6.
「朔子ちゃーん!!」
広夢は遠慮なくドアを叩いた。普段庭の周辺にいることが多い朔子が、家の中から出てくることは滅多にない。茂雄は沈みがちになる気持ちを平行に保てるように心を砕いていた。
「……おかしいな。どこへ行ったんだろう?」
広夢が裏庭に回り、他の窓の周辺を調べていると、朔子が歩いてくる姿が見えた。
どこか手持無沙汰な様子で、ぼんやりとした表情を浮かべている。茂雄と広夢の来訪にも気付いていないようだ。
「朔子さん!」
思わず朔子に駆け寄った茂雄を、広夢は驚いた顔で見つめていた。そこまで自分はなりふり構わないのだ、と茂雄は自己分析したが、今はそんな余裕はなかった。
「朔子ちゃん、どこに行ってたの?さっきも来たんだよ」
広夢が明るい口調で話しかけると、朔子は我に返ったように顔を上げる。
「どこって……ちょっとお散歩だけど、どうしたの? 二人とも。何だか顔色が悪いわよ」
朔子はふわふわした口調で、茂雄と広夢、一人一人の顔を覗き込む。
「んー、ちょっとね。朔子ちゃんに相談があってさ」
実に軽い切り口で広夢が話し出す。このまま話してくれるつもりなのか。茂雄は広夢のキャラクターに今日ほど感謝したことはなかった。
「なあに?」
「実はさ、この間俺の所に貞さんが来てね。オリーブの木が危ないって教えてくれたんだ」
朔子の顔色が、さっと陰るのを茂雄は見逃さなかった。
広夢も恐らく変化に気付いていただろう。しかし賢しい広夢はそのまま軟派な口調で話し続けた。
「だいぶ伸びてきたから植木屋さんを呼ぼうとしてたんでしょ?でもさ、このタイミングで切っちゃおうよ、全部」
広夢は大胆に切り出した。
「……全部?」
朔子の声は震えていた。
「そっ。大きな台風が直撃して、あの木、根元から倒れちゃうんだって」
そこまで言うと、広夢は急に声を低めた。
「家が潰れちゃうかもしれないんだよ。朔子ちゃん、わかるよね?」
広夢は朔子の顔を覗き込む。朔子はかぶりを振った。
「……嫌」
消え入りそうな声で、朔子が答えた。
「え?」
茂雄は聞き返す。朔子は今度は顔を上げ、鋭い目で茂雄を見据える。
「あの木は切りたくない」
今度はきっぱりとした声だった。目には強い意志が宿っている。広夢はため息をつく。
「……どうして? 家が壊れちゃってもいいの?」
朔子の度胸はすっかり据わっているようだった。茂雄と広夢、二人の顔を交互に眺め、諭すように言う。
「貞さんが異変を感じとって教えてくれたように、私も数日前から予感していたの」
朔子は言いながら目を伏せた。広夢が驚きの声を漏らす。
「知ってたの!?」
茂雄はそれを聞いて、一連の朔子の行動に合点がいった。都が引っ越すことを喜んだこと、オリーブの木の話題に顔を曇らせたこと──。
朔子の行動を考えてみると、茂雄は導き出したくない結論に辿り着いた。
──朔子さんは覚悟を決めている。
茂雄は朔子の決意を認めたくはなかった。阻止したかった。
──たとえ家が壊れたとしても、家と運命を共にしようとしている。
「えー、何で。だって木、一本だよ?そりゃ俺だってこの木は大好きだけど……家が壊れちゃうかもしれないのに。ましてやそれがわかっているのに?」
広夢は食い下がった。茂雄も加勢したいと思った。子どものように大声を上げて、朔子に抗議をしたかった。
しかし、喉の奥で枯れてしまったかのように、まったく声が出ない。
「……約束したの。この木は最後まで守るって」
朔子の目にまたも強い意志が現われる。その目を見た瞬間、茂雄の中で何かがちかちかと明滅した。記憶の断片にも似た輝きだった。
「約束?誰と?」
追及を緩めない広夢に、朔子はやんわりと微笑んだだけで何も言わなかった。
「だって、家がなくなったら朔子ちゃんどうなるの? 別の家で居候とかできるわけ?」
広夢の必死の説得を、朔子が優しく見守っている。
茂雄も何か言いたかった。
考え直してください。あなたに何かがあったら私は──。
──私はどうなってしまうんだろう……?
茂雄は途方にくれてしまった。
朔子を失う。
そんな可能性を思い浮かべるだけで、自分の根源が覆されるような衝撃がある。
「俺、諦めないから! また絶対説得に来るから」
広夢はそう言い置いて、走り去ってしまった。
「どうして、広夢くんはあんなに怒るのかしら?」
朔子は広夢が走り去った方向を見つめて、うっすらと微笑んだ。
「それは……」
──あなたを助けたいからに決まってるじゃないですか。
茂雄は思わず口から飛び出して来そうになる言葉をかろうじて押さえた。
「……朔子さんが心配だからですよ」
どうにか怒りを滲ませずに、無難な言葉に置き換えてしまった。そんなふうに無難にしか感情を現せない自分が不甲斐なかった。
「ふうん」
朔子は首を傾ける。
「私のことなのに、あんなふうにムキになってくれるのね」
「朔子さん」
茂雄は呆れた。茂雄が身を千切られそうな思いをしたことも、朔子には所詮他人事なのだろうか。
「私なら大丈夫よ!あのオリーブが倒れたって、それほどの被害にはならないと思うし」
わざと無邪気な調子で言う。朔子は都合のいい時だけ少女の外見を利用しているように思えてならない。
「誰が修繕すると思っているんですか……」
茂雄がため息をつくと、朔子は肩をすくめた。
「それに……いくら貞さんだって万能な預言者じゃないでしょう?台風がルートを外れるかもしれないし」
──それは嘘だ。
またも明るい口調で言う朔子の顔には、不安が浮かんでいた。
きっと貞さんの予想はある程度朔子の中でも合点がいっていて、どう覚悟するか自分の中で図っている最中なのだろう。
茂雄は、朔子の言葉を思い出した。オリーブの木については、「約束がある」と言っていた。
「朔子さん、約束って何ですか?」
朔子の顔色がさっと変わる。それを見た茂雄は不思議な確信を持った。
「ひょっとして、母が関係しているんじゃないですか?」
推測は奇妙な確信に変わり、茂雄の語調を強くする。朔子は唇を噛み、茂雄の顔を見つめたまま何も言わなかった。
──そうか。
茂雄の記憶がふいに旋回した。
一度だけ、茂雄は母を尾行していったのだ。よく晴れていて、日差しが眩しかった午後──。
母はまっすぐに、所有しているもう一軒の家に向かって歩いて行った。このところ、何かにつけてこの家の手入れをすると言い置いて外出することが増えていた。
しかし、シフォン素材のブラウスにロングスカート。とても掃除や手入れをする服装とは思えない。
──何をしに行くんだろう。
不審に思った茂雄は、咄嗟に母の後を追ったのだった。
「朔子ちゃん、遊びましょ」
バスケットを抱えた母の汲が、躍るような足取りで聞き覚えのない名前を呼んだ。すると裏庭から少女が現われ、母を優しく迎え入れた。
「いらっしゃい汲ちゃん!」
──汲ちゃん?
茂雄は耳を疑った。どう見ても親子以上に年が離れた少女に「ちゃん付け」でよばれている母親。
──誰だ? あの女の子は……。
茂雄の目は少女に釘付けになった。顎のラインで切り揃えた艶やかな黒髪。少し目尻が吊り上がった大きな目。
「母さんが作る人形にそっくりだ……」
茂雄は思わず呟き、慌てて口を押えた。感づかれたか?と思ったが、二人は茂雄の存在に気付いていないようだった。茂雄は小さく息をつき、二人の様子を再び見守った。
母は微笑み、バスケットの中からレジャーシートを取り出し、オリーブの木の下に敷いた。
「ピクニックしましょう!」
母は少女のように嬉しそうに笑った。バスケットの中からサンドイッチとスコーン、それに母の手製のジャムとマーマレードが次々に出てくる。魔法瓶には紅茶も詰められているようだった。
──ピクニック? それにしてもあの子は誰なんだろう?
茂雄は戸惑いながらも、二人の動向を伺っていた。母の汲が猛烈な勢いで人形を作り始めるようになってから、会社を休職した茂雄は状況に応じて母の行動を監視するようになっていた。
茂雄の父は祖父が所有していた四軒の家を管理し、会社員の傍ら家賃収入を得ていたのだが、父が亡くなった後は母と茂雄の二人でそこまで管理しきれる自信がなく、父の兄弟とも相談して大半を売却した。
母が猛反対したただ一軒の家を残して。
「一軒だけ持っていたって仕方がないじゃないか」
「すべて売却して大家業からは手を引いた方が」
「持ち続けていたって大した資産価値はなさそうだし」
もっともな意見を並べる親族たちを母は珍しく一蹴した。普段の母からは想像できないほど感情的で、頑なだった。
「いいえ。あの家だけは、私が責任を持って管理します」
母はきっぱりと言い放った。朔子と名乗る家霊と茂雄は、母の決断がなければ出会うことはなかったのだ──。
母と朔子はオリーブの木の下でピクニックを繰り広げた。と言っても、母の持参した菓子を食べたり笑い合ったりしているだけだ。親子以上に年が離れているように見える二人だが、話は尽きないようでしきりに笑い合う。
こんなに心からの母の笑顔を見るのは、父が生きていた頃以来だ。
「この木、いいでしょ」
ぽつんと母が言った。オリーブの木を見上げ、朔子も頷く。オリーブの葉はちょうど二人の上に適度な影を落としていた。
「この木を植えたいって言ったのは私なの」
はにかむように母はつぶやく。
「私は大家さんの仕事とか、そういうことには一切口を出したことがなかったんだけど、この家にはオリーブの木が似合うって、それだけは直感で思ってね」
母は懐かしむような目をした。この家は母が父に嫁いで間もなく建てられたと聞いている。母の記憶の中には、新築時代のこの家が残像として残っているのだろう。
「ありがとう」
朔子がきっぱりと言う。母は驚いたように朔子を見た。朔子は母の手を取り、愛おしむように何度かさすった。
「汲ちゃんのおかげで、私は居場所を持つことができた……」
──……。
二人の様子を見ていた茂雄は、足元がふらつくのを感じた。自分が見ているのは白昼夢なのか。おかしくなってしまったのは母なのか。自分なのか。
母の笑顔と朔子の笑顔は茂雄のすぐ目の前にあるはずなのに、遠く隔たっているような感覚を覚えた。




