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8.

茂雄は生まれて初めてジャムを煮た。

スーパーで適当な苺を買ってきて、うんざりするほどの砂糖を入れる。

 当然都にも広夢にも散々突っ込まれた。死ぬほど突っ込まれた。特に都はタガが外れたのか、茂雄が形式上上司であることをすっかり忘れているようだった。

「でも……ジャムが必要なんです」

 多くをうまく語れない茂雄だった。あのピクニックには母の手製のジャムが必需品だと思えた。ビスケットやスコーンに塗ったり、紅茶に落として飲んだりしていたのだから。

「ジャムねえ。ナチュラル雑誌の読みすぎなんじゃないですか?まあいいですけど」

「俺はから揚げとおにぎりを持ってくるよ」

 広夢は自分の食べたいものを想定しているようだ。

「何でも好きなものを持ってきてください」

──朔子さんには、当日まで秘密にしておこう。

 茂雄は不安な気持ちをやるべき作業に置き換えて、気を紛らわせることにした。

「少しでもピンチを楽しもうよ」

 広夢は再びリラックスした笑みを見せた。都もつられて、相好を崩す。

「そうですね。あと大事なのは、仲間と力を合わせること」

 そう言って都はニッと笑った。


 台風の接近予想日の前日。時折風は強く吹くものの、どうにか天気は持ちこたえていた。

 荷物をまとめにかかっていた都はしばらくこの家にとどまることを決め、ピクニックのために料理をこしらえた。

 そしてピクニック後は、そのまま皆が家に逗留してもいいように掃除をしてくれた。

 もちろん茂雄と広夢も手伝った。

 泊まる部屋に余裕はある。かつて住人だったことのある広夢は、懐かしそうに一部屋ずつ検分していった。

「なつかしいな……女の子が住んでると部屋も喜んでいるような気がする」

「何それ」

 都は一蹴するが、どこか楽しそうだった。

「ていうか、その大量のオニギリ、食べきれるんですか」

 呆れ顔で見下ろす広夢の手荷物を覗くと、ずっしりと重量のある大きなおにぎりがいくつも入っていた。

「いいじゃん夜食に食べれば。ああ見えて、朔子ちゃん、すっごい食べるかもしれないし」

「……彼女の食べる量は普通ですよ」

 見かねて茂雄が口を挟む。

 都は洋食類を多く作ってくれたので、茂雄は和食の総菜を持参した。

 それから母親の寝室を探し回って見つけたバスケットに、手作りのジャム。インターネットのレシピ検索で見よう見まねで作ってみたスコーン。

「すっごい乙女な内容……」

 二人は絶句した。

「いいんです。朔子さんが喜ぶと思うから」


 三人が支度を完璧に整えて再集結すると、朔子は玄関に座り込んでいた。

 膝を抱えて物思いに耽っているような様子だった。

 今日のピクニックの事は朔子には秘密だったのだ。 

「朔子ちゃーん!!」

 広夢が声をかけると、朔子はゆっくりと振り返った。


「ピクニック……?」

 朔子の声はどこか虚ろだった。

「そ、たまにはこの樹の下で、みんなでピクニックでもしようよ」

 広夢は明るい声と強引な調子でさっさと支度を始めた。雲行きは早くも怪しくなってきたが、オリーブの樹の下にレジャーシートを敷き、各々の荷物を並べる。

「どうしたの?いきなり……」

 朔子は戸惑いながらも、嬉しさを隠しきれない様子だった。茂雄の抱えていたバスケットに視線を落とし、小さく驚きの表情を浮かべる。

 しかし茂雄は何も言わずに、朔子に座るよう促した。

「どうぞ、お座りください。食べ物も飲み物もふんだんにありますよ」

 朔子は物言いたげな目で茂雄を見つめたが、囁くように「ありがとう」と言った。


 和やかにピクニックの時間は過ぎて行った。広夢のおにぎりは好評だったし、都の手製ジェノベーゼパスタも美味しかった。茂雄の初めて作った苺ジャムも大好評で、これまた初の手作りであったスコーンと共に瞬く間に消えて行った。

「すごーい、茂雄さん、お菓子も作れるんですね!」

 あれほどジャムを馬鹿にしていた都がいちばん多く食べた。朔子は全員の行動を眺め、可笑しそうに笑った。少し引いた場所から観察しているように見えたが、楽しんでいることは間違いなかった。

皆がよく笑い、よく食べた。ピクニックなので酒はなかったが、十分に盛り上がり、時間は飛ぶように過ぎていった。

 さあっと比較的強い風が吹き、レジャーシートの一部が巻き上げられたところで、一同は我に返った。

「風、いよいよ強くなってきましたね」

都はシートを押さえながら言う。髪が巻き上げられるのはそのままにしていた。

──そう言えば、朝よりもだいぶ風が強くなってきている。

 茂雄は眉間に皺を寄せ、風の吹いて来る方向を見上げた。空は分厚い雲に覆われ、ところどころに不穏な明るさを覗かせている。

子どもの頃から何度も見てきた嵐の前の空だった。

「もうそろそろ家に引き上げたほうがいいんじゃないかな」

 広夢が腕時計を確かめながら言う。あっという間に夕方に近い時間に差しかかっていた。

「そうですね、急に一雨来るかもしれないし」

 都も空を見上げる。

「朔子ちゃん、今日は俺としげっちも泊まっていくから」

 腰を上げながら広夢が言う。朔子が目を見開いた。

「え……?」

 朔子が広夢と茂雄を見つめ、唇を噛む。

 そのときふいに、都の携帯が鳴った。都は携帯を確かめ、顔色を変える。

「どうかしましたか?」

 訊ねた茂雄に、都は蒼白の顔で告げる。

「すみません、育ててくれた親類が怪我をしたみたいで、急に連絡が入りました。申し訳ありませんがこれから実家に帰ってきます」

「それは大変だ。すぐに戻った方がいいですね」

 本当にすみません、と頭を下げながら都は焦っているようだった。

 茂雄は内心、少なからず動揺していた。すると追い打ちをかけるように広夢の携帯までが鳴り始める。広夢は無言で携帯を確かめ、ゆっくりと顔を上げる。ちらりと朔子を見た広夢の目は鋭かった。

「……うちは親父の体調が急に悪くなったらしい」

 広夢は挑むような目で朔子を見る。そしてきっぱりと言い放った。

「ちょっと様子を見て戻ってくる。俺は、戻ってくるから」

 そう言い捨てると、広夢は手早く荷物をまとめた。

 茂雄を一人残してしまうことを詫びながら、二人がそれぞれの実家へ戻って行く。残された茂雄は、なす術もなく立ち尽くしていた。

──どうしてこんな立て続けに、このタイミングで……。

〝俺は、戻ってくるから〝

 茂雄は悔しげに呟いた広夢を思い出す。そして一つの可能性を思いついた。

──まさか……。

 ゆっくりと朔子を振り返ると、朔子はオリーブの樹を見上げながらぽつんと立っていた。大きく吹いた風が、艶やかな黒髪を吹き上げた。朔子は風に髪を洗われるままにしている。

「ひょっとして、朔子さん……あなたの仕業なんですか?」

 茂雄の質問に、朔子は答えなかった。代わりにゆるやかに茂雄に視線を重ね、にいと笑った。

──この家から遠ざけるために、朔子さんがやった? そんなことができるのか?

 茂雄は初めて朔子に得も言われぬ恐ろしさを感じた。確かに朔子は家霊、人ではない。

そのように感じたことは今まで一度もなかったのに。

しかし茂雄は気持ちを奮い立たせ、息を吸い込む。

「……でも、私のことは追い返せませんよ。私は天涯孤独ですから」

 精一杯の強がりを言った。朔子は茂雄にぴたりと視線を合わせた。もう笑ってはいない。

「私だけは何があっても、あなたのそばに居ます」

 朔子は睨むような目で茂雄を見た。

 茂雄は都の家に上がり込み、全ての窓の雨戸を閉めた。雨戸を閉め終える頃、ぽつぽつと窓に雨粒がぶつかる音がし始め、間もなく雨音は激しさを増した。

 風もあっという間に強く吹き付け、時にガタガタと窓と家全体を揺らした。

「すごい風の音ですね……」

 手持無沙汰になった茂雄は朔子に話しかけた。朔子は膝を抱えて座っているだけで、何も言葉を返さなかった。

「家が壊れたらたぶん、私は消滅する」

何気ない調子で朔子が言った。

茂雄は一瞬、意味を理解できずに凍りついた。

「朔子さん……何を……」

朔子の表情は意外にも明るかった。表情のうちに諦めを読み取った茂雄は再び背筋が冷たくなった。

「過去にも私は似たような経験をしたの。あなたのお母さん……汲さんがまだお嫁に来て間もない頃だったけれど、台風で屋根が飛んで」

低い声で朔子は続けた。茂雄は息を飲み、朔子の言葉の続きを待つ。

「私はそのとき大した怪我ではないけれど、負傷したわ」

朔子の声は落ち着いていた。

「だから、全壊になればわからない……もっとも、恐らく痛みや苦しみはないと思うけどね」

「何を言ってるんですか!!」

茂雄は我知らず、声を荒げていた。普段、何故か感情を押さえよう押さえようとして生きてきた。今思えば、どうしてそんなふうになってしまったんだろう?

茂雄は自問する。

──きっと、感情を殺していればこれ以上失うものがなくなるから。

そんなふうに茂雄は無意識のうちに自衛本能を働かせていたのだ。

しかし、茂雄にはまだ失うものはあった。朔子、それから都に広夢。茂雄の築いてきた店や顧客たちも──。

「冗談でもそんなこと言わないでください……あなたを失ったら私は……」

茂雄はうわ言のように口にしていた。朔子が驚きに目を見開き、茂雄を見ている。

やがて視線は、柔らかに変わった。小さな子どもを見るような、慈しみに満ちたまなざしだった。

「茂雄ちゃん」

茂雄は顔を上げた。

「私は失われもしないし、獲得もされない。残念だけれど……」

その表情は平板だった。茂雄は朔子の意思を汲み取ろうとするが、頑なに表情に表すことを避けるように見えた。

「朔子さん……」

朔子は小さく息をつくと、心を決めたかのように口を開いた。

「汲さんは自殺じゃないわ……私、見ていたの」

「え……?」

唐突に降ってきた朔子の言葉。茂雄の思考は停止しかけた。

自殺じゃない。見ていた……?

「汲さんは、道端に落ちていた花を拾おうとした。恐らくそのままにしておけば人や車に踏まれてしまう場所にあった。汲さんは、本当に咄嗟に行動したの」

どういう意味ですか。

茂雄は声にならない声を上げる。

「本当に一瞬の出来事で……間に合わなかった」

ごめんなさい。

朔子は言った。茂雄の目の前で深々と頭を下げた。しかし茂雄の頭はうまく働かない。

母が亡くなったのは朔子のせいではない。それは明白な事実だった。だが茂雄はふいに眼前に差し出された現実を受け止めきれずに頭を抱えてしまう。

「母さん……」

茂雄が膝をついたそのとき、

 轟音にも似た風の音がこちらを脅すような勢いで吹き付ける。

 めり、と何かが裂けるような鈍い音がした。

「あっ」

 叫び声を上げたのは茂雄だったのか、それとも朔子だったのか──。

 その一瞬の後、ばりばりと耳をつんざくような音がした。瞬時に砕け散ったガラス片がこちらを目掛けて降ってくる。

それは高速であるのに違いなかったが、ひどくゆっくりと茂雄を刺し貫こうと近づいてくるように見えた。

恐怖心。虚無感。

穿たれた穴から突風が家の中に吹き込み、茂雄の体が大きく傾く。でも……

──絶対に失わない。

茂雄は歯を食いしばった。

「朔子さん!」

小さく悲鳴を上げ、部屋の隅で震えていた朔子に歩み寄り、茂雄はその細い体を覆うように抱き締めた。

「大丈夫だから!」

茂雄は声を振り絞ったが、強風の上げる禍々しい唸り声にかき消される。

──朔子さんには聞こえなかったかもしれないな。

 茂雄は胸の内で呟いた。しかし、ふいに視界が暗転した。

「これで、本当に終わりなのかな」

茂雄の腕の中には、朔子の感触が確かにあった。

──どうか、無事であってくれ。

そう考えたところで、茂雄の意識は完全に途絶えた。


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