛らしい姿だと茂雄は思った。

 茂雄は朔子に小言を言われるぐらいでちょうどいい、という特異体質にいつの間にかなってしまったようだ。

 頬を膨らませた朔子に、茂雄は苦笑しながら「はいはい」と頷く。いつもの朔子の言い方に、いつもの二人の在り方だった。

「今度のお休みの日にきっとよ?」

「わかりました」

 茂雄が頷くと、朔子は真顔になった。

「あのね、茂雄ちゃん……相談があるんだけど」

 少し身構えた様子に茂雄は、つとめて何でもないように聞き返した。

「何ですか?」

「その……また新しい住み手を探してもらえないかしら?」

 朔子はややもじもじしながら、言いにくそうに言った。都が部屋を出るときは歓迎した。それに徳を積むことに興味はない、というそぶりを見せていただけに恥ずかしくなったのだろう。

 朔子の前向きな提案が茂雄は素直に嬉しかった。

「もちろんです。また張り紙を貼って、見える人を探して……忙しくなりますね」

 口を開き発した声が自分でも驚くほど弾んで響いた。

「今度はどんな人が来てくれるのかしら。楽しみね」

 朔子はくるくるとその場で回って見せる。何度も見たはずのそんな仕草が、微笑ましいと同時に、どこか母を思わせた。

──母も嬉しいときは少女のように気持ちを隠さなかった。

 そしてふいに思い出した。茂雄の頭を撫でながら、母の汲は何度も茂雄に言い聞かせた。

「茂雄、嬉しい時はね。思いっきり喜ぶの。そうすることでね、嬉しい気持ちってうつるのよ」

 茂雄が泣き顔をしているときには、ことさら繰り返した。母が笑って見せると、茂雄の心の中には明かりがともったように暖かくなった。

 子供の頃の写真みたいに、また心から笑える日が来るのだろうか。未来も知らず、ただ目の前の喜びに全身を委ねていた幼い茂雄。

 でもそれは、恥ずかしいことなどではなかった。恐らく茂雄を見つめる母も笑顔になっていただろうから。

「そうですね……きっとまた、いい人がやってきますよ」

──あの家は、暖かい家ですから。

 心の中でつぶやいた言葉は、声に出さずに大切にしまっておいた。しかし、朔子には茂雄の心が読めるのか、何も言わなくとも通じているように微笑んだ。

 もう一度頷いた茂雄は、自然と笑みを浮かべていた。

 茂雄自身にも、笑顔の感覚はくすぐったくも嬉しく伝わってくる。「笑う」という日常が数年ぶりに戻りつつあった。

 これからはもっと上手に笑えるようになるだろう──。

 茂雄はそう予感していた。朔子が手を伸ばし、茂雄の手をそっと取る。

驚いて見下ろした茂雄に、朔子はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「汲ちゃんが作ってくれたジャムね、実はマーマレードなの」

朔子は茂雄の目を覗き込む。

「え……そうだったんですか」

 ジャムの内容までには思い至らなかった、と茂雄はやや後悔するが、初めて作った割にはイチゴジャムは美味しかったと自己分析する。

 自己満足だが、どこか明るい気持ちにもなる。

「また今度作ってくれる?」

茂雄は頷き、朔子の手を握り返した。その手は温かく、壊れてしまいそうなほど小さく感じた。茂雄がそっと力を込めると、朔子もそれに応えるように少し強く握り返してくる。小さくて壊れそうだけど、確かにここにいる。

 そのぬくもりが、茂雄を安堵させた。

「……お安いご用です」

 茂雄はぶっきらぼうな返事しかできなかったが、朔子は茂雄の返答に、心から嬉しそうに笑った。

 そして小さな子供がするように、つないだ手を大きく揺らした。

 台風の過ぎ去った空は、一段と青かった。


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